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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2020年08月

8月最終日となりました。来月は20日から授業開始となりますが、その前に、4月にできなかった大学1年生向けの対面ガイダンスや、大学院入試など、諸々始まります。

私の勤め先の大学は、演習などの実習授業を中心に、全14回(1授業:100分)中、4回にかぎり、対面授業を認めることになりました。学生へのアンケート結果を見ても「対面授業」を希望する学生は多いです(特に新入生)。

私も演習授業については、一部対面を取り入れる形でやる予定です。もちろん、学生側にも個別の事情がありますから、来られない場合は、これまで通りオンラインで参加できるよう調整します。新たに広角用(ゼミの様子など広く映せる)のWEBカメラも準備しました。秋学期も試行錯誤になりそうですが、がんばります。

それからブログの方も、こちらの日常雑記的な内容とは別に、新たなブログを準備中です。タイトルは「歌よみ源氏物語」(歌とイラストで読む源氏物語)です。
PC表紙
(PC表紙。更新日は書きかけの絵をあげていたので翌日UPし直しました。スマホ版は絵が少し変わります。「光源氏」のつもりです。)

内容は、平安中期(1008年頃)に紫式部によって書かれたとされる『源氏物語』について、和歌をとりあげつつ、その内容を首巻である桐壺巻から解説していきます。今まで「なんとなく内容は知っている」「授業で一部だけ勉強した」「タイトルと主人公の名前くらいしか知らない」─でも、興味はあるし、もっと知りたい、といった方に向けてのものです。

実は昨年末から今年度にかけて、様々な『源氏物語』初学本、もしくは古典のあり方を考える本が出版されました。これは、やはり2022年度から高校で導入される「新学習指導要領」を意識してのものだと思います。これまで古典の科目は、「国語総合」と「古典A・B」の中で学ばれてきました。それが2年後、「現代の国語」と「言語文化」という必修科目の内、後者に分類され、さらに選択科目(「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」)の一つとなります。実質的に、文学的な国語、また古典や漢文を学ぶ時間は現状より少なくなると考えられています(詳しくは、こちらにわかりやすく解説されています。→https://note.com/ngomibuchi/n/n1772700fda5a)。

また、文学や古典を実学的な文章と対置させるようなあり方、またそれらを軽視するようなあり方に、見直しを迫る声も各方面から上がっています(→「国語系諸学会の見解」→「日本文藝家協会の声明」)。これらは、これまでの「センター試験」に代わる「大学入学共通テスト」の出題内容とも関わり、昨年大きな話題となりました(現状、大学入学共通テストの国語と数学の記述式については、多くの問題点から見送られています)。

確かに、学校における学び方、内容、試験、については、その時代において、検証し、変えていく必要があると思います。特に古典の場合、「現実には使わないのに、文法重視(暗記)で何のために学ぶのか疑問」といった声はよく聞きます。それは大学の入試問題に原因があるでしょうし、近代的な(文字面だけを追う)読書のあり方と同じ方法で教えようとする教育現場の問題でもあります。アクティブ・ラーニングが叫ばれて久しいですが、もっと柔軟な「学びの場」を考える必要があるのかもしれません。

ということで、私も早速「実践あるのみ」です。およそ「書籍」ではなく、まずは「電子媒体」で「講座」のような「通信」のような形で「古典」の内容に触れられる場を提供したいと思いました。原文は少なめですが、ネット上であれば、わからないことはすぐに調べられますし、こちらも情報をリンクとして貼り付けやすいという利点があります。まずは「読めなくて難しい」というところから「親しみ」をもってもらえるようなサイトを目指します(実質そうなるかはちょっとわかりませんが)。

来月24日から公開予定です。こちらも本ブログとあわせ、よろしくお願いします。




前回の続きです。幽霊画展を見た後は、スカイツリーの下にある「すみだ水族館」に行ってきました。今年は首都圏のいくつかの水族館が、クラゲブースを新しくしていて、「すみだ水族館」もシャーレのようなクラゲ水槽(クラゲを上から見られる)を新設したことで話題になっていました。クラゲ好きの家族も大喜び。

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(クラゲの天の川みたいです。色はさまざまに変わります)

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(六つ葉ちゃんもいました。水クラゲはおよそ四つ葉ちゃんです)

「すみだ水族館」は、「東京金魚プロジェクト」をやっていて、金魚もいます。その展示方法は、江戸情緒あふれる感じで、ステキでした。

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(上からつりさがっている金魚の紙風船がなんともいえないイイ味に)

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(タンチョウです。下の模様が波紋みたいに見えます。)

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(写真は撮り忘れましたが、「すみだ号」ありました。金魚の屋台です。)

