[フレーム]

koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2020年07月

連休の最終日、あいにくの雨模様ですが、予定は何もないので全く問題ありません。今日充電して明日から7月最後の1週間、がんばるぞ!という気分です。

今回はわかりにくいタイトルですが、まず『物語研究』という学会の機関誌がなんとか先月末に刊行されたこと(私は編集長でした)、そして、本日の記事で、私のブログが100記事に到達した!ということを意味しています。

今年は2020年、雑誌が20号、ということで、まさに21世紀から始まり20年目を迎える節目となりました。執筆者の方、査読者の方、印刷所の方、様々な人と手紙やメールでやりとりしました。その人数は、ざっと40人弱。しかも途中からはコロナ禍の影響で、編集委員で集まっての作業は全くできず、各自、大きな負担を被りました(発送作業など)。発行は遅れてしまったこともあり、またどなたかから誤りを指摘されないかと戦々恐々と過ごしてきましたが、とりあえず今のところ連絡はないので、ひとまず安心してご報告できます。表紙はこんな感じです。
KIMG0980

(計222頁。そこそこの厚みになりました。執筆者の方、査読をお引き受けいただいた方、編集委員の皆様、ありがとうございました)

普段、関わる学生の人数が約200名くらいなわけですが、去年は、家族の学校のPTA役員(→くじ引きです。そのことをほのめかした記事がこちら→http://blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/2018-12-23.html)もやってましたので、さらに関わる範囲の人が増え、よくわからないまま取り組んでいたものも。まあ振り返れば、どれも貴重な経験でした。

ただこの1年、これまでにないほど、ものすごく忙しい日々を過ごし「とりあえず今年はなんとかなったけど、このままこんな生活がずっと続くのか?」と思ったことも。とにかくラケットを持って、来た球を打ち返していくような。ゆっくり自分のために思考する時間はほとんどありませんでした。

このブログも去年は更新が滞りがちで、始めるときに、ブログに詳しい友人から「まずは100記事達成だよ」と言われていたものの、それもなかなか遠い道のりに感じていました。

けれど、突然の自粛生活が始まり(授業が始まるまでのおよそ1ヶ月)、少し余裕ができました。通勤も、集まっての会議も、PTA活動も、なくてもなんとかなるもんだとわかりました。永遠に続くものなんて実は何一つないんじゃないかと(江戸幕府が倒れた時の感覚かしら?)。この感覚は、創造力の必要な仕事である研究者としての自分を解放してくれるチャンスに感じました。

ブログを始めて2年目の今日、ようやく100記事が達成されるのも、運命のような気がします。まだまだいろいろチャレンジしていきたい──そんな心のゆとりをもてる働き方を今後もしていきたいと思います。以下、懐かしの「お絵画き」画像。

幸談抄100記事記念A

幸談抄100記事記念B

ブログでも何か新しいことを始められたらと思っています。最後にお祝いということで。
地球と月?
(「地球と月」にも見えませんか?最近ロケットもたくさん打ち上がっていますね)


今日は前に訪れた時にはなかったホールのガトーショコラがあって「今日はきっとお祝いだからあったんだよ〜。」と家族が一緒に喜んでくれました。





世の中「4連休」と騒いでいますが、大学は木・金と授業で、まったく連休ではありません。でも家族の学校は休みで家に居るので、ごろごろお休み満喫。うらやましいです。

さて、世の中には多くの「歴史漫画」が出回っていますが、先月講談社から新しい歴史漫画が出ました。こちらです。
講談社歴史まんが
(表紙はそれぞれ誰だかわかりますか?答えは一番下です)

目玉は、テレビでもよく拝見する呉座氏(中公新書『応仁の乱』が有名)監修の中世の部分みたいですが、私の家族が監修を担当したのは、2〜5巻。1巻の考古学がメインの巻は、私と同学部の若狭先生がご担当です。ということで、とりあえず我が家にあるのは1〜5巻の「古代(文学でいうと上代・中古)」の部分です。

5巻目の紀貫之・清少納言・紫式部が出てくるところは、私も少し協力しました。表紙の「紫式部」の絵も、候補が4パタンくらいあり、少しずつ動作の違う絵が出てきて、その中でどれがいいかと思案もしました。

