同じちくま新書から出た『氏名の誕生』が非常に面白かった著者による女性の氏名の歴史を辿った本。読む前は『氏名の誕生』の補遺、B面のようなものかと思っていましたけど、予想以上に盛りだくさんの内容で読み応え十分です。
まず、女性の氏名で議論になっているのが夫婦別姓で、「夫婦同姓は昔からの伝統」と「北条政子に見られるように昔は別姓」という意見が戦わされてきたわけですが、本書によればそもそも女性に名字はないというのです。
これだけでも読みたくなりますが、さらに本書は江戸時代の「お〇〇」(おきく)から明治以降の「〇〇子」(菊子)への変化、識字率の向上する前の名前に対する認識、戦後の国語改革やワープロ、パソコンの普及によって一つの文字にさまざまな字形が存在するという常識が失われ、字形にまで一種のアイデンティティを求める人が出てきた状況など、さまざまなトピックがとり上げられています。
『氏名の誕生』につづき、私たちの名前に関する常識を大きく揺さぶってくれる刺激的な本です。
目次は以下の通り。
プロローグ―愛着の始まりを探して第1章 江戸時代の女性名第2章 識字と文字の迷宮第3章 名付け・改名・通り名第4章 人名の構造と修飾第5章 明治の「氏」をどう扱うか?第6章 「お」と「子」の盛衰第7章 字形への執着第8章 氏名の現代史エピローグ―去る者は日に以て疎く...
「りん、れん、みく、みゆ、りさ、りな、りの、ちの、さな、もえ」、本書の第1章はこのような名前の羅列から始まっていますが、これはすべて江戸時代の女性の名前です。ただし、実際に呼ばれるときは「おりん」「おれん」のように「お」がつきます。
江戸時代の女性の名前のスタンダードは平仮名2字、あるいは3字で表記される二音節で(3字で二音節はりやう(リョウ)、じゆん(ジュン)など)、江戸後期になると、ほぼ100%がこの二音節の名前です。そして、この二音節の名前の頭に「お」をつけて呼ぶのです。
この「お」は自らの妻や娘などに対しても付きますが、たまに外れることもあります。
手紙や証文などで女性が差出人になる場合、「おりん」が「りん」となるなど、「お」が外れるときがあります。一方、宛名の女性には「おせい殿」など「殿」がつきます。自ら名乗るときも「お」が外れるときがあります。
また、主人が自らの家の下女を呼ぶときは「お」がとれます(例外もあり)。ただし、他家の下女には「お」が付きます。
他にも公儀が裁判の判決を申し渡すとき、どんな身分の女性でも「お」がつきません。ただし、宗門人別帳だと「おいし」などの「お」付きの表記も見られます。
女性の頭につく「お」は丁寧さを表す「接頭語」という性格もありますが、「おやつ」や「おかず」のようにほぼ一体の語としても受け取られていたのです。
この「お」の来歴についてはわからないことが多いのですが、「金さん」なら男、「お金さん」なら女というように性別を知らせる役割も果たしていました。
この「お」に二音節の名前がつくわけですが、この二音節がかなり自由で、「ゑろ、のよ、もゆ、ゆわ」などまったく意味が想像できないものも多いといいます。
この名前には地域ごとの特色もあり、越前では「ちの」が多く見られるが、他に国ではそうでもないといった具合です。
また、三音節の名前も全国的には珍しいものの地域によってはかなり多いところもみられます。三音節になると、冒頭に「小」がつくか(小いそ)、最後に「の」(あさの)「へ」(きくへ)がつくものがよく見られる形です。
ちなみに三音節になると「お」はつきません。「きくへ」は「おきくへ」にはならないわけです。
ただし、江戸時代の女性の名前には今とは違った不確定性もあります。それは当時の農村の女性のかなりの割合が字が書けなかったことです。
5明治10年に滋賀県で行われた自署率の調査によると、男性は旧近江の国ではすべての郡で80%を超えていますが、女性は14〜64%とかなりばらつきがあります(58p図表2−1参照)。
当時は村請制に見られるように、領主と百姓の間には村が入っており、個人が自署しなければならないようなケースは稀でした。さらに個人は家を通じて把握されていたため、女性が自署する機会はかなり少なかったと考えられます。
ですから、宗門人別帳に記載された名前は本人が書いたものではなく、村役人が音声を聞き取って書き取ったものです。そのため、同一人物でも「ない」「なひ」「なゐ」などの表記揺れが見られます。
そもそも江戸時代は公儀の触れ書きですら表記揺れには無頓着で、「故」を「ゆゑ」とも「ゆへ」とも書いていたような状況でした。
ある地域では「きへ、すへ」など「へ」で書かれるが、別の地域では「きゑ、すゑ」と書かれるといったこともあります。
江戸時代の男性の場合、幼名があり、さらに当主の身分を継承して名前も継ぐ名跡の襲名慣行もあり、生涯のうちに改名を経験するのが普通でした。
これに対して女性には幼名が基本的にはなく(地域によってはそれらしきものがある)、生涯名前の変わらない人も多くいました。
それでも結婚に際して名前の相性占いなどを理由に改名したり、高齢女性が家業から引退する際に法名(「妙」の字がつくケースが多い)を名乗るケースもありました。
また、奉公に出る際に改名するケースもあります。なかには代々下女に「りん」という名で奉公させている商家もありました。本名が「ゆき」でも「りん」と改名させているわけです。しかも、この名は公的な名でもあり、宗門人別帳にも「りん」で登録されています。
現代の感覚からするとなんだかひどい話にも思えますが、江戸時代は身分の移動とともに名前が変わるには当然でした。天保4年、備後屋安治郎の下女「けん」は安治郎の女房となって「ゑん」と改名しました。翌年、新たな下女が雇わましたがこの名前も「けん」なのです。自分の昔の名前で下女が呼ばれることに今だったら違和感を感じそうですが、江戸時代はそうではないのです。
遊女屋、あるいは朝廷、公家、武家の奥向きに奉公する場合、いわゆる源氏名が与えられます。源氏名とは、桐壷、帚木、空蝉、夕顔、若紫といった源氏物語の巻名にちなむものですが、江戸時代には千歳、真砂など語感や字面が類似した語なども源氏名として使われていました。
現在でも水商売をするときに付ける名前を源氏名といいますが、江戸時代は本名も源氏名に改名される形になります(公式の書類でも源氏名が使われる)。
吉原の遊女屋や大奥には名跡というべき名前があり、代々名前が受け継がれていました。
大奥では最高位の上臈御年寄は堂上公家の娘で、常磐井、飛鳥井、姉小路、花園などを通り名としましたが、これは生まれの家とは関係なく、公家の橋本家出身の女性が姉小路と名乗ったりしていました。
滝山なども大奥の「役人」と呼ばれる奥女中が代々使ってきた名前になります。
江戸時代の男性名はかなり複雑です。「鬼平」こと長谷川平蔵は、長谷川という苗字、平蔵という通称の他に藤原という氏、朝臣という姓、宣以という名乗(なのり)を持っていました。
長谷川・平蔵・藤原・朝臣・宣以という名前の構成要素があるわけですが、長谷川宣以、藤原平蔵という形では使用されないのもポイントです。
藤原などの氏は天皇の勅許・賜与する形で行われ、そう簡単には変わらないものでしたが、10〜12世紀頃になると所領や居住地などを称するケースが出てきます。
さらに12〜16世紀になると財産と仕事が一体となった「家」と呼ばれる経営体が、社会的な基礎単位となり、「三条大納言」や「大庭三郎」における「三条」や「大庭」が「家」の名称、家名として継承されるようになります。公家ではこれを称号、武家では名字(苗字)と呼びました。
中世武士の名字は「家」経営体の名前であって、父系血統を表す「姓」ではありません。住む場所が変われば名字は変わり、本家と分家で名字が異なるということも普通でした。
ただし、14世紀になると「足利」が本拠地の足利を離れても「足利」と名乗ったように、血統でつながる一族を示す「姓」としての役割も持つようになります。
庶民の苗字は14世紀頃から出現し、基本的には家の名ですが、百姓の場合は擬制を含む血縁関係、地縁により連帯した同族としての機能が大きかったといいます。
18世紀以降になると、公儀に許されて苗字を公称するケースもあらわれ、身分を示すものとしても機能しました。
では、女性はどうなのか?
まず、下の名前ですが、8世紀の戸籍を見ると圧倒的に多いのが「売(め)」がつくもので、広虫売(ひろむしめ)、和子売(なごこめ)、刀良売(とらめ)などが見られます。
9世紀初頭、嵯峨天皇が娘に正子、芳子、業子などの「子」を付く名前をつけます。この名前は男の諱と同じく漢字自体の意味を意識されて選定された名で、「子」は女性名を示す符号になります。
これが貴族にも広がり、次第に漢字一字で訓読みの二音節(貞子(さだこ)、香子(たかこ))に落ち着きます。後世、訓読みがわからなくなったために定子(ていし)、威子(いし)などの音読みで読ませる慣例ができましたが、実際はすべて訓読みです。
嵯峨朝以降、女性にも童名(わらわな)がつけられるようになります。一方、「何子」という名前は、貴族社会では裳着や女官として出仕するとき、位階を得るときなどん初めて設定しました。「何子」は男性の諱のような役割を果たしたのです。そして諱はほとんど使われなかったように、「何子」という名前も形式的なものになります。
11〜13世紀にかけて、庶民の間では貴族の影響を受け、生まれ順+子という形の名前が登場します。太子(おおいこ)、姉子(あねこ)、三子(さんのこ)などです。また、童名+女の鶴若女、愛寿女といった名前も用いられ、これは女を省略した形でも使われました。
また、鶴御前、福王前(ふくおうのまえ)、徳寿殿のように、女性名の接尾語として御前、前、殿などを用いた名前も登場します。
15世紀になると、二音節+女の簡単な名前、鶴女、亀女などが多くなり、16世紀になると平仮名二音節が多くなります。そして、「お」+二音節の全盛となっていくのです。
武家の娘でも公家に嫁いだ場合などには「何子」という名前を設定しており、公家の大徳寺家(本姓藤原)に嫁いだ高松城主松平讃岐守(本姓源)の娘の墓石には、「繁姫源郁子之墓」とあります。ここでポイントになるのは、結婚しても「何子」を修飾する本姓は変わらず、繁姫という名前には苗字がつかないことです。
女性名には苗字がつかないことが常識だったのです。
公儀の書類でも、「渡辺儀助倅 渡辺定助」のように男性には必ず苗字をつけますが、女性の場合は「佐竹丸亀家家来 徒士 諏訪宇右衛門娘 きた」のように苗字はつきません。
江戸時代は、武兵衛、おみつ、などの個人名単独がフルネームであり、苗字という修飾要素をつける人間のほうが少なくなります。
苗字には「家名」と「姓」(出自・血統の表示)という要素がありますが、圧倒的に強かったのは前者で、山田何太郎が田中何右衛門の養子になれば田中何太郎になりますし、一代限りで苗字の公称を許された場合、その子には苗字がつきません。
女性については「佐藤のおせん」など家の名をつけることもありますし、手紙の最後に「赤林/幸」のように署名しているケースもありますが、その人が所属している「家」を示す目的で使われています。
越前国の宗門人別帳には、既婚女性が「妻」「後家」「母」などだけ記載されるケースも多いといいます(「りん」を「妻」と改名した貼紙がつけられているというケースもあるという)。現在の感覚からするとひどい話い思えますが、当時は「家」という経営体が大前提にあったのです。
『近世畸人伝』という伝記では、「甲斐栗子」などど記しているものもありますが、「甲斐」は居住地であって苗字ではなく、本名は「くり」であり、修辞を尊ぶ文雅の世界ではあえて「子」をつけているのです。
また、文雅人の名簿では名前をいろは順に配列するために女性にも苗字をつけています。ただ、男性の諱の部分に普段の名前を入れるなどやや苦しい体裁になっています(「松井梅子」の諱に「名梅(なはうめ)」と普通の名前が入っている)。
しかし、こうした江戸時代までの名前は明治になって大きく揺さぶられます
明治3年9月19日、新政府は「自今平民苗氏被差許候事」という平民の苗字の公称を許可する布告を出します、これによって身分の標識としての苗字の役割が消えました。
戸籍の作成も始まり、女性に関しても「女房」「後家」といった記述が消え、それぞれの名前を記すようになります。
この戸籍における苗字の表記についてはだいたい3つのパターンがあります。
1は全員に苗字をつけない書式です。しかし、これは次第に消えていきます。2は戸主のみに苗字をつけ、他はつけない書式です。3は男だけにいちいち苗字をつけ、女にはつけない書式です。
3もかなり一般的な書式であり、やはり女の名には苗字をつけないという感覚があったことがわかります。
女であっても戸主になるケースもありましたが、女戸主には「高倉惣右エ門亡 後家 しほ」といった書き方もあります。「高倉しほ」という書き方には違和感があったようです。
新政府の「復古」政策は、「大久保一蔵」のような「名前」ではなく、「藤原朝臣利通」のような「姓名」を正式な名前として復活させようとしました。しかし、このような現実を無視した考えはうまくいかず、「大久保利通」という「苗字+実名(名乗)」という新たな人名方式を生み出しました。
しかし、私用では「一蔵」、公用では「利通」と使い分けるようなケースも出たため、新政府はどちらか1つに選択するように布告を出します。こうして近代の「氏名」が誕生するのです。
ここで問題となったのが女性の苗字の扱いです。とりあえず女性にも苗字をつけるとして、それをどのように扱うが問題になりました。
明治7年に内務卿だった伊藤博文は女性の苗字について、太政大臣の三条実美に対して次のようなお伺いを提出しています。
まず、養女は生まれではなく養家の姓氏を名乗る、妻は婚姻後も実家の姓氏を名乗る、女戸主、つまり後家が当主となった場合は亡父の姓氏を名乗る、というものです。つまり、「里見花」という女性が大内家に嫁いだ場合、結婚しても「里見花」だが、もし家の当主となれば「大内花」となるというものです。
伊藤によれば中国の「姓」の理屈ではこうなるが、日本でもこれでよいのか? というものでした。
これに対して、政府は結婚後に実家の姓を名乗る慣習は日本にもあったが、現在は「家」が基礎単位となるので妻も夫の姓氏を名乗るべきだと命ずる案がつくられます。
ところが、この案は横槍が入って廃案になりました。古代の姓氏は生まれを重視していたとして、「復古派」は夫婦別姓があるべき姿だと主張しました。
この議論は明治8年2月の苗字強制令のあとも蒸し返されますが(徴兵事務などで苗字のない者が問題になった)、「復古派」の抵抗があり、最終的には民法の施行まで持ち越しとなります。
一方、現場ではさまざまな記載が混在していました。種痘名簿をみると、男だけに苗字をつけたもの、男女に苗字をつけたもの、戸主のみにつけたものがあり、「藤田嘉蔵妻 太田はる」といったものも見られます。おそらく太田は生まれの苗字です。
民法の施行が民法典論争の影響で遅れたこともあって、妻は夫の苗字を名乗るという方針が確立するのは実はけっこうな時間がかかりました。
第5章では明治以降の女性の名前の変遷が述べられていますが、「お」が消えて「子」が広がった部分だけを紹介します。
江戸時代の主流は「お〇〇」ですが、明治中期になると上流家庭の間で、接頭辞の「お」を省略して接尾辞の「子」をつけて名前を呼ぶ動きが起こります。「とみ」という女性がいたとして、「おとみ」ではなく「とみ子」と呼ぶのです。庶民女性と区別するために出てきたものだと考えられます。
これが庶民にも広がっていくわけですが、ここで問題になるのは「子」は本名の一部なのか、接尾辞なのかという問題です。
明治31年に戸籍法が改正されると、司法省の戸籍担任の中野重春らは現場の戸籍吏のために『実地問題 戸籍法問答集成』を刊行していますが、そこでは「お」や「子」は名前の一部とは言えないから登録する必要ないと述べています。
つまり、「おきく」や「きく子」という名前の届け出があっても「きく」で登録すべきだという考えです。
しかし、この注意喚起は遅かったようで、現場では続々と「子」の付く名前が登録されていました。
文学作品を見ても、明治までは「お」と「子」は入り混じっており、泉鏡花の『婦系図』では、地の文でも「妙子」「お妙」が混在していますが、大正時代になるとこうした地の文での混在はなくなってきます(ただし、真砂子が台詞では「真砂」と自称し、家族からも「真砂」と呼ばれたりしている(柳川春葉『生さぬなか』)。
また、ややこしいことに他人が符号や敬称としてつける「子」も残り続け、「ハル」や「千代」といった二音節の名前に一律に「子」をつける名簿なども昭和初期頃まで見られます。
この「子」は「静枝」「菊栄」などの三音節の名前にはつけられておらず、まさに「お」の代わりとして用いられていました。
第7章と第8章でクローズアップされるのは名前と「字」の問題です。
江戸時代は識字率も低く、名前は音で認識されており、表記揺れも当たり前でした。「たへ」でも「たゑ」でも「妙」でも本人が字を認識していなければ気にならないわけです。
また、字を習った人も最初に習うのはくずし字でした。
ところが、明治になると新政府は楷書体とカタカナを使ったスタイルで布告を出すようになります。そして、活字も使われるようになりました。
義務教育の普及とともに識字率も上がり、女性の名前も明治17〜21年頃に生まれた女性の9割が仮名表記でしたが、大正3〜7年頃に仮名と漢字が半々になり、昭和4〜7年頃には漢字表記が7割弱になります。
仮名の表記や漢字の字体にも「正しい」とされるものが決められていきます。「蝶」は「ちやふ」ではなく「てふ」が正しいとされ、仮名の字形も統一されます。
役所でも書類を書く際に「署名一定主義」を求めるようになりました。例えば、今まで「山田きく」という人物は、「菊」と書いても「キク」と書いてもいいという形で運用されていたのですが、戸籍名と同じ「きく」で書くことが求められるようになったのです。
さらに明治末期から大正にかけて姓名判断が流行すると、字画が意識されるようになり、自分の名前をどのように書くかということへのこだわりが強くなります。
名前は「音」重視から「字」重視へと変化していったのです。
終戦後、国語についての改革が行われ、公用文には平仮名を主とした口語体が用いられることになり、1946年11月には「当用漢字表」が公布されます。この当用漢字表以外の漢字のことは「表外字」と呼ばれるようになりました。
この漢字の制限は名前にも及びました。新たな戸籍法では「子の何は、常用平易な文字を用いなければならない」と定めらます。
ただし、当用漢字表には「藤、綾、乃、吾、彦、輔、寅、稔」などが入っておらず、国民から不満が出ます。このころには「だいすけ」なら「大助」でも「大輔」でもよいとはならず、「大輔」でなくてはという感覚が国民の間に定着したのです。
そこで昭和26年には右の漢字を含む「人名用漢字別表」が公布され、人名に限って使用できる漢字が当用漢字とは別枠で追加されました。
一方、苗字に使われる漢字については制限は行われず、「渡辺」の「邉」「邊」は残ります。平成になって戸籍のコンピュータ化を見据えて「夛田」の「夛」などの俗字を改め「多田」とするなどの整理が行われようとしますが、これも国民の反発で挫折しました。
活字ができ、戸籍名通りの正しい名前を書かなければならないという規則ができ、ワープロやパソコンが難しい漢字も表示するようになると、国民は自分の氏名の漢字にこだわり、その「正しさ」を主張するようになるのです。
明治の頃は「島田」でも「嶋田」でも「嶌田」でもよかったはずなのですが、これらは違う文字として認識されるようになります。
「遙」「遥」といった字形の異なる同一の字種も、それぞれ別の人名用漢字としてカウントされるようになり、人々はその違いにこだわるようになったのです。
子どもの名前に関しても個性を求める動きが強まります。
明治安田生命の調べによると令和4年の女子の名前ランキングの2位は「つむぎ」だそうですが、表記としては「紬」だけではなく「紬葵」「紬希」「紬生」「紡衣」などいろいろな表記があります。逆に「心愛」という名前もココア、ココミ、ココナ、ミア、ココロなどさまざまな呼ばせ方があり、子どもの名前に個性を持たせたいという親の思いが現れているとも言えます。
しかし、「読めない」名前の増加もあり、令和7年から戸籍にふりがなをつけることとし、あまりにかけ離れた読みに関しては規制をする意向を打ち出しています。
長々とまとめを書いてきましたが、本書には他にももっと細かい女性の名前のトレンドの話や、実印をめぐる話など興味深い話がたくさん載っています。本書の内容を2冊に分けて刊行してもいけたのではないかと思われる充実ぶりです(「女性の氏名」の話と「名前と漢字」の話に分けてもそれぞれが1冊になったと思う)。
冒頭にも書きましたが、いわゆる夫婦別姓をめぐる議論の前提をひっくり返してくれますし、また、最後の置かれた漢字の字形の問題なども含めて全体を通して非常に刺激的な議論が行われています。
- 2024年10月13日22:31
- yamasitayu
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