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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2022年08月

同じ岩波新書から『李鴻章』『袁世凱』を刊行してる著者による評伝。この3人が揃ったことで清の衰退から清の滅亡までが3人の人物によって描かれた感じですね。
ただし、「あとがき」で一度は曾国藩の評伝の執筆依頼を断ったと書いてあるように、曾国藩という存在はなかなか厄介な存在です。個人的な道徳性は疑い得ないものの、その業績は清廉潔白とは言い難いですし、「督撫重権」と呼ばれる政治制度を生み出し、それが李鴻章らの洋務運動につながったものの、曾国藩自身は保守的という形で、本人のあり方とその歴史的な役割の間にはズレがあります。
ですから、著者の曾国藩を描く筆致も、李鴻章や袁世凱に比べるとキレが鈍る面もあるのですが、この曾国藩の抱える矛盾から、当時の清の行き詰まりが見えてくるところが本書の面白さなのだと思います。
人物の行動と社会構造を自由に行き来する叙述は司馬遼太郎っぽくもあり(「はじめに」で司馬遼太郎の黒田官兵衛評に触れている)、複雑な時代を扱いながらも読みやすいと思います。

目次は以下の通り。
はじめに
I 生い立ち
II 北京
III 湘軍
IV 長江
V 晩年
VI 柩を覆って
おわりに

曾国藩は1811年に湖南省の湘郷県に生まれています。
18世紀、ヨーロッパではイギリスとフランスが植民地などをめぐって争い、イギリスの覇権が確立していきましたが、イギリスが中国で大量の生糸や茶を買い付けたことによって中国に大量の銀が流れ込み、中国は未曾有の好景気となりました。
18世紀はヨーロッパでは戦争やフランス革命などによって多くの血が流れる一方、東アジアは「平和」な世紀であり、中国では人口が約1億から4億へと4倍に増えます。

人口の増加は人々を未開の地へと押し出しましたが、そこで新住民たちは助け合うために宗教などを軸にして秘密結社をつくりました。1796年から10年ほど続いた白蓮教徒の乱はこうした例で、中国では辺境の地を中心にいわゆる「匪賊」が跋扈する地になっていきます。
18世紀半ばの中国の地域別の人口増加率を見ると、大きく増えているのは四川、雲南、甘粛といった辺境の省、さらに華北よりも華中や華南での増加が目立ちますが、これは海外からの銀が広東を中心とする東南部に流れ込んだからです(12p表1参照)。
曾国藩が生まれた湖南省は、移民を送り出す側でもあり、また移民を受け入れる地域でもありました。また、それまで穀倉であった江南デルタが手工業地域となったことから、湖北・湖南が食糧の供給となっていました。
「浙江人は官となり」「広東人は銭を出す」に対して、「湖南人は命をなげうつ」という言葉がありますが、これは湖南省の後進性を示した言葉でもあります。共産党の毛沢東や劉少奇も湖南省の生まれです。

曾国藩は地主の家に生まれています。祖父の曾玉屛は、若い頃は放蕩児でしたが、35歳のときから農耕に打ち込んで開墾を進め、地主にまでなりました。
この土地を守るためにも一族から科挙の合格者を出すことが目指され、まずは曾国藩の父にあたる曾麟書が43歳にして科挙の予備試験にあたる童試に合格し、さらに期待は曾子城(のちの国藩)にかけられました。

子城は22歳にして童試に合格して父に並び、24歳にして郷試に合格し、進士を目指して北京で行われる会試にチャレンジし、2度失敗するものの3度目のチャレンジで合格します。さらに天子が主催する殿試に挑みますがそこでの成績が百名余が合格した中で42位でした。
取り立てて優れた順位ではありませんでしたが、その後の朝考で3位(さらに道光帝によって2位に引き上げられる)となり、翰林院庶吉士という超エリートの枠に入ったのです。このときに子城から国藩へと名前を変えています。

ただし、中国では官僚の正規の給与が低かったために中央の官僚よりも、附加税や賄賂を取るチャンスのある地方官のほうが収入が良いという面もありました。曾国藩も帰省したときのご祝儀などで荒稼ぎをしながら、同時に借金を重ねたりもしています。
思想面では宋学に傾倒し、日々の言動を記録し、厳しく反省する生活を実行していました。

「大考」という昇進試験でも第6位という好成績を収めた曾国藩は、道光帝から直々に翰林院侍講を拝命し、勅撰の典籍を編んだり、儀礼にあたっての詔勅などを起草する翰林院の助手的なメンバーとなります。
さらに地方に出向いて科挙の試験官など行い、ここで多くの収入を得るとともに人的なコネをつくっていきました。曾国藩自身も会試の試験官を務めた満州旗人の穆彰阿(ムジャンガ)の引き立てがあって出世ができたとも言われています。
また、李鴻章も科挙を通じて曾国藩と知り合い、その世話になっています。

道光帝が亡くなったときの合祀の問題に関して(道光帝は自ら治世に問題があったとして合祀を拒否していた)、次の皇帝である咸豊帝の信頼を得る献策を行います。
刑部侍郎(法務次官)を兼任するようになると、現在の国内の問題点をまとめた上奏を行っています。ここで曾国藩は、「銀貨」の騰貴、「盗賊」の猖獗、「冤罪」の頻発という3つの大きな問題をあげています。
アヘンなどによって銀が流出し、その価格が上がったことで納税が困難になっており、盗賊や匪賊によって治安が悪化、さらに訴訟機能が麻痺したことによって、当事者間の実力行使でしか問題が解決しない現状を指摘したものでした。
この指摘は的確だったものの、この時点では曾国藩は中央の人間でした。しかし、1852年に母が亡くなったことで曾国藩の運命は大きく転換します。

中華王朝の官僚は父母が亡くなると、27ヶ月間、職を辞して一切の公務にかかわらず故郷で喪に服すことになっていました。曾国藩も故郷の湖南に戻って喪に服すことになるのですが、すでにこの地域は太平天国の乱に巻き込まれていました。
1851年に広西省で武装蜂起した太平天国は、北上して湖南省に入り、さらに湖北を攻め、武昌を攻略し、長江を下って南京を占領します。そして、南京を拠点として再び、湖北や湖南に遠征軍を送ってきたのです。

1853年、故郷で喪に服していた曾国藩のもとに咸豊帝から匪賊に対応するように勅命が下ります。
曾国藩は太平天国に対抗するには地域の郷紳の協力が欠かせないと考え、彼らに団練を組織させて、太平天国に備えようとします。曾国藩はもはや庶民にとっては官軍も太平天国軍も同じであり、庶民と接点のある郷紳に期待します。そして、彼らに「不要銭、不怕死(金を求めず命をかける)」というスローガンの入った書翰を送り、彼らの協力を得ることに成功しました。

曾国藩は、まずは地域の治安維持を行い(多くの者を処刑するなど厳しいものだった)、団練の組織に着手します。
曾国藩は職業軍人を採用せずに、書生を軍の中心に据え、素性が明らかで質朴な農民を月額4両という破格の待遇で募集しました(当時は年25両で一家が暮らしていけた)。こうして1万近くの兵を集めて訓練し、さらに造船所を設けて水軍の整備を行います。
そして1854年2月に、ついに曾国藩の湘軍は儒教を守ることを掲げて出撃するのです。

しかし、初戦は曾国藩自身のまずい動きもあって敗北します。絶望した曾国藩は目前の湘江に飛び込み、周囲の者にあわてて引き上げられました。この後も、窮地に陥るたびに曾国藩は何度も自決を試みようとします。
ただし、別行動を行っていた水軍が太平軍に勝利します。さらに太平軍に奪還された武昌を再奪還し、湘軍は太平軍に対抗できる戦力として注目を集めます。
しかし、湖口で太平軍の歴戦の将軍であった石達開によって散々に打ち破られ、再び武昌は陥落します。湘軍は江西省の南昌で孤立しました。

絶体絶命の危機に陥った湘軍でしたが、貧しい土地柄の湖南出身者には困苦に耐えうる気質があり、また縁故関係で組み上げられた軍は崩壊しませんでした。軍資金に関しては「捐納(えんのう)」、「釐金(りきん)」という形で地域の富裕層などから集め、軍を維持しました。
1856年9月、思わぬ形で事態が好転します。太平天国内部で起こった天京事変によって、No2の楊秀清が粛清され、さらに石達開も出奔したのです。
湘軍はこの機に乗じて武昌を奪還し、九江の攻撃に取り掛かりますが、ここで曾国藩の父の曾麟書が亡くなります。曾国藩は軍務を離れ帰郷し、今度こそ27ヶ月間喪に服そうとします。
しかし、北京はこれを認めず、兵部侍郎代理に任じた上で九江を攻略した後に改めて休暇を認めるとの返答をよこしました。これに対して曾国藩はカチンときたようで、あくまでも孝をまっとうしたいと返事をするとともに、軍を率いるには現地の官を従わせるためには総督・巡撫の地位でなければ意味がないと述べました。
結局、曾国藩は戦線を離脱し、九江陥落後の1858年7月に1年4ヶ月ぶりに戦線に復帰することとなります。

