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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2020年10月

10月も最終日になってしまいました。いろいろ振り回された1ヶ月。まず、学部のオンライン授業ですが、学期中4回、という制限がなくなり、再度、対面授業を増やすことになりました。

そして、学生の作業量をオンラインでも対面でも同じにすべく、発表者のレジュメ印刷を教員で引き受けることに。この対面とオンラインの折衷授業、なかなか大変です。

学部の演習は、1授業で毎回2人の発表者がいますが、一人は対面発表、一人はオンライン発表の場合、オンラインでの発表者の声(PCから出る)を、教室の学生に聞こえるようにするのが至難の業でした。教室の音声を拾うマイクはありますが、逆に拡声のためのマイクが必要なことがわかりました。本当に、毎回、試行錯誤です。

しかも、まさかの「爆破予告」もあり、予告日前日の対面授業は、正直ドキドキものでした(後から知りましたが、他大学にも、同様の脅迫が来ていたようです)。

さてさて、かなり前の更新から時間がたってしまいましたが、東京国立博物館、いよいよ見学パートです。

まずは考古の資料から。場所は平成館です。
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(縄文時代後期。ハート型土偶です。人のような、そうでないような)

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(縄文時代晩期。遮光器型土偶。頭の冠と目のインパクトが大です)

ハート型土偶は、見た目通りの名前ですが、遮光器型土偶は、目の部分がイヌイットの遮光器(スノーゴーグル)に似ているからの名なのだとか。服装の模様も細かくて、ステキです。

東博は、古墳時代以前の展示が少なめだと聞きましたが、充分楽しめました。あと、やはり勾玉(まがたま)でしょうか。

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(いつ見ても不思議なかたち。左下の水晶も大きくてカットがきれいでした)

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(ペンダントにしているのもおしゃれです。赤と緑のコントラスト)

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(縄文時代の刀。しっかり形が残っています。)

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(一番右の大きな銅鐸にびっくり。弥生時代後期、2000年くらい前の代物です。どんな音が出るのか叩いてみたくなります)

埴輪には、「しろまるしろまる女子」「しろまるしろまる男子」と名前の付いているものがあり、男子の方はおよそ甲冑を着ている、兜をつけている、といったことでわかるのですが、女子の場合は、胸の表現と、髪型で判断しているとのことのでした(考古学の先生談)。

次回は、もう少し時代が進みます。お楽しみに。





先週、大学院の授業で、博物館見学に行ってきました。東京国立博物館は、「キャンパスメンバーズ」という制度を設けています。大学側が年会費を払い、キャンパスメンバーズ会員校になると、在籍する学生および教員は、総合文化展(常設展示)を無料で何度でも観覧できます(→詳しくはこちら)。

その制度を利用し、「総合史学研究II」「文化継承学I」という相互横断型授業(考古・歴史・文学)時に、見学に行きました(言い出しっぺは私です)。この授業、毎回分野の異なる教員が参加し(常時6名出席)、学生も含め、いつも十数名でやっています。

長いことオンライン授業でしたが、久々に外での授業、また全員集まるのは今年度「初」ということで、なかなか楽しい時間でした。

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(本館正面入り口です。この入り口は皇居の方を向いているとか)*考古学・石川先生のお話
今の正面は我が母校
(でも今は、正面に私の母校で勤務先のドーム状屋根が見えます!)

東京国立博物館の敷地は、元は寛永寺の所有で、後に明治政府のものとなり、現在のような公園と博物館が建てられました。現在の博物館の場所が、寛永寺の本坊の場所で、素敵な庭も、寛永寺の庭だったそうです(庭の写真はこちら→http://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/14331309.html)

寛永寺といえば、江戸幕府の三代将軍(家康・秀忠・家光)の帰依を受けた「天海大僧正」が建てたお寺です。この天海さん、明智光秀と同一人物(!)、なんて説がありますね。そういう意味では、いま大河ドラマで「麒麟がくる」(明智光秀の話)をやってますから、タイムリーでしょうか(?)。

私たちは、まず、考古学の遺物を見るため、平成館の方へ移動しました。次回は、たくさんの有名な埴輪が出てきます。お楽しみに。


週末は、12月上旬の気温なのだそうです。そろそろ周囲で風邪もはやり始めており、気をつけなくてはなりません。

さて、始まった授業の方は、対面とオンライン授業のミックス期間、とりあえず終わりました。また状況によって、学期の終わりにやる予定ですが、思った以上に大変で、ブログの更新もすっかり滞ってしまいました。

一つの授業で、半数が教室(教員も教室)、半数がオンラインで参加、というのは、私の方がやや混乱しました。紙で資料を配りつつ、PCの画面操作を行い、教室と画面の向こうと、両方に話しかける感じになります。でも、教室での応答(三脚付のカメラで学生側が映るのでオンライン受講生にも見える)、画面からの声や文字での応答(教室にいる学生はそれをプロジェクターのスクリーンで見る)、両方が同時に存在している面白さもありました。

結論としては、「やるならどちらか一方だけの方がやりやすい。」そして、「対面授業は、授業前後の雑談や質問が学生同士や教員と学生の間で気兼ねなくできる」(やっぱり対面がよい!)ということが改めてわかりました。「先生、次の対面は正月くらいですか。」とみなさん、ちょっと残念そうでした。

その頃までには、事態が落ち着いて、全面的に対面授業が再開されているといいなと思わずにはいられません。

また忙しさの中、方々から署名の案内が回ってきました。詳細はこれの通りで(学術会議問題)、この件についても、本当にやるせない気分にさせられました。

特に「既得権益」とか「名誉職」とかいう文言については、正直愕然としました(最近はそれらの多くがデマであることが言われ始めてやや安堵しています)。国の科研費でさえ、簡単には取得できませんし、その使い道についても詳細なルールがあり、成果報告についても膨大な書類が必要です。

学術会議とは別ですが、その協力団体である学会の委員(編集委員や常任委員)は、お給金など全くもらっていません。代表委員になれば、それこそ本務ではないのに忙殺されそうな仕事量でしょうが、それでもほとんどが「無給」です。

ですから、委員をやりたくないと思っている若手も少なからずいると思います。ましてや事務局なんてどこも引き受け手がありません。大学も本当に忙しくなっていて、外の機関の仕事までやる余裕がなくなってきています(一昔前なら「名誉」あることとやっていたかもしれませんが)。

つまり、「志」あってやっている人も、こういうことになると、もう「やりたくない」と思ってしまわないか、心配になります。昨今、専門的な見地からの「検証」よりも「わかりやすさ」に流れてしまう傾向の強い世論(その方が都合のいい人もいるのでしょうが)を見ていると、実際、不安になります。

学者というのは、今も昔も、本質的には、以下のようなものなのだと思います。

こめの衣のわわけ、下襲の半臂(はんぴ)もなき、太帷子の上に着て、上の袴、下の袴もなし。冠の破れひしげて、巾子の限りある、尻切れの尻の破れたるを履きて、気もなく青み痩せて、ゆるぎ出で来て、「季英、今日の御歩みの列に入らむ」とて交じり立つ。博士、友達より末まで、笑ふこと限りなし。(『うつほ物語』祭の使巻)

衣服も冠も破れたり曲がったりしているぼろぼろの恰好をした大学の学生・藤原季英は、朝廷の詩作に参加しようとしたところ、同じ大学の博士や友人たちに笑われ、参加を止められました。しかし、その後、この藤英こそ、才学もないのに家の権勢を頼りに財力(いわゆる賄賂)を尽くし、下では媚びへつらっている者たちとは異なる、「まことの大学の衆」と褒められることになります。また『源氏物語』では、博士が次のように描かれています。

しひてつれなく思ひなして、家より外に求めたる装束どもの、うちあはずかたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。若き君達は、え耐へず、ほほ笑まれぬ。(『源氏物語』少女巻)

光源氏の息子・夕霧は、父の方針であえて「大学」に入学し、学問をおさめるよう促され、本来つける官位よりも下位からはじめることになります。そのため、大学の学生として「字」(あざな)をつける儀式が源氏の邸宅の一つで行われますが、上記はその時の博士と儒者たちの様子です。よそから借りてきた身に合わない装束に加え、その顔つきや声の調子、仰々しい有様が語られ、若い君達の笑いを誘っています。

この後も、博士は、宴会のお酌の作法に文句を言ったり、自分という存在を知らないとは愚か者め、と言ったり、とにかく身分の上の者にも忖度することなく怒鳴りつけており、その姿を物語は「猿楽がましくわびしげに人わろげ」(道化じみていてみすぼらしく不体裁)と言っています。でもその一方、彼らの作る漢詩については「よろづのことによそへなずらへて心々に作り集めたる、句ごとにおもしろく、唐土にも持て渡り伝へまほしげなる世の文ども」と称賛するのです。

「偏屈者」と嘲られるのは、いつの時代も同じだったので、ある程度、我慢できますが、現在の批判は、本来の「あり方」自体を否定するものです。

「過去」を知らずに「今」しか見ていないことの怖さ、というのもあります。常に「先例」に従う必要もありませんが、来歴を知らずにその大切さを見落としてしまわないようにしたいものです。

最後に少しほっとする絵をば。
霞柱
(家族が画いてくれました。「鬼滅の刃」の映画、始まりましたね!)

気を取り直して、また来週からがんばりたいと思います。



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