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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: うつほ物語

週末は、12月上旬の気温なのだそうです。そろそろ周囲で風邪もはやり始めており、気をつけなくてはなりません。

さて、始まった授業の方は、対面とオンライン授業のミックス期間、とりあえず終わりました。また状況によって、学期の終わりにやる予定ですが、思った以上に大変で、ブログの更新もすっかり滞ってしまいました。

一つの授業で、半数が教室(教員も教室)、半数がオンラインで参加、というのは、私の方がやや混乱しました。紙で資料を配りつつ、PCの画面操作を行い、教室と画面の向こうと、両方に話しかける感じになります。でも、教室での応答(三脚付のカメラで学生側が映るのでオンライン受講生にも見える)、画面からの声や文字での応答(教室にいる学生はそれをプロジェクターのスクリーンで見る)、両方が同時に存在している面白さもありました。

結論としては、「やるならどちらか一方だけの方がやりやすい。」そして、「対面授業は、授業前後の雑談や質問が学生同士や教員と学生の間で気兼ねなくできる」(やっぱり対面がよい!)ということが改めてわかりました。「先生、次の対面は正月くらいですか。」とみなさん、ちょっと残念そうでした。

その頃までには、事態が落ち着いて、全面的に対面授業が再開されているといいなと思わずにはいられません。

また忙しさの中、方々から署名の案内が回ってきました。詳細はこれの通りで(学術会議問題)、この件についても、本当にやるせない気分にさせられました。

特に「既得権益」とか「名誉職」とかいう文言については、正直愕然としました(最近はそれらの多くがデマであることが言われ始めてやや安堵しています)。国の科研費でさえ、簡単には取得できませんし、その使い道についても詳細なルールがあり、成果報告についても膨大な書類が必要です。

学術会議とは別ですが、その協力団体である学会の委員(編集委員や常任委員)は、お給金など全くもらっていません。代表委員になれば、それこそ本務ではないのに忙殺されそうな仕事量でしょうが、それでもほとんどが「無給」です。

ですから、委員をやりたくないと思っている若手も少なからずいると思います。ましてや事務局なんてどこも引き受け手がありません。大学も本当に忙しくなっていて、外の機関の仕事までやる余裕がなくなってきています(一昔前なら「名誉」あることとやっていたかもしれませんが)。

つまり、「志」あってやっている人も、こういうことになると、もう「やりたくない」と思ってしまわないか、心配になります。昨今、専門的な見地からの「検証」よりも「わかりやすさ」に流れてしまう傾向の強い世論(その方が都合のいい人もいるのでしょうが)を見ていると、実際、不安になります。

学者というのは、今も昔も、本質的には、以下のようなものなのだと思います。

こめの衣のわわけ、下襲の半臂(はんぴ)もなき、太帷子の上に着て、上の袴、下の袴もなし。冠の破れひしげて、巾子の限りある、尻切れの尻の破れたるを履きて、気もなく青み痩せて、ゆるぎ出で来て、「季英、今日の御歩みの列に入らむ」とて交じり立つ。博士、友達より末まで、笑ふこと限りなし。(『うつほ物語』祭の使巻)

衣服も冠も破れたり曲がったりしているぼろぼろの恰好をした大学の学生・藤原季英は、朝廷の詩作に参加しようとしたところ、同じ大学の博士や友人たちに笑われ、参加を止められました。しかし、その後、この藤英こそ、才学もないのに家の権勢を頼りに財力(いわゆる賄賂)を尽くし、下では媚びへつらっている者たちとは異なる、「まことの大学の衆」と褒められることになります。また『源氏物語』では、博士が次のように描かれています。

しひてつれなく思ひなして、家より外に求めたる装束どもの、うちあはずかたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。若き君達は、え耐へず、ほほ笑まれぬ。(『源氏物語』少女巻)