当時、立ち姿はあまりよろしくないとされていたので(『源氏物語』の女三の宮は立ち姿を垣間見されてしまっています)、座っているポーズを推しました。でも中の登場コマでは、しっとりした立ち姿で描かれていて、女房の印でもある裳(「も」と読みます。後ろエプロンのような布。漫画では白で描かれています)が誇らしげに大きく見えるのもいいと思った次第です。女房達は、宮中のキャリアウーマンですから、膝行してばかりはいられなかったでしょうし、能力としては男性と対等にわたりあっていた、いやそれ以上の、彼女の真の姿を示しているように思えたからです。

それまでの「日本の歴史」では、女性への言及は、卑弥呼と女性天皇、藤原薬子、くらいでしょうか。それぞれ国のトップとなる人やそのトップの寵愛した女性です。

でも清少納言や紫式部は、一介の女房。その能力によって、上の人の目にとまり、千年以上の月日を超えて読み継がれる作品を残したのですから、本当にすごい女性たちだと思います。

女性の地位が決して高くなかったこの時代に、すでにこのような作品が残されている事に感激し、イスラム圏から日本に勉強に来た学生がいました。現代でもなお世界中の人に勇気と希望を与えています。

私と家族(監修者ではない)が1〜5巻を読んだ感想では、1と5が面白い!ということに(次いで3)。ちなみに私は3巻の「鑑真」が日本に来るくだりで、思わず泣いてしまいました。

弟子ではなく、高僧の鑑真自身が命の危険を冒して日本に来てくれたこと、最後の渡航では失明してしまいますが、このような命がけの国際交流が人の信心や思いを育てていったことを思うと、現状の一見、古代より豊かなようで殺伐とした世の中に愕然とします。

今の世の中は過去の積み重ねではありますが、決して人はまっすぐに今へと「進化」し続けてきたわけではないと思います。たくさんの英断と過ちがくり返され、その事をきちんと知り、学んでおくことが必要です。講談社漫画「日本の歴史」おすすめします。

(答え)1:卑弥呼と縄文時代の少年 2:聖徳太子 3:父・聖武天皇と娘・孝謙天皇 4:菅原道真 5:紫式部

本当に授業の終わりが見えてきて、だいぶ気持ちが楽になってきました。ただ終わったら終わったで、今度は「採点地獄」が始まるのですが......。

家族が友人のところへ遊びに行っている間、休日に久々の一人本屋、美容院と、はしごをしました。美容院は、いろいろ落ち着いてからと思っていたら、感染者数は日々最高人数を更新していくような有様でしたので、自分の心のゆとりを優先しました。

まず、本屋の新刊コーナーでたまたま見つけたのが『松苗あけみの少女漫画道』(2020年6月)。もう絵がなつかしくて、思わず衝動買いしてしまいました。早速美容室で読んでいたら、美容師の方に「うわーなつかしい。いやだ年がばれちゃうわ」と言われました(きっと同世代)。
KIMG0979
(こちらです。書店でお見かけしたらぜひ。バブル時代の様子もわかります)

一人暮らしをしていた大学生の頃、近くに貸本屋があり、そこにかなりお世話になりました。雑誌や漫画は概ねそこで借りて読んでいました。「松苗あけみ」先生の本も、おおかたそこで出会いました。カラー絵は本当に花や人物が美しくてうっとりするのですが、中身がどれも普通の恋愛ではないのです。とにかく毒があります。触発されて久しぶりに先生の『ロマンスの王国』を電子書籍で見返してみたら、まあのっけから少女愛・不倫・近親相関、のオンパレードでした。

小学生の頃は、あしべゆうほ『悪魔の花嫁』(ファンタジーホラー)や『サスペリア』『ハロウィン』といったホラー系の雑誌漫画が大好きで、篠原千絵『闇のパープルアイ』『海の闇月の影』といったダークファンタジーにはまっていました。その流れか、王道の恋愛物(日常生活における恋を描く)は普通に苦手でした。

そんな私が『源氏物語』に惹かれたのは、やはり王朝世界の表向きの美しさとは裏腹の、人間関係の複雑さにあったようにも思います(まず最初に主人公の母はいびり殺されますし)。

また耽美的な少女画も好きで、原点は「高橋真琴」氏の画になります。アトリエにも遊びに行き先生ご本人にもお会いしました。そのとき、なぜか地元の情報誌の取材が来ていて、大学院の先輩と一緒に雑誌に載ってしまいました。以下その時の記事です。
[画像:1999年です]
(思った以上にしっかり載っていました。よい思い出です。)

とにかく、昔は、バラいっぱい、フリルいっぱい、それこそ非現実的な少女画の世界に憧れがありました(小さい頃はよくまねをして画いていた。今の私の絵にその面影はありませんが)。

