[フレーム]

koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2020年05月

緊急事態宣言、先週、解除されました。とはいえ、まだ県をまたいでの移動は慎まれます。
わたしの中では、ようやく近くの公園の遊具に家族と一緒に立ち寄る気持ちになったくらい、です。

大学の方は、図書館が利用できるようになります。うれしいです。(以下、大学HPから)

>6月1日(月)からの学内者限定・短縮開館(2020年5月29日更新)
入館対象者,開館日時,サービス(貸出・返却サービスのみ。閲覧席の利用はできません。)等を
限定して開館します。
詳しくは こちらのページを必ずご確認ください。 なお,生田図書館を利用する場合,理工・農の大学院生および学部生は,事前予約が必要です。予約方法については,Oh-o!Meijiで確認してください。

入館対象者は以下の方です。
・教職員(専任教員・特任教員・客員教員・兼任講師・専任職員)
・大学院生(専門職大学院・非正規生含む)
・学部4年生および早期卒業予定の3年生(いずれも卒業論文・研究を目的とする)
上記以外の学部生(1〜3年生)・学部非正規生(聴講生・科目等履修生)・学外者等の方は
来館されてもご利用ができませんのでご注意ください。


はい。上記のように、学部の1〜3年生(早期卒業予定者を除く)等は引き続き利用できません。
卒業論文を書く学生が使えるようになるのは本当に良かったと思いますが、以前のようには
なかなか戻らない、ということを実感します。

5月も終わりを迎えますが、ほとんど家にいるので、季節の変化をあまり体感できていないなと
思います。また座っていることが多いので(わたしはフローリングに「い草ラグ」を引き、座して
授業しています)、なんとなく立ち上がるのがおっくうになってきました。家のスタジオは
こんな感じ。
1590744184463-1

パソコン側に来なくても、何をやっているか家族にもわかるようにするため、反対側にお絵かきパッド
(WACOM)をつないでいます。このような使い方をするとは夢にも思っていませんでしたが、
かなり役立っています。

さて、今月最後の「葵祭れぽ」最終回になります。
(→初回はこちら http://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/23196445.html)
葵祭れぽ5-3


はい。一人で儀式が始まるのを待っていたところ、その裏方をやられている方と偶然隣同士に。
さまざまなお祭の裏話を聞くことができました。これも一人旅ならではの出来事ですね。

そして祭儀が始まります。
葵祭れぽ5-4

日帰り「葵祭れぽ」は、これにて終了です。実際の様子はこんな感じでした。

山吹と藤の花
EPSON013-1
EPSON014-1
IMG_8521
EPSON015-1
IMG_8543

二十代、本当に様々なところに行きましたが、若き日のよい思い出です。今はこのような状況下ですが、外出がもっと自由にできるようになったら、たくさんの場所に出かけましょう。特に、二十代までの間に外国にも行っておくことをおすすめします。


「線路は続くよ〜どこまでも〜」という歌がありますが、最近は「(授業)準備は続くよ〜どこまでも〜」という気分です。一日15時間パソコンの前に座っている、という先生の話も聞きました。「野を越え山越え〜谷越えて〜」という部分、本当に共感します(家にいるのに)。

さて、先日の中古文学会シンポジウム、早くも中古文学会HPで公開されております。

中古文学会特別企画(オンラインシンポジウム)YouTube公開のお知らせhttps://chukobungakukai.org/archives/722

とにかく「早い!」という印象です。すごい。1週間たってませんから。本当にありがたい
ことです。

まだ確認作業(もう一度聞きたい部分を集中的に)で、通して見たわけではないのですが、
初の試みで、まだぎこちなかった部分、最後なんとなくブチっと終わってしまったところなど、
上手に編集されておりました(野中先生の気になるTシャツの文字なども)。

リアルタイム配信を選ぶか、録画配信(編集済み)を選ぶか、ここにも選択が生まれて面白いと
思いました。

リアルタイム配信では、それこそほぼ「生の情報」が得られます。情報の「早さ」というだけ
なら、1週間以内の差ですから、それほど録画以上に優位とはいえません。でも、発表者それぞれの
「意図」がほぼそのまま受け取れます。これは対面式に限りなく近い形です。

