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山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

近年、注目を集めているエコノミストが「失われた30年」の要因と、現在の日本の経済状況の問題点を診断した本。
副題は「収奪的システムを解き明かす」となっていますが、人によっては「収奪的」という言葉から2024年のノーベル経済学賞を受賞したアセモグル、ロビンソン、ジョンソンの議論を思い起こすかもしれませんが、本書では現在の日本を「収奪的システム」とみなして議論を進めています。
議論は多岐に及んでおり、そのすべてが正しいかどうかを判断する力は評者にありませんが、少なくとも人々の肌感覚には合った議論が展開されており、著者が注目を浴びている理由というのはよくわかりました。

目次は以下の通り。
第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由
第2章 定期昇給の下での実質ゼロベアの罠
第3章 対外直接投資の落とし穴
第4章 労働市場の構造変化と日銀の二つの誤算
第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃
第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方
第7章 イノベーションを社会はどう飼いならすか

本書がまず指摘するのは、生産性が上昇したにもかかわらず実質賃金が増えていない近年の日本の状況です。
1998年を100とした場合、2023年までに時間あたりの生産性は累計で30%程度上がっていますが、賃金はほぼ横ばいで、23年はインフレの影響もあって98年に比べて3%ほど減少しています(24p図1−1参照)。24年の春闘では賃金の上昇が見られましたが、今までの物価高に対して十分なものとは言えません。

一方、アメリカでは98年以来、生産性が50%程度上昇し、実質賃金は25%ほど上昇しています(26p図1−2参照)。
ドイツやフランスと比較すると、時間あたりの生産性は独仏を日本が上回っているのですが、実質賃金では25%上昇したドイツ、20%上昇したフランスに遠く及びません(27p図1−3、1−4参照)。
生産性は上昇したのに実質賃金は上昇しない。日本は労働の成果が「収奪」されている社会になってしまったのではないか? というのが著者の問題意識になります。

なぜ実質賃金は増えないのでしょうか? 著者はこれを企業、特に大企業の姿勢に求めています。
企業の利益剰余金は2000年代の半ばから増えており、特にアベノミクスが始まってからは大きく増加し、1990年代末に130兆円程度だったものが2023年度には600兆円の大台に乗っています。それにもかかわらず実質賃金は上がっていません(32p図1−5参照)。
つまり、企業があげた利益が従業員に還元されていないのです。

借入を行なって投資の主体となるべき企業が、日本では1998年以降、フローでは一貫して貯蓄主体になっています。
この背景には不良債権問題があったわけですが、この問題にある程度目処がついた後も企業は貯蓄を増やしています。
この企業の過剰貯蓄を吸収するため、著者は政府が拡張政策を進めることも外需を拡大するために金融緩和をすることも理にかなっていたと考えていますが、それは2013年以降ではなく、90年代後半の金融危機のときに行うべきだったと考えています。

企業は基本的に守りの経営に入り、アベノミクス以降の景気拡大局面においても国内ではなく海外で投資を増やす姿勢を見せました。
この背景には人口減少による国内市場の縮小もありますが、著者に言わせれば生産性が上がり実質賃金が上がるのであれば国内市場はまだ拡大するはずで、企業が賃金の伸びを抑え込んでいることが国内市場の停滞の要因だといいます。

青木昌彦はメインバンク制が日本の長期雇用を支えており、メインバンク制が崩壊すれば長期雇用も崩壊すると考えていましたが、実際にはそうなりませんでした。
メインバンク制が崩壊した後も、日本企業は長期雇用を維持しようとし、そのために危機に備えて利益剰余金を溜め込む経営をするようになりました。
この時期はコーポレートガバナンス改革が進んだ時期で、企業は配当を増やしましたが、日本の家計の貯蓄は銀行預金が中心であり、その配当が家計に恩恵を与えることは少なかったのです。

また、この時期に進んだのが非正規雇用の拡大です。企業は長期雇用を維持しつつ、その調整弁として非正規雇用を活用し、さらにその賃金も低く抑えることでコストカットを進めました。
小泉政権は、社会保障の財源として消費税の増税ではなく社会保険料の引き上げで賄う方針を立てましたが、これも企業の非正規への切り替えを進めるきっかけとなり、非正規から「収奪」するような仕組みが出来上がっていきました。

では、なぜ実質賃金が増えないのに労働者から強い不満が起こらなかったのか? この問題について著者は濱口桂一郎『賃金とは何か』(朝日新書)で示されたカラクリを使って説明します。
バブル崩壊以後、日本企業はベースアップ(ベア)を凍結し、人件費の上昇を抑え込みましたが、大企業に勤めるサラリーマン個人には定期昇給があります。
つまり、ベアがゼロでも1年経てば給料は定期昇給分、例えば2%程度上がっていくわけです。物価上昇率はほぼゼロとなっていましたから、個人の体感としては実質賃金は2%程度上がっている感覚を持てるのです。
最近になって名目賃金は上がっていますが、この伸びは物価の伸びを上回るものではなく、結果的に実質賃金の低迷は続いています(81p図2−4参照)。

この仕組みによって、大企業の正社員などは、一国全体で実質賃金が全く上がらずに社会全体が豊かになっていないことに無自覚になりました。
しかし、現在の課長や部長は四半世紀前の課長や部長と比べてその実質賃金は明らかに低くなっています。
こうした実質賃金の低迷がもたらしたものがインバウンドブームだとも言えます。実質賃金が停滞し続ける日本は、実質賃金が伸びている国に比べて明らかに「安く」なったのです。
近年の円安は第一次所得収支の黒字を押し上げており、貿易収支が赤字であっても高水準の経常収支の黒字が維持されています。
国内市場が伸びなくても、企業は海外投資からの収益で利益を計上し、株価も高い水準で推移しています。

しかし、著者はこの状況は必ずしも好ましいものではないとしています。
まず、企業の海外直接投資の収益率はそれほど高くないといいます。「海外直接投資収益率」は90年代末以降の平均で7%程度と高い数字になっていますが、損失(キャピタル・ロス)を含めると4%台まで低下します。
もともとM&Aでは、買い手側は売り手側よりも情報を持っていませんし、オークション的なメカニズムで価格が釣り上げられる傾向があります。しかも、日本企業が海外の企業を買収する場合、持っている情報の格差はより大きくなります。
実際、報道などを見ていても、海外投資の失敗で特別損失を計上するケースはしばしば目にします。

それでも、この間続いた円安傾向は海外投資の収益を押し上げました。
以前は、海外の資金を国内に韓流する動きが円高をもたらすこともありましたが、近年では過大なほどの自己資本が存在するためにこういった動きもなくなり、円安が定着しています。
この円安を支えたのが日銀の異次元緩和です。金融緩和は資本コストを低下させ、設備投資を促進することを目的としていますが、企業が貯蓄主体となっている今、金利の低下が設備投資を刺激する効果は低くなっています。

日銀の狙いには円高にさせないということもありましたが、著者はもはやその心配はないと考えています。
2022年に起きた資源高による交易条件の悪化を円安がさらに促進させる状況になっており、日銀は今までのような緩和策を続けるべきではないというのが著者の考えです。

本書は実質賃金の低迷を問題視していますが、「人口減少に伴う人手不足があるのだから実質賃金は上昇するはずでは?」と考える人もいると思います。
実際、06年以降を見てみると、2014年と19年の消費税増税による実質賃金の目減りはあるものの、10年代後半の実質賃金は上昇傾向にありました(132p図4−1参照)。
ただし、この時期は雇用延長による高齢者の労働参加率の向上、女性の労働参加率の向上によって人手不足の穴が埋められており、実質賃金の伸びは抑えられました。

この新たな労働力の供給が日銀にとっては誤算だったと著者は考えています。
日銀は団塊世代の退職とともに(2012〜14年にかけて)、深刻な労働力不足が発生し、賃金も物価も上がると考えていましたが、実際は高齢者や女性の労働参加率の上昇でそうはならなかったというのです。

工業化による経済成長が始まってもしばらくは農村から余剰労働力が供給され実質賃金は上がらないが、農村の余剰労働力がなくなると実質賃金が上昇し始めます。これを「ルイスの転換点」といいますが、この高齢者や女性の労働参加が頭打ちになる点を「第二のルイスの転換点」と呼ぶ議論もあります。
コロナ禍以降の人手不足については、この「第二のルイスの転換点」を迎えた可能性もあるのです。女性の労働参加率は上昇が続いていますが、短時間勤務が中心で一人当たりの労働時間は減少トレンドが続いています(142p図4−3参照)。
結果として、実質GDPを1単位生み出すための労働コスト(ユニットレーバーコスト)も上がっています。生産性の向上も足踏みしているようなのです。

一方、「企業利益÷実質GDP」で計算される実質GDP1単位あたりの利益であるユニットプロフィットは2020年ごろまでは交易条件の悪化とともに低下傾向にありましたが、2022年以降は交易条件が悪化しているにもかかわらずユニットプロフィットは向上しています(160p図4−8参照)。
これは22年以降、企業が商品の値上げを行うようになったためで、コストの増加以上の値上げも行われていると考えられます。
日銀は物価と賃金が手を取り合って上昇していくことを考えていますが、実際は物価の伸びに賃金は置いていかれる状況となっており、GDPは伸びても消費者にとっての消費者余剰は縮小しているような状況だというのです。

