[フレーム]

山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2009年08月

日本を代表する経済学者による、まさにタイムリーな日銀批判。
リーマン・ショック以前に日本は日銀の利上げによってすでに景気減速傾向にあったわけで、現在の不況の隠れた戦犯である日銀の存在に光を当てた本です。

ただ、全体の主張はともかくとして書き方はそんなによくはないと思う。
最初に日銀の総裁や理事の資質の問題からとり上げているのですが。「日銀総裁は東大法学部卒が多く、必ずしも経済学の素養のある人がなっていない」という批判は、確かにその通りでしょうが、本の最初に持ってくるような話でしょうか?
なんだか俗流の官僚批判みたいですし、現在の白方総裁は東大の経済学部卒です。
日本全体を覆う経済学への軽視を憂うというのはわかりますが、やはりここはバブル以後に、「いかに日銀の金融政策が失敗してきたか」ということをとり上げるべきでしょう。

あと、日銀のバランスシートについての解説がほとんど出てこないのも不満です。
日銀が国債の積極的な買い入れや、量的緩和に消極的な理由は日銀のバランスシートが傷むのが嫌だからではないの?
僕もそんなに詳しくはないので、きちんと説明は出来ませんが、この話を抜きにして、「百年に一度の危機」と言われる中で、日銀が量的緩和への踏み込みをためらう理由を説明出来ないと思うのですが...。

ただ、本書の後半で主張される「日銀にインフレ目標の錨を」という主張には全面的に賛成。
国民の生活よりもバランスシートを気にしている(かに見える)日銀はやはり大きな問題で、何かしら日銀に政策目標を持たせるべきでしょう。


日本銀行は信用できるか (講談社現代新書)
4062880105


1958年以前に公認で売春が行われていた地域・赤線の誕生とその変遷について調べた本。タイトルに『敗戦と赤線』とあるように、戦前・戦中における遊郭などの対する政策との連続性を調べてあげるところが一番の大きな特徴と言えるでしょう。

帯にある「(赤線は)焼け跡闇市の延長だったんでしょうかね。」という吉行淳之介の発言のように、赤線が占領軍相手のRAA(特殊慰安施設協会)などから成立したという認識が漠然とあるようですが、著者は敗戦後1、2年で全国各地に一気に集団売春街が成立したことに疑問を持ち、東京、岐阜、沖縄の三つの地域おける赤線の成立を調べて行きます。

そこで、浮かび上がってくるのが戦中との政策との連続性。
戦時下において、営業を自粛に追い込まれたり施設の提供を余儀なくされた遊郭などの風俗街は、一方で軍需工場の近くや、郊外などに移転して行きます。そして、そこには軍の意向などが絡んでいるケースもあります。

戦前の遊郭→敗戦後の米兵相手の施設→赤線という変遷は、政府などの規制当局と風俗産業の共同作業と言えるものでもあるのです。

あと、この本で特に興味深いのは沖縄のケース。
沖縄の那覇では辻町という戦前からの遊郭がありましたが、その土地がアメリカによって押さえられてしまったため、栄町という郊外に歓楽街が出現します。
この栄町の盛衰については本書を読んでほしいのですが、個人的に気になったのが、この沖縄の歓楽街が本土復帰による売春防止法の施行によって変化を余儀なくされたという点。
当たり前ですが、本土復帰前は日本の法律は施行されず、売春の規制もなかった(あるいは日本とは違った)のですね。
このあたりのアメリカの政策についても述べてほしかった気はしますが、全体を通して、なかなか面白い本だと思います。

敗戦と赤線 (光文社新書)
4334035221



『日中戦争』や『<満洲>の歴史』など、ここ最近新書を多く書いている小林英夫によるノモンハン事件の本。
ノモンハン事件について知るには悪い本ではないと思いますが、新しい知見といった部分は弱いと思います。

副題に「機密文書『検閲月報』が明かす虚実」とあり、憲兵隊によるノモンハン事件の検閲の実態が明かさています。また、ノモンハン事件後に書かれた本や藤田嗣治の絵などから、ノモンハン事件の実態がねじ曲げられ、十分な反省も行われなかったことが浮かび上がってきます。
ただ、新しい史料などを使っているものの、ここでの分析に取り立てて目新しい点はないですし、分析においても鋭さはないです。

個人的には、なぜ陸軍の中央がノモンハン事件の作戦を担った辻政信や服部卓四郎を厳しく処分出来なかったのか?という点をもっと突っ込んでほしかったです。

ノモンハンについては今年の6月に岩波新書から田中克彦『ノモンハン戦争』が出ていますが、ノモンハン事件についてまったく知識のない人にはこちらを、ある程度の知識のある人には田中克彦『ノモンハン戦争』をお薦めします。


ノモンハン事件―機密文書「検閲月報」が明かす虚実 (平凡社新書 483)
4582854834


危機が叫ばれている産科医療の現場のルポ。
新聞ではどちらかといえば患者側に立つ記事が多く、ネットでは医師側の正当性を訴える言説が多い中で、両方の立場からバランスよく問題に迫ろうとしています。