でも「配信」ならではのノイズもあって、「聞こえてますか?」とか「マイク入ってませんよ〜。」
といった、発表には直接関わらないやりとりも聞かなくてはなりません。「芸能人」のコンサート
であれば、それが「特別感」に変わる可能性もありますが、忙しい人が多い現代では、自分の
好きな時間に好きな場所で余計な時間をとられずに(ノイズカットされた内容で)視聴できる、
録画配信は利点が多いと思いました。

その一方で、やはりきれいに整理された内容を見ると、ある大御所先生の話を思い出します。

「この前、雑誌の企画で対談があったんだけど、遅れてくる先生はいるし、内容もイマイチだった
のに、雑誌の誌面ではきれいになっててびっくりしたよ。」と。

中古文学会シンポジウムの録画は、リアル配信とそこまでの違いはありませんし、むしろ編集された
方が見やすいのは確かです。でも、「リアル配信」がないようなものの場合、編集でどうなって
いるかわからない、というのが実態かもしれません(最近もテレビの編集で様々な事が問題になって
いましたよね)。

やはり、できる限り、直接情報を得る、というのは、「オンライン」時代になっても大事だな、と
改めて感じました。

それこそ、野中先生のお話にあった「YouTube」図書館時代の到来は、情報の選別、フェイクニュース
との格闘になるのではないかと思いました。その見極め方について教えるのも教員の仕事になるのでしょうか。大変なことです。

あと学校の「古典」の授業テキストは、それこそ「写本」を一次情報とすると、何段階も手が入ることで、文字面では「近代文学」や「現代文学」と変わらない形で読むことになります。もちろん「読みやすいように」という配慮だったわけですが、それでは実態(作者の原本などない。本文も定まっていない)は伝わりませんし、むしろ今では、他の作品のようには「読めない」「わからない」「むずかしい」という第一印象を持ってしまうようにも感じました。内容を重視するなら、まずは現代語訳で読んでしまう方が、苦手意識はなくなるのかもしれません。
それから、今回のシンポジウムの内容は、かなり上級者向けの「古典教育」実践例だ、という声もあったようですが、私はモード界の「パリコレ」のように考えています。

「パリコレ」では、服の今年の流行、最先端が示され、その「要素」を取り入れた服が世の中に出回りますが、学会シンポジウムの提言も、そこから各自で「要素」を抽出して、「応用」していくことが求められているのでしょう。

とにかく様々な事を考えさせてくれる、ありがたいシンポジウムでした。

KIMG0635
(五島美術館の庭園にて。またゼミの皆さんと一緒に見学できますように)










昨日、「中古文学会」という平安文学研究の学会(春季大会)シンポジウムが初めて
「オンライン開催」という形で行なわれました。

これまで、私は学会出張を入れるたび、なぜか家族が発熱する、超ド急の台風で新幹線が動かない、
という事態に見舞われ、遠方での「学会」参加ができない状態が続いていました。

ですので、今回のシンポジウム開催は、一度「中止」の連絡を受けていただけに、大変うれしく、
ありがたい時間でした。関係者の方々に心からお礼申し上げます。

これまでの中古文学会大会は、一会場に全員が集まれる教室やホールを確保し、何百人という
人数がぎゅうぎゅうで座っていた時もありました。それでも研究発表では、質疑応答の
時間が確保されますが、シンポジウムのときは、壇上で話している方々、意見交換している方々の
話を「聞く」のがメインで、フロアからの質問時間、またやりとりを行なう時間は、シンポジウム
全体の時間を考えると、かなり短い印象でした。

最近のメディアの作り方(特にテレビ)を見ると、聞いている側がどのように思っているのか、
「共感」というあり方をかなり意識しているように感じます(元々は、ニコニコ動画やyoutubeのコメント機能が発端でしょうか)。

