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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2016年11月

戦犯というと、まずは東京裁判で裁かれた東条英機らのA級戦犯が思い浮かびます。しかし、人数が圧倒的に多かったのはBC級の戦犯であり、彼らは日本だけでなくフィリピンやシンガポールなどの各地で法廷で裁かれ、約1000人が処刑されました。
また戦犯の扱いに関しては、蒋介石の「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)路線などを思い起こす人もいるかもしれません。
一方、中華人民共和国に日本人の戦犯が抑留されていたという事実を知る人は少ないでしょう。そんな、知られざる事実と、戦犯らが日中両国にとってどのような存在であったのか、帰国した戦犯のその後などを描いたのがこの本になります。

目次は以下の通り。
第1章 中国の虜囚―一五二六名の戦争犯罪人
第2章 思想改造―抵抗から受容へ
第3章 戦犯の政治利用―日本への秋波
第4章 日本人戦犯裁判―「寛大」処理の裏側
第5章 帰国後の戦犯たち―毛沢東思想の伝道と中帰連
終章 「毛沢東の対日戦犯裁判」とは何だったのか

戦後、中国を掌握したのは中華民国であり、多くの日本人戦犯はその下で裁かれました。
しかし、ソ連に捉えられシベリアに抑留されていたグループと、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)に協力して国共内戦に参加していた日本軍将兵は別でした。前者はソ連から成立した中華人民共和国のもとに送られ、後者は山西省で激しい戦闘を行ったあと捉えられました。収監された場所から、前者は「撫順組」、後者は「太原組」と呼ばれました。
他にも河北省の西陵農場で「労働改造」を施されていた日本人の中にも、後に戦犯とされた者がおり(「西陵組」)、毛沢東の手に握られていた日本人の戦犯は合わせて1526名でした(4p)

この本では閻錫山に協力した経緯なども説明されているのですが、脅しや謀略によって日本軍の協力を引き出そうとする閻錫山もひどいですし、残留を煽った第一軍の元参謀長山岡道武とか第一軍司令官という責任者の澄田らい四郎らがいち早く帰国しており、これまたひどいです。

シベリアから送られてきた「撫順組」では、中国で「戦犯」扱いされることに大きな抵抗があり、第59師団長の藤田茂は「お前たちは国際法を踏みにじった。国際法では戦争が終わったなら直ちに捕虜を送還しなければならない」と抗議しました(49p)。
しかし、一貫して日本の戦犯への厳重な処罰を主張していた共産党にとって国民政府とは違った形で戦犯を裁くことは必要不可欠だと考えられており(国民政府は敗色濃厚となった1949年1月に岡村寧次元支那軍総司令官ら戦犯260名を日本に送還している(48p))。

このため日本人戦犯の取り扱いに関しては周恩来から直接指示が出ており、国家の最高レベルの意思決定をもとに、戦犯に対して人道的待遇を行うとともに「認罪」という学習と反省を行わせようとしました。
看守には日本人に家族を殺されたものも多かったのですが、上層部は繰り返し人道的待遇を行うように指示しています。
学習では、日本の兵卒が日本の帝国主義の犠牲者であること認識させ、その上で自らの罪業を「担白」(告白)させることに重きが置かれました。
しばらくすると、日本の戦犯の中から担白するものが相次ぎ、皆の前で老人や子供、妊婦までを銃剣で殺したという告白を泣きながら行うもの者も現れました(67-72p)。こうして尉官級以下の戦犯の多くが自らの罪を告白していくことになります。
一方、将官佐官級の取り調べに関しては難航しましたが、徹底的に調査を行い、それを突きつけていくことで「認罪」を迫っていきました。

「太原組」「西陵組」では、太原陥落直後に逮捕された日本人は意外と少なく、張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作も太原陥落2日後に逮捕されています(76p)。
太原においても、戦犯への人道的待遇がなされ、そして「認罪」が目指されました。

日本人戦犯は日中交流のためのカードとしても利用されました。
毛沢東は「以民促官(民を以って官を促す)」を掲げ、民間交流から日中関係を前進させようとしましたが(88p)、その時の交流のきっかけとして使われたのが日本人戦犯でした。
中国側は対日政策の司令塔に廖承志をおき、中国紅十字会と日本赤十字社とのパイプを使って日本に対する働きかけを行います。
1954年には「西陵組」の417名の釈放を決定し、日本へと帰国させます。戦犯は民間交流を進めるカードとしても使われたのです。