福島県の県立大野病院の事件以来、産婦人科の危機が一気に表に吹き出し、それと同時にこの本のタイトルにあるような「産科医療崩壊」が進んでいて、新聞などでもさかんに特集されています。
激務と訴訟リスクなどを原因とする産婦人科医の減少、研修制度の改正に伴う医師不足などについてはそうしたもので知っている人も多いでしょう。

そんな中で、この本の価値は、そこからさらに一歩進んだところまで書いている点です。
例えば、「お産なんかは昔は自宅で出来ていた」という意見があり、実際、9割近いお産は医師が介助する必要もないものなのですが、そのリスクは不妊治療による多胎で跳ね上がりますし、高齢出産もリスクを高めます。
この本では、30代後半の帝王切開が20代の倍以上になるなどのデータを示して、高齢出産や多胎のリスクを指摘しています。

また、助産師について書かれた第6章も新聞などではなかなか出てこない情報でしょう。
産科医療の救世主ともなりえる助産師の絶対的な不足、育成の問題、そして何よりも助産師と産科医の感情的な対立。断片的には知っていた情報がまとまって提示されています。

今後の問題を考える上で必要な材料を提供してくれるいいルポだと思います。

ルポ 産科医療崩壊 (ちくま新書)
4480064966


評価の難しい本。
橋爪大三郎の思想の入門書(特に前期の著作である『言語ゲームと社会理論』、『仏教の言説戦略』(ともに勁草書房)のダイジェスト)として読めば面白いかもしれませんが、ウィトゲンシュタイン(本ではヴィトゲンシュタイン表記)の入門書とすると、大雑把すぎるし、余計なことを書きすぎではないかと。

ウィトゲンシュタインとヒトラーがオーストリアのリンツの実科学校で一緒だった話や、ウィトゲンシュタインが生きた時代のヨーロッパの状況などは興味深いですし、言語ゲームを法や仏教などに当てはめた部分も面白いです。
また、江戸時代の朱子学や本居宣長の話なんかも大雑把なスケッチとしてはためになると思います。

ただ、飯田隆が『ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たちSelect)』の「キーワード解説」で「ウィトゲンシュタインの哲学と関連してこうした語が出てくるたびに、わたしはいくらかうんざりする」と述べているように、ウィトゲンシュタインの哲学、そして世界や社会の仕組みといったものを「言語ゲーム」というマジックワードで説明するのは単純化のしすぎだと思います。
「言語ゲーム」というのは、言語というある意味で説明不能なものを考えるために用いた「比喩」であって、この本のように実体化して使用するのは、ウィトゲンシュタインの考えからはズレていると思います。
この本では、アメリカ人と日本人がそれぞれ違う言語ゲームに属しているいった感じで、それぞれの文化を一つの言語ゲームとして扱うようなところがありますが、それはいくら何でも乱暴なんじゃないですかね?

ウィトゲンシュタインの入門書としては、かなりクセがありますが、永井均の『ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)』のほうをお薦めします。


はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)
4062880040





帯に「敗戦は、帝国「領域」に何をもたらしたか/日本、朝鮮、台湾、満洲、樺太、南洋諸島の8月15日」とありますが、まさに内容はその通り。

ポツダム宣言の受諾によって日本は海外領土をすべて失うことになるのですが、多くの日本人が住み、実質的に日本と日本軍が治安の維持をになっていた地域において、日本の存在が一夜にして消え去るということはありません。
日本軍が去ったあとの治安を誰が担うのか?日本人をどうやって引き揚げさせるか?という問題が残りますし、さらに冷戦と中国での国共内戦を控えた当時において、誰が日本から占領を引き継ぐのか、日本人の技術や行政データを手にするのかというのは大きな問題でした。
この本はそうした問題と、その中で翻弄された現地の人びとの姿を各地域ごとに描いています。

沖縄だけでなく樺太でも民間人を巻沿いにした地上戦が行われ多くの悲劇が生まれたという事実、8月15日に建国記念日をおいたという韓国の「屈辱」など、この本では8月15日以降の「戦争」というものが描かれています。

また、敗戦を知った日本人の中に日本に帰らずその地に残りたいと思っていた人が多くいたこと、台湾や南洋諸島に沖縄から多くの人がわたっていたことなど意外な事実を知ることも出来ます。

8月15日という日を境に海外領土を放棄したことは正しいことなのでしょうが、一方的な放棄は時に現地に位していた人びとを翻弄します。
この本の216ページに書かれている樺太から引き揚げたサハリンの少数民族ゲンダーヌ(北川源太郎)の悲劇などはまさにそれを表していますし、日本の国家としての「責任」を問うものです。

開戦責任や戦争犯罪の責任とはまた違った国家の「責任」というものを考えさせられる本です。

「大日本帝国」崩壊―東アジアの1945年 (中公新書)
4121020154


記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
人気記事
タグクラウド
traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /