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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: 映画

先日、映画「国宝」を見てきました。 Screenshot_20250729-160508~2
歌舞伎にハマって3年目、気にはなっていましたが、映画館で見るかどうかは悩んでいました。そんな折、高校時代の友人から「見たよ。良かった!」との感想が届きました。そこで、「よし!」と思い切って映画館に足を運んだ次第です。

ごめんなさい。最初に謝っておきます。私の感覚がやはり人と違うのか、「よかった。感動した!」
とはなりませんでした。以下の感想、読みたくない方は回れ右でお願いします。
映画『国宝』公式サイト












さて、時代は昭和、自分も生まれる前の長崎の地より始まります。


すでに嫌な予感......そうなのです。福岡出身の自分にとっては、微妙な九州弁、かなり気になってしまいました。

その後、舞台は関西にうつりますが、ここでもやはり家族が関西人なので、言葉が気になって集中できません。もちろん主役の喜久雄は、長崎から関西に出てきて、徐々に慣れていく感じでしょうから、ぎこちなくてもOKですが、他の方の話し方が、やはり気になりました。困ったものです。

一方、映画全編を通して問われる「血か、芸か」というテーマについては、歌舞伎界においておよそ知られたことですが(〇代目とつく役者さんがたくさんいる)、最近の歌舞伎役者人気ランキング1位が家の子でない片岡愛之助さんであったように、世間はあまり関係ないのかもしれません。

むしろ「血に守られている」というのは、逆に重荷で、「できて当たり前」と思われたり、代々、名前を継ぐ人たち(父や祖父)と比べられたりすることは、かなりしんどいのではと思いました(でも、「あ、ここがお父さんに似てきた。」「お爺さんとそっくり。」なんて楽しみもあります)。

もちろん、そもそも、親の後ろ盾があるのとないのとでは、演じられる役からして違ってくるでしょうから、一般家庭から入られる役者さんも、相当な苦労がおありのことでしょう。

映画では、そのあたり、かなり濃密に描かれていました。現実問題、歌舞伎の家の子でも、親が早くに亡くなると、教えてくれる人がおらず、後ろ盾がなくなるわけですから、芸の継承は大変です。
それでも、最近の歌舞伎界の様子を見てみると、だいぶ風通しがよくなってきたのではと感じるところもあります(尾上松緑さんの「紀尾井町夜話」などを見ていると)。

特に歌舞伎は、「伝統」と「革新」が強く交わる芸能なので、どちらかに偏り過ぎてもよくないのかもしれません。要はバランスですね。

また歌舞伎界のスキャンダルについても、うまく映画では織り込んでいて、本当に二人の主役は波乱万丈(女性問題やら病気やら)。見ていて、「あー、あれはこれだな。」という、実際のスキャンダルも思い浮かびました。それだけ、小説では、きっとよく取材できていたのでしょう。

ただ、ここは決定的に違う、と思ったのは、当たり前ですが、二人の役者さんのステキな顔が白粉でつぶされていたこと、「踊り」より「顔」での演技に焦点が当てられていたことです。

今年の2月、歌舞伎役者・中村橋之助さんが初めて主役をつとめた映画「シンペイ」の舞台挨拶の際、「自分の顔が映像のアップに耐えられるのか、心配だった」と言われていて、「えー、そんなこと思うの?」と驚きましたが、確かに、顔は白塗りでつぶして描くわけですから(推しの米吉さんがよく言われる)、歌舞伎役者の方は、まさに演技と踊りで魅せているのです。それこそ芸1本。素顔が良いにこしたことはないのかもしれませんが、化けてなんぼの世界とも言えます。

一方、今回の映画の二人は、白粉塗っても、そりゃ綺麗ですが、ない方が、当然色男。その中で、体の演技を求められ、魅力の顔もつぶされるわけですから、並大抵の精神力・演技力ではないなと感じました。

その点で、ある種の「凄み」が出ていたと言えるのかもしれません。ただ、本物の舞台にはかないませんので、そこは顔のアップ(演技)で流していたところもややあったように思います。

歌舞伎の舞台は、映画のようにギュっとコンパクトにはいかないので、多少、長い、だるい、と思うところもあります。また古典だとセリフが難しいものも。でもやはり「本物」の魅力があります。体技と、言葉と、演技と、音楽と、あっと驚く仕掛け、そのすべてが、やはり私にとっては最高の夢の世界に感じます。

映画「国宝」をきっかけに、本物の歌舞伎を見てみたい、と思ったら、ぜひ、歌舞伎座に足をお運びください。今、上演している「刀剣乱舞」の歌舞伎や、ミレールのオンライン配信歌舞伎、映画館「シネマ歌舞伎」からでも大丈夫。服装もラフな格好でOKです。一方、客席で素敵な着物姿も拝めるので、おしゃれするのもまた一興。お弁当買って、もしくは作って持ち込んで、いや劇場で食べて、なんでもできます。これを機に、映画館とは一味違う、歌舞伎の世界へ皆様ぜひぜひお越しくださーい(千代田区の国立劇場、早く建て替えられて再開しますように)。

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(こちらは以前国立劇場で見た本物の国宝・歌六さん)

暦の上では立秋ですが、夏真っ盛りといった感じの今日この頃。約半年ぶりに映画を見に行ってきました。家族の要望で、劇場版「ウルトラマンタイガ」公開初日の鑑賞です(春休みの公開が延びに延びて、ようやく夏休みの公開となりました)。

まず最初に入り口で検温とマスクチェック、アルコール消毒。しかも席は一席ごとに空いていて半分の人数収容と、対策はバッチリされていました。

さて、「ウルトラマン」の映画を見に行ったのは、「ジード」以来でした(そういえば「X(エックス)」は映画館で2回見ました)。「ジード」の時の沖縄舞台も印象的でしたが、今回は「ギンガ」以来のニュージェネレーション世代が勢揃いするということで、期待をもって見てきました。
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(入場者プレゼントは数量限定、配付ランダムのポストカードです。好きなギンガが出て家族は大喜び!)

映画で主役の「ウルトラマンタイガ」は「タロウの息子」という設定。「セブンの息子」である「ウルトラマンゼロ」が大人気ですからね。「タロウの息子」というのは、そういう意味では描き方が難しい気もしましたが、基本的につるまない「ゼロ」(「ウルティメイトフォース」の仲間はいますが)と、最初から三人組の「タイガ」は対照的かもしれません。ただ個人的には、「風来坊」のスタンスながら、「絆の力お借りします!」の「オーブ」推しです(以前の「ウルトラマン」の記事はこちら→http://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/10177410.html )。悪役宇宙人ジャグラーとのヒロインをめぐる三角関係も良かったな〜(ということで、現在は主に心を入れ替えた(?)ジャグラーの活躍を楽しみに最新の「ウルトラマンZ(ゼット)」を見てます)。

はい、個人的趣味はさておき、今回の映画、印象的だったのは、「モブ」(群衆・集団)がほとんど登場しなかったことでした。A.怪獣が登場→B.逃げ惑う人々→C.ウルトラマン登場→D.互いが戦って壊れる町並み、というお決まりのシーン中、B.がなかったような(見逃していたらすみません)。

コロナ禍のために、エキストラを呼べず群衆を描けなかったのか、最近の特撮映画はそういう作りなのか、ちょっとわかりませんが、メインの人々(ニュージェネ勢揃いで豪華)以外は、被り物の宇宙人たちとニュージェネヒーロー(人間の姿)の格闘シーンが中心でした。それも見所の一つで大変良かったのですが、その後、変身したヒーローと怪獣によって派手に壊される建物を見ていて、ちょっと不安になりました。以前は、逃げる人々を誘導する警備隊の人などが描かれていて、避難がおよそ完了していると思われましたけど、今回は「みんなどうしているのだろう?」と気になったわけです。

余計なことかもしれませんが、結構これ大事なことじゃないかと思ってしまうのは、『源氏物語』の世界でも、重要な場面では「名もなき人々」が書き込まれているのです。

たとえば、主人公・光源氏の舞う「青海波」の妙技の部分。

日暮れかかるほどに、けしきばかりうち時雨(しぐれ)て、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々うつろひえならぬをかざして、今日はまたなき手をつくしたる入綾のほど、そぞろ寒くこの世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと岩がくれ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。(紅葉賀巻より)

夕暮れの頃、天までが感涙するような「時雨」を降らせるほどの光源氏の妙技に、「かざし」(かんざし)として頭に刺していた菊の花の色のうつろったなんとも言えない美しさ(紫色)が映え、全て出し切ったところに、「入綾」(退場の舞)が披露される様は、寒気がするほどの素晴らしさでこの世の事とも思えない情景であったと語られます。そして、さらに情趣を解せそうにない下人などさえ、様々なところからこっそり源氏の舞を垣間見ていて、少しでも物の心をわきまえている者は涙を落としたそうなのです。これ以前にも、父帝やライバル女御が、源氏の舞の美しさを褒めてはいるのですが、この「名もなき人々」の様子こそ、真に迫るものがあります。