金魚はうちにもいますが、もうすぐ我が家に来てから1年になります(→そのときのブログはこちら。http://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/20049167.html)
去年、「アートアクアリウム2019」を見に行ったときは、「金魚」と「花魁(おいらん)」がテーマになっていて、圧巻でした。今年も8/28から開催されますhttps://artaquarium.jp/。というか、常時見られる「アートアクアリウム美術館」として、今年8月から開館するようです。去年はものすごい混雑でしたが、いつでもゆっくり見られるようになるといいですね。こちらは、観賞魚としてのはかなさと艶やかさ、それが花魁と重ね合わされていますが、すみだ水族館の「江戸の庶民文化」「平和の象徴」というコンセプトも、親しみやすくてとても良かったです。

そういえば、花魁、いわゆる遊女(名前は勝浦)が幽霊になる話が、「壺菫」(「つぼすみれ」初期江戸読本怪談集の一篇)に出てきます。そしてその場面は、『源氏物語』夕顔巻で、夕顔がもののけにとり殺される場面とよく似ています。

やうやく内へいりて、おくへゆかんとするに、影のごとくなる女、火かげに見えてふと消えぬ。「まさしく勝浦が魂(たま)の来たりしならん」と思ふに、いとあさましく、まづお舟殿のきづかはしさに、走りよりて、「いかにいかに」と呼べど、息も絶えたり。かき抱きて呼べど、ただなよなよとしてかひなし。

女性の霊が女性にとりついて殺す、というパターンは、『源氏物語』夕顔巻が最初なのかもしれません。以下は夕顔巻。

......ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られ給はず、添ひ臥して「やや」とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。

この場面の前後も、表現の似ているところがあって、影響関係は明白。秋学期は、夕顔巻の演習で、いよいよもののけ登場場面を読んでいくことになりますが、楽しみですね。

最後に、冷えた空気を少しあたためるべく、家族が画いた金魚図です。

金魚の日常

上記のような金魚鉢、「すみだ水族館」の「金魚鉢ソーダ」を頼むともらえます。


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左が金魚鉢ソーダ。中に赤い金魚を模したゼリーが入っています。右は水クラゲゼリーです。美味でした。

ちなみに「すみだ水族館」は、入場制限をしており、整理券が必要です。行かれる際は、ご注意ください。

家族の夏休みも残り少なくなってきました。なるべく人ごみを避け、「避暑」となるところへ、ということで、幽霊画、見てきました。元は「怪談牡丹灯籠」などの原作で知られる落語家・三遊亭円朝(1839-1900)のコレクションです。

台東区の「全生庵」というお寺で、8/31まで、幽霊画展をやっています。https://bijutsutecho.com/exhibitions/4205

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(入り口はこんな感じです)
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(受付を済ますとパンフレットとドクロ柄のうちわをもらえます)
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(購入したクリアファイル。左側が円山応挙の幽霊画(一部)です)

家族は、「びじゅチューン」https://www.youtube.com/watch?v=-Gl1ausEkXI(←YouTube NHKより)でお馴染みの丸山応挙が画いた「幽霊図」に興奮。
室内はひんやりしていて、怖さ倍増(?)。いえいえ。全体的に透き通った感じとモノトーンのイメージで涼しくなりました。女性を描いた幽霊が多かったのも印象的で、どこかはかなく美しくさえ感じました。またダイダラボッチのようなユーモラスな絵も楽しかったです。

平安文学で幽霊といえば、いろいろいますが、今日は『篁物語』の幽霊をご紹介。

火を消ちて見れば、そひ臥す心地しけり。死にし妹の声にて、よろづの悲しきことを言ひて、泣く声を言ふとも、ただそれなりければ、もろともに語らひて、泣く泣くさぐれば、手にも触らず、手にだにあたらず。

『篁物語』の主人公・小野篁とその異母妹は恋愛関係になり、その後、妹は亡くなります。通夜の晩、篁が火を消すと、隣にだれか添い臥している感じがします。亡くなった妹の声でたくさんの悲しみが言い述べられ、篁は一緒に語り合います。泣く泣く篁がその存在を確かめようとすると、手で触れることはできません。まさに「幽霊」!
篁と妹の霊
(歴史上の人物の悲恋を描く『篁物語』ですが、フィクションだと言われています)

少し涼しくなったところで、言問橋を渡り、墨田区へ。つぎはどんな納涼に?次回、お楽しみに。




先日、世田谷の松陰神社前を散歩してきました。私の家族の友人が経営するお店がこの界隈にあり、数年前から立ち寄るようになりました。ちょっと昭和のノスタルジアが感じられる通りでもあります。

参道を行くと松陰神社、そして境内には松下村塾の講義室を復元した建物も。こんな感じです。
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(このようなところで幕末の志士たちが勉強していたのですね。)

大学では秋学期も基本的に「オンライン授業」と決まりましたが、大教室の教壇に立つ前のちょっとした緊張感や、演習で江戸時代の版本を回覧した時のことなどが懐かしく思い出されます。学生のリアクションペーパーも、電子データの方がまとめやすいのは確かですが、手書きの文字の方が書き手の人となりも見えていたような気がして......少しさみしい気分になりました。

ちなみに私が思いつく平安時代の講義といえば、やはり『紫式部日記』に書かれている『白氏文集』の「楽府」(がふ)進講でしょうか。一条天皇の后であった彰子(藤原道長の娘)に、紫式部が唐の詩人・白居易の漢詩文集を講義します。その様子はこんな感じ。

宮の御前にて『文集』の所々、読ませ給ひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、をととし(一昨年)の夏ごろより、「楽府」といふ書二巻をぞ、しどけなながら教へたて聞こえさせてはべる、隠しはべり。

こっそりと、密かに、二人だけの時を見計らって、紫式部から漢詩の講義を受けていた彰子。紫式部自身は、その才能を妬んだ他の女房から「日本紀の御局」(にほんぎのみつぼね)というあだ名をつけられ、嫌な思いをしていました。そのため、漢字については読めないふりをしていたようですが、講義は彰子の希望で実現しました。
紫式部の講義
(手前が紫式部。奥にいるのが彰子のイメージです。それぞれ屏風や几帳に隠れています)

主人と仕える女房という立場ではありましたが、ここでは若い彰子が紫式部から学を授けられる関係に。女性が漢籍を教え、習うというあり方は、当時からするとかなり異質なことだったのかもしれません(だからこっそり)。それでもこのように書き留められているところを見ると、作者にとっても誇らしいことだったのでしょう。

さてさて、最後にちょっと涼しくなるお話。神社からの帰り際、拝殿を撮影したら、ご神体の鏡に不思議な影が。
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(左下の看板の影かもしれません。家族は「松陰先生だよ!」と。)

真偽のほどはいかに。そういえばお盆の時期でした。

毎日猛暑が続いています。そんな中、家族に譲ってもらったチケットでお能を見てきました。「源氏供養」です。
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(絵は舞う紫式部。後方に地謡の人たちがいましたが、マスクのような布をつけていました。入り口では検温、アルコール消毒と対策はバッチリです)

中世において、作者である紫式部は、『源氏物語』という作り物語(虚構や文飾)で人々をたぶらかした狂言綺語(きょうげんきぎょ)の罪で、地獄に墜ちているという見方が出てきます。そのような作者の霊を救うべく、「源氏供養」という形で法会が行なわれていました。現世での「色恋」を扱う『源氏』は、仏教の世界からは、非難の対象になりますが、作者を救うべく法会が行なわれるということは、それだけ作品の愛好者がいた証でしょう。私は、この「源氏供養」(法会)の趣旨文である「源氏物語表白(ひょうびゃく)」(安居院聖覚・作)に解題と注釈をつけたことがあります。
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(もう新本は出てないので興味のある方は古本屋か図書館でご覧下さい。日向一雅編『源氏物語と仏教:仏典・故事・儀礼』(2009年3月青簡舎)所収です)

この表白には、源氏物語五十四帖の巻名が登場し、その巻名(傍線部)に絡めて仏教の理(ことわり)を述べるに留まらず、和歌の修辞や物語表現が駆使されています。たとえば冒頭の一文桐壺(きりつぼ)の夕の煙すみやかに法性の空にいたり、帚木(ははきぎ)の夜の言の葉つゐに覚樹の花を開かん。」は、『源氏物語』に書かれている事(桐壺更衣の死と雨夜の品定)が、それぞれ仏の真理に達することを示しています。そして最後は「南無西方極楽弥陀善逝、願はくば、狂言綺語のあやまちをひるがへして、紫式部が六趣苦患を救ひ給へ。南無当来導師弥勒慈尊、かならず転法輪の縁として、是をもてあそばん人を安養浄刹に迎へ給へとなり。」とあり、作者のみならず、これを「もてあそばん人」(読者)をも救われるよう願われているのです。

この「源氏供養」をテーマとして作られたのがお能の「源氏供養」です。安居院(あぐい)の法印(大和尚)が、石山寺に参拝しようとすると里の女が現われて『源氏物語』の供養を頼み、自分が紫式部であることをほのめかして消えます。その後、紫式部の霊が現われ、お布施の代わりに源氏表白に合わせて舞を舞います。最後にこの紫式部は石山寺の観音の化身であったと明かされますが、作者に対する当時の人々の親しみがうかがえますね。

私はこの「源氏供養」の番組のみ鑑賞しましたが、次の番組は「葵上」でした。こちらも源氏能で、前に幾度か鑑賞しています(→「葵上」についての前記事はこちらhttp://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/15495807.html )

能は、「死者」や「神」「精霊」といった目に見えない存在と「僧」などとの語らいを描く「夢幻能」が有名ですが、毎年日本ではお盆の時期が近づくと、それらの話題も多くなります。今年は「帰省」も難しい様相ですが、自分とは違う世界にいってしまった人のことを考え語り合うことこそ、供養になるのかもしれません。

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