2013年06月
サントリー学芸賞を受賞した『伊藤博文』(中公新書)の著者による、明治法制史の点描といえる本。
伊藤博文、山県有朋、井上毅といった有名人物の思想から、幕末の欧米への使節が見た「国のしくみ」についての観察、シュタイン、グナイスト、クルメツキといった外国人学者の日本の立憲制に対するアドバイスなど、さまざまな角度から明治国家の成り立ちを描き出しています。
内容的には清水唯一朗『近代日本の官僚』に似ている点もあって、「日本の近代国家建設の歩み」を描いている点は共通しています。ただ、あちらの本には「官僚たちの立身出世の物語」といった側面もありましたが、こちらは「日本の近代国家建設の歩み」に照準を絞っています。
この本の冒頭のエピソードは、シュタインについてのものです。シュタインが大日本帝国憲法制定において伊藤博文にさまざまなアドバイスをしたことはよく知 られていますし、伊藤だけではなく、山県有朋をはじめとするさまざまな人物が「シュタイン詣で」を行ったことを知っている人も多いでしょう。
しかし、この本で取り上げられている「シュタインが福沢諭吉の論説を読んで書簡を送っていた」というエピソードを知っている人はそう多くはないのではないでしょうか(僕も初めて知りました)。
シュタインは、横浜で刊行されていた英字新聞"The Japan Weekky Mail"を取り寄せて読んでおり、そこで福沢の『時事小言』の紹介記事を知り、わざわざ福沢に「あなたの書は、「政体改良の為めに大切なる著書」だ」(27p)と送ってきたのです。
ここから著者は、ドイツでサヴィニーによって始められた「歴史法学」と、さらにサヴィニーに代表される「ローマ法学派」とグリム兄弟(あのグリム童話のグリム兄弟、彼らは実は法学者でもある)に代表される「ゲルマン法学派」について触れます。
シュタインのエピソードにおいて、このドイツの法学の話は簡単に触れられているだけですが、この「法をめぐる対立軸」は、幕臣で駐仏日本公使も勤めながら維新後は新聞記者として過ごした栗本鋤雲のエピソードや、民法典論争のエピソードで再びとり上げられます。
ナポレオン法典を高く評価し、全ドイツに適用される民法典の確立を主張したティボーに対し、サヴィニーは「法は言語や習俗と同様、民族精神 (Volksgeist)の発露であり、民族の歴史的発展の所産にほかならない」(210p)として、性急な法の制定に反対しました。
ここでサヴィニーはドイツの大学で教えられてきたローマ法学こそがその基盤になると考えましたが、グリム兄弟は「民族固有の法」を求め、ゲルマン法という民衆法こそが基盤になるとしました(これが古い伝説や昔話の蒐集につながる)。
というわけで、「民法出て忠孝亡ぶ」の日本の民法典論争は、このティボー対サヴィニー(あるいはグリム兄弟)の焼き直しでもあるわけです。
著者はこの民法典論争が、フランス流の法学を教えていた大学とイギリス流の法学を教えていた大学の間の「パンの争い」に過ぎないとも指摘していますが、 (213p)、この「普遍」VS「固有の文化」ともいうべき論争はヨーロッパの後進地域でも切実な問題だったらしく、バルカン半島出身の法学者ボギシッチ は松方正義を通じて日本の民法典について進言しています。
さらにこの歴史法学こそ、「明治国家のグランドデザイナー」とも呼ばれる井上毅の思想のバックボーンの一つとなったものでした。著者は井上について「彼が めざしていたのは、ドイツ歴史法学の方法に則って日本旧来の儒教的道徳を再生させることにあったと見なし得る」(225p)とその思想を解説しています。
このように、日本の国家形成における課題が、実は当時のヨーロッパの後進国における課題とリンクしていたことを示す部分は非常に興味深いです。
ただ、ここまでの紹介では、この本が法にまつわる難しいことばかりを書いているように思えるかもしれません。
この本にはこうした法についての話題の他にも、幕末・明治期のさまざまな人物による海外体験の記録が紹介されています。詳しくは書きませんが、「文久使節 団」や「徳川昭武使節団」(パリ万博のための使節)など、それほど知られていない使節団の見聞について触れられていてこちらも興味深いです。
個人的にこの著者の『伊藤博文』は、伊藤の事蹟をよくまとめあげているものの伊藤の人間性のようなものはいまいち描き出せていないように感じたのですが、 この本では短いエピソードの中にもそれぞれの人物の人間性を感じさせる部分が多く、『伊藤博文』よりも面白く読むことが出来ました。
明治国家をつくった人びと (講談社現代新書)
瀧井 一博
4062882124
伊藤博文、山県有朋、井上毅といった有名人物の思想から、幕末の欧米への使節が見た「国のしくみ」についての観察、シュタイン、グナイスト、クルメツキといった外国人学者の日本の立憲制に対するアドバイスなど、さまざまな角度から明治国家の成り立ちを描き出しています。