1955年以降、中国は戦犯の起訴準備を本格化させます。量刑に関しては、現場では死刑を含む重い刑を望むものが圧倒的でしたが、党中央は死刑や無期刑を排除、最終的には周恩来の支持によって現場を押さえ込みます(111p)。また、周恩来は起訴状の一部の字句修正なども行っており(129p)、日本人戦犯に対する裁判がいかに重大事であったかがわかります。

最終的に起訴されたのは45名。それ以外の1000名近くは釈放されました。これらの人々は1956年以後、順次帰国していくことになります。
45名は特別軍事法廷で裁判を受けましたが、著者はこの裁判について「裁判の開廷前にすでに徹底的な量刑議論が完了し、「有罪」かつ「刑期ありき」の判決文が確定していた毛沢東の戦犯裁判は、法的手続きがいかに慎重であろうが、やはり一種の劇場型の戦犯裁判であったといえる」(151p)と述べています。

45名の戦犯は最高懲役20年〜懲役8年までの判決を受け、撫順戦犯監獄に収監されました。そこでは、マルクス主義の学習や生産活動への参加、そして自己批判・相互批判などが求められました(164p)。彼らは順次釈放され、東京オリンピックの1964年の3月までにすべての戦犯が釈放されました。

後半の第5章で描かれるのが帰国した戦犯たちの姿です。
しかし、帰国した彼らは、「中共帰り」、「洗脳」といったレッテルを貼られ偏見にさらされまししたし、政府による待遇も満足できるものではありませんでした。彼らは「中国帰還者連絡会」をつくり、会員間の互助や日中友好を目指しました。

1957年3月に光文社から『三光』という中国戦犯の手記を中国から持ち込み編集した本が出版されると、その衝撃的な内容は社会に大きなインパクトを与えました。
中帰連によって、自分たちの体験や罪行を公表することが「有効な「反戦平和」の手段」(184p)と認識させた出来事でもありました。
こうした中で、中帰連は「政治化」していき、1960年の中帰連第二回全国大会では、規約の「目的」から、「親睦」「相互援助」「補償要求」が外され、平和と日中友好が前面に押し出されました。このとき、最高裁長官田中耕太郎の実弟で当時東京地裁の判事だった飯守重任(いいもりしげとう)は、その「反動的」な思想ゆえに除名されています(193ー195p)。

しかし、会の求心力を保つには「補償要求」は欠かせないもので、その後も活動の中心となりました。理事長であった国友俊太郎は「補償要求運動は認罪の精神と対立する」として、補償要求運動への反対の姿勢を示し、会を「純化」させようとしましたが、地方からは批判が相次ぎます。
さらに中国本土で起こった文化大革命は中帰連を分裂させ、その後の政治情勢の変化は中帰連のメンバーの思惑を超えた形で進みます。1972年に中帰連の会長であった藤田茂らが中国を訪問しますが、周恩来は招待にあたって「感謝する」「お詫びする」などの言葉を絶対に口に出さないでほしいと伝えてきたそうです。これは「認罪」思想に基づき、中国人民への「謝罪」と「感謝」を尊んできた彼らにとって、その基盤が掘り崩されたようなものでした(219p)。

その後、会員の高齢化とともに会の活動は低調化し、1995年に藤岡信勝の『三光』などへの批判に対する半批判で一時期活性化するものの、2002年に中帰連は解散しています。

このように、あまり知られていない歴史の事実に日本側と中国側双方から光を当てた内容になっています。
ただ。構成としては中国側の動きを中心に叙述する前半と、帰国後の戦犯の動きを描いた後半でばらけてしまっている印象はあります。後半のことを考えると、この本の隠れた主人公ともいうべき国友俊太郎などに関しては、前半でどのような経歴の持ち主であったのかが説明してあると、帰国後の行動なども理解しやすかったのではないでしょうか。
また、「認罪」学習について、批判的な回想は特に引用されていませんでしたが、そういったものがなかったのかどうかも気になります。

とはいえ、戦争と日中関係における知られざる一面を明らかにした労作であることには変りはないです。

毛沢東の対日戦犯裁判 - 中国共産党の思惑と1526名の日本人 (中公新書)
大澤 武司
4121024060
1950年代後半から70年代にかけて世界に衝撃を与え、「ブーム」を巻き起こしたラテンアメリカ文学。ボルヘス、コルタサル、ガルシア・マルケス、バルガス・ジョサ、ドノソといった作家の名前や、「マジック・リアリズム」といった形容のされ方は多くの人が耳にしていると思います。
しかし、ラテンアメリカと言ってもさまざまな国があり、作家の個性もそれぞれです。「マジック・リアリズム」という形容詞が当てはまる作家もいれば、当てはまらない作家もいます。
そんなラテンアメリカ文学について、ブーム以前からボラーニョなどのブーム後の作家までの歩みをたどり、なおかつ個々の作家と作品に対する批評を試みたのがこの本。200ページちょっとの本文の中に、数多くの作品の翻訳を手がける著者の手によって圧縮・整理されたラテンアメリカ文学の全体像が詰まっています。

