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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2021年10月

昨日、演習の授業時に地震がありました。学生が前で発表している最中でしたが、揺れている間はいったん止めて、様子をみました。のちに震度3と判明しましたが、長い地震でちょっと怖かったです。

昨今、まさに先の見えない世の中、といった感じですが、「いつこの状況が改善するのか」「こんな時に怖い災害が起きたりしないか」といった不安の受け皿として、ちょっとした占いブームのような気がします(いや私の中だけかもしれませんが)。

以下、ネットで知り、書店にも平積みされていて、思わず購入してしまった本がこちら。
私が見た未来
(どうぞ。写真を拡大して、書かれている文字を読んでみてください)

この本は、1999年に刊行され、表紙が「東日本大震災」を予言していると話題になり、今月、新たな頁を加え、再出版されました。

著者は、自分の「夢日記」をつけていて、それがかなりの確率で実現することから、それを漫画にされてきたようです。

私も、ごくまれに夢が実現することがあります。でも、家族みんなでレストランにステーキを食べに行き、食べる直前で目を覚まし悔しがっていたところ、その日に、なぜか、生肉ステーキの贈答品が届く、といったくらい。平和なものです。

災害の夢など、まるで天からの「夢告げ」のように見る人の場合、その使命の重さは凡人には計り知れません。

これから日本に起こる(まさに日本列島沈没的な)、数年後の大規模災害についての予知も書かれていて、なんとか避ける手立てはないか、考えさせられました。

また、今では、占いも「エンターテイメント!」としておかないと、放送倫理規定に違反してしまうような世の中ですが、千年前は、その占いで人事が決められることもありました。

たとえば、伊勢神宮の巫女、斎宮(さいくう)は、未婚の皇女・女王から選ばれますが、これは「亀卜」(亀の甲羅を焼いてそのひび割れ方で占う)で、決められました。

また、「夢告」については、『日本書紀』から記述がありますが、平安時代の古記録・日記・物語にも、様々に書き記されています。

以下、私の気になる「日月」の夢をご紹介。

・『蜻蛉日記』
天禄三年(972)2月17日の記事。穀断ちの法師が作者である道綱母について「御袖に月と日とを受けたまひて、をば足の下に踏み、をば胸にあてて抱きたまふ」という夢を見たので、その夢を作者が夢解きに合わせさせた所、「みかど(帝/朝廷)をわがままに、おぼしきさまのまつりごと(政治)せむものぞ」と解釈したそう。

・『源氏物語』(寛弘五年/1008年頃成立)
明石入道が娘・明石の君が生まれる前に見た夢。「御袖に月と日とを受けたまひて、みづから須弥の山を右の手に捧げたり、山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす、みづからは、山の下の蔭に隠れて、その光にあたらず、山をば広き海に浮かべおきて、小さき舟に乗りて、西の方をさして漕ぎゆく」という内容で、入道は娘を貴人と結婚させることを決意。結果、明石の君は、光源氏と結婚し、二人の間に生まれた娘は帝の后となる。

・『中右記』(藤原宗忠の日記)
大治四年(1129)7月15日条に、「又夢落地」(日が地に落ちる夢を見た)とあり、白河院の崩御を予言する夢が記述されている。


「日月」は、帝や后、院(上皇)といった、皇族(王権)の象徴として人々の夢に出てきていたようです。確かに、現在も続く皇室は、神話によれば、天孫──天照大御神の子孫ですから、当時の人々も、そのように認識していたのでしょう。

ちなみに、当時の夢は、自分で見るほかに、修行を積んだ僧に依頼して見てもらうこともありました。ただ、『蜻蛉日記』の場合、この僧の言ってきた「夢」を怪しんでおり、実際、実現しなかったようです。また「夢」は、合わせ方(解釈の仕方)が重要で、不吉な夢も、うまく解釈できれば、災いも避けられると考えられていました。

都合がよいと言われればそれまでですが、それだけ一方的な「通知の力」より、「解釈の力」(現実に向けての努力)がまさる、ということではないでしょうか。

悪い予言も、良い予言に変えられる......、また何らかの対処法がある、そうでなければ、「予言」の意味はないようにも思います(ただ恐怖におびえるだけになる)。

占いや、予言とのつきあい方も、古の人は教えてくれているようです。



神無月になりました。日本中の神様が出雲に集まるため、各地からいなくなるという月です。逆に出雲では神有月というのだとか。

十月は、五穀豊穣に感謝する「神嘗祭」も伊勢神宮で行われます。そう、秋は実りの季節。栗や柿の実がなるには、そこそこ時間がかかります......。

さてさて、巷では内親王の結婚が話題ですが、昔から、皇族の結婚は大変でした。


[画像:イメージ図]
(この写真は、現在の葵祭の斎王代(賀茂神社の巫女役)ですが、斎王は、平安時代より、未婚の皇女・女王が代々つとめました。退下後も独身を通すことが多かったとか)

平安時代、特に天皇の娘は、相手は天皇や親王であることが多く、珍しく臣下と結婚した場合も、きちんと父帝の裁可を得られたものは少なかったようです。

たとえば、平安中期の公卿、藤原師輔(908-960)は、醍醐天皇の娘である皇女と密通した上で、妻としています。しかも、最初に結婚した勤子内親王が亡くなると同母の妹である雅子内親王と再婚します。さらに雅子内親王が亡くなると、村上天皇の同母姉である康子内親王と結婚します。

最初の二人は更衣腹(母親の身分が低い)ですが、三人目の母は后でしかも天皇の姉。周囲の目は厳しかったようです。

さて、内住みして、かしづかれおはしまししを、九条殿は女房を語らひて、みそかにまゐりたまへりしぞかし。世の人、便なきことに申し、村上のすべらぎも、やすからぬことに思し召しおはしましけれど、色に出でて、咎め仰せられずなりにしも、この九条殿の御おぼえのかぎりなきによりてなり。『大鏡』「公季」より
(さて、康子内親王は、宮中にお住まいで、大事にお育ちあそばされたのですが、九条殿(師輔)は内親王付きの女房を手なづけて、密かに内親王と通じられたのですよ。世間の人は、不都合なことと噂し、内親王の弟である村上天皇も、心外なこととお思いであられましたが、表だってお咎めなさらなかったのは、この九条殿に対するご寵遇がこの上なく深かったからなのです。)


師輔は、内親王と結婚することで、天皇の一族と姻戚関係を築き、権力を伸長させていきました。いつの時代も、周りが心配することは同じです。


また『源氏物語』では、皇女・女三の宮の降嫁先に、父である朱雀院が苦悩する様が描かれます。相手には、皇女にふさわしい身分を求めつつも、甘やかしたがゆえか、たよりないところのある女三の宮を大事にしてくれる婿、ということで、最終的に朱雀院の弟、光源氏が選ばれます。

光源氏と女三の宮との年齢差は二十歳以上、源氏は四十を過ぎていました。

およそ後見(お世話役)としての結婚です。女三の宮は、のちに若い柏木の密通を許しますが、この関係は、不義の子・薫を生みだし、柏木は死に、宮の出家を招きます。

そもそも若き光源氏と禁忌の恋に至る継母・藤壺も、后腹の皇女でした。夫である柏木を失った皇女・落葉の宮(女三の宮の異母姉)も、後に夕霧(光源氏の子)に不本意な形で迫られ再婚します。

このように、「皇女の幸せな結婚」とは、本当に難しいものだと、史実や物語は語っています。

いや、そもそも、「結婚」それ自体、だれにとっても簡単ではない(容姿端麗で才能ある光源氏だって!美しいヒロインの紫の上だって!)ことは、昔から変わらないのかもしれませんね。

相思相愛
(相思相愛なら、こんな感じかしら?秋が深まるとともに二人の仲も良い感じに......)






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