内容的には清水唯一朗『近代日本の官僚』に似ている点もあって、「日本の近代国家建設の歩み」を描いている点は共通しています。ただ、あちらの本には「官僚たちの立身出世の物語」といった側面もありましたが、こちらは「日本の近代国家建設の歩み」に照準を絞っています。
この本の冒頭のエピソードは、シュタインについてのものです。シュタインが大日本帝国憲法制定において伊藤博文にさまざまなアドバイスをしたことはよく知 られていますし、伊藤だけではなく、山県有朋をはじめとするさまざまな人物が「シュタイン詣で」を行ったことを知っている人も多いでしょう。
しかし、この本で取り上げられている「シュタインが福沢諭吉の論説を読んで書簡を送っていた」というエピソードを知っている人はそう多くはないのではないでしょうか(僕も初めて知りました)。
シュタインは、横浜で刊行されていた英字新聞"The Japan Weekky Mail"を取り寄せて読んでおり、そこで福沢の『時事小言』の紹介記事を知り、わざわざ福沢に「あなたの書は、「政体改良の為めに大切なる著書」だ」(27p)と送ってきたのです。
ここから著者は、ドイツでサヴィニーによって始められた「歴史法学」と、さらにサヴィニーに代表される「ローマ法学派」とグリム兄弟(あのグリム童話のグリム兄弟、彼らは実は法学者でもある)に代表される「ゲルマン法学派」について触れます。
シュタインのエピソードにおいて、このドイツの法学の話は簡単に触れられているだけですが、この「法をめぐる対立軸」は、幕臣で駐仏日本公使も勤めながら維新後は新聞記者として過ごした栗本鋤雲のエピソードや、民法典論争のエピソードで再びとり上げられます。
ナポレオン法典を高く評価し、全ドイツに適用される民法典の確立を主張したティボーに対し、サヴィニーは「法は言語や習俗と同様、民族精神 (Volksgeist)の発露であり、民族の歴史的発展の所産にほかならない」(210p)として、性急な法の制定に反対しました。
ここでサヴィニーはドイツの大学で教えられてきたローマ法学こそがその基盤になると考えましたが、グリム兄弟は「民族固有の法」を求め、ゲルマン法という民衆法こそが基盤になるとしました(これが古い伝説や昔話の蒐集につながる)。
というわけで、「民法出て忠孝亡ぶ」の日本の民法典論争は、このティボー対サヴィニー(あるいはグリム兄弟)の焼き直しでもあるわけです。
著者はこの民法典論争が、フランス流の法学を教えていた大学とイギリス流の法学を教えていた大学の間の「パンの争い」に過ぎないとも指摘していますが、 (213p)、この「普遍」VS「固有の文化」ともいうべき論争はヨーロッパの後進地域でも切実な問題だったらしく、バルカン半島出身の法学者ボギシッチ は松方正義を通じて日本の民法典について進言しています。
さらにこの歴史法学こそ、「明治国家のグランドデザイナー」とも呼ばれる井上毅の思想のバックボーンの一つとなったものでした。著者は井上について「彼が めざしていたのは、ドイツ歴史法学の方法に則って日本旧来の儒教的道徳を再生させることにあったと見なし得る」(225p)とその思想を解説しています。
このように、日本の国家形成における課題が、実は当時のヨーロッパの後進国における課題とリンクしていたことを示す部分は非常に興味深いです。
ただ、ここまでの紹介では、この本が法にまつわる難しいことばかりを書いているように思えるかもしれません。
この本にはこうした法についての話題の他にも、幕末・明治期のさまざまな人物による海外体験の記録が紹介されています。詳しくは書きませんが、「文久使節 団」や「徳川昭武使節団」(パリ万博のための使節)など、それほど知られていない使節団の見聞について触れられていてこちらも興味深いです。
個人的にこの著者の『伊藤博文』は、伊藤の事蹟をよくまとめあげているものの伊藤の人間性のようなものはいまいち描き出せていないように感じたのですが、 この本では短いエピソードの中にもそれぞれの人物の人間性を感じさせる部分が多く、『伊藤博文』よりも面白く読むことが出来ました。
明治国家をつくった人びと (講談社現代新書)
瀧井 一博
4062882124
- 2013年06月30日00:06
- yamasitayu
- コメント:0
- トラックバック:0
岡山県倉敷市のショッピングモールに集まる若者にインタビューした「現在篇」、J-POPの歌詞の変遷から若者の変化を探った「過去篇」、そして新しいJ-POPや若者の姿から新しい「公共性」について考察した「未来篇」の3部仕立ての本。
「現在篇」は文句なく面白く、「過去篇」はまあまあ、「未来篇」はいまいち、といったところでしょうか。
著者は自らの体験を元にした『搾取される若者たち』や、『働きすぎる若者たち』(NHK生活人新書)などで、若者の「働きすぎ」や「やりがい搾取」などに ついての本を発表してきた社会学者ですが、今作では自分とは少し境遇の違った若者たちにインタビューすることで、地方都市に生きる若者たちのリアルな姿を 浮かび上がらせようとしています。
「現在篇」では、岡山のイオンモール倉敷に集まる若者40人ほどにインタビューをしています。
著者の分析によれば、地方都市のイオンモールは「つまらない地方(田舎)」と「刺激的な大都市」の間にある「ほどほどに楽しい地方都市」の象徴で、安心してほどほどに楽しめる「ほどほどパラダイス」だと言います(33p)。
そして彼らの多くは、その「ほどほど」感が気に入っていて、無理して大都市に出ようという気持ちはないそうです。
そんな現在住んでいる場所(地元)を気に入っている彼らですが、一方で「住んでいる地域の人が何を考えているのかわからない」(46p)と言ったりしますし、地域の活動に参加している若者も少ないようです。
この一見するとちぐはぐな状況を著者は次のようにまとめています。
この背景にはモータライゼーションがあります。自動車の普及は「地域社会における人間関係からの解放」をもたらしました。そしてその代わりに彼らの視点から姿を消したのが「商店街」です。彼らの地元を語る言葉の中に「商店街」はまったくといっていいほど登場しません。
また、彼らの仕事についてのインタビューからは、彼らが「低賃金労働のつらさをやりがいによってカバーしている」(70p)状況にあること、親元に住んで いる者が多いが、それは一時期流行った「パラサイトシングル」のようなものではなく、「端的に親と離れて生きていけない」(72p)からであることなどが 浮かび上がってきます。
この「現在篇」につづく「過去篇」では80年代から00年代までのJ-POPの歌詞を通じて、若者の変遷が示されます。
主に取り上げられているアーティストは、BOOWY、B'z、Mr.Children、KICK THE CAN CREW。
「社会への反発と逃走、そして母性の承認」がキーになっていたBOOWYから、「母性を拒否し、努力によって夢を勝ち取ることを歌う」B'z、そして「自 分らしさに過度にとらわれずに関係性の構築を重視する」ミスチル、さらには「地元の仲間との関係性を一番に重視する」KICK THE CAN CREWへと、時代とともに若者とJ-POPは変わってきたというのが著者の分析です。
B'zにしろミスチルにしろ100曲以上の曲を発表してきているはずなので、著者の切り取り方は恣意的といえば恣意的なのですが、まあ、大枠においてはそれなりに納得できる分析だと思います。
ところが、「未来篇」の分析は全てにおいて物足りない。
まずは現在の若者を象徴するアーティストとしてONE OK ROCKとRADWIMPSをとり上げて、「試行錯誤する自分らしさ」が共通していると分析しているんですが、これはどうなんでしょう?
ONE OK ROCKについてはほぼ聴いていないため何とも言えませんが、RADWIMPSは「君と僕と神様」みたいな「セカイ系」的な歌詞が目立つバンドで、この本 が言いたい「新しい公共」みたいなものとは縁遠いバンドだと思います。また、BOOWYの分析で「母性の承認」をキーワードに上げているんだから、 RADWIMPSの歌詞世界に姿が見える「母性」についての分析も欲しいところです。
さらにその「新しい公共」のためのキーがギャルの「聞く力」という結論も萎える。
確かにギャルっぽい子のリーダーシップとかには眼を見張るものがあるときもありますが、著者は社会学者なんですから「ゼミでの聞き取り」以上の論拠が必要だと思うんですよね。
そしてもしそれほどまでにギャルが重要ならば、分析すべきアーティストは当然ギャルがもっと聴くようなアーティストであるべきじゃないかと。
「現在篇」の終わりでは、「岡山の若者たちのこれからを「未来篇」でさらに分析する」といった感じだったのですけど、結局、「岡山の若者たちの未来」は放置されたまま終わってしまっています。
「おわりに」で著者は、当初は『岡山の若者たち』というタイトルで出版する気でいた、と書いていますが、ぜひそのタイトルで、最後まで「岡山の若者たち」に寄り添った分析を続けて欲しかったですね。そうしたら非常に面白い本になっていたと思います。
地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)
阿部真大
4022735066
「現在篇」は文句なく面白く、「過去篇」はまあまあ、「未来篇」はいまいち、といったところでしょうか。
著者は自らの体験を元にした『搾取される若者たち』や、『働きすぎる若者たち』(NHK生活人新書)などで、若者の「働きすぎ」や「やりがい搾取」などに ついての本を発表してきた社会学者ですが、今作では自分とは少し境遇の違った若者たちにインタビューすることで、地方都市に生きる若者たちのリアルな姿を 浮かび上がらせようとしています。
「現在篇」では、岡山のイオンモール倉敷に集まる若者40人ほどにインタビューをしています。
著者の分析によれば、地方都市のイオンモールは「つまらない地方(田舎)」と「刺激的な大都市」の間にある「ほどほどに楽しい地方都市」の象徴で、安心してほどほどに楽しめる「ほどほどパラダイス」だと言います(33p)。
