「大東亜共栄圏」というと、日本が太平洋戦争の目的として持ち出してきたスローガンというイメージが強いかもしれませんが、同時に大東亜共栄圏は経済圏の構想でもありました。
本書では、この経済圏としての大東亜共栄圏に焦点を合わせながら、それがいかに構想され、挫折したのかということを見ていきます。総力戦を戦うために、日本はアジアに資源を求めましたが、なんとか辻褄が合ったはずの机上の計画は現実には上手くいかなかったのです。
また、この大東亜共栄圏の軌跡を通じて、アジアの各地域の指導者たちのしたたかさや、日本の統治機構の問題点などが見えてくるのも本書の面白いところです。
目次は以下の通り。
序章 総力戦と帝国日本―貧弱な資源と経済力のなかで第1章 構想までの道程―アジア・太平洋戦争開戦まで第2章 大東亜建設審議会―自給圏構想の立案第3章 自給圏構想の始動―初期軍政から大東亜省設置へ第4章 大東亜共同宣言と自主独立―戦局悪化の一九四三年第5章 共栄圏運営の現実―期待のフィリピン、北支での挫折第6章 帝国日本の瓦解―自給圏の終焉終章 大東亜共栄圏とは何だったか
戦前の日本は中国政策などをめぐって英米と対立しつつ、経済的には英米に依存するという形になっていました。
第一次世界大戦後、日本は世界の「五大強国」と呼ばれるようになりましたが、例えば1925〜29年の鉄鋼の生産量は年平均で132万トンにすぎず、アメリカの3920万トン、ドイツの1160万トン、フランスの954万トン、イギリスの618万トンに比べて大きく劣っていました(7p)。
工作機械なども英米からの輸入に頼っていましたし、主要な輸出品であった綿製品も原料の棉花はアメリカ(63%)、英領インド(28%)からの輸入に頼っており、外債の消化も英米に依存していました。
ここから必然的に対英米協調の方針がとられることになるわけですが、それに不満を持つ軍部や右翼の中からがアジア・モンロー主義の考え方も生まれてきます。
満州事変でも、鞍山の鉄、撫順の石炭といった資源の獲得は重要視されていましたが、1935年に出された『満州国視察報告書』では、満州における資源の少なさや質の低さが問題視されており、華北への進出を求める声が出てきます。
この頃、昭和恐慌に対応するために高橋是清蔵相は金本位制から離脱し、円の価値を下落させて輸出を増やす政策をとり、成功していましたが、同時に日本がそれまで輸入していた重化学工業品は割高になりました。そこでこの国産化が急務になります。
1933年に日本製鉄会社法が成立し、翌年には日本製鉄が設立されます。同時に東南アジアからの鉄鉱石の輸入も増えていきます。1930年には英領マラヤからの輸入が中国を抜いて1位になりますが、それ以外にもフィリピンや仏印からの輸入が行われます。
石油はアメリカからの輸入に頼っていましたが、日本は蘭印をはじめとする各地で油田開発を行おうとします。
ボーキサイトについては、蘭印のビンダン島からの輸入が行われるようになり、日本のアルミニウムの生産は急増していきます。
このように日本は東南アジアからの資源の輸入を進めますが、これによって総力戦体制の確立には東南アジアの資源も必要だとの認識が強まっていきます。
1939年9月に第2次世界大戦が勃発すると、イギリスがポンドとドルの交換を停止したために、イギリス圏に輸出してポンドを獲得し、それをドルに交換してアメリカからの輸入を行っていた日本の決済構造が成り立たなくなります。
さらに40年にドイツが攻勢をかけてオランダを占領し、フランスを降伏させると、日本の中から蘭印や仏印に進出すべきだとの声が強まりました。
40年7月の「基本国策要綱」には「大東亜新秩序」の建設が盛り込まれ、松岡洋右外相はこの説明の中で「大東亜共栄圏」という言葉を用います。松岡は三国同盟で、このアジアにおける経済圏を独伊に認めさせ、世界の再分割を行うことを狙っていたのです。
1940年8月に日本政府は「南方経済施策要項」を閣議決定し、まずは各地域からの輸出保障をとりつけるとともに日本企業の進出を図るという二段構えの方策をとります。
40年9月13日から小林一三商工相らが蘭印で交渉を行いオランダ側もこれに積極的に応じますが、9月27日に日独伊三国同盟が締結されると蘭印の態度は冷淡になり、交渉は停滞しました。仏印との交渉も停滞し、日本は武力による威嚇によって経済圏を形成する方向に傾いていきます。
松岡洋右が閣外に去ると、アジアに日本の勢力圏を設定しようとした彼の構想は潰えます。大東亜共栄圏の構想が具体的に再起動するのは日本が対英米戦を開始し、東南アジア各地を占領してからでした。
日本軍はフィリピン、マレー半島、蘭印、ビルマといった地域を占領し、1942年2月には大東亜建設審議会の設置が決まります。開戦直後から政府は大東亜共栄圏の建設をスローガンとしてきましたが、その方針を決める審議会が設置されたのは開戦2ヶ月後でした。