光源氏の息子・夕霧は、父の方針であえて「大学」に入学し、学問をおさめるよう促され、本来つける官位よりも下位からはじめることになります。そのため、大学の学生として「字」(あざな)をつける儀式が源氏の邸宅の一つで行われますが、上記はその時の博士と儒者たちの様子です。よそから借りてきた身に合わない装束に加え、その顔つきや声の調子、仰々しい有様が語られ、若い君達の笑いを誘っています。

この後も、博士は、宴会のお酌の作法に文句を言ったり、自分という存在を知らないとは愚か者め、と言ったり、とにかく身分の上の者にも忖度することなく怒鳴りつけており、その姿を物語は「猿楽がましくわびしげに人わろげ」(道化じみていてみすぼらしく不体裁)と言っています。でもその一方、彼らの作る漢詩については「よろづのことによそへなずらへて心々に作り集めたる、句ごとにおもしろく、唐土にも持て渡り伝へまほしげなる世の文ども」と称賛するのです。

「偏屈者」と嘲られるのは、いつの時代も同じだったので、ある程度、我慢できますが、現在の批判は、本来の「あり方」自体を否定するものです。

「過去」を知らずに「今」しか見ていないことの怖さ、というのもあります。常に「先例」に従う必要もありませんが、来歴を知らずにその大切さを見落としてしまわないようにしたいものです。

最後に少しほっとする絵をば。
霞柱
(家族が画いてくれました。「鬼滅の刃」の映画、始まりましたね!)

気を取り直して、また来週からがんばりたいと思います。



そういえば、先日、家族からこんなチラシをもらっていました。絵の方は、源氏物語絵巻「柏木」の一場面で、不義の子・薫を抱く光源氏の姿です。
イクメン?
チラシには「イクメン(育児する男性)!?」の見出しがあります。この場面では、正妻・女三宮と柏木との密通の末に生まれた薫の五十日のお祝いの日に、光源氏が複雑な思いで薫を抱いています。

あはれ、残り少なき世に生ひ出づべき人にこそ」とて、抱きとりたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥えて白ううつくし。大将(夕霧)などの児生ひほのかに思し出づるには似たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。この君、いとあてなるに添へて愛敬づき、まみのかをりて、笑がちなるなどをいとあはれと見たまふ。思ひなしにや、なほいとやうおぼえたりかし。ただ今ながら、まなこゐののどかに、恥づかしきさまもやう離れて、かをりをかしき顔ざまなり。宮は、さしも思しわかず、人、はたさらに知らぬことなれば、ただ一ところの御心の中にのみぞ、あはれ、はかなかりける人の契りかなと見たまふに、おほかたの世の定めなさも思しつづけられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は事忌みすべき日をとおし拭ひ隠したまふ。

本文には「あはれ」の語がくり返し出てきます。まず、源氏は自分の命も残り少ないと感じる頃(当時40歳過ぎ)に生まれた子への不憫さを述べ、次いで我が子・夕霧には似ておらず、明石女御方の宮たち、また伯父である今上帝方のような気高さはあるけれど、その優美さや目元の様子などが愛おしく、死んだ実父・柏木によく似ていることへの感慨、最後に母である宮も、周囲の人たちも、そのようなことは全く思いもよらず、源氏のみが柏木のはかない運命を気の毒に思っていることなどが記されます。微笑みかける薫を見ながら涙をこぼす光源氏の姿は、なんともいえずアイロニカルです。さらに横笛巻でも源氏は薫を抱き、次のように話しています。

かき抱きたまひて、「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの児をあまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどはただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひことなるこそわづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりにかかる人生ひ出でて、心苦しきこと誰がためにもありなむかし。あはれ、そのおのおのの老いゆく末までは、見はてむとすらむやは。花の盛りはありなめど。」と、うちまもり聞こえたまふ。

光源氏は、薫が幼子ながら目元が美しく、他の子供とは違う雰囲気をもっていて、女宮(源氏の孫)がいらっしゃる近くにこのような美しい人が生まれて大丈夫だろうか?と心配します。つまり、この子が父・柏木のような色恋沙汰を起こさないか、源氏は不安に思うのです。でも最後は、それぞれが成長していった先を、自分はもう見届けることができないだろうと、自らの「老い」をよりいっそう自覚していきます。