そして彼らの多くは、その「ほどほど」感が気に入っていて、無理して大都市に出ようという気持ちはないそうです。
そんな現在住んでいる場所(地元)を気に入っている彼らですが、一方で「住んでいる地域の人が何を考えているのかわからない」(46p)と言ったりしますし、地域の活動に参加している若者も少ないようです。
この一見するとちぐはぐな状況を著者は次のようにまとめています。
地元が好きであることと地域住民に興味が無いことは両立しうることで、矛盾しない。つまり、彼にとっての地元の人間関係とは、友人関係と家族関係のことを指し、地域社会における人間関係はそこから除外されているのである。(47ー48p)
この背景にはモータライゼーションがあります。自動車の普及は「地域社会における人間関係からの解放」をもたらしました。そしてその代わりに彼らの視点から姿を消したのが「商店街」です。彼らの地元を語る言葉の中に「商店街」はまったくといっていいほど登場しません。
また、彼らの仕事についてのインタビューからは、彼らが「低賃金労働のつらさをやりがいによってカバーしている」(70p)状況にあること、親元に住んで いる者が多いが、それは一時期流行った「パラサイトシングル」のようなものではなく、「端的に親と離れて生きていけない」(72p)からであることなどが 浮かび上がってきます。
この「現在篇」につづく「過去篇」では80年代から00年代までのJ-POPの歌詞を通じて、若者の変遷が示されます。
主に取り上げられているアーティストは、BOOWY、B'z、Mr.Children、KICK THE CAN CREW。
「社会への反発と逃走、そして母性の承認」がキーになっていたBOOWYから、「母性を拒否し、努力によって夢を勝ち取ることを歌う」B'z、そして「自 分らしさに過度にとらわれずに関係性の構築を重視する」ミスチル、さらには「地元の仲間との関係性を一番に重視する」KICK THE CAN CREWへと、時代とともに若者とJ-POPは変わってきたというのが著者の分析です。
B'zにしろミスチルにしろ100曲以上の曲を発表してきているはずなので、著者の切り取り方は恣意的といえば恣意的なのですが、まあ、大枠においてはそれなりに納得できる分析だと思います。
ところが、「未来篇」の分析は全てにおいて物足りない。
まずは現在の若者を象徴するアーティストとしてONE OK ROCKとRADWIMPSをとり上げて、「試行錯誤する自分らしさ」が共通していると分析しているんですが、これはどうなんでしょう?
ONE OK ROCKについてはほぼ聴いていないため何とも言えませんが、RADWIMPSは「君と僕と神様」みたいな「セカイ系」的な歌詞が目立つバンドで、この本 が言いたい「新しい公共」みたいなものとは縁遠いバンドだと思います。また、BOOWYの分析で「母性の承認」をキーワードに上げているんだから、 RADWIMPSの歌詞世界に姿が見える「母性」についての分析も欲しいところです。
さらにその「新しい公共」のためのキーがギャルの「聞く力」という結論も萎える。
確かにギャルっぽい子のリーダーシップとかには眼を見張るものがあるときもありますが、著者は社会学者なんですから「ゼミでの聞き取り」以上の論拠が必要だと思うんですよね。
そしてもしそれほどまでにギャルが重要ならば、分析すべきアーティストは当然ギャルがもっと聴くようなアーティストであるべきじゃないかと。
「現在篇」の終わりでは、「岡山の若者たちのこれからを「未来篇」でさらに分析する」といった感じだったのですけど、結局、「岡山の若者たちの未来」は放置されたまま終わってしまっています。
「おわりに」で著者は、当初は『岡山の若者たち』というタイトルで出版する気でいた、と書いていますが、ぜひそのタイトルで、最後まで「岡山の若者たち」に寄り添った分析を続けて欲しかったですね。そうしたら非常に面白い本になっていたと思います。
地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)
阿部真大
4022735066
- 2013年06月21日23:54
- yamasitayu
- コメント:0
- トラックバック:1
人類の特徴、その由来、その由来からくるヒトの特性といったものを、さまざまなエピソードや実験から明らかにしています。副題は「狩猟採集生活が生んだもの」ですが、これは第2部のタイトルで、実際の内容はもっと幅広いものがありますね。
著者はジェレミー・テイラー『われらはチンパンジーにあらず』、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ジョン・H. カートライト『進化心理学入門』などの訳者でもある実験心理学者で、上記の類いの本を読んできた人には目新しい内容はないかもしれませんが、最近やった NHKスペシャルの「ヒューマン」などを見て面白く感じた人には、その手のネタをいろいろと教えてくれる本でお奨めです。
第1部は「ヒトをヒトたらしめているもの」で、「ヒトとその他の動物の違い」を探っていきます。
この第1部では、「直立二足歩行」、「大きな脳」、「言語と言語能力」、「道具の製作と使用」、「火の使用」、「文化」という「ヒトの6大特徴」を中心に、その他をさまざまな特徴について言及しています。
個人的には特にヒトの「手」に関する部分は興味深く読みました。人間の手は他の霊長類と違って親指が長く物をつかむのに適しています。一方でチンパンジー の握力が200〜250キロあるのに対して、ヒトはせいぜい30〜50キロ程度。同じ手でもその使い道と能力がずいぶんと変化していることがわかります。 また、右利き、左利きのように「利き手」があるのもヒトならではの特徴なのだそうです。
他にも「火の使用」に関して、「暖を取る」、「照明」、「調理」といった目的以外にも石器などの製作にも火が重要な役割を果たしていたということは初めて知りました。
第2部の「狩猟採集生活が生んだもの」では、人類の歴史の中で圧倒的に多くの期間を占めている狩猟採集生活が、ヒトの能力や文化にいかに影響を与えたか?ということがとり上げられています。ここでのキーワードは「家畜」、「スポーツ」、「分業」です。
「家畜」の部分では、イヌが持つ特別な能力(指差しを理解できるのはイヌとチンパンジーだけで、訓練されたイヌは訓練されたボノボ並の200以上の単語を理解する)や、そのイヌ、そしてウマが人間の生活に与えた影響が紹介されています。
「スポーツ」に関しては「遊び」も含めて分析されています。世界各地、ほぼどこに行っても見られる「かくれんぼ」は、狩りを構成する重要なスキルである 「隠れること」と「見つけること」を、学ぶ遊びでもあります。そして、スポーツも「走る」「狙う」「投げる」など狩りに必要なスキルを中心に競いあうもの です。
「分業」については男女の分業について簡単に触れられているのですが、スポーツに関連して「投げる」能力に一番男女の差があるという指摘は面白いですね。 平成21年度に文部科学省が全国の小学5年生を対象にした運動能力の調査によるとソフトボール投げの飛距離は女子が平均14.6mで男子は平均 25.4m(155p)。この本によるとフォームからして違うそうです。
逆に理数系や芸術分野など、昔から「男子が有利」と言われている分野については、環境などの影響も大きいとしています。
第3部の「ヒトの間で生きる」では、「心の理論」を中心に人間のコミュニケーション能力や社会性といったことが読み解かれているのですが、この第3部に関してはよく言われていることなのでそれほど目新しいことはないかもしれません。
「誤信念課題」や「ミラーニューロン」など、知らない人には面白い話だとは思いますが、知っている人にとってはおさらいをしているような感じですね。
というわけで、第3部は個人的にやや物足りなかったのですが、第1部と第2部は興味深い話も多く、歴史の時間の最初に必ず出てくる「ヒトとその他の動物の違い」の部分を話すときなどに非常に役立ちそうです。
ヒトの心はどう進化したのか: 狩猟採集生活が生んだもの (ちくま新書)
鈴木 光太郎
4480067205
著者はジェレミー・テイラー『われらはチンパンジーにあらず』、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ジョン・H. カートライト『進化心理学入門』などの訳者でもある実験心理学者で、上記の類いの本を読んできた人には目新しい内容はないかもしれませんが、最近やった NHKスペシャルの「ヒューマン」などを見て面白く感じた人には、その手のネタをいろいろと教えてくれる本でお奨めです。
第1部は「ヒトをヒトたらしめているもの」で、「ヒトとその他の動物の違い」を探っていきます。
この第1部では、「直立二足歩行」、「大きな脳」、「言語と言語能力」、「道具の製作と使用」、「火の使用」、「文化」という「ヒトの6大特徴」を中心に、その他をさまざまな特徴について言及しています。
個人的には特にヒトの「手」に関する部分は興味深く読みました。人間の手は他の霊長類と違って親指が長く物をつかむのに適しています。一方でチンパンジー の握力が200〜250キロあるのに対して、ヒトはせいぜい30〜50キロ程度。同じ手でもその使い道と能力がずいぶんと変化していることがわかります。 また、右利き、左利きのように「利き手」があるのもヒトならではの特徴なのだそうです。
他にも「火の使用」に関して、「暖を取る」、「照明」、「調理」といった目的以外にも石器などの製作にも火が重要な役割を果たしていたということは初めて知りました。
第2部の「狩猟採集生活が生んだもの」では、人類の歴史の中で圧倒的に多くの期間を占めている狩猟採集生活が、ヒトの能力や文化にいかに影響を与えたか?ということがとり上げられています。ここでのキーワードは「家畜」、「スポーツ」、「分業」です。
「家畜」の部分では、イヌが持つ特別な能力(指差しを理解できるのはイヌとチンパンジーだけで、訓練されたイヌは訓練されたボノボ並の200以上の単語を理解する)や、そのイヌ、そしてウマが人間の生活に与えた影響が紹介されています。