怪獣の恐ろしさ、地球を守る光の巨人、これらのリアリティを支えていたのが「モブ」だったのだと改めて気づくとともに、古典世界の奥深さにも思いを馳せた次第です。

ちなみに家族は映画を見た後「感動した!」と泣いていました。私は合体した後のウルトラマンたちがどれがどれだか見分けがつかず、ちょっと心残りができましたが、それはまた後日ビデオで確認しようと思います。




このようなご時世ではありますが、免疫力を上げて(個人的な努力です)、
先日、映画「ヲタクに恋は難しい」https://wotakoi-movie.com/を見てきました。

漫画とアニメは知っていたので、実写化するとどうなるのか(どう表現されるのか)、
映画館で予告を見たこともあり、気になっていました。

原作は、主人公2人(宏嵩と成海)の恋を軸に、いくつかのカップルの有り様を示していて、
彼らの交錯が一つの見所とも言えるので、映画ではそれが最後の最後まで
引っ張られているところがやや残念、ではありましたが、ミュージカル要素やコメディ
要素満載で、なかなか楽しめました。

映画の場合、おそらく情報を削いでいかないといけないので、あまり深くは描かれ
なかったのですが、主人公2人が、実は「幼なじみ」であるということは重要な
設定です。よくあるパターンと言われればそれまでですが、この設定、平安時代から
あります(詳しくは後述)。

しかも「宏嵩」(ゲームおたく)にとっては、「成海」(後に腐女子となる)が「初恋」
であることを示すエピソードが原作にはあり、「初恋」ネタも千年前からありますよ〜、
と思ってしまいました。

有名なのは『伊勢物語』の「筒井筒」です。

むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、
男も女も恥ぢかはしてありけれど、男は「この女をこそ得め」と思ふ。女は「この男を」と思ひ
つつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、このとなりの男のもとより、かくなむ、

(男)筒井つの井筒にかけしまろが丈(たけ)過ぎにけらしな妹見ざるまに

女返し、
(女)くらべこし振りわけ髪も肩過ぎぬ君ならずして誰か上ぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとく、逢ひにけり。
筒井筒
二人の子どもは、幼い頃、井(水が湧き出る所を木で井筒に囲ったもの)のもとで遊んで
いましたが、大人になると意識し合って会わなくなってしまいます。
しかし男は「この女と結婚したい」と思っており、女も同じように思っていました。
そのため、親の用意した結婚もせずにいましたが、隣の男から「背比べしていた井筒も背が
伸びてとうに過ぎているでしょうよ(大人になりましたよ)。あなたと会わない間に」と
歌が詠み送られてきます。
女もそれに対して「あなたと比べていた髪も肩を過ぎるほど伸びました(大人になりました)。
あなたの為でなくて誰の為に髪上げ(成人の儀)をしましょうか」と熱烈な歌を返します。

二人は「両思い」であって、願い通り、結ばれるのです(ただし結婚後は生活が苦しくなり、
一波乱あります)。

『源氏物語』でも主人公・光源氏の息子である夕霧と雲居雁の「幼な恋」が描かれており、
互いに「初恋」であることは間違いないでしょう。昔から、そのような恋への憧れがあった
ことがわかります(そういえば、以前ブログに書いた『ナルト』では、ヒロインの「サクラ」
と「ヒナタ」、双方の初恋が成就したことになりますね)。

人気ある恋愛ストーリーの王道は、千年前から「幼なじみ」と「初恋」もの、と言える
かもしれません。


先日、今月2本目の映画を見てきました。1本目に見たのは「屍人荘の殺人」。原作を読まずに見に行ったので、すっかり映画の予告宣伝にだまされました。謎解きはそれなりに面白かったのですが、ちょっと後味が、、、ね(「カメ止め」感、満載で)。

と、それはさておき、今日は2本目映画のお話。じつは岩井俊二監督の映画を見たのは初めてでした。
伊勢物語初段のような風景
(なんでしょうか。この透明感。とにかく少女の撮り方がすばらしい)

25年前も、同監督の映画「ラブレター」が話題になっていました。当時は、直球すぎるタイトルや
邦画のラブストーリーがとにかく恥ずかしく思えて、見ようとは思いませんでした。
でも今回は、、、

──先月「アナ雪2」を見たわね、じゃあ実写の「松たか子」はどうかしら?