つまり、「これからバリバリ育児をやるぞ!」といったような気持ちとは、むしろ正反対の心境と言えます。「イクメン!?」の「?」の意味は、ここにあるのでしょう。

それでは、平安時代に「イクメン」はいないかというと、そうでもありません。私が「イクメン」と聞いて思い起こすのは、『源氏物語』より少し前に書かれた『うつほ物語』の仲忠です。
女一宮と仲忠
仲忠は、女一宮(帝の娘)との間に生まれた娘を真っ先に抱いています。当時の産屋は穢れを忌むべく白に統一され、男性も近づけなかったはずですが、仲忠はその産屋をのぞき、生まれた後は、御帳台に体を入れて我が子を抱いています。

中納言(仲忠)、御帳のもとに寄りて、つい居て、「まづ賜へや」(まず私に抱かせてください)と聞こえたまふ。尚侍のおとど(仲忠の母)、「あなさがなや(まあ無茶なことを)。いかでか外には(どうして外に出せましょう)」とのたまへば、帷子を引きかづきて、土居のもとにて抱き取りたれば、いと大きに、首も居ぬべきほどにて、玉光り輝くやうにて、いみじくうつくしげなり。いと大きなるものかな。かかればこそ、久しく悩みたまひつるにやあらむ、と思ひて、懐にさし入れつ。(「蔵開上」)

父に抱かれた娘・犬宮は、大変大きく首も据わりそうで、さらに玉が光り輝くような可愛らしさでした。仲忠は「このように大きかったから、お産も長く苦しまれていたのだ」と、妻である女一宮の苦労を思い、さらに娘を離しません。

この後も、仲忠は、産後間もない妻の横で添い寝をして実母に叱られたりしますが、どこ吹く風。他の子と違っているようなことについても「見たまへ放たねば、さもあらむ」(私がつきっきりでお世話しているからそうなのでしょう」とまさにイクメン(!?)発言。

その後、こんなこともあります。仲忠は、内裏にもほとんど行かず(育休?)、娘である犬宮をとにかく抱いて離さないので、着物も娘のお漏らしで濡れがち。見かねた熟練の女官が、犬宮にお湯を使わせようと申し出て、それを仲忠が受け入れた矢先。

......父君に尿ふさにしかけつ。宮に、「これ抱きたまへ」とてさし奉りたまへば、「あなむつかし」とて押し出でて、うち後方向きたまひぬ。君、「頼もしげなの人の親や」。典侍にさし取らせて、拭はせたまふ。宮、「いかに香臭からむ。あなむつかしや」とてむつかりたまふ。

仲忠は、犬宮に尿をたくさんかけられ、思わず妻である宮に「この子をお抱きなさい」と渡そうとします。女一宮は「まあいやなこと」といって後ろを向いてしまうので、「頼りない親だ」と仲忠に言われます。そこで女官に娘を任せますが、宮は「どんなに臭いことでしょう。ああいやだ」とまだ不機嫌です。

当時、このような子供の世話は乳母が中心に行い、母親は関与しなかったと思われますが、父である仲忠が育児に積極的なので、宮も巻き込まれている感じです。犬宮は、曾祖父・清原俊蔭を祖とする琴の一族に連なり、後に祖母である俊蔭女(仲忠母)から秘琴の伝授を受けますが、仲忠の可愛がりようは、そのような琴の一族の血が関係しているのかもしれません。

それにしても、真のイクメンは光源氏にあらず、藤原仲忠だと、わたしは思います。

(参考文献)
新編日本古典文学全集『源氏物語』
新編日本古典文学全集『うつほ物語』*本文はこちら。現代語訳もついています。
室城秀之校注『うつほ物語』(おうふう)
日本古典文学大系『宇津保物語』(岩波書店)


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