「スポーツ」に関しては「遊び」も含めて分析されています。世界各地、ほぼどこに行っても見られる「かくれんぼ」は、狩りを構成する重要なスキルである 「隠れること」と「見つけること」を、学ぶ遊びでもあります。そして、スポーツも「走る」「狙う」「投げる」など狩りに必要なスキルを中心に競いあうもの です。
「分業」については男女の分業について簡単に触れられているのですが、スポーツに関連して「投げる」能力に一番男女の差があるという指摘は面白いですね。 平成21年度に文部科学省が全国の小学5年生を対象にした運動能力の調査によるとソフトボール投げの飛距離は女子が平均14.6mで男子は平均 25.4m(155p)。この本によるとフォームからして違うそうです。
逆に理数系や芸術分野など、昔から「男子が有利」と言われている分野については、環境などの影響も大きいとしています。
第3部の「ヒトの間で生きる」では、「心の理論」を中心に人間のコミュニケーション能力や社会性といったことが読み解かれているのですが、この第3部に関してはよく言われていることなのでそれほど目新しいことはないかもしれません。
「誤信念課題」や「ミラーニューロン」など、知らない人には面白い話だとは思いますが、知っている人にとってはおさらいをしているような感じですね。
というわけで、第3部は個人的にやや物足りなかったのですが、第1部と第2部は興味深い話も多く、歴史の時間の最初に必ず出てくる「ヒトとその他の動物の違い」の部分を話すときなどに非常に役立ちそうです。
ヒトの心はどう進化したのか: 狩猟採集生活が生んだもの (ちくま新書)
鈴木 光太郎
4480067205
- 2013年06月16日00:08
- yamasitayu
- コメント:0
- トラックバック:0
副題は「社会言語学入門」。内容としてはオーソドックスな社会言語学の入門書なので、こちらがタイトルでもよかったんじゃないかと思います。
「日本語は「空気」が決める」というタイトル通り、「オレ」「ぼく」「わたし」といった人称の使い分け、言語を使用するジャンルの問題、方言、敬語など、 周りの「空気」によって左右される「ふさわしい」言葉についての分析が中心になっていますが、後半ではバイリンガルの問題、言語決定論の問題、英語公用語 化などをめぐる言語と政治の問題についてもとり上げており、かなり幅広いトピックを取り上げています。
目次は以下の通り。
全体的にわかりやすい記述になっていますし、特に個々の例文がうまくできているので、文法書を読むような変な堅苦しさなしに読んでいけると思います。ま た、章の冒頭に「留守番電話での名乗りが苦手です。どうしたらいいでしょうか?」、「質問が上から目線、と言われてしまいました。なぜですか?」、「『ありうる』と『ありえる』は、どちらが正しいですか?」などの問いとそれに対する答えがあり、そこからスムーズに内容に入っていけるようになっています。
ちなみに「質問が上から目線、と言われてしまいました。なぜですか?」というのは、質問サイトで「教えてほしいです。」と書き込んだら、「上から目線」と回答を断られたというシチュエーション。
「そんな細かいことを...」とも思いますが、日本語には「教えてください」「教えていただけないでしょうか」などの、より丁寧な表現がありますよね。
さらに著者は、10円だったら「貸して」だけど、10万円だったら「貸してもらえないだろうか」になるのではないか(126p)、と分析します。これは非常にわかりや すい例で、結局、冒頭の「上から目線問題」の原因の一つが、質問サイトでの回答に対してそれぞれが想定している価値観のズレだということが見えてきます。
そのあとに続く、日本語では交ぜ書きはよくないとされているけど、センター試験の表紙の注意事項では「〜しなさい」と「あります」が混在している、という指摘も面白いですね。NHKの津波警報でもそうですが、丁寧に伝えると「警告」の意味合いが伝わりにくいという問題も出てきます。
他にも「『ありうる』と『ありえる』は、どちらが正しいですか?」から始まる、「第十章 言葉の変化」は面白いですね。
「ら抜き言葉」、「なにげに」、「みたいな」といったこの手の話題でよく取り上げられる例の他に、「夜ご飯」、「食感」、「体幹」などの「気づかない新語」といったものも紹介されていたりして言語学者ならではの見方が生きていると思います。
最近の似た本だと、岡本真一郎『言語の社会心理学』(中公新書)がありますが、向こうは「意図」などの心理面と言語の関係が重点的に分析されていたのに対して、こちらはあくまでも言語中心といった感じです。
あくまでも入門書なので、目から鱗が落ちるような驚きはありませんが、社会言語学のトピックを幅広く知ることのできる面白い本だと思います。
日本語は「空気」が決める 社会言語学入門 (光文社新書)
石黒 圭
4334037461