目次は以下の通り。
第1章 リアリズム小説の隆盛―地方主義小説、メキシコ革命小説、告発の文学
第2章 小説の刷新に向かって―魔術的リアリズム、アルゼンチン幻想文学、メキシコ小説
第3章 ラテンアメリカ小説の世界進出―「ラテンアメリカ文学のブーム」のはじまり
第4章 世界文学の最先端へ―「ブーム」の絶頂
第5章 ベストセラー時代の到来―成功の光と影
第6章 新世紀のラテンアメリカ小説―ボラーニョとそれ以後

第1章では、ブームが生まれる前の19世紀のリアリズム小説についてとり上げられています。
このころ、ラテンアメリカにおいて小説の地位は低く、ブラジルのマシャード・デ・アシスなどを除けば、見るべき作品はあまりありませんでした。
20世紀になると、メキシコ革命を背景に政治と文学を関連付ける作品も現れますが、それはある種のマンネリに陥っていきます。

そういったマンネリズムを打ち破ったのが、第2章でとり上げられるシュルレアリスムの影響を受けた魔術的リアリズムの文学やアルゼンチンの幻想文学でした。
魔術的リアリズムの作家で名前が上がるのは、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスとアレホ・カルペンティエールです。ヨーロッパの文化に親しんでいた彼らは、インディオの神話や黒人文化をヨーロッパからの視点でとり入れ、独自の世界をつくり出し、注目を浴びました。

一方、アルゼンチンではそのヨーロッパ都の独自の距離感から、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ・カサーレスらにより、徹底的に虚構性を重視した幻想文学が花開きました。
ボルヘスやカサーレスの成功から生まれたアルゼンチンの幻想文学の流はフリオ・コルタサルに引き継がれていくことになります。
また、メキシコではフアン・ルルフォが『ペドロ・パラモ』が書き上げ、のちにバルガス・ジョサがラテンアメリカ文学の特徴の一つにあげる「主観的世界の客観化」をこの小説のなかで実現させました(72p)。

第3章と第4章では、いよいよラテンアメリカ文学ブームが語られます。
個々の作家や作品の評価については、ぜひ本書で確認してほしいのですが、本書からわかるのはラテンアメリカ文学ブームが、たんに優れた作家がたくさん出てきたというめぐり合わせだけでなく、作家同士のつながりや、そのつながりを強め、のちに崩壊に導いた政治的な背景に拠っていたということです。

ブームの口火を切ったのは1958年のカルロス・フエンテス『澄みわたる大地』でしたが、フエンテスは創作活動を行うだけでなく、自らの作品の売り込みのために文学エージェントと契約し、さらに自分だけでなく他の作家の売り込みも行いました。

また、1959年に起こったキューバ革命も作家たちに大きな影響を与えました。フエンテスをはじめとして、多くの作家がキューバ革命に賛意を示し、多くの作家がキューバへの支援を表明しました。キューバ革命に無関心だったのはカサーレスくらいだったといいます(105p)。
このようにキューバ革命はラテンアメリカの作家を結びつけましたが、革命の興奮が冷めるにつれ、カストロ政権に対する賛否は分かれ始め、これが第5章で語られるバルガス・ジョサとガルシア・マルケスの決別の一つの要因ともなります。

バルガス・ジョサとガルシア・マルケスはバルセロナに住み、またその他の多くの作家もバルセロナを訪れ、バルセロナがブームの中心地となりましたが、ラテンアメリカの独裁政権に対する態度は作家たちの大きな課題の一つでした。
カストロをはじめとして独裁者に好意的な態度を取り続けたガルシア・マルケスに、バルガス・ジョサは反発。1976年にバルガス・ジョサがガルシア・マルケスを公衆の面前で殴り倒す「パンチ事件」が起こると、作家同士のつながりは薄れ、ブームは終焉していくことになります(157-158p)。

その後、イサベル・アジェンデ『精霊の家』パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などのベストセラーが登場しますが、コエーリョはもちろん、アジェンデに対しても「野性的な語り手の才」はあるが「芸術的・学術的価値を持つ作品はまったく書いていない」(168p)と手厳しいです。
さらに、この本はブライス・エチュニケの起こした剽窃事件、文学賞の問題点、出版社に年1回の出版を求められる契約の問題など、ラテンアメリカ文学を取り巻く問題点に触れ、最後の第6章ではロベルト・ボラーニョを中心に近年の動向に触れています。

