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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2021年04月

4月も最終日になりました。演習では、東京国立博物館見学の代わりに、大学周辺の史蹟を中心に散策しました。昌平坂学問所跡→湯島聖堂→ニコライ堂→神保町古書店&喫茶店街を通り、漢陽楼(周恩来ゆかりの店)横を抜け、お茶の水小学校(元錦華小学校・夏目漱石が通っていた)脇を通って大学に戻りました。

大学内は図書館で時間切れとなってしまいましたが(博物館は行けず)、日ごろの運動不足を若い皆さんと楽しくお話しながら解消できる有意義な時間となりました。

さて、先日予告していた「天狗との出会い」は、高尾山でのものでした。4月は上旬に2回、行ってきました。最初は一人で日帰り温泉に行き、2回目は家族と一緒に頂上まで登りました(途中まではケーブルで)。

前々回に書いた「ゆるキャンしろさんかく」を見ていたら、「山と温泉」に行きたくなったこともありますが、2月末に書いた論文に「天狗の話」を資料として使ったので、また「天狗さん」に会いたいな、とも思っていました。

論文では、宮中の警護を司る「滝口の武士」について書いたのですが(「平安文学と滝口」『国語と国文学』2021年4月)、平安時代末に成立した『今昔物語集』(巻二十)の中に「滝口」が山で天狗の術を習う話があります。その術は、沓(くつ)を子犬に変える、古い藁(わら)沓を三尺ほどの鯉に変える、といったこの世の道理を覆すもので、説話では「仏法に背く禁術」として戒められています。

高尾山には、役小角(えんのおづぬ・7世紀に葛木山にいたとされる修験道の開祖、呪術者)の神社もありました。やはり、この役行者の「空を飛べる」「鬼神を使役する」といった伝承も、山岳信仰の特異性を示していますが、正史には「伊豆に流された」とあって、支配者側からすると畏怖の対象であったことがうかがえます。

今、少年誌では「鬼滅」の次は「呪術」とも言われているようですが、本当に今も昔も人々が夢中になる話は変わらないなと思います。

さて、それでは以下、修験者の山・高尾山レポートです。

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京王線の「高尾山口」駅で下りました(この日はちょっと曇り空)。「明大前」駅から直通40分はうれしい距離です。この駅と温泉が直結しています。

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駅構内から温泉へ。山登りの疲れをとることが可能です。

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この先の階段を昇ると......。

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目の前が入口です。「高尾山温泉 極楽の湯」

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入ると看板天狗がお出迎え。天狗もマスクをしていてちょっとかわいそう。


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タオルは持参していましたが、半額で残り2枚になっていて思わず購入してしまいました。

1回目、一人で行った温泉は、平日だったこともあり、ゆっくり入浴できました。食事処やほぐし処が完備されていて、いたれりつくせり。ただGW中の現在、臨時休館中です(残念)。

高尾山口駅から、山の入口、またケーブルカーの駅方面へ歩いていくと、お店のある通りに
出ます。

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自然薯そばと、高尾まんじゅうの看板が出ています。私が食したのはこちら。

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自然薯そばとたけのこの天ぷら。

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高尾まんじゅうは、こしあん(白)の方が好みでした。

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ケーブルカーの駅です。

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構内には、こんな銅像も。

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東京オリンピックのラッピング電車になっていました。

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切符は駅員さんが「チョキン」としてくれます。なつかしい。


ケーブルカーの先で、山の眺望を楽しんだり、薬王院でたくさんの天狗さんに出会ったりした話はまた次回しますね。現在、高尾山は、ケーブルカーをやっているようです。連休中、山登りは楽しめます。

このケーブルカー、到着先あたりの傾斜が日本一なんだそうです。動画は帰りの様子ですが、よかったら、まずは5分半のケーブルカーの旅を、お楽しみください。

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予定では、ここで「天狗」と会った話を書く予定でした。でも、どうしても大学教員として先に書かねばならないと思った事ができたので、天狗話は次回にします。ご了承ください。

さて、3回目の緊急事態宣言。私の務め先では、対面7割、オンライン3割で、4月から授業がスタートしました。キャンパスは活気であふれ、いつもの新学期風景が見られました。教室は定員の3分2以下とし、人との距離は確保しつつ、換気も行い、万全の体制で始まった対面授業でした。

学部の2年生は、昨年ほとんどキャンパスに来られなかったので、新入生同様、教室がわからない人が多く、はじめの一週間は、キャンパス内で「迷っている人」を大勢見かけました。でも、それもご愛敬。マスク下の中でも笑い声があふれ、遅刻者をまったく見ないという(対面の授業のありがたさからか)、いつもと同じようで少し違う新学期のはじまりでした。

それがまた緊急事態宣言により、今のところ一時的に、昨年の状態に戻ることになりました。オンライン7、対面3の割合での授業です。ただ、ゴールデンウイーク明けに終わる予定なので、この期間に終われば、影響は少なくすみます。このような状態を見越して、4月からオンラインでスタートした大学もありますが、4月のひと月だけでも、対面授業を成立させ得た意義は大きいと個人的には思っています(学生たちの様子を見ても)。ただ、実質、明日、演習の授業で行く予定だった「東京国立博物館」は閉館になり、予定変更せざるをえなくなりました。

私の対面授業における講義は、100名を超えていました。久々の対面における大人数授業で、教室の皆さんも楽しそうでしたが、こちらもオンラインを考えなくてはなりません(出席番号で対面出席者を入れ替えることも思案中)。

小・中・高は、それほど影響がない中、なぜ大学だけ?と思ってしまいますが(教室でのクラスター発生などは聞いたことがない)、学生ができるだけ不安を感じないような、また不利益を被らないような、授業の形を引き続き模索していきたいと思っています。

話は変わって、私のお気に入りのyoutubeの一つに「はろーふろむロングビーチ」さんのチャンネルがあります。この方、カリフォルニア州にお住まいの日本人女性の方ですが、州立大学の事務方としてお勤めで、創作好きの下の子のお子さんの絵や作品を動画の背景にしつつ(上のお子さんは今年から大学生)、アメリカでの生活の様子や大学の様子をお話ししてくれて、いつも楽しみにしていました。
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(ここ数回の動画は下のお子さんの作品待ちで、アロマポットの前でお話しされています)

私は勤務先の古代学研究所(文学・歴史・考古)の所員でもありますが、大学院GPと呼ばれる古代学研究センターでは、大学院生を連れて、毎年、海外(韓国・中国・アメリカ)での研究発表交流事業を行ってきました。私は家の事情で、海外への引率はしてこなかったのですが、日本で開かれる国際シンポジウムや学会には参加してきました。アメリカでは、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)が交流先なので、「はろー」さんのお話も、身近に感じていた次第です。

今日のお話は、大学における「予防接種」の内容で、かなり衝撃を受けました。カリフォルニアでは、州立大学の教職員・学生ともに、予防接種が「義務化」されたとの内容でした。学生においては、宗教上の理由も認められないようで、激しいアナフィキラシーを過去に起こした事のある場合のみ、証明書で接種しないで済むとのことでした。

もともと、日本ではすべての予防接種が「任意」です。「打っていないから学校に来てはいけません」というような事は言われません。でも、アメリカではそれが既に始まっており、交流事業で渡航する学生にもそれが課せられるようになるのでは?と思ってしまいました。今回、あまりにも短い治験期間でできたワクチンですが、何の疑いもなくほぼ「強制」に近いところまできていることになります。

日本はどうするのか......幸い私の勤め先は「私立」ですが、「対面授業」を成立させるべく、そのような圧力が今後かかってくるかもしれない、とも感じました。「ワクチンを待っている人」もいることは知っていますが、インフルエンザでさえ、打ってもかかるわけですから、そんなに簡単に集団免疫がつくとも思えません。激しい副反応を起こしている事例を海外のSNS等で目にすると、やはり大丈夫なの?と思ってしまいます。

未来ある若い学生たち、自分の子供たちの健康をどこまで守れるのか、本当に厳しい事態に直面しています。

今こそ、情報の選別、自分や家族の身をどのように守るべきか、真剣に考える時期にきているようです。


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(天狗の話は次こそしたいと思います。ほら貝の音に心洗われたお話しです)





4月も下旬に入りました。はじめの頃は、まだ余裕がありましたが、徐々に主任業務と授業準備に追われ、気づくとあっという間にこの時期に。今月の私は、たまごに心を奪われつつ、天狗にお目にかかり、気合を入れなおしてもらいました(天狗の話はまた次回)。

最初のたまごは、イースター(キリストの復活祭)エッグ。今年は4月4日でしたが、「復活」にあやかって生命力の源である「たまご」がこのお祭りのシンボルとなっています。このたまごを隠して探す遊びも有名ですね。我が家では、家族が写真のような折り紙を作ってくれたので、これを家の中に隠して見つける、という遊びをしました。なかなか楽しかったです。

うさぎ入りたまご?
(うさぎもイースターの象徴。子だくさんなことから豊穣の意を表します)

日本では、『日本書紀』神代巻冒頭文にある、天地が分かれず混沌とした状態を「鶏の子(たまご)のごとし(ようである)」と表現しているのが思い出されます。漢籍にも同じ表現があるので、漢字文化圏共通の認識かもしれませんが、世界の混沌をドロッとした質感で表しつつ、始まりのパワーを「たまご」に見出していたのでしょう。

また平安時代では、『伊勢物語』五十段に「鳥の子を十ずつ十は重ぬとも思はぬ人を思ふものかは」という歌が詠まれています。「たまごを十個一つにしてさらに十個(計100個!)重ねるような難しいことがあり得たとしても、自分を思ってくれない人を愛しく思うことがあるでしょうか」という意味です。

この歌を受けて『蜻蛉日記』では、作者が糸で雁のたまごを十個つなげたものに、卯の花(ウツギの花)をつけて贈り物をします。この行為の意図は、「このようにたまごを十個重ねられるのですから、思ってくれない人を思うことも私はできます」となります。ちなみに当時、たまごは食さなかったので、この十個のたまごがその後どうなったのか、少し気になりますね。
たまごとうのはな
(イメージ画像。たまごは、生絹(すずし)の糸でつなげたそうです)

また、話は変わって、今月は「ゆるキャンしろさんかく」(ゆるいキャンプの略)という漫画になぜか家族そろってはまりました(自粛生活で自然が恋しいから?)。そこに出てきた山梨名物「温玉揚げ」(温泉たまごを揚げたもの)を家で作ってみました。

温玉揚げ
(外はカリッ、中はとろっの温玉揚げ。衣は少な目ですが美味しかったです)

『枕草子』では、「あてなるもの」(高貴で優美なもの)に「かりのこ」(雁のたまご)が挙げられています。たまごは、その白くてつるっとした形も含めて、昔から人々の想像力をかきたてていたようです。面白いですね。





新年度、はじまりました!今年度は、なんと「専攻主任」なるものになりまして、初日から様々対応の仕事をさせていただいています。

まだまだ序の口で、これからもっと大変なのでしょうが、去年までほとんど「自宅」にいた身としては、様々な部署の方とやりとりできるのが、不思議と楽しく感じております(マゾヒズム?)。

このブログの更新、ただでさえ、滞り気味なのに(もう一つは完全にストップ。新装開店のため、長期休業中です)、どうなることやら、ですが、むしろストレスがたまってかえって更新したくなるかもしれません。どうか気長にお付き合い下さい。

標題は、私も会員である「日本文学協会」の雑誌特集の見出しです。先月号をようやく読み終わり、考えたことを少し書きたいと思います。

高校の国語教育が2022年度から大きく変わることについては、以前ブログにも書きました。

それに伴って、学会では積極的に「国語教育」のあり方について、問う姿勢が顕著です。

「国語」自体は、学校教育の中で、教える時間が最も多い科目だと思います。算数とともに、小学1年生から始まります(理科・社会は3年生から)。

やはり、国語の「書く力」「読む力」は、全ての教科と関わってきますから、早い段階からしっかり教えられるのだと思います。

それでも、教材については、大いに疑問があります。自分らが小学生の時と同じ教材が多数見受けられるからです。40年以上、同じ教材が使われています。

もはや「古典」と言っていいのかもしれませんが、私は良い傾向だとは思いません。早い話、時代背景からしっかり教えないと、よくわからない言葉や内容が多々出てきます。

また、「音読」教育の名のもとに、毎日読むのが宿題になっている学校は多いと思いますが、数日ならともかく、2週間以上、同じ教材を読み続けることもあります。この「効果」は、どのあたりにあるのか、私にはちょっとはかりかねます。

数十年前と、今とでは、当然のことながら、作品の読み方、捉え方は変わるはずです。しかしながら、家族の導かれ方を見ていると、あまり変わっていないように感じます。

「国語」は、他の教科と違い、就学前から自然と家庭で学んできています。ですので、自分で教科書を読むことも、およそできます(習っていない漢字を除き)。

つまり、打楽器と同じで、とりあえず誰でも音を出すことはできるわけです(例えが飛躍してすみません。私は吹奏楽を10年やっていたもので)。

それが甘く見てしまいがちな原因なのでしょうが、「打楽器」を極めることが難しいと言われるように、「国語」を極めることはやはり容易なことではなく、また「言葉」を扱う以上、コミュニケーション(共感力・表現力)の源であって、重要なことは間違いありません。

以下、雑誌の特集号論文(三篇)の感想です。

「国語は内容ではなく言葉(技術?)を教えるべき」と言われると、禅問答のようで、現場の教員には伝わりにくい気がします。何より「教員は「名人芸」ではなく生徒のちょっと先を行け」というのも、若い教員にはあてはまりません。また教材によっては、生徒側の方がはるかにフレッシュで優れた解釈をする可能性があります。指導の最終目標はあるでしょうが、その過程は、先生の経験や年齢によって違っていいわけですし、それがまた国語の面白さのように私は感じました。ただ実践的な国語として、要約の仕方を教える必要がある、というご意見は納得しました。

次に「You Tubeが図書館だー!」というご意見も、理念としてはよくわかりました。でもこれを現実に導入した時、様々な困難にぶち当たりそうな気がします。そもそも、社会の基準や規範を逃れた「雑多さ」「ゆるさ」が売りのネット空間なので(最近はそうでもなくなってきましたが)、ここを基とする「教育モデル」というのが、私にはイメージしにくいのかもしれません。学校のデジタルシフトの象徴として挙げられていたN高校の不祥事を見ると、むしろ学校教育の中で、「実習」や直接的な「体験」を重視すべきではと感じました。

最後に「高校に古典は本当に必要か」については、「必要な人もいるし必要の無い人もいる」というのが正直な私の感想です。長い余生、必ずしも古典をお供にするとは限りません。今の時代であれば、ゲームや手芸、絵を画く、映画を見るなど、様々な楽しみ方があります。でも、今挙げたもののうち、古典の世界がおよそベースになっていると思われる人気作は、今でもかなり多いのです。古典が創造の源泉となり続けていることを考えると、やはり長い間受け継がれ、読み継がれてきたものには、それなりの価値と魅力があり、それを知る機会を設けておくことは大事だと感じます(ただ全員が必修でやる必要はないでしょう)。またディスカッサントの方のご意見で、「言葉の歴史」の一環として、「古典」(古語)を捉える、という部分には深く共鳴しました。

私は中学生で古典の世界が好きになり、いまだにそれが続いています。義務教育で入り口を示せば、好きな人は高校でも学ぶでしょう。

そもそも「文学」と「教育」は、相容れないもので、「読み方」なんて、正直、教えられるものではないと思います。あえて言うなら、個人が自分の「読み方」を見つけるために、いろいろな方法を知る、その手助けをすることくらいでしょうか。

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とはいえ、日々の生活の中、皆さんの心の癒やしとなるような言葉、暗闇を照らしてくれる言葉が見つかりますように、願ってなりません。








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