「日本語は「空気」が決める」というタイトル通り、「オレ」「ぼく」「わたし」といった人称の使い分け、言語を使用するジャンルの問題、方言、敬語など、 周りの「空気」によって左右される「ふさわしい」言葉についての分析が中心になっていますが、後半ではバイリンガルの問題、言語決定論の問題、英語公用語 化などをめぐる言語と政治の問題についてもとり上げており、かなり幅広いトピックを取り上げています。
目次は以下の通り。
はじめに
第一章 社会言語学とは何か
第二章 地域に根ざした言葉
第三章 話し手に根ざした言葉
第四章 聞き手に合った言葉
第五章 状況に合った言葉
第六章 伝達方法に合った言葉
第七章 日本語の人称表現
第八章 言葉と言語
第九章 言葉と文化
第十章 言葉の変化
第十一章 言葉と政治
おわりに
全体的にわかりやすい記述になっていますし、特に個々の例文がうまくできているので、文法書を読むような変な堅苦しさなしに読んでいけると思います。ま た、章の冒頭に「留守番電話での名乗りが苦手です。どうしたらいいでしょうか?」、「質問が上から目線、と言われてしまいました。なぜですか?」、「『ありうる』と『ありえる』は、どちらが正しいですか?」などの問いとそれに対する答えがあり、そこからスムーズに内容に入っていけるようになっています。
ちなみに「質問が上から目線、と言われてしまいました。なぜですか?」というのは、質問サイトで「教えてほしいです。」と書き込んだら、「上から目線」と回答を断られたというシチュエーション。
「そんな細かいことを...」とも思いますが、日本語には「教えてください」「教えていただけないでしょうか」などの、より丁寧な表現がありますよね。
さらに著者は、10円だったら「貸して」だけど、10万円だったら「貸してもらえないだろうか」になるのではないか(126p)、と分析します。これは非常にわかりや すい例で、結局、冒頭の「上から目線問題」の原因の一つが、質問サイトでの回答に対してそれぞれが想定している価値観のズレだということが見えてきます。
そのあとに続く、日本語では交ぜ書きはよくないとされているけど、センター試験の表紙の注意事項では「〜しなさい」と「あります」が混在している、という指摘も面白いですね。NHKの津波警報でもそうですが、丁寧に伝えると「警告」の意味合いが伝わりにくいという問題も出てきます。
他にも「『ありうる』と『ありえる』は、どちらが正しいですか?」から始まる、「第十章 言葉の変化」は面白いですね。
「ら抜き言葉」、「なにげに」、「みたいな」といったこの手の話題でよく取り上げられる例の他に、「夜ご飯」、「食感」、「体幹」などの「気づかない新語」といったものも紹介されていたりして言語学者ならではの見方が生きていると思います。
最近の似た本だと、岡本真一郎『言語の社会心理学』(中公新書)がありますが、向こうは「意図」などの心理面と言語の関係が重点的に分析されていたのに対して、こちらはあくまでも言語中心といった感じです。
あくまでも入門書なので、目から鱗が落ちるような驚きはありませんが、社会言語学のトピックを幅広く知ることのできる面白い本だと思います。
日本語は「空気」が決める 社会言語学入門 (光文社新書)
石黒 圭
4334037461
- 2013年06月11日23:28
- yamasitayu
- コメント:0
- トラックバック:0
副題は「アジア共通通貨の実現性」。内容からすると、この副題こそがタイトルに相応しいです。ドルの暴落や人民元が国際通貨として確固たる地位を築く前に、アジア共通通貨の創設を目指して日本は努力しましょう、という本です。
ただ、そうなると当然「ユーロの失敗が明らかになった今、アジア共通通貨なんてものは実現不可能だし、追い求める価値もないでしょ」という反応が出てくる と思います。実際、著者は2012年の7月に韓国で「アジア共通通貨の実現に向けた日韓の協力」を訴えたときも芳しい反応は得られなかったと書いています (168ー169p)。
それでもアメリカ経済の凋落やそれにともなうドル暴落のリスク、さらには中国が資本取引を自由化し人民元の国際化を図ってくるのならば、「夢のまた夢」であっても、アジア共通通貨を追い求めて行くべきだというのが著者の主張になります。
知っている人も多いかと思いますが、経済学には「国際金融のトリレンマ」というものがあります。これは、(1) 為替レートの安定、(2) 自由な国際資本移動、(3) 独立した金融政策、の3つを同時に満たすことは不可能だという一種の定理で、日本は現在、(2)と(3)を受け入れる代わりに(1)を捨て、変動相場制を 撮っています。
もしもアジア共通通貨が実現するとなると、(1)が実現することになり、現在のグローバル経済のもとでは(1)と(2)をとって、(3)を捨てることになると思います。
しかし、経済がかなり成熟し長期的に低迷している日本と、最近やや陰りが見えているとはいえ高度成長をひた走っている中国が同じ金融政策を取ることは可能なのでしょうか?