ところが、ここから太平天国側が巻き返します。陳玉成と李秀成という2人の将軍によって湘軍は打ち破られ、曾国藩の弟の曾国華が戦死しました。戦線は再び膠着します。
1860年、太平天国軍は天京(南京)に対する包囲を突破すると、軍を東に向け長江デルタを目指します。今までは西に目が向いていた太平天国軍でしたが、中国でも最も富裕な地域に目を向けたのです。太平天国軍は蘇州を落とし、上海をうかがう形勢となりました。

ここで咸豊帝は曾国藩を江蘇・安徽・江西の3省を管轄する両江総督に任命します。総督の地位はかねてから曾国藩が望んだものであり、これを受けますが、安徽省にいた曾国藩が長江デルタに進出するのは困難なことでした。
それでも1861年9月に曾国藩の弟の曾国荃(こくせん)が陳玉成の軍が守る安慶を陥落させ、曾国藩はここに太平天国との戦いの本拠を据えることとします。

湘軍が頼みとする郷里周辺の人的資源も枯渇していたため、曾国藩は安徽出身の李鴻章に安徽省で新しい軍を編成させます。これが淮軍です。曾国藩はこの淮軍を上海防衛に回し、東西から太平天国を挟撃しようとしました。浙江を転戦していた左宗棠が杭州を奪い、いよいよ天京への包囲が完成します。
1864年、ついに曾国荃率いる湘軍が天京に突入し、太平天国は滅亡します。天京に突入した湘軍は1ヶ月にわたって掠奪・殺戮を行い、証拠を隠すために火を放ちましした。

こうして太平天国の乱は終息しますが、一節には7000万人が犠牲になったとも言われ、歴史上最悪の内戦となりました。
曾国藩はこの内戦を集結させた立役者となったわけですが、曾国荃が洪秀全の嗣子を取り逃がしていたことが発覚し、それをつくろうために李秀成の供述書を曾国藩が一部改竄したり、左宗棠との関係が悪化するなど、戦後処理はスムーズにはいきませんでした。

曾国藩は弟の曾国荃を故郷に帰すとともに湘軍の解散を決めます。これ以降、李鴻章の淮軍に後を任せる形になりました。
一方、南京の科挙の試験場を再建し、土地税の減税を行って地域の郷紳たちの期待に応えました。
また、戦費を賄った捐納・釐金のシステムを継続し、見返りに応分の権利を与えて優遇することで商人たちを取り込みました。こうした人々が総督・巡撫(督撫)のアドバイザーになり、この督撫が戦時の兵力と裁量を引き継いで、所轄地域を掌握する「督撫重権」の体制がつくられていくことになります。

北京では1861年に辛酉政変が起こり西太后が実権を掌握していましたが、南方については曾国藩に任せる姿勢を取りました。このころになると清朝の内部でも漢人を厚遇しなければやっていけないという声が出ており、曾国藩も一等侯爵の地位を授かります。
1865年、捻軍の反乱の討伐を命じられますが、これは曾国藩の軍事的才能の乏しさもあって失敗します。結局は李鴻章と交代し、李鴻章がこの反乱を鎮めました。
曾国藩は江南で「洋務」も進めますが、本質的には保守的で、より積極的に進めたのは李鴻章でした。

1868年、曾国藩は直隷総督に任命されます。地方大官としては序列第1位であり昇進ではありましたが、外国との交渉など、さまざまな厄介なことにも巻き込まれることになりました。
特に当時頻発していた教会襲撃事件は大きな問題でした。孤児が教会で死んでいるなどという噂が流れ、人々が教会を襲撃する事件が相次いだのです。
曾国藩が管轄していた江蘇省揚州で起きた襲撃事件(揚州教案)では、イギリスの軍艦が以降の前に曾国藩は譲歩に追い込まれましたし、天津でフランス人領事の行動に激昂した民衆によって領事が殺され、教会が襲撃された事件(天津教案)も曾国藩が対応せざる得ませんでした。

体調の優れなかった曾国藩ですが、自らフランスと交渉し、これをまとめます。ただし、清朝内部では、今まで郷紳が行っていた社会事業に教会が進出してくることへの反発もあり、教会襲撃事件に対しては同情的でした。また、外国への譲歩は民衆からの反発も呼びます。
曾国藩は、西洋の力という現実と攘夷を唱える人々の板挟みにあって大きく消耗し、両江総督の馬新貽が殺害されたこともあって両江総督に復帰します。代わって李鴻章が直隷総督、さらに外交なども担当する北洋大臣を兼任することとなりました。ここに督撫重権が完成します。

江南にもどった曾国藩は、アメリカに留学生を送ったり、日清修好条規の交渉において李鴻章をサポートしたりしましたが、1872年の3月に亡くなっています。

最後の「VI 柩を覆って」で書かれているように、曾国藩は周囲によってさまざまに語られ、期待を受けました。
李鴻章は、曾国藩を師として、また自身の正統性を担保するものとして顕彰しましたし、生前には曾国藩に南方での即位を求める声もありました。
梁啓超は曾国藩を「近年はおろか有史以来ほとんど見ない傑物である」(195p)と激賞し、蔣介石も『曾文正公全集』を読みふけり、その生活を模倣しようとしたと言われています。

一方、自らを太平天国になぞらえた孫文は曾国藩を敵視しましたし、「半植民地半封建」の中華民国を克服するとした共産党政権にいおいても曾国藩の評価は低く、「漢奸」とも呼ばれました。常に実態以上の毀誉褒貶を受けた人物と言えるのかもしれません。

このように曾国藩というのはなかなか評価が難しい人物なのですが、本書は、湘軍による太平天国の鎮圧、洋務運動など、曾国藩が本来ならば得意ではなかったことをやらざるを得なかった状況を説明しつつ、結果的に新しい体制(これも本人が望んだものとは言い難い)を切り開いたことを示しています。
清末の中国社会の状況を学べるとともに、自らは望まない形で「成功」してしまった人間の評伝としても面白いです。


「大東亜共栄圏」というと、日本が太平洋戦争の目的として持ち出してきたスローガンというイメージが強いかもしれませんが、同時に大東亜共栄圏は経済圏の構想でもありました。
本書では、この経済圏としての大東亜共栄圏に焦点を合わせながら、それがいかに構想され、挫折したのかということを見ていきます。総力戦を戦うために、日本はアジアに資源を求めましたが、なんとか辻褄が合ったはずの机上の計画は現実には上手くいかなかったのです。
また、この大東亜共栄圏の軌跡を通じて、アジアの各地域の指導者たちのしたたかさや、日本の統治機構の問題点などが見えてくるのも本書の面白いところです。

目次は以下の通り。
序章 総力戦と帝国日本―貧弱な資源と経済力のなかで
第1章 構想までの道程―アジア・太平洋戦争開戦まで
第2章 大東亜建設審議会―自給圏構想の立案
第3章 自給圏構想の始動―初期軍政から大東亜省設置へ
第4章 大東亜共同宣言と自主独立―戦局悪化の一九四三年
第5章 共栄圏運営の現実―期待のフィリピン、北支での挫折
第6章 帝国日本の瓦解―自給圏の終焉
終章 大東亜共栄圏とは何だったか

戦前の日本は中国政策などをめぐって英米と対立しつつ、経済的には英米に依存するという形になっていました。
第一次世界大戦後、日本は世界の「五大強国」と呼ばれるようになりましたが、例えば1925〜29年の鉄鋼の生産量は年平均で132万トンにすぎず、アメリカの3920万トン、ドイツの1160万トン、フランスの954万トン、イギリスの618万トンに比べて大きく劣っていました(7p)。
工作機械なども英米からの輸入に頼っていましたし、主要な輸出品であった綿製品も原料の棉花はアメリカ(63%)、英領インド(28%)からの輸入に頼っており、外債の消化も英米に依存していました。
ここから必然的に対英米協調の方針がとられることになるわけですが、それに不満を持つ軍部や右翼の中からがアジア・モンロー主義の考え方も生まれてきます。

満州事変でも、鞍山の鉄、撫順の石炭といった資源の獲得は重要視されていましたが、1935年に出された『満州国視察報告書』では、満州における資源の少なさや質の低さが問題視されており、華北への進出を求める声が出てきます。
この頃、昭和恐慌に対応するために高橋是清蔵相は金本位制から離脱し、円の価値を下落させて輸出を増やす政策をとり、成功していましたが、同時に日本がそれまで輸入していた重化学工業品は割高になりました。そこでこの国産化が急務になります。
1933年に日本製鉄会社法が成立し、翌年には日本製鉄が設立されます。同時に東南アジアからの鉄鉱石の輸入も増えていきます。1930年には英領マラヤからの輸入が中国を抜いて1位になりますが、それ以外にもフィリピンや仏印からの輸入が行われます。
石油はアメリカからの輸入に頼っていましたが、日本は蘭印をはじめとする各地で油田開発を行おうとします。
ボーキサイトについては、蘭印のビンダン島からの輸入が行われるようになり、日本のアルミニウムの生産は急増していきます。
このように日本は東南アジアからの資源の輸入を進めますが、これによって総力戦体制の確立には東南アジアの資源も必要だとの認識が強まっていきます。

1939年9月に第2次世界大戦が勃発すると、イギリスがポンドとドルの交換を停止したために、イギリス圏に輸出してポンドを獲得し、それをドルに交換してアメリカからの輸入を行っていた日本の決済構造が成り立たなくなります。
さらに40年にドイツが攻勢をかけてオランダを占領し、フランスを降伏させると、日本の中から蘭印や仏印に進出すべきだとの声が強まりました。
40年7月の「基本国策要綱」には「大東亜新秩序」の建設が盛り込まれ、松岡洋右外相はこの説明の中で「大東亜共栄圏」という言葉を用います。松岡は三国同盟で、このアジアにおける経済圏を独伊に認めさせ、世界の再分割を行うことを狙っていたのです。

1940年8月に日本政府は「南方経済施策要項」を閣議決定し、まずは各地域からの輸出保障をとりつけるとともに日本企業の進出を図るという二段構えの方策をとります。
40年9月13日から小林一三商工相らが蘭印で交渉を行いオランダ側もこれに積極的に応じますが、9月27日に日独伊三国同盟が締結されると蘭印の態度は冷淡になり、交渉は停滞しました。仏印との交渉も停滞し、日本は武力による威嚇によって経済圏を形成する方向に傾いていきます。

松岡洋右が閣外に去ると、アジアに日本の勢力圏を設定しようとした彼の構想は潰えます。大東亜共栄圏の構想が具体的に再起動するのは日本が対英米戦を開始し、東南アジア各地を占領してからでした。
日本軍はフィリピン、マレー半島、蘭印、ビルマといった地域を占領し、1942年2月には大東亜建設審議会の設置が決まります。開戦直後から政府は大東亜共栄圏の建設をスローガンとしてきましたが、その方針を決める審議会が設置されたのは開戦2ヶ月後でした。

経済以外にも、人口や民族、教育などについての部会も設置されましたが、42年5月に総会で決定された基本理念で「皇国の指導または統治の下、圏内各国および各民族をして各々その所を得しめ道義に立脚する新秩序を確立するを以て要となす」(53p)と謳われているように、基本的には日本を上位とする階層秩序が想定されていました。

また、長期的な経済圏の構想は、商工省と企画院の対立もあってまとまりませんでした。
企画院は、工業生産の増大とともに都市化が進行し日本人の出生率が低下することを心配していました。そのためには大陸への工業分散と都市化の抑制が必要だと考えており、大陸での重工業の開発配置を主張しました。
一方、商工省は国内での産業発展を重視し、産業統制の主導権を握ろうとしていました。商工省は大企業の経営者と連携し、産業統制における強い権限を保持しようとしました。

1942年時点で15年後の主要物資の生産目標も立てられましたが、鋼材3000万トン(41年の実績(以下同じ)470万1千トン)、銅60万(7万9千トン)、アルミニウム80万トン(7万2千トン)、天然石油2000万キロリットル(32万7千キロリットル)と実績から見てかなり過大な数字でした(69p2−3参照)。
農業分野においては、仏印を組み込んだことで輸送を抜きにすればコメの自給は可能になりましたが、小麦と棉花は不足しました。特に棉花は需要2000万坦(1坦約60キロ)に対して生産量は500万坦で大幅な不足でした。
一方、これまで欧米に輸出をしていた砂糖やゴムはその販路を失い、余ることが予想されました。
棉花の産地として期待されるのは北支ですが、ここは不足する小麦の産地でもあったために、フィリピンなどで砂糖から棉花への転作が計画されます。

軍部も占領地での重要資源の確保を優先していましたが、占領地から物資を日本に送れば現地の物資が不足する恐れもあります。しかし、これについては我慢させ日本軍への信頼を助長するという両立困難な方針が掲げられていました。
このため政府・大本営、現地軍の間では形式的な独立付与を早期に行おうという動きが出てきます。民族主義の高揚を独立付与によって抑え込もうというのです。
一方、東南アジア占領地全体を管轄する南方軍は独立を抑制して、軍政の施行を主張します。

そのために、まずは旧統治機構を利用した統治が行われます。
フィリピンは1934年の段階で46年に完全独立することが決まっており、植民地エリートによる自治政府がつくられてましたが、日本も植民地エリートを使って統治を行いました。
ビルマではイギリス人総督のもと、植民地議会がありビルマ人の首相がいましたが、日本はこの自治政府と反英運動を利用しながら統治を進めようとします。

蘭印では、中央行政機構や企業の主要な役職をオランダ人をはじめとする白人が握っていました。占領当初は、企業や農園の責任者、あるいは治安維持のための警察官として残されていたオランダ人もいましたが、これには批判もあり、次第に日本人やインドネシア人に置き換えるとともに、オランダ人を収容所に収容していきます。そして、この収容所で多くの人が亡くなりました。
マラヤ・シンガポールでは日本軍は華僑を警戒し、シンガポールでは華僑を虐殺しました。一方、マレー人は無気力と見ていましたが、親日的な者を下級官吏や警察官に登用していきます。

企業の進出は一地点一企業の原則のもとで進みます。また、同種資源を2つ以上の企業で担当させるようにし、開戦前から東南アジアに進出していた企業が選定されたこともあり、財閥系の企業が中心となりました。
石油に関してはスマトラ南部の油田を軽微な損傷で獲得できたことから想定よりも速いペースで内地に輸送できましたが、フィリピンのマンカヤン銅山など徹底的に破壊されていたものもあり、順調に確保できなかった資源もあります。

1942年末、日本は中国の汪兆銘政権に対して権限の多くを委譲する対支新政策を実施し、43年1月に汪兆銘政権は英米に宣戦布告をします。
この動きの裏には重光葵駐華大使のはたらきかけがありました。重光は戦争の遂行には中国の自発的協力を引き出すことが重要だと考え、また、蔣介石との和平や対英米和平のためにも中国との関係を考え直すことが必要だと考えていました。
これに昭和天皇が強い関心を示したこと、ガダルカナルで苦戦し中国戦線の兵力を南方に振り向ける必要が出てきたことなどから、対支新政策が動き出します。
さらに、フィリピン、インドネシア、ビルマの独立も検討され、フィリピンとビルマの独立を認めることが決まります。

1943年4月に外相に就任した重光は、対等の立場の日華同盟条約を結び、これをアジア各国との関係にも反映させようとします。重光は連合国の大西洋憲章を意識しており、日本側の公正な戦争目的を示すことが必要だと考えていました。
東条英機も天皇がこの政策を支持していたために前向きでしたが、一方で「「ビルマ」国は子供というよりむしろ嬰児なり」(134p)と述べているように、アジア諸国に対する態度は家父長的なものでした。

1943年6月に東条は帝国議会で「大東亜宣言」と呼ばれる演説を行います。
これに対して、在満朝鮮人から「南方未開の原住民に独立を与える以上当然我らにも同様の名誉を与えよ」(140p)といった声が上がります。これは日本政府も想定していましたが、朝鮮や台湾では同化政策の徹底によりこれを乗り切ろうとしました。

1943年11月には大東亜会議が開催されます。そこでその場で発表される宣言として「大東亜宣言」の文案が練られますが、できるだけ自主独立を盛り込もうとする重光と資源の確保を目指す軍部の間で駆け引きがありました。
会議では各国の代表が集まりましたが、タイのピブーン首相が参加せず、フィリピンのラウレル大統領は演説分の事前提出を拒み、演説に「自主自立」の語句を盛り込むなど、抵抗を見せました。

経済圏としての大東亜共栄圏は、やはり想定通りにはいきませんでした。
棉花は中国と南方での増産が期待されましたが、フィリピンでは現地の地主や農民が棉作に関心を示さず、さらに北支から導入した品種が気候風土に合わなかったことや虫害などでうまくいきませんでした。
鉱山の復旧も、フィリピンでは抗日ゲリラの襲撃もあってうまく進まず、ビルマでは坑内労働を担っていた中国人が日本軍の侵攻によって逃亡したことで労働力不足に見舞われました。

そして1943年頃から大きな問題になったのが輸送力の激減です。
開戦時、日本が所有している船舶は約637万トンで、企画院は民需用の物資輸送船が常時最低300万トンあれば日本経済の維持に必要な物資の輸送は可能だと考えていました。このため、軍が徴傭する船は300万トン以下に抑える必要がありました。
開戦当初は作戦域が広かったものもあり徴傭船は300万トンを超えましたが、戦況が落ち着けば徴傭は解除されると考えられていました。
ところが、海軍が南太平洋に戦線を拡大したこともあって徴傭の解除は進みませんでした。42年8月から始まったガダルカナルの戦いでは船舶の損失も大きく、船舶の徴傭をめぐって参謀本部の田中新一が東条を「バカヤロー」と罵倒する事件も起こります。
結局、民需用の物資輸送船は43年3月の段階で約160万トンまで減少し、生産計画の達成は難しくなり、さらに各地で自給的な経済圏をつくることが目指されるようになります。
輸送力が低下する中で、物資供給の中核は中国や満州に置かれるようになり、南方からは重要物資のみに絞られます。
ただし、北支で問題になったのが食糧不足と労働力不足です。もともと北支は食糧が不足しがちで、カナダやオーストラリアから小麦を輸入していましたが、これが途絶えます。また、棉作の拡大も食糧不足に拍車をかけました。
そこで注目されたのが満州です。満州の農業生産は1938年を頂点に42年まで下降をたどりましたが、43年以降生産量は増加していきます。こうしたこともあって日本からの開拓団の送り出しも続きました。

戦況が悪化すると、アジア諸国の指導者たちも日本に背を向け始めます。
フィリピンでは憲法をめぐって日本の軍部とラウレル大統領やベニグノ・アキノが対立し、日本が譲歩しますが、それでもフィリピン側はフィリピンの参戦を見送り続け、実際に参戦したのは米軍がマニラ攻撃を始めた1944年9月でした。ビルマでも通貨の発行や敵の資産をめぐって日本が譲歩を強いられています。
インドネシアでは食糧や労働力が集められますが、しかし、食糧不足などもあって労働者の待遇は悪く、「ロームシャ」という言葉がインドネシア語の中に定着していきます。日本は労働者確保のためにスカルノなどの民族主義者の協力を仰ぎ、将来的な独立を認める方針に転換していきます。

1944年になると輸送力はさらに低下し、南方と日満支は分断されました。そのためにそれぞれの地域での自活自戦体制の構築が目指されます。
しかし、この南方の切り離しで東南アジア経済は崩壊します。東南アジアの輸出作物は輸出の行き場を失い、今まで輸入していたものの価格は高騰しました。ビルマではインド人労働者がいなくなったことでコメの生産が減少するなど、自給自足体制は経済の収縮とインフレをもたらしました。220−221pの6−3の表を見ると、日本や満州に比べて東南アジアと中国でのインフレのすさまじさが目に付きます。
こうなると抗日運動もさかんになり、ビルマではアウンサンが抗日蜂起に踏み切るなど、日本を見限る動きも出てきます。そして、大東亜共栄圏は崩壊するのです。

このように、本書は大東亜共栄圏構想の始まりから崩壊までを、主に経済に着目しながら描いています。
太平洋戦争の展望がドイツがイギリスを屈服させるといった希望的観測に満ちていたことはよく知られていますが、大東亜共栄圏もそうだったことがわかりますし、計画の無理な部分も見えてきます。
また、終章でも改めて指摘されているように、統制経済を志向しながらも日本の統治機構は分権的であり、大東亜共栄圏での自給自足を目指しながらも、海軍の攻勢主義を止められなかったのも大きな問題です。
こうしたさまざまな問題が見えてくるのも本書の魅力の1つです。


本書の帯には「自民党はなぜ勝ち続けるのか?」とあります。
確かに2012年の衆議院選挙で自民党が民主党から政権を奪還して以来、選挙をすれば自民党が手堅く勝つ状態が続いている一方、野党はバラバラで、近いうちに政権交代が起きる可能性は低いと言わざるをえません。
本書は、朝日新聞の政治部の記者によるものですが、この自民党の強さを、地方政治とそこで活動する地方議員のあり方を中心に探っています。自民党の強さの秘密は、デオロギーや組織力などではなく、「一番強いやつが自民党」という日本の地方政治のあり方にあるというのです。
前半を中心にややとっちらかっている部分もあるのですが、自民党や日本の地方政治を考える上で多くの面白い視点が盛り込まれた本です。

目次は以下の通り。
序章 「一番強いやつが自民党」
第1章 自民党の地方議員たち
第2章 大都市部の地方議員たち
第3章 地域の実情―勝ち上がれば自民入り
第4章 国会議員と「どぶ板戦」
第5章 連立を組む公明党の戦略
第6章 中枢を歩みながら自民党と対峙した小沢一郎
第7章 野党は何をしているか

まず、序章に出てくる「一番強いやつが自民党」という言葉ですが、これは福岡県議会の自民党の重鎮である藏内勇夫の言葉です。
藏内は、初当選時の県知事が社会党系だったこともあって当初は自民党と対立していましたが、「いつか自民党を牛耳る」との思いをいだき、その後自民党入りして福岡自民の県連会長に上り詰めます。思想的な立場云々ではなく、まさに一番強かったから自民党のトップに立ったというような人物です。

2021年末時点で、自民党に所属する当道府県議は1261人、市区町村議は2177人ですが、地方議員、特に市区町村議の中には自民党員でありながら無所属を標榜する保守系無所属がたくさんいます。
無所属の市区町村議は2万人ほどいると言われますが、そのうち半分が自民党員ではないかと言われています。

第2次安倍政権のもとで自民党はイデオロギー色を強めたと言われますが、地方に目を転じると、そこにはイデオロギーでは区分けできない濃厚な人間関係があります。
例えば、本書でとり上げられている宮城県大崎市の市議である門間忠は、長年、三塚博を応援していましたが自民党員ではありませんでした。「系列であれば、自民党員である必要はないんだよ」(37p)とのことでしたが、2014年に後輩に頼まれて自民党に入党しています。
こうした地方議員の多くが中選挙区時代を懐かしんでおり、中央からやってくる落下傘候補を嫌がっています。門間氏も2014年の衆院選では「安住君は自民党みたいなもんだ」(40p)と立民の安住淳に投票しており、イデオロギーよりも人間関係という面が色濃いです。
お隣の宮城4区でも、自民公認の伊藤信太郎が2009年の衆院選をのぞいて勝ち続けているわけですが、「地元を重視していない」と地方議員からの評判はよろしくなく、中選挙区制であれば別の人物を無所属で担いだのに、といった声も聞かれます。

一方、都市部では自民党からの公認をもらって選挙戦に臨む市議が多いです。2019年の横浜市議会議員選挙でも当選者86名のうち自民党が33名です。
都市部になればなるほど地区の有権者をすべて把握するといったことは不可能になり、党という看板がないと「この人は誰?」となってしまうからです。また、都市部のほうが市議の報酬も高いため(横浜市議は月95万3千円)、専業議員の割合も高いです。

本書で紹介されている横浜市議の横山正人は、大学生時代から自民党学生部に所属し、2009年に横浜市に「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した教科書を採択させることに尽力したというイデオロギー色の強い人物ですが、彼は「全体をまとめること」に重きを置く保守系無所属のやり方に違和感を持っています。
一方で、共産党からも賛成を受けて市議会の議長になったことを誇る面もあり、やはり地方政治がイデオロギーのみで動いていないことをうかがわせます。

現在、自民党は保守系無所属の議員に「自民党」の看板をつけて立候補させようとしていますが、本部も自民党公認の地方議員が正確に何人いるのか把握していないなど、いい加減さは残っています。
都道府県議選や、一般市区町村の市長選、市町村議選の公認権は都道府県連の会長が握っており、「地方のことは地方が決める」という風潮が強いのも自民党の特徴です。
公明党や共産党と違って自民党はボトムアップの組織であり、地元の「強いやつ」を飲み込みながら成長してきた政党です。
例えば、本書の第3章で紹介されている宮城県南三陸町の髙橋長偉(ちょうい)県議は、もとは地域の県議の後援会長を務めていましたが、その県議への不満から「反現職」の候補として担がれて1991年に当選しています。相手は自民党現職だったわけですが、髙橋は当選すると自民党入りしています。人望の厚かった髙橋のもとには髙橋チルドレンとも呼ばれる町議がいましたが、彼らも自民党に入っています。
このように地元の名士が勝ち上がって自民党入りするというのは各地で見られるパターンで、人的ネットワークを取り込みながら自民党が地方に根を張っていることがわかります。

また、九州のベテラン県議が「自治労OBは引退後、地元で町内活動を始めると、自民党支持になることが多い」(118p)と述べるように、かつての「敵」も地域の活動などを通じて取り込んでいます。
町内会の活動は農家や自営業者が中心になることは多いですが、そうした人々は組織の動かし方に不慣れなために自治労のOBなどが重宝されることが多いそうです。そして、そこで自然と自民党とのつながりができていくことになります。
ちなみにこの第3章の最後には、公共施設の破損等を役所にLINEなどで通報するシステムに対して、自民党のベテラン地方議員が「地方議員の中抜きだ」(124p)と警戒するシーンが出てきますが、このあたりも興味深いですね。

自民党の国会議員には、初当選から一貫して自民の「一貫型」、自民党で初当選して、一旦離党したが、復党した「出戻り型」、他の政党公認もしくは無所属で初当選したが、その後自民党入りした「流入型」の3つのタイプがあるといいます。
22年4月の時点で、自民の衆参国会議員374人のうち、一貫型が323人(86%)、出戻り型が15人(4%)、流入型が36人(10%)となっていて、一貫型が圧倒的に多いのですが、自民党の役員などをみるとちょっと様相が違ってきます。

例えば、22年4月当時の幹事長の茂木敏充は最初は日本新党から当選した流入型、政調会長の高市早苗は無所属→自由党(柿澤弘治らと結成)→新進党→自民党という流入型、選挙対策委員長の遠藤利明は自民党の県議→日本新党推薦の無所属で衆院選に当選→自民党という流入型です。
二階俊博と石破茂は出戻り型で、野田聖子や森山裕なども郵政民営化問題で一度離党した出戻り型になります。また、近年では細野豪志や長島昭久など旧民主党系の議員が自民入りするケースも見られます。
これらの議員は選挙に強いのが特徴で、強者を引き込む自民党という特徴がよく現れていると言えるかもしれません。

また、こうした風潮に拍車をかけたのが「二階方式」とも言われる、保守が分裂した際に、勝った方に追加公認を出すやり方で、「勝てば官軍」ならぬ「勝てば自民党」という形をつくり上げました。

22年の参院選で宮城県選挙区で当選した桜井充は、もとは民主党の公認を受けた議員で、定数是正を受けて改選数が1となった16年の参院選では共産党を含めた野党統一候補として自民現職との激戦を制しています。
ところが、その桜井は、野党では仕事ができないと、19年に国民民主党を離党し、20年に自民党入りしました。当然、地元の支持者、そして宮城の自民の関係者から反発が出ますが、茂木幹事長は「選挙で勝てる」という理由で桜井の公認を押し切っています。

このように自民と民主の二大政党制という形は失われようとしているのですが、例外的に二大政党制的な状況になっているのが大阪です。
橋下徹府知事の掲げた「都構想」をめぐって大阪の自民が分裂して以来、分裂先の維新が優勢な状況が続いています。維新の議員ももとは自民といった者が多く、どぶ板もこなしますし、府知事と大阪市長を押さえていることで行政とのパイプもアピールできます。
ここも最後の「菅さんは総裁選で安倍さんが負ければ、自民を離党し、維新入りしていたはずだ」(170p)という横浜市議の言葉が興味深いですね。

第5章では連立のパートナーである公明党をとり上げています。
田中角栄は公明党について「実体はどうか。自民党ですよ」(181p)として自民もできない選挙運動をする公明党を警戒していました。公明党の漆原良夫も「政策からみれば、公明党は民主党と近い。だけれども、体質は自民党と似ている」(183p)と述べています。
以前は、他宗教に対して排他的であった創価学会ですが、自公連立などを受けて、町内会などにも溶け込むようになっており、保守票の開拓にも力を入れています。
創価学会の信者は地域での活動にも熱心で、空洞化が進む町内会などでも貴重な戦力になっています。引き受け手の少なくなった民生委員などに創価学会員が推薦されることも多く、今まで自民が根を張っていた地域に公明党も進出している状況だといいます。

第6章は小沢一郎へのインタビュー。実は著者は2010年1月から1年8ヶ月にわたって小沢一郎の番記者だったのですが、そのときはほとんど口を聞いてくれなかったそうです。
ご存知のように小沢一郎は2度にわたって自民党を下野へと追い込んだ立役者ですが、彼が2006年に民主党の代表になると、まず力を入れたのが連合との関係づくりだったそうです。
小沢は連合の幹部と地方を回り、地方の労組の人々にお酌をし、一緒に写真を撮ったといいます。こうして組織を固めていったことが後の政権交代にもつながっていきます。

ただし、政権交代後に小沢が進めた陳情の幹事長室への一元化は大きな不満を呼び起こしました。小沢の狙いとしては、陳情を一元化することによって、野党に転落した自民党の力をさらに削ぎ、自治体や業界団体と民主党議員のパイプを太くすることがあったと思われますが、場合によっては市長が民主党の市議に陳情することもあり、これは地方の首長のプライドを大きく傷つけました。
自民党と違って小沢はシステマティックな組織をつくろうとしたのかもしれませんが、それは地方の政治風土と合ったものではありませんでした。

2021年の衆院選において、小沢はついに小選挙区で落選します。支持者の高齢化などさまざまな要因がありますが、著者はここに93年の自民党分裂のエネルギーが消失しつつある状況を見出します。
93・94年の2年間に自民党から88人の議員が離党し、彼らが政権交代の中心になりましたが(小沢以外にも鳩山由紀夫や岡田克也もそう)、22年現在、野党で残っているのは88人のうち小沢と岡田の2人だけです(二階俊博や石破茂は自民党に戻っていった)。
野党の中に自民出身者が多かったことが、保守的な人々の間にも政権を任せることの安心感を生んでいましたが、もはや今の野党にそういった安心感はないのです。

最後の第7章では、各地で自民党と戦っている野党議員の姿を紹介しています。
まず、立憲民主党の政調会長になった小川淳也ですが、彼はイギリスで勤務していた時に知った言葉である「保守政権は天然物で、非保守政権は人工物だ」(230p)を使って、「天然物」である自民党に対抗する難しさを述べています。
大選挙区制がとられる日本の地方政治はまさに「天然物」の世界であり、ここの上に「人工物」である野党政権をつくるのは難しいのです。
自民党のスタッフも「民主党が自民党との二大政党制を本気で確立するつもりがあったならば、政権を持っている時に、最低でも都道府県議選は小選挙区制に変えておけば良かったのだ」(235p)と指摘してます。

野党系の議員でも選挙に勝ち上がっているのは、節操なく選挙運動のできる候補で、例えば、安住淳は選挙区の区割りが変更になると新たに地元になった自民党の地方議員にも電話をかけて直接挨拶をしようとするなど、アグレッシブな選挙活動を続けています。

鹿児島3区から当選した立憲民主党の野間健は、常に「野間たけし」と書いた巨大な名札をつけ、「日本一の御用聞き」と名乗って地元を回っています。野党にいるために大規模な公共事業を動かしたりはできませんが、道路や河川の修繕など小さな案件をひたすら拾うことで地元の人々からの信頼を得ています。
そして、市議選でも町議選でもすべての候補にため書きを送るといいます。ただし、巨大な名札にも名刺にもため書きにも、「立憲民主党」の文字はありません。

09年に民主党から初当選し、21年の衆院選では無所属から当選を決めた茨城1区の福島伸享も徹底的などぶ板を信条にしています。とにかく集落に行ったら全部の家を回るそうです。自民党の国会議員でもしないことをすることで、地方政治では自民が圧倒的に強い地域の中でも、存在感を示すことができるのです。
その福島はこんな事も言っています。「例えば、医師会と経団連が同じ党を支持するなんて、本来はあり得ない。医師会は配分を重視し、等しく医療を供給しましょうと。経団連はなるべく経済効率を上げましょうと。その2つが同じ党を支持することはないはずだ。もし、自民党一党による利権配分のシステムが崩れていけば、医師会はリベラルな政党を支持するようになり、経団連は保守的な政党を支持しようとなったはず」(275p)
あまりにも長く続いた政権の中で、すべての利権や団体が自民党につながってしまっている。その中で野党議員として活動することの難しさを感じさせる言葉です。

このように本書を読むと、地方政治における「自民一強」の状態が自民党の強さにつながっていることがわかると思います。
地方の、人間関係がものをいう政治や、人間関係によって票を集める中選挙区制において、ときに無節操に人間関係を取り込んでいく自民党のスタイルが強さを発揮しており、野党に付け入る隙を与えていないのです。
著者は最後に2012年初当選の安倍チルドレンが当選5〜6回を迎える2020年代後半に自民は分裂の火種を抱えることになるのでは? と書いていますが、確かに地方の足腰という点からすると「一強ゆえの自壊」を期待するしかないと思わせますね。


「〜とは何か」というのは新書にはよくあるタイトルですが、「マスメディアとは何か」というのは、なかなか大変なテーマだと思います。
その歴史を語って「何か」に答えるという方法をとれる分野もあるでしょうが、「マスメディアとは何か」と言えば、当然ながらその影響力の有無が知りたいところですし、さらに「インターネット時代におけるマスメディア」という近年になって浮上してきた問いにも答える必要があるからです。

ところが、本書はそうした要求に見事に応えています。
多くの人が知りたいであろう「マスメディアの影響力」について、さまざまな研究を紹介しながら検証し、さらにインターネットについても、今までの研究、そして著者らが行った研究も踏まえて、その影響を分析しています。
「メディアについて何か言いたいなら、まずはこの1冊から」という内容です。

目次は以下の通り。
第1章 マスメディアは「魔法の弾丸」か―強力効果論とその限界
第2章 マスメディアは人々に影響を与えない?―限定効果論の登場
第3章 社会に広がる「2つのバイアス」―第三者効果と敵対的メディア認知
第4章 「現実認識」を作り出すマスメディア―「新しい強力効果論」の出現
第5章 マスメディアとしてのインターネット―「選好にもとづく強化」と注意経済
第6章 メディアの未来、社会の未来―「健全な民主主義」のための役割

本書はまず、マスメディアが人々に強い影響力を持つという強力効果論の検討から入っています。
マスメディアの強力な効果を示すものとしてよく例に出されるのがナチスの宣伝です。ナチスはラジオという新しいメディアを使って人々を動かしたとされています。
ただし、高田博行『ヒトラー演説』(中公新書)によればヒトラーのラジオにおける演説は冴えないものだったといいますし、「ナチスのプロパガンダが強力だった」ということは、人々に「騙された」という言い訳を可能にすることにもつながりました。

もう1つ、マスメディアの力を示す古典的なエピソードとしてはラジオドラマ『宇宙戦争』があります。オーソン・ウェルズのラジオドラマを実際の出来事と勘違いしてパニックに陥った人がいたという内容で知られていますが、この事件がよく知られているのはキャントリル『火星からの侵入』という本事件を扱った学術書が刊行されたからです。
本書において実際にパニックに陥った人が紹介されたために、本書はマスメディアの強力効果を示すものとして捉えられがちですが、同時にラジオの内容を信じてしまった人の特徴と要因を明らかにしています。

1940年代以降になると、「マスメディアの影響力は限定的である」という「限定効果論」が登場します。
このきっかけとなったのが社会学者ラザースフェルドらが行ったエリー調査です。これは1940年のアメリカ大統領線についてオハイオ州エリー郡で行われたもので、パネル調査と言って同一人物を対象に5〜11月にかけて7回もの面接調査を繰り返したものでした。この調査結果は『ピープルズ・チョイス』という本にまとめられています。

この調査が明らかにしたことは、「いかに人々の投票先が変容しにくいか、マスメディアの影響力よりも周囲の他者からの対人的な影響力がいかに強いかという事実」(35p)でした。
まず、宗教、社会経済的地位、居住地域の3つの指標を見れば最終的な投票先はかなりの部分で予測可能です。農村部に住む豊かなプロテスタントなら共和党といった具合です。人々は自らが属する集団(準拠集団)の一員としてふさわしい行動をしがちなのです。
こうなると、メディアの影響は限られてきます。調査中に投票先を変えたのはわずか12%であり、その12%の6割は「貧しい(→民主党支持)プロテスタント(→共和党支持)」といった交差圧力が働いている状態でした。

また、選挙に関心が低い人ほど選挙のプロパガンダに対する接触率は低く、基本的には自分の陣営のプロパガンダに接触する傾向が高いために、「政治に関心のない人をプロパカンダで動かす」といったことはできにくくなっています。
このようにエリー調査ではマスメディアの影響力を確かめることはできませんでしたが、この調査の中から生まれたのが「「コミュニケーションの二段の流れ」という仮説です。
選挙期間中に意見を変えた人を見ていくと、その影響源はマスメディアではなく彼らの所属集団内で行われる対人コミュニケーションでした。このコミュニケーションの中には「オピニオンリーダー」と呼ばれる人たちが存在し、彼らは他の人々よりもマスメディアへの接触率が高く、そしてそこからえた情報をもとに他の人々に影響を与えていたのです。

こうした調査の結果、マスメディアと人々の間にはいくつかのフィルターがあることがわかってきました。
まず、人々は自らの嗜好に合う情報に接触し、合わないものは避けます。これを「選択的接触」といいます。
この「選択的接触」について、社会心理学者のフェスティンガーが「認知的不協和理論」によってその理論的背景を与えています。
人間は矛盾する意見・信念・知識などを抱えていると不快を感じます。そこでできるだけ自分の意見や信念と矛盾するような情報は摂取しないようにします。例えば、喫煙者は「タバコは体に悪い」という情報を避け、「禁煙のストレスが病気の原因になる」という情報に喜んで飛びつきます。ただし、否定しきれなくなると「転向」が起きるのです。フェスティンガーはこれをさまざまな調査や実験で検証しました。

さらに1960年に社会学者のグラッパ―が『マス・コミュニケーションの効果』を出版したことによって、その他のフィルターについてもまとめられ、いわゆる「限定効果論」として知られるようになります。
これまでに行われてきたさまざまな研究を調べたクラッパーは、マスコミが人々に直接に影響を与えるのではなく、いくつかの「媒介的諸要因」を通じて、もともと人々が持つ意見や行動を補強する面で特に効果を持つことを指摘しました。
この「媒介的諸要因」には1先有傾向およびそれと関連した過程、2所属集団とその規範、3個人間での伝播、4オピニオンリーダーのリーダーシップの行使、5自由企業社会におけるマスメディアの性質の5つがあるといいます。
1については選択的接触だけでなく、政府のスキャダルについての報道を見て「マスコミはいつも政権批判ばかり」と政府支持の自分の認識に合うように記事を受け取る選択的知覚なども含まれます。5のマスメディアの性質とは、マスメディアも企業である限り人々の価値観に沿った報道を求められるというものです。
5は長期に影響に関するものですが、基本的には1〜4の要因があるためにマスメディアが人々に直接影響を与えることは難しいのです。

ただし、これらの「媒介的諸要因」が無効であるような状況であれば、マスコミが人々の意見や行動を変化させる可能性があるということでもあります。

『マス・コミュニケーションの効果』の出版後、限定効果論はいくつかの批判や修正を受けながらも広まっていきます。
しかし、それにもかかわらずマスメディアの影響力を問題視する声はやみませんでした。これは一体なぜなのか? というのが第3章と第4章の議論です。

第3章でまずとり上げられているのが「第三者効果」です。これは、マスメディアは自分には大して影響を与えていないけど、他人には大きな影響を与えていると考えるものです。
アメリカのデヴィソンによって提唱され、その後、さまざまな場で確認されてきた現象ですが、この第三者効果はメディア規制を求める声の根強さを説明することにも使えます。凶悪事件が起こると暴力描写などの規制を求める声が上がりますが、この背景には今までそういったものを見てきた自分は影響を受けないけど、他人は影響を受けるだろうというスタンスがあります。
このバイアスが行き過ぎると、「自分は正しいが相手はメディアに騙されているだけ」となり、議論が成り立たなくなってしまう可能性もあります。

次に紹介されているのが「敵対的メディア認知」というものです。よく「メディアは偏っている!」と批判されますが、これは中立的なメディアが右寄りの人から「左!」、左寄りの人から「右!」と認識されているだけかもしれないというものです。
この敵対的メディア認知について明らかにしたのが、ヴァローネ、ロス、レパ―という3人の心理学者です。彼らは、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻時に起こったサブラ・シャティーラの虐殺を扱ったニュースを親アラブ派、親イスラエル派、中立派の学生に見せました。そうすると同じニュースにも関わらず、親アラブ派は「親イスラエルに偏向」、親イスラエル派は「親アラブ派に偏向」と判断する傾向があったのです。

この敵対的メディア認知は、遺伝子組み換え食品問題、地球環境問題、選挙キャンペーンなどでも確認されてます。
なお、同じ内容を、新聞記事、学生の小論文(わざとタイプミスなどを紛れ込ませてある)と紹介して読ませると、学生の小論文においては敵対的メディア認知が起こりにくいという研究もあります。メディアの影響力を認識していることが敵対的メディア認知の条件になっていると考えられます。

では、実際にメディアは偏向しているのでしょうか?
日本では放送法によってテレビ・ラジオについて政治的に公平であることが求められています。また、有権者のイデオロギー分布を見ても中間の立場の人が多いために、より多くの人に見てもらうためにはイデオロギー的に中立な立場をとったほうが有利です。
もちろん、個々の問題について偏る可能性はありますが、大手メディアが長期にわたって偏り続ければ読者や視聴者を失うことにつながります。

第4章でとり上げられている「新しい強力効果論」は、いくつかの面でのマスメディアの影響力の強さを指摘したものです。本書では「議題設定」、「プライミング効果」、「フレーミング効果」の3つがとり上げられています。

まずは「議題設定」の問題です。現在、人々は世の中の動きの多くをマスメディアから得ています。例えば、ロシアのウクライナ侵攻も日本人の多くがマスメディアを通して知ったはずです。
つまり私達が得ている情報はマスメディアが報じる価値があると判断したものであり、マスメディアは情報の「ゲートギーピング機能」を果たしています。
ここからマスメディアは「どう考えるべきか」について影響は与えられなくても、「何について考えるべきか」については影響を与えることができるという考えが浮上します。
マコームズとショーは1968年の大統領選挙を対象とした調査で、有権者が重要だと思う争点がマスメディアで多くとり上げられているものと一致することを確認しました。さらにアイエンガーとキンターは被験者に特定の争点についての編集を行ったニュースのビデオを見せるという実験を行い、その争点が重要だと思うようになる傾向があることを示しました。

アイエンガーとキンターは「プライミング効果」という考えも打ち出しています。これはある争点報道に接することで、政治的リーダーの評価を行う際にその評価軸が変わってくるというものです。例えば、外交のニュースを見た後では外交の得意な政治家への評価が高まりやすくなります。

「フレーミング効果」はトヴァスキーとカーネマンによって明らかにされた現象で、同じ確率の事象でもそれがポジティブな形で打ち出されると選択されやすくなるというものです。
アイエンガーは、ここから報道における「エピソード型フレーム」と「テーマ型フレーム」に注目しました。前者は特定の出来事や人物に焦点を当てるもので(例えば、「ネットカフェ難民のAさんに密着!」)、後者は問題を一般化、抽象化して描くものです(例えば、統計グラフを解説する)。
一般的にエピソード型フレームの方が視聴者に興味をもってもらいやすいですし、興味深い対象を見つければ成立します。そこでニュース制作者にはエピソード型フレームを選択するインセンティブがはたらきやすいのですが、こうしたニュースを見た人は貧困などについて個人の責任だと考えやすくなります。

また、テレビは何となく見るメディアであり、個々の番組というよりも長期的な視聴が何らかの影響を与えるのかもしれません。この長期的影響をとり上げるのがガーブナーとグロスの「培養理論」です。
テレビ番組において現実世界よりも頻出するのが暴力です。1967〜75年のアメリカ3大ネットワークの平日夜と週末昼のドラマ番組を分析した所、約8割の番組に暴力シーンがあり、登場人物の約6割が暴力に関与していました。この時期、人々が1週間に暴力に巻き込まれる可能性は1%以下だったにもかかわらずです。
テレビの視聴が1日2時間以下と4時間以上の人を比べると。4時間以上の人のほうが暴力に巻き込まれる可能性を高く見積もっており、他人を用心すべきと考えており、またイデオロギー的には中立的になりやすいとの分析が示されています。
このようにマスメディアは一種の環境を提供しており、私たちの認識を歪めている可能性もあります。そんな中で受動的にではなく能動的に情報を知ることができるメディアとして登場したのがインターネットでした。

しかし、私たちはすでにネットからの情報の取得に多くの問題があることを知っています。それはなぜなのでしょう?
まず、「選好にもとづく強化」という考えがあります。ネットには放送時間や紙面の制約がないために大手メディアでは流れにくいニッチニュースもあります。これに検索サイトなどのパーソナライゼーションが加わると、次々と同じようなニッチニュースが表示され、結果として、自分と同じような意見に囲まれる「エコーチェンバー」、それぞれが自分に似ている意見のみを認知して他の意見の存在に気づかない「フィルターバブル」といった現象が起きるのです。

現実社会でも似た者同士が集まることはよくありますが、極端な意見は集団の中で次第に穏健化していきます。しかし、ネットの中では極端な意見でも仲間を見つけられがちで、結果的に分極化が進みやすくなります
また、パーソナライゼーションは本人の意識されないところで行われており、これによって、「思わぬ発見」といったものがなくなり、対立している陣営でそもそも見ている情報自体が違ってしまうなどの弊害が起こる可能性があります。

ネットにおいてニュースにたどり着くには、サイトに直接、検索エンジン、SNS、ニュースアグリゲーター(複数の発信元の記事をまとめるサービス、日本だとヤフーなど)の4つの経路が考えられます。
このうち、検索エンジンやSNS経由だとイデオロギー的に偏ったサイトに辿り着きやすくなり、ニュースアグリゲーター経由だとそういうったことが起こりにくくなっています(207p図5−4参照)。また、ニュースアグリゲーター経由だと異なるイデオロギーのサイトに接触する割合も高いです(208p図5−5参照)。

今まで見てきたように、ネットでは記事を読むことによって意見が変わるというよりも、そもそもサイトに接触したときには意見が決まってしまっているような形になっています。
ネットでは各社が人々の注意を奪い合っており、注意経済(attention economy)を形成しているとも言われます。
ザッカーバーグは「アフリカで死にかけている人々より家の前庭で死にかけている一匹のリスのほうが、あなたには重要かもしれない」(214p)と言いましたが、こうなると硬いニュースはそもそも読まれなくなるかもしれません。
実際、アメリカの研究では、ケーブルテレビとインターネットを利用する人々はそれらを利用しない人よりも、「娯楽思考が強い=政治知識が少ない」という関係がはっきりと出るようになっています。

こうした副作用の軽減ができるのがニュースアグリゲーターです。ヤフートピックスの編集長であった奥村倫弘は、そのニュースがほとんどクリックされなかったことから「コソボは独立しなかった」(215p)という表現を使いましたが、コソボ独立が人間の判断によってトップページに掲載されて、多くの人の目に触れたのは事実です。
著者らの研究でも、ヤフージャパンを利用している人と利用していない人を比べると、娯楽嗜好の強さと政治知識が相関していない傾向があり、ヤフージャパンの利用が一定の政治知識の獲得につながっている可能性があります(もっともヤフーにニュースを提供しているのは旧来のマスメディアであり、提供元が劣化すればこの構図も崩れるかもしれない)。


以前はマスメディアを疑う主体性を持つことが奨励されていましたが、マスメディアを疑うことが政治的に利用されることも増えています。本書の最後で著者は「マスメディアへのステレオタイプを鵜呑みにするな」(250p)とのメッセージを残しています。

このように、本書はマスメディアの影響力についての研究を手堅くまとめ、さらにインターネットの特質に関して踏み込んで検討しています。
「マスメディアが政治を操っている!」「フェイクニュース」「マスコミはオワコン」「マスゴミ」などのマスメディアに対する批判や決めつけが氾濫する中で、本書はそういった風潮に流されないための1冊となるでしょう。マスメディアについてなにか語りたい人が、まず読むべき本だと思います。




『氏名の誕生』(ちくま新書)が非常に面白かった著者の新作は、江戸時代の裁きの場である「御白洲」についてのものになります。
タイトルからすると江戸時代の裁判から江戸時代の特徴を見ていくような本にも思えますが、副題が「「身分の上下」はどう可視化されたか」となっているように、基本的には御白洲において、どのような序列で人々が並べられたのかということを調べた本になります。

身分制社会だった江戸時代において、人々の間の上下関係を示すことは非常に重要だったのですが、江戸時代の身分というのは複雑で、江戸時代の役人を悩ませる問題が次々と浮上します。本書はそれを追いかけるわけです。
もともとの問題が複雑なこともあり前半はかなり煩雑に感じるかもしれません。ところが、後半になるとその煩雑さの中から江戸時代の「身分制」を貫く原理のようなものが見えてくるのが本書の面白さです。前半はちょっと大変でも、第5章あたりから視界が開けてくると思います。

目次は以下の通り。
序章 法廷のようなもの
第一章 お裁きの舞台と形――どんな所でどう裁くのか?
第二章 変わり続ける舞台と人と......――御白洲はどこから来たか?
第三章 武士の世界を並べる――上下を区別する基準は?
第四章 並べる苦悩、滲む本質――釣り合いを考えろ!
第五章 出廷するのは何か?――士なのか? 庶なのか?
第六章 今、その時を――身分が変わると座席は変わるか?
第七章 座席とともに背負うもの――縁側から砂利へ落ちるとき
第八章 最期の日々――明治五年、御白洲の終わり
終章 イメージの中に沈む実像

御白洲というと『大岡越前』や『遠山の金さん』などの時代劇で見たイメージがあるかもしれませんが、実際の御白洲はちょっと違います。
まず、御白洲というと野外のイメージがありますが、白い砂が敷き詰められた空間には屋根がついています。さらに奉行などがいる座敷と砂利の間には二段の縁側があり、薄縁畳を敷いた上段の縁側を上椽(うわえん)、板敷きのままの下段を下椽(したえん)と言いました。
江戸では、町奉行、寺社奉行、勘定奉行がそれぞれ御白洲を構えていました。

江戸時代では奉行所に訴えが出された時点で「訴訟」、それが原告・被告が御白洲に出てきて審理を受けるようになると「公事」と呼ばれるようになります。また、これ以外にも犯罪の容疑者を奉行所に勾引・召喚して始まる裁判を「吟味物」と言います。
明和8(1771)年に町奉行所が扱った「公事」と「吟味物」は1万4件だったそうです。
これを2名の町奉行が月番交代で処理していきました。しかも、すべての裁判の御白洲に奉行本人が必ず姿を現したのです。

現在の裁判官の職務を町奉行に当てはめた場合、これを処理するのは到底不可能なわけですが、実は奉行の行っていたことは儀式のようなものです。
奉行は原告と被告が対決する初回に現れ、双方に示談を促します。もし示談に応じなければ、追って呼び出すと告げてその日はおしまいです。これ以降は御白洲とは別の「吟味所」という場所で奉行所の役人によって説諭などが行われます。そして「内済」と呼ばれる示談が成立すると、再び御白洲に奉行が登場しても申し渡しが行われます。つまり、奉行の登場は最初と最後の2回です(奉行が御白洲で判決を下し「裁許」による決着もあったが非常に珍しかった)。
刑事裁判にあたる「吟味物」でも、未決勾留の申し渡しは奉行にしかできなかかったため、必ず奉行が御白洲に出て行われました。犯罪事実の確定は容疑者による供述の形で行われましたが、この最終確認も奉行が御白洲で行いました。
死罪になる重罪人などの場合、老中への「御仕置伺」を出して支持を仰ぎ、さらに町奉行・寺社奉行・勘定奉行の三奉行で評議することもありました。
そして、「落着(らくじゃく)」と呼ばれる吟味者の判決は奉行本人が御白洲で判決を記した文書を読み上げました。「吟味物」では奉行の登場は基本的に3回です。

御白洲=法廷というイメージが強いかもしれませんが、御白洲では孝行者や長寿の老人の顕彰も行われていました。
著者は「江戸時代の御白洲とは、"治者である公儀が、被治者である庶民と公式に対面し、公儀による正当な判断を示す場所"だった」(31p)と述べています。
だからこそ、そこでは「身分」によるあるべき「差別(しゃべつ)」も示される必要があったのです。
本書の第1章では町奉行所と評定所の御白洲の具体的な構造が説明されていますが、図がないとその説明は難しいのでここでは割愛します。
御白洲の起源は庭であり、庭で臣下が拝礼をしたり、訴訟などが行われていました。このような庭には古代から白い砂が敷かれていました。
室町時代後期になると書院造の普及とともに観賞用の庭がつくられるようになり、この庭と区別するために、それまでの訴訟などを行っていた庭が「白洲」と呼ばれるようになっていきます。
御白洲で扱われる公事は、17世紀後半から経済の発展とともに増加し、幕府は金銭に関わる訴訟については制限をかけました。享保の改革における相対済し令が有名ですが、元禄時代にも金銭に係る訴訟の受付を制限するお触れが出ています。
ドラマの中では「大岡裁き」で有名な大岡忠相も、できるだけ町名主でトラブルを解決するように命じています。

