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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

中古文学会シンポジウム(初のオンライン開催)感想

昨日、「中古文学会」という平安文学研究の学会(春季大会)シンポジウムが初めて
「オンライン開催」という形で行なわれました。

これまで、私は学会出張を入れるたび、なぜか家族が発熱する、超ド急の台風で新幹線が動かない、
という事態に見舞われ、遠方での「学会」参加ができない状態が続いていました。

ですので、今回のシンポジウム開催は、一度「中止」の連絡を受けていただけに、大変うれしく、
ありがたい時間でした。関係者の方々に心からお礼申し上げます。

これまでの中古文学会大会は、一会場に全員が集まれる教室やホールを確保し、何百人という
人数がぎゅうぎゅうで座っていた時もありました。それでも研究発表では、質疑応答の
時間が確保されますが、シンポジウムのときは、壇上で話している方々、意見交換している方々の
話を「聞く」のがメインで、フロアからの質問時間、またやりとりを行なう時間は、シンポジウム
全体の時間を考えると、かなり短い印象でした。

最近のメディアの作り方(特にテレビ)を見ると、聞いている側がどのように思っているのか、
「共感」というあり方をかなり意識しているように感じます(元々は、ニコニコ動画やyoutubeのコメント機能が発端でしょうか)。

コメンテーターのワイプ、画面下に常に流されているツイッターのコメントなどは、発信されている情報に対し、視聴者がどのような意見や印象を持ったか、すぐさま知ることができるように示すものと言えます。ただ、危険なのは、そこに発信者側の「選択」が機能している場合も多く、人々の思考を誘導している可能性もあります(少数意見を多数意見のように見せる、発信者側への非難コメントは示さない等)。

学会のシンポジウムも同様で、発信された内容に対し、多数の意見が寄せられたことを理由に(時間の制約があって全てには答えられない等)、司会や発表者より選ばれた質問にのみ回答してもらう、また長時間のシンポジウムに比して、圧倒的に短い質疑応答時間であるようなシンポジウムは、徐々に世間からずれていき、参加者(長時間その場で身動きはとれないし自分の考えも述べられない)の苦痛を誘っていたようにも思います。

ただこのようなこれまでのシンポジウムの仕組みは、日本の学校教育の弊害なのかもしれません。「主体的学び」「双方向授業」が声高に叫ばれながら、それを主導しなければならない私たちがなかなか実践できない現状を如実に示していたわけです(また日本人特有の、大勢の聴衆の前で意見を言うのは恥ずかしい、自分は聞いているだけでいい、と、大方の人が考えているだろうという思い込み)。

でも、昨日のオンライン開催では、それらの苦痛がかなり軽減されました。元々、経済的理由や家庭の事情、身体の問題等で、遠方で行なわれる学会には参加が難しいという人も、このような形の開催であれば多くの人が参加できます。また会場での苦痛(発信者側の情報をひたすら受け取り長時間身動きとれないまま終わる)もありませんでした。なんせ自宅ですから(笑)。

ただ可能であれば、寄せられた質問は、すべて知りたかったなと思いました(回答はなくても)。今回は、会場で開催されるシンポジウムとほぼ変わらない形を「オンライン」で実現したわけですが(凄いことです!)、フォームで質問を募っているということは、それらの意見はデータ化されていて、すぐさま公開することが可能です。もちろん「匿名にする」といった必要はあると思いますが、フロアの他の人がどのような意見・感想を持ったのか、ということは、自分の考えを相対化する上でも、壇上の回答とは別に気になったところです。

今後、会場で開催できるようになっても、オンライン中継が続けられることを期待してしまいました。

また内容については、以下の通り。

開催日程:5月24日(日)13時30分〜17時
コーディネーター・趣意説明
東京学芸大学 河添 房江
パネリスト基調報告
「教育の未来、大学の未来―再定義の時代の国語教育と文学研究―」
都留文科大学 野中 潤
「新学習指導要領下の高校国語科と古典文学研究をどう結ぶか―『大鏡』花山天皇の出家、『伊勢物語』『源氏物語』の実践から―」
城北中学校・高等学校 吉野 誠
「新たな古文教材の可能性―〈定番〉外の中古・中世王朝物語を中心に―」
琉球大学 萩野 敦子
「『源氏物語』で「深い学び」はいかにして可能か―桐壺巻・若紫巻における古典教育と研究の協働―」
東京学芸大学 河添 房江
討議・質疑応答
〈司会〉岐阜女子大学 助川幸逸郎

(後日、中古文学会のHPでyoutube動画として公開されるそうです)

はい。「古典教育」についてのシンポジウムでした。このテーマが4回続けて大会テーマになるというのは「異例」です。ざっくりいうと、教育における「古典」の重要性を再確認し、時代に合わせた効果的教育方法を探る、ということでしたが、やはり自分たち(私も他人事ではない)の「職」がかかっていますからね。熱くならざるをえません。でも「古典」を読むことっていつから「学問」になったのか、それこそ「古今集」「伊勢」「源氏」が特殊なのであって、他は「学問」とか「教育」という形にそぐわないのかもしれません(あまり「勉強」!という形で読むことを強いるとかえって楽しめなくなる)。

シンポジウム中、「定番教材」と言われていた上記の作品は、やはり「古典」として権威をもったことに大方由来しているので、そのような背景についてもしっかり教えていくべきではないかと思いました。これまでの時代において「傑作」とみなされ、現在の日本文化を支える「伝統」となりえているのはなぜなのか、ということです。それは、中学・高校でも教えることは可能だと思います。『竹取物語』は、本当に、いまでもあらゆる側面で、創造力の源泉となり得ていますから。→「セーラームーンとかぐや姫」blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/11086594.html

先日『文藝』(2020夏季号、河出書房新社)で、角田光代さんの『源氏物語』現代語訳の完成を祝すような対談や訳語比較等の特集がありましたが、その中でたびたび古文からの訳が「翻訳」と言われていることに少なからずショックを受けました。古文は「外国語」になってしまったのだなと(これから古文の問題文は「現代語訳しなさい」「口語訳しなさい」ではなく、「翻訳しなさい」になるのかしら?)。

そのように考えると、現実社会で「外国語」を使う機会はあっても、「古文」を使う機会はありませんから、「古典不要論」が言い出されるようになるのもわからないではありません。

古典を楽しく味わえるようにするためには、その入り口(出会い)が大事なように思いました。学ばなければならない理由──それは「大学入試」に出るから、ということだけではないことを、伝えていく必要があります。

それと、ICT教育についての紹介がありましたが、最後に「紙」はなくなるのか否か、という質問に対する答えが分かれていて面白かったです。「いまさら筆には戻れないのと同様に紙とえんぴつ(?)はなくなるだろう」というような発言と「紙は絶対なくならない」という発言。

昔(25年以上前)、大学の視聴覚教育の授業で「映画はなくなるか?」という題でグループ討論させられたことがありました。その頃、家庭内ビデオが普及しつつあったので、自宅で全員映画を見られるようになれば、高いお金を払う映画館はなくなるのではないか、ということだったようです。でも、映画館はなくなっていませんよね(笑)。(もちろん、当時から私は「なくならない」派でした)

電子書籍は便利ですが、気に入った作品ほど、紙でも持っていたいと思うんですよね。人気作家の漫画も、紙の方が売り切れています(「鬼滅の刃」など)。電子書籍なら、そんなことないでしょうに。

やはり「手触りがある」というのは重要で、平面なタブレットやスマホでは味わえない醍醐味がそこにあるのだと思います。あと「手書き感」ですね。

現在まで千年以上の月日をひたすら「手書き」で書き写されてきたからこそ残っている文学作品たち(古典籍)、後世(未来)に残したい!と思った人たちの熱い思いを受け留め、現代で意味を再発見していく(私たちが未来へ渡していく)ことこそが、古典を学ぶ意味だと私は考えています。

最後に、まったく関係ないですが、「新江ノ島水族館公式チャンネル」 https://www.youtube.com/watch?v=scJPy4Tji-U(ライブ配信)からのいやしの写真です(家族が重度なくらげファンです)。

水クラゲ特集。四つ葉(?)ではない頭の六つ葉模様は、四つ葉のクローバーくらい珍しいように
思います。中継中も、「六つ葉見えた!」「どこ?」とコメント欄で話題でした。
[画像:六つ葉水くらげです]

皆さんにもいいことがありますように!



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