中国に限らず、インドネシアでもタイでもフィリピンでも、経済が成長する中でいかにインフレを抑えていくかということが今後の金融政策の課題になっていくでしょう。そんな国々とデフレに苦しむ日本が同じ金融政策を取るのは無理ですよね。以上。
と、これでレビューを終えてもいいのですが、この本の著者は中央大学経済学部の教授であり、当然ながら「国際金融のトリレンマ」もユーロの失敗も知っています。
そして経済発展の段階が違っても、労働力の移動や財政政策による好況の国から不況の国への所得の再分配が出来れば、アジア共通通貨の実現は可能だと言っています(132p)。
でも、冷静に考えれば考えるほどこれらのアジア共通通貨を実現するのは無理ですよね。
今の日本社会が、アジア共通通貨のために外国人労働者の無制限の受け入れや、アジアの途上国への所得の再分配を受け入れるとは到底思えません。
また、著者はユーロに関しては財政上の基準を満たしていなかったギリシャを参加させたことが失敗だったと述べていますが(138p)、財政上の基準を持ち だされたらまずはねられるのは日本ですよね。もしも財政上の基準を作ってそれを日本がクリアーしようとすれば、凄まじい緊縮財政をせざるを得なくなるはずです。
というわけで、アジア共通通貨の実現には、日本は金融引締めや緊縮財政による景気の悪化を受け入れ、さらには外国人労働者の受け入れという大きな社会変動を受け入れざるをえないでしょう。
個人的には、そこまでしてアジア共通通貨を目指す理由というのはさっぱりわかりません。
著者の理由付けとしては、「基軸通貨の特権を利用して放漫な経済運営を続けるアメリカはずるい」、「ドルはいずれきっと暴落する」、「人民元が国際通貨に なれば日本は二等国になってしまう」といったものがあるのですが、ドルが暴落するかどうかはわからないですし、アメリカがずるくても、人民元がアジアの基軸通貨になったとしても、日本がこれ以上のひどい不景気に襲われるよりもマシだと思うのですが...。
人民元は覇権を握るか - アジア共通通貨の現実性 (中公新書)
中條 誠一
412102219X
ただ、そうなると当然「ユーロの失敗が明らかになった今、アジア共通通貨なんてものは実現不可能だし、追い求める価値もないでしょ」という反応が出てくる と思います。実際、著者は2012年の7月に韓国で「アジア共通通貨の実現に向けた日韓の協力」を訴えたときも芳しい反応は得られなかったと書いています (168ー169p)。
それでもアメリカ経済の凋落やそれにともなうドル暴落のリスク、さらには中国が資本取引を自由化し人民元の国際化を図ってくるのならば、「夢のまた夢」であっても、アジア共通通貨を追い求めて行くべきだというのが著者の主張になります。
知っている人も多いかと思いますが、経済学には「国際金融のトリレンマ」というものがあります。これは、(1) 為替レートの安定、(2) 自由な国際資本移動、(3) 独立した金融政策、の3つを同時に満たすことは不可能だという一種の定理で、日本は現在、(2)と(3)を受け入れる代わりに(1)を捨て、変動相場制を 撮っています。
もしもアジア共通通貨が実現するとなると、(1)が実現することになり、現在のグローバル経済のもとでは(1)と(2)をとって、(3)を捨てることになると思います。
しかし、経済がかなり成熟し長期的に低迷している日本と、最近やや陰りが見えているとはいえ高度成長をひた走っている中国が同じ金融政策を取ることは可能なのでしょうか?
中国に限らず、インドネシアでもタイでもフィリピンでも、経済が成長する中でいかにインフレを抑えていくかということが今後の金融政策の課題になっていくでしょう。そんな国々とデフレに苦しむ日本が同じ金融政策を取るのは無理ですよね。以上。
と、これでレビューを終えてもいいのですが、この本の著者は中央大学経済学部の教授であり、当然ながら「国際金融のトリレンマ」もユーロの失敗も知っています。
そして経済発展の段階が違っても、労働力の移動や財政政策による好況の国から不況の国への所得の再分配が出来れば、アジア共通通貨の実現は可能だと言っています(132p)。
でも、冷静に考えれば考えるほどこれらのアジア共通通貨を実現するのは無理ですよね。
今の日本社会が、アジア共通通貨のために外国人労働者の無制限の受け入れや、アジアの途上国への所得の再分配を受け入れるとは到底思えません。
また、著者はユーロに関しては財政上の基準を満たしていなかったギリシャを参加させたことが失敗だったと述べていますが(138p)、財政上の基準を持ち だされたらまずはねられるのは日本ですよね。もしも財政上の基準を作ってそれを日本がクリアーしようとすれば、凄まじい緊縮財政をせざるを得なくなるはずです。
というわけで、アジア共通通貨の実現には、日本は金融引締めや緊縮財政による景気の悪化を受け入れ、さらには外国人労働者の受け入れという大きな社会変動を受け入れざるをえないでしょう。
個人的には、そこまでしてアジア共通通貨を目指す理由というのはさっぱりわかりません。
著者の理由付けとしては、「基軸通貨の特権を利用して放漫な経済運営を続けるアメリカはずるい」、「ドルはいずれきっと暴落する」、「人民元が国際通貨に なれば日本は二等国になってしまう」といったものがあるのですが、ドルが暴落するかどうかはわからないですし、アメリカがずるくても、人民元がアジアの基軸通貨になったとしても、日本がこれ以上のひどい不景気に襲われるよりもマシだと思うのですが...。
人民元は覇権を握るか - アジア共通通貨の現実性 (中公新書)
中條 誠一
412102219X
- 2013年06月05日23:06
- yamasitayu
- コメント:0
- トラックバック:0
記事検索
最新記事
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
人気記事
タグクラウド