ここから本書の中心的なテーマである、御白洲に誰をどのように並べるかに入っていきます。宝暦期に記された基準書によれば以下のようになっています。
まず、庶民は砂利です。武士は大名や旗本は御白洲ではなく別室の屋敷、御家人や陪臣(大名や旗本の家来)は上椽、同心格や伊賀之者、代官手代などの軽き御家人は下椽、陪臣でも徒士や足軽は砂利です。また、僧などの宗教者も庶民とは同じにできないので、出家(僧侶一般)と山伏は上椽、しかし下級の山伏や社人は砂利でした。その他にも盲人組織の上位者である検校・勾当は上椽でした。
ところが、これから見ていくようにこの指針ではまったく不十分だったのです。
大名や旗本の家臣団は、「侍―徒士―足軽―中間」の4段階で編成されていますが、お白洲は3段階です。
そこでまずは足軽・中間はひとまとめにされ、砂利に出されました。侍と徒士の間には厳然たる違いがあるということで、当初は徒士も砂利に出されていました。宝暦の基準ではそうなっています。
しかし、18世紀後半になると徒士は砂利ではなく下椽に出されるようになります。江戸時代の徒士は役所の一般吏員として庶民と接しています。彼らを砂利に出しては庶民の前で示しがつかないという考えがあったと思われます。
上縁か下椽かの基準として持ち出されたのが熨斗目着用かそうではないかという基準です。
熨斗目とは腰回りや袖の下の縞や格子の模様を織りだした絹の小袖ですが、宝永3(1706)年に与力・御徒(おかち)とそれ以下の御家人に熨斗目着用禁止の通達が出ます。与力や御徒たちの不満から3年後には今まで熨斗目を着用していた与力・御徒は着用できるように改められますが、次第に熨斗目は武士の中での身分を表すものとなっていきました。
熨斗目=上椽、熨斗目以下=下椽という形になります。
御目見得以上は別室、以下は御白洲。熨斗目以上は上椽、以下は下椽。徒士以上は上椽又は下椽、以下は砂利という形で整理されたのです(116p図表3−4参照)。

ただし、これでも上手く整理できないケースがありました。例えば、陪臣の家来の又者です。
陪臣の家来は将軍から見ると、家来の家来の家来であり、将軍との距離が遠かったために一律に砂利に出していました。ところが、陪臣の中には知行が1万石を超えるような者もいます。その陪審の家臣団には熨斗目以上・以下、徒士以上・以下の格式があります。それを一律に砂利に出していいのかという問題が持ち上がったのです。

天明3(1783)年に三河岡崎城城主本多中務大輔の家来である梶金平の召仕侍別所武兵衛が出廷したときは、梶が千石を知行した重臣で別所が熨斗目着用の格式であったために下椽に出しています。
これ以降も熨斗目着用以上の又者は下椽に出されるようになっていき、それが定着していきます。

このように熨斗目着用は重要な基準となりましたが、実は御白洲には誰も熨斗目を着用してきません。麻の上下で来ることが仕来りになっていたからです。
ですから、熨斗目以上・以下については服装から判断するのではなく、評定所や奉行所で本人に聞いて確認していたとのことです。
また、例外的に熨斗目を許されているケースなどは役人たちの評議によって決定されることもありました。

他にも厄介だったのが僧侶などの聖職者です。
基本的に僧は上椽に出されました。神職に関しては妻帯する俗人でもあることから、上級神職と下級神職を公家の吉田家が出す「許状」の有無で区別し、「許状」があれば上椽か下椽、なければ砂利という形で処理していました。
しかし、18世紀末になると、専業の神職がおらず百姓たちが祭祀などをおこなっている神社にも公家の白川家は許状を発行し組織化していきます。これに対抗して吉田家も許状を出したことから、村の社の鍵を管理していた百姓や、掃除をしていた百姓が許状を獲得し、神職を名乗るようになってきます。彼らは次第に帯刀(二本差し)もするようになり、準士分的な存在になってきます。
次第に神職を砂利に出すことはなくなり、許状のある者は上椽、ない者は下椽といった運用に変わっていきます。

山伏(修験)の扱いも厄介で、基本的には僧と同じでしたが、都市部には借家住まいの修験(道心者)もおり、こちらは「乞食坊主」同様とみなされていました。その一方で、修験を管轄する聖護院と醍醐三宝院の格式は極めて高く、最終的には上椽に出すということで落ち着いています。

さらに江戸時代には2つの身分を持つような者もいました。
例えば師職、あるいは御師と呼ばれる、特定の寺社に属して参詣者を誘導し、宿の世話などを行う者がいました。彼らは18世紀後半には神職とみなされるようになり、苗字帯刀するのが常態化していました。しかし、彼らは庶民と同じ町や村に住み、庶民の代表でもある名主や年寄といった役職を務めることもあったのです。
このような「士」でもあり、「庶」でもあるような人々が存在していたのです。

江戸時代において「士」と「庶」を分けるのが帯刀の有無です。二本差しは武士や役人の目印となりました。
18世紀前後になると、百姓や町人に公務を代行・兼務させる状態が発生します。彼らに恒常的に帯刀させれば武士と同じになってしまいますが、帯刀しなければ役人だと視覚的に認識されません。そこで、公務中だけ台頭すればよいということになりました。

この考えが御白洲にも持ち込まれます。幕領の牧を管理する牧士(もくし)は地元の百姓から登用され、公務では帯刀していました。彼らは「牧士之身分」に関する出廷なら下椽、「百姓之身分」なら砂利とされました。
牧士の本来の身分は百姓ですが、役人としての牧士を砂利に出すのは問題だと考えられたのです。
もともと中国のものであり「士」と「庶」の区別を日本の武士と庶民の間に持ち込むことには無理もあるのですが、「士」は公務を担っている、公務が尊いから「士」もまた尊いという理屈が持ち込まれました。
この考えからすると公務を担っている百姓や町人も尊いということになります。実際、御用達の町人は御用の側面では御白洲に呼ばれるときは下椽に出ました。
「身分」というと、どうしても「生まれながらのもので変えられない」というイメージがありますが、1人の人間が2つの「身分」を持つようなケースもあったのです。

では、家族の身分はどうだったのか? 江戸時代の家族は基本的に当主を通じて社会集団と接続されており、「〇〇 妻」「しろさんかくしろさんかく 伜」と称されました。ですから、御白洲でも上縁に出るものの妻や母は上縁に出ます。
このため、女性は結婚とともに「身分」が移動することもあります。例えば、父が許状なしの神職ならば娘は下椽に出ますが。許状ありの神職と結婚したら上縁に出ます。

ただし、家族といっても当主・妻・嫡子などと「厄介」などと呼ばれた次男・三男や娘との間にはその待遇に「差別」がありました。後者は一段低く扱われることが多く、御白洲でも前者が上縁でも後者や下椽に下げられるケースもありました。
前者の「身分」は変動しないと想定されるのに対して、後者はまだ「身分」が決まっていない者として扱われたのです。

江戸時代には「其身一代限り」という「身分」もありました。これは相続の許されない身分になります。
そのため、浦役人という「其身一代限り」の妻は、妻であるときは下椽に出ますが、後家になったら砂利です。夫の死とともにその「身分」は失われたと考えられるからです。

このように江戸時代の「身分」は血統ではなく、「今」の状況がポイントになります。
例えば、武士は正式の外出のときは供侍や鎧持・草履取などの格式相応の従者を連れる必要がありましたが、江戸時代の中期になると、こうした従者は短期雇用の者や臨時雇いの者に置き換わっていきます。民間の人材派遣会社とも言える「人宿(ひとやど)」から日雇の侍・中間を雇ったりするようになるのです。
こうした日雇侍は侍か徒士か曖昧であることもあり、熨斗目以下で雇われたものの人手不足から熨斗目を着用することもあるといった者もいました。奉行所でも迷うケースですが、結局は熨斗目以下と判断されて下椽に出されています。

庶民は砂利に出されましたが、穢多・非人に関してがさらに「少し跡へ引き下げる」という措置が取られました。また、地方の御白洲では百姓・町人と穢多・非人が同時に出廷する時に限り、百姓・町人側に筵を敷いて区別したりした例もあるそうです。
このように御白洲では「身分」を可視化させる場でしたが、同時に「身分」が剥奪される場でもありました。
吟味物では初回の御白洲で奉行が未決勾留の措置を宣告します。これによって庶民は牢に入れられ、上縁や下椽に出るものは「揚り屋」という畳敷きの空間に拘置されることになります。
ここでも「身分」による差があるわけですが、この「揚り屋入り」が申し渡されると、上縁や下椽にいた人物は被疑者を背後から砂利に引きずり下ろし、縄で縛り上げられました。僧の場合は三衣をはぎとって縛り上げます。
これは「お前にはそこに座る資格はない」ということを可視化するもので大きな心理的苦痛を与えたと考えられます。

近世社会において「身分」が高い者は低い者よりも重罰を受けました。例えば、お金を盗んだ場合、十両以下であれば庶民は罰金、入墨、敲(たたき)などで済みましたが、士分の場合は死罪になります。
例えば、今は庶民でも士分の時に罪を犯していれば武士として罰せられます。日雇の侍として脇差を盗んだ男は、「日雇い渡世だから」という声があったにも関わらず死罪に処されています。

第8章では、御白洲が明治になってどのように消えていったのかが述べられています。奉行がいなくなった奉行所の姿など興味深い部分もありますが、ここも割愛します。

このように、本書では御白洲という場を通して、江戸時代の「身分」とは何だったのかということが見えてくるような構成になっています。
江戸時代の幕府は力のある存在でしたが、同時にさまざまな社会集団の「仕来り」に乗っかったものでした。だからこそ、時には細かい違いにこだわり、時には社会集団の言い分を柔軟に取り入れながら御白洲を運営したのです。

前半はちょっと読み進めるのが大変かもしれませんし、もうちょっと整理できた面もあるとは思うのですが、近世社会に興味がある人であれば面白く読める本だと思います。


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