またまた随分更新が空いてしまいました。先週は、寒い夜があったせいか、はたまた学祭休み明けのオンライン授業のせいか、肩の凝りが尋常ではない状態に。おそらくそれと連動してだと思いますが、偏頭痛が週に3回も起きて、3回目はついに休講する事態となってしまいました。今はよくなっていますが、気を抜くと肩がコチコチになってしまうので、頭も含めてよくもむようにしています。
季節の変わり目、注意が必要ですね。今年は早めにこたつを出しました。
KIMG1182 (最近、こたつのある家は少なくなっているようですが、我が家にはこれが欠かせません!)
さて、先月、東京国立博物館へ行ってから、およそ1ヶ月ほどたってしまいました。今月は、別の授業で五島美術館へ見学に行く予定がありますが、また行ったらご報告したいと思います。
前回は、埴輪や刀剣など、古い時代の展示の感想を書きましたが、今日は一気に時代がとんで、平安時代や鎌倉・室町時代の展示の一部を紹介します(どれもピンボケでごめんなさい)。
KIMG1156 (お経を入れる経筒です。これを下の図のように埋めていました)
KIMG1154 (経筒を埋める経塚も、時代によって形が変わります。中世の一時期は装飾がやや派手)
KIMG1155 (貝殻や石にお経が書かれています。これらが埋められるようになります)
およそお経を埋める行為には、何らかの願いがかけられています。
平安時代、時の権力者であった藤原道長も、娘・彰子の皇子誕生を祈念して、金峯山(きんぷせん)に登り、埋経を行なったと言われています(日本最古の金色に輝く道長が埋めた経筒(国宝)はこちら→
https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/88kiniro.html)
自ら写経し、登山して埋めるとなれば、大変だったと思いますが、その甲斐あってか、翌年、彰子に皇子が誕生します。後の後一条天皇です。道長の日記である御堂関白記には、その時のことが記録されています。
八月二日、乙未、参金峯山、以丑時出立、立御物忌、出門間、以塩湯灑衆人、この後も記述は続きますが、「丑時」(午前1〜3時)ですから、真夜中に出立し、それも「物忌み」のために、門を出る間、「塩湯」を人々に注いだとあります。
当時の八月は、今で言うと九月末頃でしょうか。季節的には、よい頃合いだと思いますが、翌年には、『紫式部日記』で身重の彰子の様子が次のように記されています。
御前にも、近うさぶらふ人びとはかなき物語するをきこしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさまなどの、いとさらなる事なれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。季節は、「秋のけはひ入りたつ」頃合いと冒頭に書かれており、およそ旧暦八月頃だと言われています。傍線部のように、臨月を迎えようとしている彰子は、つらそうではありますが、それをさりげなく隠してふるまっていらっしゃる、その姿は、つらい世の中の慰めにもなるほど素晴らしく、求めてでもこの方の元にお仕えすべきと作者は感じる一方、それもやはり不思議なことよ、と、自分を冷静に見つめなおします。
この後、道長は、随身に遣水(やりみず:庭の引き水)の掃除をさせる姿が描かれますが、娘の出産前に、水の流れの滞りをとって綺麗にする(浄化の意)、いわば安産を願う行いと解釈されています。
千年以上前の経筒が遺っていること、またこのように親の行為を記した書物が遺っていること、双方、改めてすごいことだと感じます。
道長にあやかって、この埋経の習俗が広がったとも言われていますが、最終的に、高価な紙ではなく、石や貝など身近なものがお経や文字を書く素材として使われているところを見ると、その行為も貴族にかぎらず広い階層に浸透したのでしょう。
今、お願いするとすれば、やはり「疫病退散」になるでしょうか。少なくとも疫病神が家に入ってこないように、清浄さ(手洗い、塩でのうがいなど)を保つことを心がけたいものです。