松苗あけみ先生のイラストはまさにその流れを汲んでいるように思います。金髪巻き髪やバラの花、その細かさと花を持つ少女の愛らしさ、一級品です(ぜひお顔は本書を手に取ってみてください)。
KIMG0981
(左は高橋先生からの展示会のお知らせをかねた年賀状。右は上記、松苗先生本の扉絵です)

『ロマンスの王国』を見ていたら、『源氏物語』の光源氏と藤壺との密通(継母と子)は、「近親恋愛」の観点から言えば、そう大したことではないように思えてきてしまいました。むしろ帝のキサキとの密通、それも藤壺が「后」となり、源氏との間の不義の子が「即位」してしまうほうが、より重大事でしょう。

平安時代、陽成天皇は、二条后と業平が密通して生まれた子、また高階氏(一条天皇の后・定子の母方)は、業平が斎宮と密通して生まれた子の子孫、という伝承が『伊勢物語』の記述を元に広まっていたようです。この手の話は、かなり昔からあったことになります。なぜ、当時、『源氏物語』のような不義密通話が書けたのか、ということの一つの答えとして、先蹤としての『伊勢物語』があるわけです。(参考:CiNii 論文 - 『源氏物語』はなぜ帝妃の密通を書くことができたか https://ci.nii.ac.jp/naid/120005473436 #CiNii )

今は、さまざまな人間関係に、「世間」のまなざしが厳しく注がれ、実際に「刃」となって傷つける事件があとをたちません。昔の貴族も本当に「世のうわさ」を怖れ、それを恥として死に至る、山に行方をくらますなどの例が見られます。

ただ『源氏物語』で言えば、実際、その罪の重さに耐えきれず死んだのは、柏木だけで(自死に近い病死)、光源氏、藤壺、女三の宮、は、それらを背負いつつ生き続けます。彼らの強さ、悩みながらも生き抜くしたたかさに、いまも私は惹かれ続けているのかもしれません。




突風に横なぶりの雨、ここ数日関東でも台風のような天気が続いています。各地の水害は拡大する一方で、なかなか安心できない状況が続いています。ただ昨日の晴れ間に見えたちぎれ雲の数々、夕焼けの美しい空は、様々な災異からの救いを示しているようにも思えました。私の授業もようやく終わりが見えてきて(2週と少し)、だいぶ気が楽になってきたところです。

対面授業とオンライン授業、前者がよいに決まっていると思いがちですが、必然的に後者しかできない状態に陥り、改めて双方の良さを知り、また前者と後者を組み合わせることによって、それぞれの欠点が補われるのではないか、という考えに至りました。

大量の紙を資料として配って授業する、発表してもらう、これをどうにかして変えられないか、と以前から思っていましたが、それがいきなり「0」(ゼロ)になりました。また演習の議論は、前より確実に意見を求めやすくなった気がします。時間のないときはチャット機能を使って容易に可視データにできますし、自宅のせいか皆さん比較的リラックスして発言しているようにも思えます。

図書館が使えないことは確かに大きな痛手ですが、逆に国立国会図書館の電子資料にある注釈書の版本(江戸時代のもの)が発表資料に出てきて、その場で「くずし字」を読んでみる、という学習になったことも。図書館が使えれば、容易に「活字」の本を探してしまうところですが、今回は同じ授業でも、これまでに出てこなかった資料がバンバン出てきて、面白いです。

対面授業が復活した折には、そこに「戻る」のではなく、ぜひオンライン授業の経験を生かして内容をグレードアップできたらいいなと考えています。あくまで理想ですが。

さて、標題の『枕草子』。今日は正月十五日の「粥杖」(かゆづえ)行事から、春の県召除目(あがためしのじもく)の段に入りました。当時、中央の官職は秋、地方の官職は春に決められていました。当該箇所は以下の通り。

除目の頃など、内裏わたりはいとをかし。いみじうこほりたるに、申文もてありく。四位・五位、わかやかに心地よげなるはいとたのもしげなり。老いて頭白きなどが人に案内いひ、女房の局などによりて、おのが身のかしこきよしなど、心ひとつをやりて説ききかするを、わかき人々はまねをし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ。啓し給へ。」などいひても、得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。

官職を得るための口添えを望んで女房の局を訪ねる男たち。将来も頼もしそうに見える若者と笑われる老い人との対比が鮮やかです。金銭の授受が話題になり、演説の自粛も行なわれた昨今、傍線部のように「自分がいかに知識を持っており、官職についた暁には役に立つか」といったことを熱心に説いてまわるあり方は、決して笑えないと思ってしまいました。とはいえ、上への口添えを頼むわけですから、「縁故」を頼っての就職活動ではありますが、しっかり「自己の能力アピール」をしているところは健全ですね。