「失われた30年」の原因についてはさまざまな見方がありますが、著者が注目している要因が1990年前後に導入された週40時間労働への以降です(それまでは48時間)。
2002年に発表された林文夫、エドワード・プレスコットによる論文「失われた10年ーー1990年代の日本」、不況の原因は生産性の低下と労働投入量の減少で説明できるとして、不良債権問題こそが原因と見ていた多くの経済学者に衝撃を与えました。
林・プレスコット論文では生産性の低下に重きが置かれていましたが、著者は労働投入量の減少に注目します。

1980年代には4%台だった日本の潜在成長率は90年代に急速に低下し、90年代末には1%を下回ります。これを寄与度で分解すると90年代と00年代に労働投入がマイナスになっていることがわかります(180p図5−3、図5−4参照)。
90年代はまだ少子高齢化の影響は出てませんので、この労働投入の減少は週48時間労働から週40時間労働への移行が影響していると考えられます。完全実施までは6年間の期間があったとはいえ、労働時間の20%減少は日本経済に大きな影響を与えたはずで、賃金の低迷の一因にもなったと考えられます。

この「働き方改革」は残業規制ということで現在も進行中です。紹介の順番は前後しますが、第4章では2020年に中小企業にも広まった残業規制が、2023年にコロナ禍の終焉とともに影響を発揮し始め、日本経済の供給制約とコスト高につながっているというのが著者の見立てです。

日本経済の長期低迷の要因にはコーポレートガバナンスの問題もあるといいます。
日本ではバブル崩壊とともにメインバンク制も崩壊し、株主の利益をより重視する経営へと舵が切られましたが、これが問題含みのものだったというのです。

企業経営者は株主のために四半期ごとに利益をあげ、高い配当を支払う必要があります。
その時に、安易に人件費削減などのコストカットが優先され、また、一見して収益の高い海外での投資が選択されました。その結果、国内市場は冷え込んで、ますます人件費の抑制や海外投資が選択されるようになってしまったのです。

新しくできた企業に対する株式投資はその企業が投資をするための資金調達となりますが、既存の企業の株式については、著者は企業の利益を株主が抽出する役割が大きいといいます。
アメリカ流の株主の利益を最大化するのが良いことだという経営が日本でも広まったことにより、企業は長期的な投資や人的資源への投資ができにくくなっているというのです。

続いて、雇用制度についても触れ、「日本企業に現在の米国の典型的なジョブ型雇用を導入すると、恐らくは、一発屋やゴマスリ屋ばかりが社内に跋扈するようになって」(221p)とありますが、このあたりの理屈はよくわからなかったです。

最後に本書はイノベーションについて触れています。
イノベーションは経済成長に欠かせないものですが、イノベーションが必ずしも人々の生活を豊かにするとは限りません。アセモグル&ジョンソンがいうように、人々に負担や苦痛を強いる収奪的イノベーションもあります。
例えば、第一次産業革命も当初は実質賃金の低下をもたらし、その恩恵は一部の資本家のみが得ていました。この恩恵が多くの人に行き渡るようになったのは蒸気機関車によって大量輸送が可能になってからで、交通インフラの拡大とともにさまざまな仕事が生まれ、ようやく実質賃金も伸びていったといいます。

近年ではIT分野、現在は特にAIの分野でのイノベーションが注目を集めていますが、その果実が広く行き渡っているかというとそうとは言えません。
イノベーションが盛んなアメリカを見ても21世紀になって上位1%と下位50%の格差が拡大しており(246p図7−1参照)、産業革命時に労働者の実質賃金が切り下がったように、自動化とともに中間的な仕事がなくなり、実質賃金も低迷してるのです。
著者は収奪的になりやすいイノベーションを社会で飼い慣らし、コントロールしていくことが必要だと考えています。

このように本書は近年の経済情勢だけでなく、「失われた30年」、さらにはイノベーションをめぐる歴史にも触れており、読み応えのある内容になっています。
ただし、全体を通して見ると、前半の企業が従業員の賃金を上げてこなかったのが景気低迷の要因だという議論と、後半の働き方改革で供給制約がかかっており、それがコスト高と物価高につながっているという議論のつながりがややわかりにくく感じました。
労働供給の減少が物価高に影響を与えるほど大きいのであれば、いくら企業が賃金を抑え込もうと思っても賃金は物価上昇に負けないレベルで上がるのではないか?とも思うのですが、どうなのでしょうか(もちろん、最近の初任給の上がりぶりなどを見ると、すでにそういう力が働いているという見方もできると思う)。
最初にも述べたように、著者の分析が正しいのかどうかは判断できない部分はありますが、一般の人も受け入れやすい議論がなされており、著者に人気がある理由というのは十分にわかると思います。

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