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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: 神話

7月最後の日を迎えてしまいました。今年はなかなか暑くならないと思っていたら、いきなり猛暑になりましたね。昨日は試験最終日でしたが、具合の悪くなった学生も多く出たようです。

家族のラジオ体操も、最初は雨で体育館、途中曇り空、最後は台風が近づく中での晴天で終わりました。
ちょうど体操が始まるあたり、私は例年恒例の夏季源氏物語講座を担当していました。

今年は「源氏物語と神話・信仰」。代替わりを迎え、様々な神事・儀式がとりおこなわれていることを意識してのテーマ選びでした。今年も3人の先生をお迎えし、お話いただきました。

特に印象に残ったのは、最初のご講演でお話いただいた津田先生の「神話の多義性と受容」。神話は特に源氏物語の須磨・明石巻に深く関わっています。

(光源氏)わたつ海に しなえうらぶれ 蛭(ひる)の児の 脚立たざりし 年は経にけり
と聞こえたまへり。いとあはれに心恥づかしう思されて
(朱雀帝)宮柱 めぐりあひける 時しあれば 別れし春の 恨み残すな


光源氏は、兄である朱雀帝の寵姫・朧月夜との密通が発覚し、謀反の疑いをかけられる前に、自ら都を離れ須磨へ退去します。途中、明石へ移動しますが、3年間、都に帰れませんでした。その後、ようやく召喚の宣旨が出て、都に戻った光源氏は、兄である帝に対し、そのことをヒルコ神話を基にした歌によって表現します。またその返歌も、イザナギとイザナミが国生みの際、巡ったとされる宮柱をモチーフにし、源氏の心をなだめる内容です。

日本書紀では、イザナギ・イザナミの国生みの際、生まれた「蛭児」(ひるこ)が三歳になっても脚が立たなかったことから、船に乗せて棄てられたとの記述があります。この話をもとにして詠まれた平安期の和歌に「かぞいろは(父母) いかにあはれと 思ふらむ 三年になりぬ 足立たずして」(大江朝綱)があるのですが、このような一連の神話(ここでは日本書紀)受容の中に、源氏物語の記述もあるわけです。

また光源氏が兄である朱雀との問題から海浜をさすらい、明石入道と出会い、その娘・明石の君と結婚する点は、海幸・山幸神話としても知られる「海神宮訪問神話」の構造との類似が指摘されています(松岡先生のご講演でもご指摘)。源氏物語では、しばしば「海竜王」という言葉も登場します。
ポニョ
その延長で、紹介されたのが「崖の上のポニョ」。確かに「海神宮訪問神話」とよく似ています。人間が海神宮に行くのではなく、ポニョが地上に来る点は、「人魚姫」の話に近いように思いますが、幼いながらも二人は一瞬で好意を持ち、ポニョがやってきたことで、海の世界と地上の世界が混濁したようになります。神話と異なるのは、人間の男の子・宗介が、ポニョの本来の姿を受け入れるのに対し、トヨタマヒメの場合は、出産の際、本来の姿(ワニ/鮫のこと)をホオリノミコトに拒否され、海へ帰っていく点だそうです。なるほど!と思いました。

現代でも人気のお話の骨格には「神話」が息づいている......それは当時の平安貴族に大人気だった『源氏物語』に「神話」のモチーフが見られることと同じ現象であるわけです。人間が深層心理で求めているものは、そう簡単に変わらないことがよくわかります。海の力、それを脅威に思いつつ、一方でコントロールし手に入れたいと願うこと、と、津田先生は言われていましたが、確かにそうですね。

夏休み、海に行く人も多いと思います。そんなとき、この話をちらとでも思い出しながら海を眺めると、また違った光景が見えてくるかもしれません。

(参考・引用)
津田博幸「神話の多義性と受容」(明治大学リバティアカデミー講演・2019年7月20日)
松岡智之「須磨・明石巻と神話世界」(明治大学リバティアカデミー講演・2019年7月20日)

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