──「屍人荘〜」に出てた「神木隆之介」、もう1回違うテイストで見たいわね。

そんな理由で選んでしまいました。あともう一つ、見た人の感想に「泣けた」というのが
結構ありまして、わたくし最近、疲れがひどくて肩が重い──こんなときは映像を見て泣くと、
スッキリすることが多いのです(オススメですよ)。

というわけで、「ラストレター」、見ました。

感想としては「やっぱり直筆手紙はいいよね〜」と思ったのと、図書館、小説家(ちょっと
くたびれた福山雅治)、本の香り、犬、というので、もうひたすら眼福〜と思った2時間でした。

松たか子演じる裕里(ゆうり)の姉・未咲(みさき)が亡くなったところから物語は始まるのですが、
この方、なんとなく名前通り咲かないまま終わってしまった44年の人生という感じで、切ない。

でも、未咲がおそらく人生中、最もキラキラ輝いていた頃を皆で思い出し、共有することで、
その人の「生」は、死してなお、現実に影響を及ぼしていくから不思議です。

ちなみに冒頭の同窓会の話は、本当に自分にとって身近な話題で(行けてませんが)、そりゃ
容姿は激しく変わっているでしょうよ、と、納得して見ていました。

人生、折り返し地点を過ぎて、まだなにも決まっていなかった、はじまっていなかった学生時代を
なつかしみ、いとおしむ──それはまるで宝物のような「時間」であり、そこからまた力を
もらって各自が歩き出す、そんな映画のように感じました。

そこで重要なのが「手紙」。コミュニケーションツールはどんどん進化していきますが、いまだに
長く保管できる記録媒体としてすぐれているのは「紙」なのです。

実際、千年以上前の書や仏典は、「紙」として残り、ありありとその筆跡を今に伝えています。

藤原道長自筆の日記『御堂関白記』も残っているのです。すごいでしょ。

そしてわたしが一番泣いてしまったのは、映画中に「文箱」(ふばこ)が出てきた時でした。
文箱とは、名前通り手紙を保管しておく箱のことですが、これは平安文学にも出てくるのです。
たとえば『源氏物語』では次のようにあります。

近き御厨子なるいろいろの紙なる文ども引き出でて、中将わりなくゆかしがれば、
「さりぬべきすこしは見せむ。かたはなるべきもこそ」とゆるしたまはねば、
「そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ。おしなべたる
おほかたのは、数ならねど、ほどほどにつけて書きかはしつつも見はべりなむ。
おのがじし恨めしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見どころはあらめ」と
怨ずれば、やむごとなく切に隠したまふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子など
にうち置き、散らしたまふべくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の
心やすきなるべし。(「帚木」)


上記は、主人公・光源氏の青年時代のお話で、友人(義兄)・頭中将から、
源氏の元にある女性たちの手紙が見たいとお願いされる場面です。頭中将は、手紙を入れた
厨子(文箱)から様々な紙を引っ張り出していますが、源氏は「みっともないものもあったら
困るから少しだけ」と出し渋り、頭中将は、その不都合なもの(型どおりの挨拶ではなく
高ぶった感情が込められているもの)こそ、見る甲斐があると恨んでいます。

この文箱には、藤壺のような大事な相手との手紙は入っていないと語り手がきちんと
ことわっていますが、女性たちの「生の感情」が、これらの手紙から読み取れたことが
うかがえます。

若い頃は、ある意味、手紙の数=色男自慢にもなり得ていて、楽しい場面として読めますが、
源氏が晩年、愛妻・紫の上を失った後、その手紙をも破らせ、燃やしていくところなどは、
さすがに悲壮感が漂います。

落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、「破れば惜し」と思されけるにや、すこしずつ
残したまへりけるを、もののついでにご覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨の
ころほひ、所どころより奉りたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結ひあはせてぞ
ありける。みづからしおきたまへることなれど、久しうなりにける世のことと思すに、
ただ今のやうなる墨つきなど、げに千年の形見にしつべかりけるを、見ずなりぬべきよと
思せば、かひなくて、疎からぬ人々二三人ばかり、御前にて破らせたまふ。(「幻」)


このあと、どのような気持ちで燃やしたのか、映画を見た後、その意味をより一層深く
考えさせられました。

「ラストレター」おすすめです(特に、司書をやってる同世代のゆきちゃん、忙しいと
思うけど、見てみてくださーい)。

最後に、最近、家族に焼いてもらったクッキーと一緒に作ったケーキをご紹介。
私も人生の折り返し、とっくに過ぎていますが、また「がんばろう」と勇気をもらえた映画でした。

バッチリわかりますね
実はリングケーキ

クッキー&ケーキ、味は100点!でもケーキはスポンジがやや固めで、次回の課題ですな。





先日、クリスマスの日に、映画「アナと雪の女王2」を見てきました。続編、あまり期待していませんでしたが、なかなか面白かったです。

映画の舞台、テーマは「秋」・・・・・・赤い紅葉の舞い散る様子が印象的でした。前回は、アレンデール王国の「夏」が、エルサの氷の魔法によって「冬」にされてしまったわけですが、今回は実りの、そして新たな始まりの「秋」なのです。今回は、異常気象ではなく、順当に「秋」から「冬」へ季節は移り変わるはずでした。

しかし、エルサには不安が募ります。このままいつまでも変わらず、平和にいられるのかと。北からの呼び声は、そんなエルサを新たな境地に誘います。

............以下、ここからはややネタバレ。

前回、妹のアナは愛の力で姉のエルサを救い、エルサは自分の氷魔法の力をコントロールできるようになります。エルサの魔法は国民にも受け入れられ、人と違うことを隠すのではなく、その力を生かして「共生」することがテーマでした。またこれまで物語の王道であった「王子が姫を救って結婚する」(白雪姫、眠りの森の美女、等)というパターンを完全にずらすことにより(とはいえ、元々「雪の女王」は女の子が男の子を救うお話)、物語には一種の爽快感が生まれていました。

とはいえ、エルサ←アナ←クリストフの関係は、どこかもどかしく、それぞれが孤独を抱えていたようにも思います。

しかしそのもどかしさの答えは「オラフ」にありました。「オラフ」は映画中、何度も「大人になったら〜」と歌います。「大人になればいろいろな事が解決するのかも〜」と。

この歌は、いわば上記の3人に向けられたものでした。エルサとアナの仲は、子供のころ、エルサがアナを魔法で傷つけてしまったことから、一時的に断絶します。アナは姉の魔法の記憶を消されてしまっていたため、その理由がわからず苦悩しますが、姉の秘密を知った後は、互いの孤独だった時間を埋めるべく、姉に寄り添い、常に一緒に生きたいと願います。この姉妹の時間は、あくまで子供時代を取り戻すもので、その時間は長く続かないことを「オラフ」は歌っているのです。

エルサは自らを呼ぶ声に従い、北のアートハランへ向かい、己の魔法の力の意味と、存在意義を確認します。そして、より自分の特性を生かす道を選ぶのです。エルサは、アレンデール王国の女王ではなく、まさに「雪の女王」となります。

また、アレンデール王国は、妹・アナが女王として即位し、クリストフと結婚します。二人がそれぞれの道を行く結末・・・それこそ、二人が大人になった証拠でした(+クリストフも)。

話は変わりますが、平安時代後期に作られた『狭衣物語』の主人公・狭衣は、同母兄妹のように育った源氏の宮に恋をします。二人がいつまでもただの仲の良い兄妹でいられないことは、物語の冒頭部に示されます。

少年の春は惜しめども留まらぬものなりければ三月も半ば過ぎぬ。」


源氏の宮には、東宮から入内要請も来るようになり、二人は同じ邸内で、これまでのような関係ではいられないことが暗示されます。「少年の春は短い」→「大人の時間が始まる」というわけです。

また、自分の出生の秘密、というのが、日常から離れたところで明かされる、またそれを知るべく新天地を目指す、というのは、『源氏物語』の続編、宇治十帖の薫を思い起こさせました。

上手な続編、というのは、何か共通点があるのかもしれませんね。

さて、クリスマスにちなんだ、我が家の食卓をご紹介。
鶏肉はフライパンで、ケーキは炊飯器で作りました。
チキンとスープ

ガトーショコラもどき


アフタヌーンティールームにて

体があったまりますね〜。寒い冬の夜は、あたたかい飲み物に限ります。
アップルジンジャーティーは、映画の後、とあるお店でいただきました。

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