春の除目
ちなみに清少納言の父である清原元輔は、この「除目」にまつわる歌をいくつも詠んでいます。その一つがこちら。

司(つかさ)賜はらで同じ人のもとに(←「詞書(ことばがき)」歌の詠まれた状況を説明します)

(和歌) 頂(いただき)の 霜うち払ひ なく鶴を 我が身の他(ほか)と 思ひけるかな


頭の霜をふり払うように鳴く鶴と、白髪頭で泣く我が身を重ね、このような有様に自分はならないと思っていたのに(職が得られると思っていたのに)、という無念の思いが詠まれています。

『枕草子』では「(職を)得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。」と結ばれますが、清少納言は「父の姿」を思い浮かべながら書いていたのかもしれませんね。

学部の四年生は、コロナ禍の中、就職活動をがんばっているようです。くれぐれも身体には気をつけて、卒論のための学期末レポートにも、そろそろ取り組みましょう。


7月になりました。七夕の時期は、雨の日が多いように感じています。 現代では梅雨時ですからね。それにしても、九州の大雨被害は心が痛みます。私は実家の両親に連絡を入れました。幸い、川の側でも山手でもないので、今のところ大丈夫のようですが、やはり心配です。九州の雨は今夜がヤマとのこと。なんとかこれ以上、被害が広がらないように祈っています。

「七夕」と言えば、先日補講のための授業動画を作っていて、『長恨歌』(中唐・白居易作)における玄宗皇帝と楊貴妃の「七夕の誓い」を説明しました。原文の箇所は以下の通り。

七月七日長生殿に
夜半に人無くして私語(ささやきごと)せし時
天に在らば願はくは比翼の鳥作(た)らむ
地に在らば願はくは連理の枝為(た)らむ


楊貴妃は安禄山の乱によって殺され、その死を悲しんだ玄宗は、方士に楊貴妃の魂の在処を尋ねさせます。方士は楊貴妃から釵(かんざし)と螺鈿の箱を二つに分けた片割れを持ち帰ってくるのですが、これらがぴったりと合うように、また生まれ変わっても、必ず会いましょう、との言葉が伝えられます。
そして生前、二人は七夕の日に「比翼の鳥」「連理の枝」のように、どこにいても夫婦として添い遂げようと誓っていたことが明かされるのです。

楊貴妃の死後、玄宗と楊貴妃は天界と地上とで離ればなれになりました。それでもいつかまた必ず会えるはず、という思いは生前の「七夕の誓い」と奇しくも重なります。

一年に一度の逢瀬は、そのはかなさとともに、二人の絆の強さも感じさせます。
『源氏物語』の七夕引用は、浮舟物語における下記が有名です。(伊勢物語の七夕引用は→伊勢物語「渚の院」)

「このありさま御容貌を見れば、七夕ばかりにても、かやうに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかな、と思ふに、」(東屋巻:浮舟の母である中将の君が匂宮を見たときの心情)

「この御ありさまを見るには、天の川を渡りても、かかる彦星
の光をこそ待ちつけさせめ」(東屋巻:浮舟の母である中将の君が薫を見た時の心情)

(削除)
(削除ここまで)
上記ともに、娘である浮舟の相手として、都の貴公子を望む母・中将の君の心情ですが、いくら美男とはいえ、そのようなたまさかの逢瀬が果たして浮舟にとって幸せと言えるかどうか。

この後、実際浮舟は薫と匂宮、二人の貴公子に愛されますが、それは母が夢見た浮舟の幸せとは違ったようです。薫はあくまで浮舟を手に入れられなかった大君の「人形」(ひとがた)としてしか見ていませんでしたし、匂宮も偶然、妻である中の君の異母妹だったために浮舟を垣間見し、さらに薫の愛する女人だったことから、より浮舟に執着したようです。誰も、浮舟本人を求めてはいなかったのです。

七夕のような逢瀬も、こうなってしまうと、女性側にはつらいだけですね。

今は、コロナ禍の影響で、遠距離の友人・恋人・家族となかなか会いにくい状況が続いています。地球規模の七夕状態が続いていると言っても過言ではありませんが、今は「ビデオ通話」もありますし、心の距離まで離れないよう、努力したいものです。
手作り竹
金魚びっくり

(家族がつくった自作七夕飾り。金魚もちょっとびっくりしているかもしれません)








このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /