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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2019年04月

いよいよ平成最後の日。といっても、あまり実感はなく、いつもと同じように過ごしています。
いま家族が一般向け歴史系出版物の監修をしているのですが、そこに百済(くだら)太子・余豊璋が出てきました。古代、日本は朝鮮半島南部にあった加耶諸国と関係が深く、その後、同半島の新羅や大陸の唐と対抗すべく、朝鮮半島にあった百済国と親しい関係にありました。その太子が、日本に来て、養蜂をやっていたことが次のように、『日本書紀』に出てきます。

是歳(皇極天皇2年/643年)、百済太子余豊、蜜蜂房(みつばちのす)四枚を以って、三輪山に放養す。しかれども終に蕃息(繁殖)せず。

この直前、聖徳太子の息子であった山背大兄王が謀反の疑いをかけられ自害します。上記の記事は、そのことと関わるのかもしれません(父であった聖徳太子は、百済から渡来した仏教を厚く信仰していました)。

この二十年後、白村江の戦いで、日本・百済連合軍は、新羅・唐連合軍に破れ、百済は滅亡します。それでも日本に渡来してきた多くの百済人は、日本にたくさんの技術・文化を伝えてくれるのです。

古い書物を紐解くと、今とは異なる隣国との関係が見えてきます。そういえば、今年のゼミには、「K-POPのファンです!」という学生が数名いました。政治や経済の問題とは別に、感覚的に親しみを覚えることがあっても不思議ではないのかも。

新元号「令和」の出典、『万葉集』の梅花の宴も、アジアとの交流の窓口・大宰府で行われていました。元号で盛り上がるのもいいのですが、特に『万葉集』は漢字を借りて日本語を表現したもの。序文についても、漢文で書かれています。日本文化の多様性は、諸外国との交流の中に生み出されてきたものであることを、忘れずにいたいものです。

古墳のどらやき

古墳の焼印が押されたどらやきをいただきながら。


ゴールデンウイーク直前、新年度の慌ただしい最中ではありますが、4月の演習授業では、たびたび五島美術館へ足を運んでいます。

国宝・源氏物語絵巻の展示は、毎年GW中の1週間くらい。ですので、今回見られたのは、その模写ですが、実に精巧にできていて驚きました。

今回の展示テーマは「和と漢へのまなざし」。平安時代の逸品、伝藤原行成、伝藤原公任筆の和漢朗詠集の切れが見事でした。

平安時代は料紙と呼ばれる紙へのこだわりが強く、色紙、継紙、唐紙など、大変美麗です。

またくずし字の文字も優雅。漢字とは違った繊細さ、柔らかさを感じます。

他にも、道長自筆の金峯山埋経、伝大弐三位(紫式部娘)筆の歌集、おなじみの三十六歌仙絵(紀貫之)なども出ていました。

展示はいつもながら大変充実していましたが、こちら、お庭も素敵です。

牡丹(ピンク)


牡丹(白)


ツバキ(光源氏)


(ムラサキシキブ)


ツツジの道


「光源氏」という名のツバキはもう花がなく、「ムラサキシキブ」という花木もまだ咲いていませんでした。でも雨露に濡れた牡丹の花と、ツツジの色鮮やかさがまぶしい午後でした。

皆さんも、十連休のうちに足を運んでみてはいかが。今日からは、源氏物語絵巻の本物が展示されています。

先日、NHK教育テレビをつけていたら、そのまま「忍たま乱太郎」が始まりました。このアニメは戦国時代を舞台としていますが、なんと学芸会で「源氏物語」をやる、という展開に(以下、この話ネタバレになります)。
忍たま乱太郎
(中央が乱太郎、左がきり丸、右がしんべヱです)

クラスの学芸会の出し物については、乱太郎らが「かえるの合唱」を提案し、それに対して学級委員の正左ヱ門(しょうざえもん)が「源氏物語」をやろうと言い出します。真面目な学級委員(でも本当は光源氏役をやってモテまくりたいと思っている)は、実際の貴族に取材をしに行きます。


ここで出てくるのが、貧乏貴族「南野園是式」(なんのその・これしき)。確かに戦国時代、貴族の中には流浪を経験したり、生活のために大名とのつながり持ったりする者がいました。でも自ら鍬をもって畑を耕すのはちょっとやりすぎかなとも思いましたが、一応、貴族の雅な生活として「蹴鞠 舟遊 鳥合 和歌を詠む」といった例を挙げ、昔を懐かしむ様子も描かれていました。

また気になったのは、この貴族、顎が長い!──以前、スタジオジブリで作られた映画「かぐや姫の物語」に登場する帝の影響を受けているのか、じつに立派な顎でびっくりしました。→「かぐや姫の物語

結局、演目はどちらにするのか、決めかねていたところ、突然、雨が降ってきます。そこでなぜか「両方やろう!」となり、貴族の装束に身を包んだを面々が「かえるの歌」を歌い出す、という結末に。

この場面どこかで見たことあるな......と。そうだ花札の「雨」(柳と小野道風)だと。

花札でいうところの通称「雨」札には、笠を持った貴族と柳、蛙が描かれています。この札の構図は、江戸時代の浄瑠璃「小野道風青柳硯」が基になっているとの説がありますが、なんだか「忍たま」のお話の最後は、この絵に似ていて、面白かったです。

ちなみに「小野道風」と言えば、三蹟の一人、平安時代の書の達人です。『源氏物語』絵合巻には「絵は、常則、手は、道風なれば、 今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ。」と、物語に出てくる『うつほ物語』絵巻の詞が、小野道風によって書かれていたとあります。


先日から新元号「令和」が世間をにぎわせています。私は今のところゴールデンボンバーの歌「令和」&人間習字に一番驚きました(曲作りの早さと体を張ったパフォーマンスに)。そういえば、その日家族が作ったクッキーにも「令和」の文字がありましたね(その写真は最後に)。

連日、職場では新入生のガイダンス行事が続いており、教員全員が学生の前で自己紹介を兼ねて、自分の専門分野や授業の内容を説明しています。私の所属する日本文学専攻には、すべての時代(+国語学・中国文学)の専任教員がそろっていますが、時代別にいうと、上代・中古(平安)・中世・近世・近現代に区分されます。

私の専門分野は「中古」(平安時代794年〜)で、奈良(平城京)から京都(平安京)に都が移り、鎌倉幕府ができるまでのおよそ400年になります。

そして万葉集が成立した、もしくは万葉集に収録されている歌の時代は、いわゆる「上代」と呼ばれるもっとも古い時代区分で、平安時代より前になります。

実は、日本史では「上代」と「中古」の時代をあわせて「古代」とするのですが、文学では二つの時代区分をしています。そのあたりが混乱の元なのかも知れませんが、同僚の先生のお話で、とある番組で「梅の花と言えば菅原道真の歌「東風吹かば〜」の歌がありますが、なぜこの歌は万葉集に採られなかったんでしょうかね」と言っていたコメンテーターがおり、その場でその誤りを誰も指摘しなかった、とのこと。ええッ、先日、たしかに私もこのブログで「梅といえば」ということで、以前書いた「道真の梅」の話にリンクを貼りましたが、同時代の意味で書いたのではありません。なぜなら万葉集の時代、菅原道真(845-903)はまだ生まれていませんから。

ちなみに私はよく平安時代の女性をこのブログに画いていますが、万葉時代の女性(下記は女官)は、こんな感じです。
万葉時代の女官
(女性天皇もいた飛鳥・奈良時代。服装も平安時代より動きやすくみえます)

より古い時代(飛鳥時代)は、右側の方で、左側の袴スタイルの方が少し平安装束に近い感じです。それでもだいぶ平安時代とはイメージが異なります。十二単の装束は、重ね着により動きにくいし、なにより髪が大変長くなります。

また奈良時代には盛んに諸国を巡幸していた天皇も、内裏からほとんど出なくなります。女性貴族もむやみに姿を見せてはいけない、立ち姿ははしたない、など、さまざま女性にとっては不自由な慣習もできていくのですが、そのような中『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『枕草子』『源氏物語』と、女性の手になる作品が次々と生み出されていきます。この時代にこれだけの作品が女性の手によって成されたことは、世界的にも類を見ません。

「書くこと」(歌うこととは異なる)は、彼女たちにとって己や人々をなぐさめ、社会的にも様々な問題提起となったように思います。そして文学が「上代」と「中古」に分かれるのは、平安時代における「ひらがな」の発明により、「書くこと」が女性たちに開放され、たくさんの新しい文学作品が生み出されたことによるのです。

それまで、日本独自の文字はなく、「漢文」は主に男性が使うものとされていました。また万葉集の歌も漢字の音や意味を借りて日本語を表記しています(例「宇梅能波奈」うめのはな)。これらは「万葉がな」と呼ばれますが、それらも「ひらがな」への第一歩でした。

四千首もの和歌を収録した『万葉集』は確かにすごい歌集です。ですから、その歌が作られた背景や、その時代の文化についても知ってほしいように思います。私の専門とする時代より古い時代の歌集ですが、『源氏物語』にも万葉歌の引用はありますし、それらの歌を源泉としつつ、後世、新たな和歌もたくさん作られました。

梅花の宴の舞台として現在「大宰府」が注目されていますが、ぜひ「奈良の京」にも足を運んでほしいですね。

はい。最後に「令和クッキー」です。
「令和」クッキー

〈参考〉風俗博物館「日本服飾史」



新元号が発表されました。歴史の研究者である家族にもこれまで様々取材があったようですが、「史書」からではなく日本の「古典」からの出典で、どうも各局大慌ての様子(スタジオに呼ばれていた歴史の専門家だけでは適切なコメントはできない感じ)。

万葉集巻第五「梅花の歌三十二首せて序」の「序」からこのたびの元号はとられています。この序文が以下の通り。

天平二年(730)正月十三日に、帥の老の宅にあつまりて、宴会をひらく。時に、初春の月にして、気淑く風(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。加之、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋傾け、夕の岫に霧結び、鳥は、穀に封めらえて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋とし、地を座とし、膝を保け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきまま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのべむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。

上記のうち、披露されていたのは、「月にして、気淑く風(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」の部分ですが、実際はこれほどの長さになります。「帥」とは、大宰府の「帥」(長官)のことで、ここでは大伴旅人を指します。旅人の邸宅に集まって、梅花を見ながら宴会をし、そこで詠まれた三十二首の短歌の序文として置かれているのが上記の文章です。

たとえば主人である旅人は「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」という歌を詠んでいます。この時代の梅はどちらかというと外来のエキゾチックな花、という印象で、大宰府(現在の福岡県太宰府市)という場所からしても外国との交流の窓口、私にはアジアンなイメージがあります(国風という印象ではない)。→大宰府の梅については道真とのつながりも......「梅ヶ枝(うめがえ)餅

元号の出典が日本の古典であったのは研究者として喜ぶべきことですが、ただ気になるのは本当に万葉集は「天皇から庶民まで」の歌集であったのかというところ。勉誠出版『古典文学の常識を疑う』品田悦一氏の項目に詳しいですが、この国民歌集としての位置づけは、明治時代の中期にナショナルアイデンティティ発揚の意図によるとの指摘があります。また万葉集が貴族の編纂物である以上、東歌や防人歌にしても、それらがそのまま本当に採られたものかについても疑う余地があるでしょう。

『古典文学の常識を疑う』については、私も執筆しましたが(続編ももうすぐ出ます)、ぜひこの万葉集の項目は皆さんに読んでもらいたいと思います。(ちなみに上記序文の出典については津田博幸氏がツイートされています)
[画像:古典文学の常識を疑う]

それにしても、これを契機にみなさんが「古典」への興味を深めてくれるとうれしいと思わずにはいられません。

〈参考〉中西進『万葉集』(講談社文庫)

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