経済以外にも、人口や民族、教育などについての部会も設置されましたが、42年5月に総会で決定された基本理念で「皇国の指導または統治の下、圏内各国および各民族をして各々その所を得しめ道義に立脚する新秩序を確立するを以て要となす」(53p)と謳われているように、基本的には日本を上位とする階層秩序が想定されていました。
また、長期的な経済圏の構想は、商工省と企画院の対立もあってまとまりませんでした。
企画院は、工業生産の増大とともに都市化が進行し日本人の出生率が低下することを心配していました。そのためには大陸への工業分散と都市化の抑制が必要だと考えており、大陸での重工業の開発配置を主張しました。
一方、商工省は国内での産業発展を重視し、産業統制の主導権を握ろうとしていました。商工省は大企業の経営者と連携し、産業統制における強い権限を保持しようとしました。
1942年時点で15年後の主要物資の生産目標も立てられましたが、鋼材3000万トン(41年の実績(以下同じ)470万1千トン)、銅60万(7万9千トン)、アルミニウム80万トン(7万2千トン)、天然石油2000万キロリットル(32万7千キロリットル)と実績から見てかなり過大な数字でした(69p2−3参照)。
農業分野においては、仏印を組み込んだことで輸送を抜きにすればコメの自給は可能になりましたが、小麦と棉花は不足しました。特に棉花は需要2000万坦(1坦約60キロ)に対して生産量は500万坦で大幅な不足でした。
一方、これまで欧米に輸出をしていた砂糖やゴムはその販路を失い、余ることが予想されました。
棉花の産地として期待されるのは北支ですが、ここは不足する小麦の産地でもあったために、フィリピンなどで砂糖から棉花への転作が計画されます。
軍部も占領地での重要資源の確保を優先していましたが、占領地から物資を日本に送れば現地の物資が不足する恐れもあります。しかし、これについては我慢させ日本軍への信頼を助長するという両立困難な方針が掲げられていました。
このため政府・大本営、現地軍の間では形式的な独立付与を早期に行おうという動きが出てきます。民族主義の高揚を独立付与によって抑え込もうというのです。
一方、東南アジア占領地全体を管轄する南方軍は独立を抑制して、軍政の施行を主張します。
そのために、まずは旧統治機構を利用した統治が行われます。
フィリピンは1934年の段階で46年に完全独立することが決まっており、植民地エリートによる自治政府がつくられてましたが、日本も植民地エリートを使って統治を行いました。
ビルマではイギリス人総督のもと、植民地議会がありビルマ人の首相がいましたが、日本はこの自治政府と反英運動を利用しながら統治を進めようとします。
蘭印では、中央行政機構や企業の主要な役職をオランダ人をはじめとする白人が握っていました。占領当初は、企業や農園の責任者、あるいは治安維持のための警察官として残されていたオランダ人もいましたが、これには批判もあり、次第に日本人やインドネシア人に置き換えるとともに、オランダ人を収容所に収容していきます。そして、この収容所で多くの人が亡くなりました。
マラヤ・シンガポールでは日本軍は華僑を警戒し、シンガポールでは華僑を虐殺しました。一方、マレー人は無気力と見ていましたが、親日的な者を下級官吏や警察官に登用していきます。
企業の進出は一地点一企業の原則のもとで進みます。また、同種資源を2つ以上の企業で担当させるようにし、開戦前から東南アジアに進出していた企業が選定されたこともあり、財閥系の企業が中心となりました。
石油に関してはスマトラ南部の油田を軽微な損傷で獲得できたことから想定よりも速いペースで内地に輸送できましたが、フィリピンのマンカヤン銅山など徹底的に破壊されていたものもあり、順調に確保できなかった資源もあります。
1942年末、日本は中国の汪兆銘政権に対して権限の多くを委譲する対支新政策を実施し、43年1月に汪兆銘政権は英米に宣戦布告をします。
この動きの裏には重光葵駐華大使のはたらきかけがありました。重光は戦争の遂行には中国の自発的協力を引き出すことが重要だと考え、また、蔣介石との和平や対英米和平のためにも中国との関係を考え直すことが必要だと考えていました。
これに昭和天皇が強い関心を示したこと、ガダルカナルで苦戦し中国戦線の兵力を南方に振り向ける必要が出てきたことなどから、対支新政策が動き出します。
さらに、フィリピン、インドネシア、ビルマの独立も検討され、フィリピンとビルマの独立を認めることが決まります。
1943年4月に外相に就任した重光は、対等の立場の日華同盟条約を結び、これをアジア各国との関係にも反映させようとします。重光は連合国の大西洋憲章を意識しており、日本側の公正な戦争目的を示すことが必要だと考えていました。
東条英機も天皇がこの政策を支持していたために前向きでしたが、一方で「「ビルマ」国は子供というよりむしろ嬰児なり」(134p)と述べているように、アジア諸国に対する態度は家父長的なものでした。
1943年6月に東条は帝国議会で「大東亜宣言」と呼ばれる演説を行います。
これに対して、在満朝鮮人から「南方未開の原住民に独立を与える以上当然我らにも同様の名誉を与えよ」(140p)といった声が上がります。これは日本政府も想定していましたが、朝鮮や台湾では同化政策の徹底によりこれを乗り切ろうとしました。
1943年11月には大東亜会議が開催されます。そこでその場で発表される宣言として「大東亜宣言」の文案が練られますが、できるだけ自主独立を盛り込もうとする重光と資源の確保を目指す軍部の間で駆け引きがありました。
会議では各国の代表が集まりましたが、タイのピブーン首相が参加せず、フィリピンのラウレル大統領は演説分の事前提出を拒み、演説に「自主自立」の語句を盛り込むなど、抵抗を見せました。
経済圏としての大東亜共栄圏は、やはり想定通りにはいきませんでした。
棉花は中国と南方での増産が期待されましたが、フィリピンでは現地の地主や農民が棉作に関心を示さず、さらに北支から導入した品種が気候風土に合わなかったことや虫害などでうまくいきませんでした。
鉱山の復旧も、フィリピンでは抗日ゲリラの襲撃もあってうまく進まず、ビルマでは坑内労働を担っていた中国人が日本軍の侵攻によって逃亡したことで労働力不足に見舞われました。
そして1943年頃から大きな問題になったのが輸送力の激減です。
開戦時、日本が所有している船舶は約637万トンで、企画院は民需用の物資輸送船が常時最低300万トンあれば日本経済の維持に必要な物資の輸送は可能だと考えていました。このため、軍が徴傭する船は300万トン以下に抑える必要がありました。
開戦当初は作戦域が広かったものもあり徴傭船は300万トンを超えましたが、戦況が落ち着けば徴傭は解除されると考えられていました。
ところが、海軍が南太平洋に戦線を拡大したこともあって徴傭の解除は進みませんでした。42年8月から始まったガダルカナルの戦いでは船舶の損失も大きく、船舶の徴傭をめぐって参謀本部の田中新一が東条を「バカヤロー」と罵倒する事件も起こります。
結局、民需用の物資輸送船は43年3月の段階で約160万トンまで減少し、生産計画の達成は難しくなり、さらに各地で自給的な経済圏をつくることが目指されるようになります。
輸送力が低下する中で、物資供給の中核は中国や満州に置かれるようになり、南方からは重要物資のみに絞られます。
ただし、北支で問題になったのが食糧不足と労働力不足です。もともと北支は食糧が不足しがちで、カナダやオーストラリアから小麦を輸入していましたが、これが途絶えます。また、棉作の拡大も食糧不足に拍車をかけました。
そこで注目されたのが満州です。満州の農業生産は1938年を頂点に42年まで下降をたどりましたが、43年以降生産量は増加していきます。こうしたこともあって日本からの開拓団の送り出しも続きました。
戦況が悪化すると、アジア諸国の指導者たちも日本に背を向け始めます。
フィリピンでは憲法をめぐって日本の軍部とラウレル大統領やベニグノ・アキノが対立し、日本が譲歩しますが、それでもフィリピン側はフィリピンの参戦を見送り続け、実際に参戦したのは米軍がマニラ攻撃を始めた1944年9月でした。ビルマでも通貨の発行や敵の資産をめぐって日本が譲歩を強いられています。
インドネシアでは食糧や労働力が集められますが、しかし、食糧不足などもあって労働者の待遇は悪く、「ロームシャ」という言葉がインドネシア語の中に定着していきます。日本は労働者確保のためにスカルノなどの民族主義者の協力を仰ぎ、将来的な独立を認める方針に転換していきます。
1944年になると輸送力はさらに低下し、南方と日満支は分断されました。そのためにそれぞれの地域での自活自戦体制の構築が目指されます。
しかし、この南方の切り離しで東南アジア経済は崩壊します。東南アジアの輸出作物は輸出の行き場を失い、今まで輸入していたものの価格は高騰しました。ビルマではインド人労働者がいなくなったことでコメの生産が減少するなど、自給自足体制は経済の収縮とインフレをもたらしました。220−221pの6−3の表を見ると、日本や満州に比べて東南アジアと中国でのインフレのすさまじさが目に付きます。
こうなると抗日運動もさかんになり、ビルマではアウンサンが抗日蜂起に踏み切るなど、日本を見限る動きも出てきます。そして、大東亜共栄圏は崩壊するのです。
このように、本書は大東亜共栄圏構想の始まりから崩壊までを、主に経済に着目しながら描いています。
太平洋戦争の展望がドイツがイギリスを屈服させるといった希望的観測に満ちていたことはよく知られていますが、大東亜共栄圏もそうだったことがわかりますし、計画の無理な部分も見えてきます。
また、終章でも改めて指摘されているように、統制経済を志向しながらも日本の統治機構は分権的であり、大東亜共栄圏での自給自足を目指しながらも、海軍の攻勢主義を止められなかったのも大きな問題です。
こうしたさまざまな問題が見えてくるのも本書の魅力の1つです。
- 2022年08月23日21:43
- yamasitayu
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