このようにこの本ではラテンアメリカ文学の盛衰を描いているのですが、同時に著者の歯に衣着せぬ作家評・作品評というのも大きな特徴です。
『蜘蛛女のキス』などで日本でもファンの多いマヌエル・プイグに関しては、「いまやすっかり色褪せた感が否めないながらも現在まで生きながらえている」(129p)と評価されていますし、ボラーニョに関してもその才能を認めつつ(長編よりも短篇集の『通話』を評価している(197p)、『野生の探偵たち』や『2666』を持ち上げる風潮に関しては異議を唱えています(具体的に、『2666』の第4部の延々とつづく殺人事件の描写などを槍玉に挙げている(199p))。

個人的に、ボラーニョの『2666』については著者とは違った意見を持っていますし、その評価に疑問を持つ部分もありますが、非常に明解な評価をしているので、著者に同意するにせよしないにせよ、難解な文学談義で煙に巻かれることはないです。
まさに非常にコンパクトにまとまった「入門書」になっていると思います。


ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)
寺尾 隆吉
4121024044
起きてしばらく経ってから、その出来事の意味や時代の変化のポイントが見えてくることがあります。特に外交では、その影響はしばらく経ってから現れますし、関係者の証言なども少し時間をおいてから出てくるものです。
この本は、冷戦終結後の日本の外交を「ドキュメント」のようなリアルタイムに出来事を追うスタイルではなく、ある程度距離をとった「歴史」として描こうとしています。
当然、時代が近づくにつれ、「歴史」として描くことは難しくなっていくのですが、著者はさまざまな資料を駆使することにより、できるだけ俯瞰的に日本外交を見ていこうとしています。

目次は以下の通り。
第1章 湾岸戦争からカンボジアPKOへ―海部・宮沢政権
第2章 非自民連立政権と朝鮮半島危機―細川・羽田政権
第3章 「自社さ」政権の模索―村山・橋本政権
第4章 「自自公」と安保体制の強化―小渕・森政権
第5章 「風雲児」の外交―小泉純一郎政権
第6章 迷走する自公政権―安倍・福田・麻生政権
第7章 民主党政権の挑戦と挫折―鳩山・菅・野田政権
終章 日本外交のこれから―第二次安倍政権と将来の課題

目次を見れば分かるように、過去25年の日本外交の通史という構成になっているために、内容をたどることはせずに、いくつかのポイントを中心に紹介していきたいと思います。

まず、「はじめに」で著者が述べるように、「本書を貫くモチーフの一つは、外交と内政の連関、あるいは両者の相互作用」(ip)になります。
例えば、金丸訪朝団が「戦後の償い」に前向きな姿勢を示したことが右翼の「土下座外交」との批判を呼び起こし、その右翼対策を金丸信が佐川急便の渡辺広康社長を通じて稲川会の元会長石井進に依頼したことが、いわゆる佐川急便事件へとつながり、自民党が下野する原因となりました(19-22p)。

自民党下野後に成立した細川政権では、北朝鮮の核危機が高まることによって、小沢一郎と社会党の軋轢が高まり、小沢は社会党を見限って自民党の渡辺美智雄を担いで自民党の一部と組むことを考え、それが自社さの村山世間の誕生へとつながっていきます(54-57p)。
そして、その村山首相は戦後50年という節目の年に政権を担当することになり、その後のわが国の基本的な歴史認識となる「村山談話」を出します。「自民党が社会党の首相を担ぐという村山政権特有の構図が、歴史問題という保革の最も深い分断線を糊塗し、日本が戦後50年の「けじめ」として一つの声を発することを可能にした」(68p)のです。

小渕政権における自自公連立の後押しをしたのも、北朝鮮のテポドンの発射でした。この危機に対応するため、公明党の取り込みが必要とされ、そのために野中官房長官は「ひれ伏してでも」と、小沢一郎の自由党との連立に動きます。
また、ご存知のように福田康夫首相が小沢一郎率いる民主党に大連立を呼びかけた理由も、期限切れが迫ったテロ特措法への対応でした。
小沢一郎の外交・安全保障政策はともかくとして、安全保障政策絡みの政局で何度も小沢一郎が出てくるというのはいろいろな意味で面白いところです。

民主党政権に関しては言わずもがな、といったところで、普天間基地、尖閣、日韓関係という外交政策の失敗がそのまま政権へのボディーブローとなり、民主党への支持を削り取っていきました。

著者はこうした外交と内政のリンクをたどり、次のように考察しています。
自公の枠組みは比較的安定し、他が持続性を欠いた一因は、公明党と社民党(1996年までは社会党)の行動の違いである。社民党が安全保障政策の不一致を理由に複数回に渡って連立政権を離脱しているのに対して、憲法や安保問題をめぐって必ずしも自民党と一致しているわけではない公明党が連立を維持していることが、自公の安定をもたらしている。(中略)
社民党にとっては安保問題が党の存在意義そのものであるのに対し、公明党は「平和の党」を掲げつつも、組織維持自体が優先目標という違いがあると言えよう。(258p)

この本を読むことで見えてくるもう一つの面は、副題にもある「首相たちの決断」です(副題は「冷戦後の模索、首相たちの決断」)。
外交に関しては、やはり首相や外相と行った人物のパーソナリティに左右される部分もあり、その人物だからこそできた(あるいはできなかった)決断というものがあります。

アメリカからの誘い水があったにせよ(72p)、橋本龍太郎首相でなければ普天間返還の合意は実現しなかったかもしれませんし、その橋本首相のある種のせっかちさが沖縄との詰めの協議をおろそかにし、その後、20年続く普天間の迷走の出発点をつくりました。

また、民主党政権というと鳩山由紀夫首相の迷走ぶりばかりが強調されますが、この本を読むと鳩山政権の岡田外相の根回し不足や、野田首相の融通の効かなさも大きな問題だったことがわかります。特に野田首相に関しては外交のセンスが致命的になかったと言わざるをえない気がします。

そして、副題の前半にある「冷戦後の模索」というのもやはり大きなテーマになります。
冷戦終結後まで、日本外交は日米関係の舵取りと戦後処理という大きなテーマを「受け身」でこなしていく面が大きかったですが(もちろん、これは単純化した見方ですが)、冷戦終結後の日本外交は、さまざまな課題に能動的に対処する必要が出てきました(i-iip)。

それに伴って、新たな価値を模索する外交も行われます。橋本政権や小渕政権はそうしたものを志向したと言えるでしょうし、特に第1次安倍政権は「自由と繁栄の弧」など、新たな価値を掲げた外交を打ち立てようとした政権といえるでしょう。
しかし、この「価値」を掲げるという行為は、それが日本にも跳ね返ってくるということでもあります。この事について、著者は慰安婦問題にからめて次のように語っています。
そもそも安倍外交は民主主義や人権など「価値」の重視を掲げたが、それでは過去の日本の戦争について、人権という判断基準からどう向き合うのか。「安倍カラー」に潜む矛盾が日本外交に影を投げかけた一幕であった。(168p)

第2次安倍政権は、戦後70周年の談話についてはこの辺りの折り合いを巧妙につけてみせましたが、この問題は今後も安倍外交のポイントとなるでしょう。

とりあえず、以上のような点に注目してまとめてみましたが、この本はさまざまなエピソードを詰め込んだ読みやすい通史にも仕上がっています。じっくりと腰を落ち着けて日本外交を考える上でも役立ちますし、また、意外と調べにくいちょっと前の外交上の出来事を知る上でも便利です。
日本外交についての強いビジョンが打ち出されているわけではありませんが、これからの日本外交(政治)のビジョンを考えていく上で非常に有益な本だと思います。


現代日本外交史 - 冷戦後の模索、首相たちの決断 (中公新書)
宮城 大蔵
4121024028
日本の歴史の大きな画期とされる応仁の乱。しかし、この乱がなぜ起こり、なぜ11年もつづき、結局何が変わったかとなると、そう簡単には説明できない出来事です。
そんな応仁の乱を、奈良興福寺の別当であった経覚と尋尊という二人の僧侶の日記を一つの視点としながら近年の研究の成果をもとに鮮やかに再構成してみせた本。とりあえず、この本の巻末の人名索引を見れば、かなり野心的な本であることがわかると思います。

目次は以下の通り。
はじめに
第一章 畿内の火薬庫、大和
第二章 応仁の乱への道
第三章 大乱勃発
第四章 応仁の乱と興福寺
第五章 衆徒・国民の苦闘
第六章 大乱終結
第七章 乱後の室町幕府
終章 応仁の乱が残したもの

応仁の乱について簡単にまとめるのが不可能なように、この本を要約していくというのもかなりの困難を伴うものなので、とりあえず「はじめに」と「終章」から著者の応仁の乱についての基本的な見立てを紹介します。

まず、近年の研究では「応仁の乱で室町幕府の権威は失墜した」という見方はとられず、6代将軍義教が暗殺された嘉吉の変からつづいた幕府政治の混迷が応仁を乱を生み、さらに応仁の乱後の1493年の明応の政変によって幕府の権威は完全に失墜したという見方が支配的になっています(vーvi p)。
その上で、応仁の乱を原因と影響を考えるというのが本書の立場です。

歴史の教科書などでは、応仁の乱は将軍の後継者争いをめぐって東軍の細川勝元と西軍の山名宗全が激突した戦いという形でまとめられています。
室町幕府は、その初期に守護大名らの反乱に悩まされたこともあり、政権が安定すると彼らに在京を命じ、その在京する守護大名らによって政権が運営されました。

応仁の乱にはこの守護大名らによる派閥争いという側面がありますが、乱の当事者とされる細川勝元と山名宗全の関係は実は悪くなく(勝元の妻は宗全の養女)、1466年の文正の政変では、両者は協調して8代将軍義政の側近であった伊勢貞親を失脚させています。
山名宗全が細川氏の覇権に挑戦するという形になっていますが、宗全も全面激突を望んでいたわけではないのです。

では、なぜ実際に乱が起こり拡大してしまったのか?
著者は一番の要因として、畠山家の家督争い、特に一方の当事者である畠山義就(よしひろ)が大和や河内などで軍事行動を起こしたあとに上洛したことをあげています。
管領家でもある畠山家の家督争いは、将軍足利義政の無定見な裁定のせいもあって義就と政長の間でこじれにこじれていましたが、とりあえず政長に家督が認められ、義就は河内に立て籠もった状態でした。

しかし、文正の政変後の混乱において、宗全が上洛を呼びかけたこともあり、義就は政長を討つために上洛します。そして御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まります。
ただ、この御霊合戦の時点でも、宗全が義就に加勢しなければ東軍と西軍の全面対決にはならなかったと著者は見ています。実際、細川勝元は義政の言いつけを守って政長に加勢しておらず、宗全の加勢がなければ戦いは畠山家の内紛ということで済んだのかもしれません。

先に述べたように勝元と宗全の関係はそれほど悪いものではなく、両者の間に関しては和睦が成立する可能性は十分にありました(実際に、細川氏と山名氏は所掌に先駆けて講和している)。
しかし、大きくなりすぎた大名連合と、長く続いた合戦が和睦を難しくさせた事情を著者は次のように説明しています。
勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らの戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。(257p)

応仁の乱が東軍優位に推移するようになったきっかけは朝倉孝景の寝返りですが、本書では朝倉孝景の武将としての実力といった側面よりも、東軍が越前を押さえたことにより、越前から京都に至る補給路を西軍が使えなくなったという点に注目しています(162ー165p)。

応仁の乱と、その後の明応の政変によって守護の在京制は崩壊し、守護大名を束ねるはずの管領の機能も低下していきます。各大名家の内部でも、「他家とのパイプを握る在京家臣から地域に根ざした分国出身の家臣への権力移行が見られ」(258p)、守護大名自身も分国へと帰っていきます。ここに戦国時代的な状況が始まるのです。

このようにこの終章では、複雑怪奇な応仁の乱に関してかなり分かりやすい見取り図が得られると思います。
ただ、では全体が分かりやすいかというと必ずしもそうなっていないところが本書の難点かもしれません。

経覚と尋尊という二人の僧侶を観察者に据えることで、京の騒乱をある程度客観的に見られる面はありますし、興福寺が守護を務めているという大和の国の特殊性は、それこそ権門体制期から室町時代にかけての連続性を思い起こさせます。
さらに第四章で紹介されている、京の貴族が戦乱を避けるために奈良に疎開し、その奈良で「林間」という風呂と茶を楽しむ催しがさかんに行われていたことなども興味深いですし、大和というのは室町時代を考える上で非常に面白い材料が揃っている場所だと思います。

しかし、この大和の情勢というのが応仁の乱と同じかそれ以上にややこしいのです。そのため、応仁の乱以前の大和の国の情勢の説明にかなり紙幅を咲いていますし、応仁の乱勃発後もかなりの部分が大和の情勢の説明にあてられています。
おそらく著者はこの情報量の中でも出来事の間の関連性を見失うことはないのでしょうが、読んでいる方としてはあまりの情報量に、ときに応仁の乱の本筋を見失いそうになります。
もちろん、人名索引を含め読みやすさを確保するための工夫はあるのですが、経覚と尋尊という二人の僧侶にフォーカスする構成は、面白いもののやや野心的すぎるものに思えました。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
呉座 勇一
412102401X
ギリシャ危機に難民危機にウクライナ危機にイギリスのEU離脱と、絶え間ない危機に見舞われているEUですが、その危機は外部からEUを襲っているのか?、それともEU内部にあった問題が今になって噴出しているのか?、現在のヨーロッパの危機を概観しつつ、この根本的な問題にも答えようとしている本になります。

著者は2013年に『統合の終焉』(岩波書店)という本を出しています。この本はEUの歴史を読み解きつつ、2013年以降に起こった問題にも適用できるEUの問題点を分析してみせた大変面白い本なのですが、いかんせん500ページ近いボリュームと3800円+税の価格、なかなか普通の人が手に取れるものではなかったと思います(価格に関しては内容とボリュームを考えればむしろ安いと思いますが)。
そんな大作の『統合の終焉』で取り出されたEU分析のエッセンスを駆使しつつ、現在の危機を読み解こうとしたこの本は、きわめて時事的な本であると同時に今後しばらくEUの問題を考える上で参考になり続けるものに仕上がっています。

目次は以下の通り。
第1部 危機を生きるEU
第1章 ユーロ
第2章 欧州難民危機
第3章 欧州安全保障危機
第4章 イギリスのEU離脱
第2部 複合危機の本質
第5章 統合史のなかの危機
第6章 問題としてのEU
第7章 なぜEUはしぶとく生き残るのか
第3部 欧州と世界のゆくえ
第8章 イギリス離脱後の欧州と世界
終章 危機の先にあるもの

第1章から第4章までは、現在の危機の様相を再確認したもので、「はじめに」で著者は、個々の危機について十分に知っている読者であれば読み飛ばして構わないと述べていますが(vp)、読みどころはあります。

まず、今回の危機に先立って、欧州統合のプロジェクトは2005年の欧州憲法条約がフランスとオランダの国民投票で否決されたことによって、すでに「危機」に陥っていました。「ヨーロッパ合衆国」のような「夢」は今回の危機の前にしぼんでいたのです。

しかし、今回の危機は欧州統合にブレーキをかけるだけでなく、欧州統合そのものを揺さぶり、後戻りさせようとしています。
ユーロ危機に対しては、EUは「財政規律の強化とEUへの集権化」(17p)という方向でこれを乗り切ろうとしましたが、緊縮政策は人々を苦しめますし、EUへの集権化は不満の矛先がEUに向かうということです。

難民問題に関しては、シリア内戦というEUにはコントロールしがたい大きな原因があり、外部の危機がEUに波及しているだけだとも言えます。
しかし、著者はシリア内戦などの難民を送り出す「プッシュ要因」の他に、豊かで社会給付も受けやすいとヨーロッパ(特にドイツ)という「プル要因」、さらにトルコやギリシャなど難民の流入ルートの途上にある国が、難民を責任をもって引き受けずに通過させようとする「スルー要因」が重なって現在の問題を引き起こしているといいます。
2016年3月、EUはトルコとの間に財政援助などと引き換えに難民をトルコに送還する枠組みに合意します。これによって難民の数は激減しましたが、難民条約の完全な締結国ではないトルコに難民を送還することは難民条約や欧州人権規約に違反するとの指摘もあり(54p)、EUの掲げてきた理念は揺らいでいます。

第3章の「欧州安全保障危機」でとり上げられるのは、ウクライナ危機と頻発するテロです。
ロシアのプーチン大統領によるクリミア併合、ウクライナ東部の分離運動への支援といった国際秩序への挑戦に対して、メルケル首相などの尽力でミンスク合意が結ばれますが、その内容はかなりロシアに譲歩したものでした。
さらに、G8から追放されたロシアはシリアへの軍事介入で国際社会への復帰を狙いますが、これは前述の難民危機を加速させました。

テロに関しては、何といっても2015年11月のパリ同時テロ事件のインパクトが大きいですが、この事件の実行犯に難民のルートをつかってヨーロッパに入ってきた者がいたこと、テロリストの情報が各国の治安機関に伝わっていなかったことが、難民への反発や各国政府とEUへの批判を引き起こしました。
EU加盟国の多くは領域内の移動の自由を保障したシェンゲン条約に加盟していますが、今回の難民の大移動に対応できるような犯罪やテロ情報の共有では出来ておらず、国境管理を復活させる動きが出ていますし、フランスでは非常事態宣言が続いています。

第4章の「イギリスのEU離脱」では、「若者は残留、高齢者は離脱」といった国民投票に見られた傾向を確認するとともに、サッチャー以来の保守党内部での反EUの流れを確認することで、キャメロンが「国民投票をしてしまった」理由が見えてくるようになっています。
この国民投票では、保守党・労働党の二大政党がきちんと機能せず、今後のイギリスの政党政治に不安を抱かせるものとなりました。さらにスコットランドの独立運動の再燃も予想されるなど、今後も多くの波乱が予想されます。

第5章以降は理論編ともいうべき部分で、これらの危機をEUの来歴と政治的な構造から読み解こうとしています。
まず、現在「EUの危機」が叫ばれていますが、EUは常に危機とともにありました。1965年にはフランスのド・ゴールがEECからフランス代表を引き上げさせてEECを麻痺させましたし、冷戦終結とドイツ統一は「ドイツをいかに制御するか?」という問題をヨーロッパに突きつけました。近年においても、イラク戦争への対応に関してEU内部で分裂が起こりました。
このようにEUは常に危機とともにあり、その危機への対処として統合を深化させてきたのです。

しかし、統合の深化は、同時にEUの民主的な正統性の問題を露わにします。EUの権限が強まれば強まるほど、自分たちとは関係のないエリートが物事を決めているという感覚は強まります。
第8章では、イギリスのEU離脱に関して、あるロンドン大学教授が残留のほうがGDPにプラスだという意見を紹介したところ、「それはお前のGDPだ、俺たちのではない」というやじが飛んだというエピソードが紹介されています(258p)。
もちろん、これは無茶苦茶な意見なのですが、これは現在のEUの一面を非常によく表しています。かつてのEUやその前身の機関の危機はエリートの間だけで騒がれたものでしたが、現在のEUは人々の生活に直接かかわっており、その危機は域内に住む人々の生活に直結します。
しかし、この一般の人々とEUのエリートをつなぐ回路がきわめて脆弱なのです。

この回路として欧州議会がつくられており、その権限も強化されつつあるのですが、近年の欧州議会の議員選挙の投票率は40%台であり(204p)、民主的な正統性を調達できていません。
正統性には「うまく作動しているから」という機能的正統性もありますが、ご存知のようにこの機能的正統性は度重なる危機によって大きく揺らいでいます(167p)。

著者は、こうした危機を統合の深化で解決してきたEUが、その統合の深化ゆえに行き詰まっている状況を、「《解決としてのEU》から《問題としてのEU》」という言葉で表現しています。
例えば、ユーロは域外への発言権を高め、グローバル経済の奔流を制御するための解決策として導入されましたが、現在はそのユーロ自体がさまざまな問題を引き起こしています。

おそらく解決策の一つは「さらなる統合の深化」です。EUの財政統合が実現し、ドイツなどからギリシャを始めとする南欧諸国に財政移転がなされるようになれば、ユーロ危機は終息するでしょう。
しかし、ここには「国民国家」、「ナショナリズム」といった壁が立ちはだかります。デモクラシーはあくまでも国家を単位として想定されており、それを超えるレベルでのデモクラシーに関して人々が共有できるイメージというものはありません。
著者は、日中韓で共同のデモクラシーを行なうという反実仮想をとり上げ、この3カ国でどのように多数決をすれば正しい決定という感覚が確保されるのか、と問うていますが、まず無理だというのが一般的な感覚でしょう(200p)。

イギリスがEU離脱を決めたことによって、今後、EUではドイツの覇権がますます強まると警戒されていますが、著者はこれについて次のように述べています。
いまのドイツは戦間期のアメリカに近く、自身の権力と責任(意識)が乖離した状況にある。じつは、いまヨーロッパで必要とされるのは、責任に応じたよりいっそうのドイツの権力行使であり、正しい権力の使い方なのだが、「ドイツの覇権が復活した(ので警戒せねばならない)」とだけ述べる多くの言説は、その必要を覆い隠してしまうのである。(246p)

著者は独仏の政党政治が極右政党に乗っ取られたりしないかぎり、EUの内破はありえず、イギリスのEU離脱がもたらすのはEUの再編成であろうと予想しています。
その一つの形は、独仏伊とベネルクス三国の原加盟国を中心として、より統合を深める一部リーグと周縁的な二部リーグ、さらにヨーロッパの非加盟国が三部リーグを構成するようなものです(252ー255p)。

現在のEUに関して、著者はこのまま緊縮財政にこだわって自滅するか(ちょうど1930年代の金本位制のように)、それとも「人為」による改良である「政治」を取り戻せるかの「危機(分かれ道)」にあるといいます(270p)。

今後のEUがどちらに転ぶかはわかりませんが、とりあえずこの本を読めばEUの来歴と現在位置はわかるはずです。
かなりの情報が詰め込まれているために、「見やすい地図」とはいえない部分もありますが、ヨーロッパの情勢を見ていくときに、しばらく携えていくべき「地図」にあたる本と言えるのではないでしょうか。

欧州複合危機 - 苦悶するEU、揺れる世界 (中公新書)
遠藤 乾
4121024052
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