突風に横なぶりの雨、ここ数日関東でも台風のような天気が続いています。各地の水害は拡大する一方で、なかなか安心できない状況が続いています。ただ昨日の晴れ間に見えたちぎれ雲の数々、夕焼けの美しい空は、様々な災異からの救いを示しているようにも思えました。私の授業もようやく終わりが見えてきて(2週と少し)、だいぶ気が楽になってきたところです。
対面授業とオンライン授業、前者がよいに決まっていると思いがちですが、必然的に後者しかできない状態に陥り、改めて双方の良さを知り、また前者と後者を組み合わせることによって、それぞれの欠点が補われるのではないか、という考えに至りました。
大量の紙を資料として配って授業する、発表してもらう、これをどうにかして変えられないか、と以前から思っていましたが、それがいきなり「0」(ゼロ)になりました。また演習の議論は、前より確実に意見を求めやすくなった気がします。時間のないときはチャット機能を使って容易に可視データにできますし、自宅のせいか皆さん比較的リラックスして発言しているようにも思えます。
図書館が使えないことは確かに大きな痛手ですが、逆に国立国会図書館の電子資料にある注釈書の版本(江戸時代のもの)が発表資料に出てきて、その場で「くずし字」を読んでみる、という学習になったことも。図書館が使えれば、容易に「活字」の本を探してしまうところですが、今回は同じ授業でも、これまでに出てこなかった資料がバンバン出てきて、面白いです。
対面授業が復活した折には、そこに「戻る」のではなく、ぜひオンライン授業の経験を生かして内容をグレードアップできたらいいなと考えています。あくまで理想ですが。
さて、標題の『枕草子』。今日は正月十五日の「粥杖」(かゆづえ)行事から、春の県召除目(あがためしのじもく)の段に入りました。当時、中央の官職は秋、地方の官職は春に決められていました。当該箇所は以下の通り。
除目の頃など、内裏わたりはいとをかし。いみじうこほりたるに、申文もてありく。四位・五位、わかやかに心地よげなるはいとたのもしげなり。老いて頭白きなどが人に案内いひ、女房の局などによりて、おのが身のかしこきよしなど、心ひとつをやりて説ききかするを、わかき人々はまねをし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ。啓し給へ。」などいひても、得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。
官職を得るための口添えを望んで女房の局を訪ねる男たち。将来も頼もしそうに見える若者と笑われる老い人との対比が鮮やかです。金銭の授受が話題になり、演説の自粛も行なわれた昨今、傍線部のように「自分がいかに知識を持っており、官職についた暁には役に立つか」といったことを熱心に説いてまわるあり方は、決して笑えないと思ってしまいました。とはいえ、上への口添えを頼むわけですから、「縁故」を頼っての就職活動ではありますが、しっかり「自己の能力アピール」をしているところは健全ですね。
春の除目
ちなみに清少納言の父である清原元輔は、この「除目」にまつわる歌をいくつも詠んでいます。その一つがこちら。
司(つかさ)賜はらで同じ人のもとに(←「詞書(ことばがき)」歌の詠まれた状況を説明します)
(和歌) 頂(いただき)の 霜うち払ひ なく鶴を 我が身の他(ほか)と 思ひけるかな
頭の霜をふり払うように鳴く鶴と、白髪頭で泣く我が身を重ね、このような有様に自分はならないと思っていたのに(職が得られると思っていたのに)、という無念の思いが詠まれています。
『枕草子』では「(職を)得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。」と結ばれますが、清少納言は「父の姿」を思い浮かべながら書いていたのかもしれませんね。
学部の四年生は、コロナ禍の中、就職活動をがんばっているようです。くれぐれも身体には気をつけて、卒論のための学期末レポートにも、そろそろ取り組みましょう。
対面授業とオンライン授業、前者がよいに決まっていると思いがちですが、必然的に後者しかできない状態に陥り、改めて双方の良さを知り、また前者と後者を組み合わせることによって、それぞれの欠点が補われるのではないか、という考えに至りました。
大量の紙を資料として配って授業する、発表してもらう、これをどうにかして変えられないか、と以前から思っていましたが、それがいきなり「0」(ゼロ)になりました。また演習の議論は、前より確実に意見を求めやすくなった気がします。時間のないときはチャット機能を使って容易に可視データにできますし、自宅のせいか皆さん比較的リラックスして発言しているようにも思えます。
図書館が使えないことは確かに大きな痛手ですが、逆に国立国会図書館の電子資料にある注釈書の版本(江戸時代のもの)が発表資料に出てきて、その場で「くずし字」を読んでみる、という学習になったことも。図書館が使えれば、容易に「活字」の本を探してしまうところですが、今回は同じ授業でも、これまでに出てこなかった資料がバンバン出てきて、面白いです。
対面授業が復活した折には、そこに「戻る」のではなく、ぜひオンライン授業の経験を生かして内容をグレードアップできたらいいなと考えています。あくまで理想ですが。
さて、標題の『枕草子』。今日は正月十五日の「粥杖」(かゆづえ)行事から、春の県召除目(あがためしのじもく)の段に入りました。当時、中央の官職は秋、地方の官職は春に決められていました。当該箇所は以下の通り。
除目の頃など、内裏わたりはいとをかし。いみじうこほりたるに、申文もてありく。四位・五位、わかやかに心地よげなるはいとたのもしげなり。老いて頭白きなどが人に案内いひ、女房の局などによりて、おのが身のかしこきよしなど、心ひとつをやりて説ききかするを、わかき人々はまねをし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ。啓し給へ。」などいひても、得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。
官職を得るための口添えを望んで女房の局を訪ねる男たち。将来も頼もしそうに見える若者と笑われる老い人との対比が鮮やかです。金銭の授受が話題になり、演説の自粛も行なわれた昨今、傍線部のように「自分がいかに知識を持っており、官職についた暁には役に立つか」といったことを熱心に説いてまわるあり方は、決して笑えないと思ってしまいました。とはいえ、上への口添えを頼むわけですから、「縁故」を頼っての就職活動ではありますが、しっかり「自己の能力アピール」をしているところは健全ですね。
春の除目
ちなみに清少納言の父である清原元輔は、この「除目」にまつわる歌をいくつも詠んでいます。その一つがこちら。
司(つかさ)賜はらで同じ人のもとに(←「詞書(ことばがき)」歌の詠まれた状況を説明します)
(和歌) 頂(いただき)の 霜うち払ひ なく鶴を 我が身の他(ほか)と 思ひけるかな
頭の霜をふり払うように鳴く鶴と、白髪頭で泣く我が身を重ね、このような有様に自分はならないと思っていたのに(職が得られると思っていたのに)、という無念の思いが詠まれています。
『枕草子』では「(職を)得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。」と結ばれますが、清少納言は「父の姿」を思い浮かべながら書いていたのかもしれませんね。
学部の四年生は、コロナ禍の中、就職活動をがんばっているようです。くれぐれも身体には気をつけて、卒論のための学期末レポートにも、そろそろ取り組みましょう。