コメンテーターのワイプ、画面下に常に流されているツイッターのコメントなどは、発信されている情報に対し、視聴者がどのような意見や印象を持ったか、すぐさま知ることができるように示すものと言えます。ただ、危険なのは、そこに発信者側の「選択」が機能している場合も多く、人々の思考を誘導している可能性もあります(少数意見を多数意見のように見せる、発信者側への非難コメントは示さない等)。

学会のシンポジウムも同様で、発信された内容に対し、多数の意見が寄せられたことを理由に(時間の制約があって全てには答えられない等)、司会や発表者より選ばれた質問にのみ回答してもらう、また長時間のシンポジウムに比して、圧倒的に短い質疑応答時間であるようなシンポジウムは、徐々に世間からずれていき、参加者(長時間その場で身動きはとれないし自分の考えも述べられない)の苦痛を誘っていたようにも思います。

ただこのようなこれまでのシンポジウムの仕組みは、日本の学校教育の弊害なのかもしれません。「主体的学び」「双方向授業」が声高に叫ばれながら、それを主導しなければならない私たちがなかなか実践できない現状を如実に示していたわけです(また日本人特有の、大勢の聴衆の前で意見を言うのは恥ずかしい、自分は聞いているだけでいい、と、大方の人が考えているだろうという思い込み)。

でも、昨日のオンライン開催では、それらの苦痛がかなり軽減されました。元々、経済的理由や家庭の事情、身体の問題等で、遠方で行なわれる学会には参加が難しいという人も、このような形の開催であれば多くの人が参加できます。また会場での苦痛(発信者側の情報をひたすら受け取り長時間身動きとれないまま終わる)もありませんでした。なんせ自宅ですから(笑)。

ただ可能であれば、寄せられた質問は、すべて知りたかったなと思いました(回答はなくても)。今回は、会場で開催されるシンポジウムとほぼ変わらない形を「オンライン」で実現したわけですが(凄いことです!)、フォームで質問を募っているということは、それらの意見はデータ化されていて、すぐさま公開することが可能です。もちろん「匿名にする」といった必要はあると思いますが、フロアの他の人がどのような意見・感想を持ったのか、ということは、自分の考えを相対化する上でも、壇上の回答とは別に気になったところです。

今後、会場で開催できるようになっても、オンライン中継が続けられることを期待してしまいました。

また内容については、以下の通り。

開催日程:5月24日(日)13時30分〜17時
コーディネーター・趣意説明
東京学芸大学 河添 房江
パネリスト基調報告
「教育の未来、大学の未来―再定義の時代の国語教育と文学研究―」
都留文科大学 野中 潤
「新学習指導要領下の高校国語科と古典文学研究をどう結ぶか―『大鏡』花山天皇の出家、『伊勢物語』『源氏物語』の実践から―」
城北中学校・高等学校 吉野 誠
「新たな古文教材の可能性―〈定番〉外の中古・中世王朝物語を中心に―」
琉球大学 萩野 敦子
「『源氏物語』で「深い学び」はいかにして可能か―桐壺巻・若紫巻における古典教育と研究の協働―」
東京学芸大学 河添 房江
討議・質疑応答
〈司会〉岐阜女子大学 助川幸逸郎

(後日、中古文学会のHPでyoutube動画として公開されるそうです)

はい。「古典教育」についてのシンポジウムでした。このテーマが4回続けて大会テーマになるというのは「異例」です。ざっくりいうと、教育における「古典」の重要性を再確認し、時代に合わせた効果的教育方法を探る、ということでしたが、やはり自分たち(私も他人事ではない)の「職」がかかっていますからね。熱くならざるをえません。でも「古典」を読むことっていつから「学問」になったのか、それこそ「古今集」「伊勢」「源氏」が特殊なのであって、他は「学問」とか「教育」という形にそぐわないのかもしれません(あまり「勉強」!という形で読むことを強いるとかえって楽しめなくなる)。

シンポジウム中、「定番教材」と言われていた上記の作品は、やはり「古典」として権威をもったことに大方由来しているので、そのような背景についてもしっかり教えていくべきではないかと思いました。これまでの時代において「傑作」とみなされ、現在の日本文化を支える「伝統」となりえているのはなぜなのか、ということです。それは、中学・高校でも教えることは可能だと思います。『竹取物語』は、本当に、いまでもあらゆる側面で、創造力の源泉となり得ていますから。→「セーラームーンとかぐや姫」blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/11086594.html

先日『文藝』(2020夏季号、河出書房新社)で、角田光代さんの『源氏物語』現代語訳の完成を祝すような対談や訳語比較等の特集がありましたが、その中でたびたび古文からの訳が「翻訳」と言われていることに少なからずショックを受けました。古文は「外国語」になってしまったのだなと(これから古文の問題文は「現代語訳しなさい」「口語訳しなさい」ではなく、「翻訳しなさい」になるのかしら?)。

そのように考えると、現実社会で「外国語」を使う機会はあっても、「古文」を使う機会はありませんから、「古典不要論」が言い出されるようになるのもわからないではありません。

古典を楽しく味わえるようにするためには、その入り口(出会い)が大事なように思いました。学ばなければならない理由──それは「大学入試」に出るから、ということだけではないことを、伝えていく必要があります。

それと、ICT教育についての紹介がありましたが、最後に「紙」はなくなるのか否か、という質問に対する答えが分かれていて面白かったです。「いまさら筆には戻れないのと同様に紙とえんぴつ(?)はなくなるだろう」というような発言と「紙は絶対なくならない」という発言。

昔(25年以上前)、大学の視聴覚教育の授業で「映画はなくなるか?」という題でグループ討論させられたことがありました。その頃、家庭内ビデオが普及しつつあったので、自宅で全員映画を見られるようになれば、高いお金を払う映画館はなくなるのではないか、ということだったようです。でも、映画館はなくなっていませんよね(笑)。(もちろん、当時から私は「なくならない」派でした)

電子書籍は便利ですが、気に入った作品ほど、紙でも持っていたいと思うんですよね。人気作家の漫画も、紙の方が売り切れています(「鬼滅の刃」など)。電子書籍なら、そんなことないでしょうに。

やはり「手触りがある」というのは重要で、平面なタブレットやスマホでは味わえない醍醐味がそこにあるのだと思います。あと「手書き感」ですね。

現在まで千年以上の月日をひたすら「手書き」で書き写されてきたからこそ残っている文学作品たち(古典籍)、後世(未来)に残したい!と思った人たちの熱い思いを受け留め、現代で意味を再発見していく(私たちが未来へ渡していく)ことこそが、古典を学ぶ意味だと私は考えています。

最後に、まったく関係ないですが、「新江ノ島水族館公式チャンネル」 https://www.youtube.com/watch?v=scJPy4Tji-U(ライブ配信)からのいやしの写真です(家族が重度なくらげファンです)。

水クラゲ特集。四つ葉(?)ではない頭の六つ葉模様は、四つ葉のクローバーくらい珍しいように
思います。中継中も、「六つ葉見えた!」「どこ?」とコメント欄で話題でした。
[画像:六つ葉水くらげです]

皆さんにもいいことがありますように!



大学のオンライン授業は2週目を過ぎ、少し準備も落ち着いてきました。
この授業形態は、6/17までの予定でしたが、昨日、春学期(前期)いっぱい原則オンライン授業に
するとの連絡が大学からきました。

覚悟はしていました。でもせめて図書館は開けてほしいですね。現在、郵送サービスが利用
できるのは大学院生と教職員のみですが、卒業論文を書く学部の4年生も利用できるようになる
のが理想です。

また授業形態については、資料提示+課題型、オンデマンド収録+課題型の授業が多いらしく
(学生談)、学生はひたすらレポート作成に追われているようでした。また画面を見続けている
ので目がつらい、という訴えも。

私はリアルタイム配信型(コメントペーパーの提出あり)で授業を行なっていますが、受講者の
通信環境の問題もありますので、どれがベスト、とは言いがたい状況です。

それでも「対面授業に近い」という意味では、学生に好評なようなので、できるかぎり、
この形で続けていたらと考えています(がんばります〜)。

さて、今月の葵祭れぽ、第4回目になります。

葵祭れぽ4
8コマ構成でやや見にくいのですが、右の絵から下に読み、左上に戻って下に読む、という
スタイルです。

大学院生(修士1年)時代、日帰りで葵祭見学を決行したときのことを画いています。
実は、前回まで使用した写真は、この見学の翌年、ゼミをあげて見学に行ったときの写真で、
このときの写真は、写りが悪くてほとんど使えません。

二十年以上前ですが、おそらく行程は変わっていないと思います。私は下鴨神社で行列を待ち、
その後、上賀茂神社に移動して、儀式見学の席を買い、行列の到着を待っていました。
img014-1
また儀式がはじまるまでの待ち時間、誰かと一緒に行っていれば、交代でどこかに行く、
おしゃべりして時間を潰す、ということができるのですが、一人だとそれもできません。
「本」くらい用意しておけば良かったのですが......。でも、この一人旅が功を奏する
出来事があります。次回、お楽しみに!





オンライン授業がはじまって1週間が経過しました。みなさん(わたしも)だいぶ
慣れてきたようです。

ただ図書館が使えない状態での演習、というのは、正直たいへんです。

発表準備を行なう学生のために、必要な書籍(自宅にある分)を部分的に、
スキャナー→PDF化→大学のHPにアップして学生に配布、という作業がエンドレス(怖)。

図書館に行き、自分で本を探し、調べることによって、思わぬ別の本との出会いがあったり、
同じ本でも別のところに有益な情報を見つけたりできます。「本の一部」を資料として渡される
だけでは埋められない「何か」が、そこにはあるのです。

オンライン化により、たくさんの論文が情報としてネットで公開され、ピンポイントで
それらを読むことができるのは、とてもありがたいことですが、「図書館」という場で、
本(未知の世界)に囲まれながらゆったり過ごす、という「至福の時間」も、やはり大切に
していきたいものです。

さて、本日は、コロナ禍がなければ、京都で葵祭が盛大に催されているはずでした。

今日もひきつづき、二十年以上前にわたしが見た、葵祭の様子をお伝えしますね。

葵祭れぽ3

「葵祭れぽ」の3回目は、祭に参加する「動物たち」に注目しました。「牛車」はその名の通り、
牛がひく車ですが、車の大きさも驚くほどで、それを長距離ひいて歩く牛もまたすごいです。

実際は、なかなか素直に歩いてくれない牛を、馬丁役の人が引っ張っています。
初夏とはいえ、暑い日などはさぞかし大変だろうと思いました。

牛も大変

また馬に乗っている人も、行列中、多数みかけましたが、一番豪華な飾りをつけている馬が
勅使(天皇の御使)の馬です。


勅使と馬

勅使役は、旧華族の人がつとめるように聞いています。儀式で祭文を読み上げる人でも
あります。

ひき馬の儀

また「牽馬の儀」の様子はこのような感じ。左右馬寮の馬です。

そういえば、葵祭ではありませんが、「白馬の節会」を見に来た清少納言が、馬とその周囲の人
の様子を次のように記しています。

左衛門の陣のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人の弓ども取りて、馬どもおどろかし笑ふを、
はつかに見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの行きちがひたるこそをかしけれ。

いかばかりなる人、九重をならすらむなど思ひやらるるに、うちにて見るは、いとせばきほどにて、
舎人の顔のきぬにあらはれ、まことに黒きに、白きもの行きつかぬ所は、雪のむらむら消えのこり
たる心地して、いと見苦しく、馬のあがりさわぐなど、いとおそろしう見ゆれば、引き入られて
よくも見えず。(『枕草子』より)


馬にちょっかいを出している殿上人たち、宮仕え前の清少納言がまだ遠くに感じている女官
たちの姿、おしろいがはげて地黒が見えてしまっている舎人、暴れ騒ぐ馬など、節会そのものより、
その舞台裏に興味津々な清少納言の様子がうかがえます。また千年前から、動物たちは思うように
ならなかったようですね。

最後に、爽快に駆け抜ける「走馬」の姿をご紹介します。
走馬の儀2


走馬の儀

葵祭に行かれることがあれば、ぜひ動物たちの活躍にもご注目ください!












このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /