先日から新元号「令和」が世間をにぎわせています。私は今のところゴールデンボンバーの歌「令和」&人間習字に一番驚きました(曲作りの早さと体を張ったパフォーマンスに)。そういえば、その日家族が作ったクッキーにも「令和」の文字がありましたね(その写真は最後に)。
連日、職場では新入生のガイダンス行事が続いており、教員全員が学生の前で自己紹介を兼ねて、自分の専門分野や授業の内容を説明しています。私の所属する日本文学専攻には、すべての時代(+国語学・中国文学)の専任教員がそろっていますが、時代別にいうと、上代・中古(平安)・中世・近世・近現代に区分されます。
私の専門分野は「中古」(平安時代794年〜)で、奈良(平城京)から京都(平安京)に都が移り、鎌倉幕府ができるまでのおよそ400年になります。
そして万葉集が成立した、もしくは万葉集に収録されている歌の時代は、いわゆる「上代」と呼ばれるもっとも古い時代区分で、平安時代より前になります。
実は、日本史では「上代」と「中古」の時代をあわせて「古代」とするのですが、文学では二つの時代区分をしています。そのあたりが混乱の元なのかも知れませんが、同僚の先生のお話で、とある番組で「梅の花と言えば菅原道真の歌「東風吹かば〜」の歌がありますが、なぜこの歌は万葉集に採られなかったんでしょうかね」と言っていたコメンテーターがおり、その場でその誤りを誰も指摘しなかった、とのこと。ええッ、先日、たしかに私もこのブログで「梅といえば」ということで、以前書いた「道真の梅」の話にリンクを貼りましたが、同時代の意味で書いたのではありません。なぜなら万葉集の時代、菅原道真(845-903)はまだ生まれていませんから。
ちなみに私はよく平安時代の女性をこのブログに画いていますが、万葉時代の女性(下記は女官)は、こんな感じです。
万葉時代の女官 (女性天皇もいた飛鳥・奈良時代。服装も平安時代より動きやすくみえます)
より古い時代(飛鳥時代)は、右側の方で、左側の袴スタイルの方が少し平安装束に近い感じです。それでもだいぶ平安時代とはイメージが異なります。十二単の装束は、重ね着により動きにくいし、なにより髪が大変長くなります。
また奈良時代には盛んに諸国を巡幸していた天皇も、内裏からほとんど出なくなります。女性貴族もむやみに姿を見せてはいけない、立ち姿ははしたない、など、さまざま女性にとっては不自由な慣習もできていくのですが、そのような中『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『枕草子』『源氏物語』と、女性の手になる作品が次々と生み出されていきます。この時代にこれだけの作品が女性の手によって成されたことは、世界的にも類を見ません。
「書くこと」(歌うこととは異なる)は、彼女たちにとって己や人々をなぐさめ、社会的にも様々な問題提起となったように思います。そして文学が「上代」と「中古」に分かれるのは、平安時代における「ひらがな」の発明により、「書くこと」が女性たちに開放され、たくさんの新しい文学作品が生み出されたことによるのです。
それまで、日本独自の文字はなく、「漢文」は主に男性が使うものとされていました。また万葉集の歌も漢字の音や意味を借りて日本語を表記しています(例「宇梅能波奈」うめのはな)。これらは「万葉がな」と呼ばれますが、それらも「ひらがな」への第一歩でした。
四千首もの和歌を収録した『万葉集』は確かにすごい歌集です。ですから、その歌が作られた背景や、その時代の文化についても知ってほしいように思います。私の専門とする時代より古い時代の歌集ですが、『源氏物語』にも万葉歌の引用はありますし、それらの歌を源泉としつつ、後世、新たな和歌もたくさん作られました。
梅花の宴の舞台として現在「大宰府」が注目されていますが、ぜひ「奈良の京」にも足を運んでほしいですね。
はい。最後に「令和クッキー」です。
「令和」クッキー 〈参考〉風俗博物館「日本服飾史」