[フレーム]

koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: オンライン授業

今月、最終日となってしまいました。2月は入試月なわけですが、なんとか乗り切れました。

ちなみに入試にもいろいろあります。

今月は、学部の一般入試と大学院入試がありましたが、明日は、編入・転専攻の入試があります。

一般入試は筆記試験だけですが、後者の2つは面接もあります。

面接は、準備も必要ですが、日頃の積み重ねが出てくる場でもあります。たとえば、用意しておいた(考えてきた)回答をそらで話した場合、緊張で棒読みになる、質問と内容がずれてしまう、といったことも起こります。

質問は、聞き直しても大丈夫です。

落ち着いて、自分の考えを自分の言葉でしっかり話すことができるといいですね。

さて、昨日は、大学院時代の指導教員の傘寿(80歳!)のお祝い会をzoomで行いました。
これまで、還暦、古希(退職お祝い)、名誉教授就任お祝い、喜寿、とすべて対面でしたが、
初のzoom開催。
HORIZON_0001_BURST20220228114704015_COVER
zoomにもよいところがあって、海外にいる教え子たちも今回は参加できました。また設定が
容易なので、2回に分けて開催し、双方録画することで、どちらの参加者にも懐かしい仲間の様子が伝わります。

私は、この会の後、別の国際シンポジウムへの参加(こちらもzoom)のために、定時で抜けましたが、その後90分歓談したそうです。これも同じ店ではなかなかできないことです。

国際シンポジウムの方は、同僚の先生が主催されていたもので、辺見庸『1★9★3★7』の読書会でした。
1937_flyer_02
内容に興味もありましたが、この原稿が次年度、大学の『文芸研究』(私が次期編集長予定)に掲載されるということで、リアルタイムで視聴しました。

こちらもzoom開催ということで、ポーランド、フランス、ドイツ、中国、韓国、など、報告者はすべて海外の方でした。

現実に、ロシアのウクライナ侵攻が進む中、戦争文学、特に日本の「加害」の記憶ををどのように捉えるか、という重厚なテーマであり、会への参加申し込みは300名以上(当日は400名以上)あったそうです。内容は、本当にどれも貴重なお話で勉強になりました。

現在によって過去を癒す、加害者と被害者の記憶の対話、知らない(知りたくない)と思っていることの罪、などなど。

しかも、最後に、著者本人がサプライズ登場され、びっくり。最後は、日本や世界の未来を憂えておられ、過去は突然、未来にやってくる、と話されていました。ただその時、過去を繰り返すのか、それまでの学びが生かされるのかで、結果は違ってくるような気がしました。

癒しの時間が終わり、忘却するのではなく、対話し続けることで、同じ地球の仲間、身内として互いを知り、認め、尊重し合う、それは、身近な人からはじめて、その輪を大きくしていくことなのかもしれません。

6月も最終日。今月は、とにかくいろいろ大変でした(家族の風邪とか自分の風邪とか)。

また、学生の演習発表が本格的にスタートし、そのサポートが例年に増してしんどかったように
思います。

オンライン、対面、いずれかであれば、それなりに方法が統一できるのですが、両方が混在する
授業が「緊急事態宣言下」では常態となります。

教室にいる人、オンラインの人、それぞれ見えているか、聞こえているか、双方に確認する必要が
あります。

授業内容だけに集中できない要因が、複数生まれるわけです。これは今のところ、すべて「コロナ禍」が理由だと私は考えています(学生側が気にする必要はまったくありません。状況によって、どちらを選んでもよいのです)。

偶然、廊下で行き会う知り合いの先生方も、どことなくやつれている印象。

「ずっとはもたない。」

「わかる。わかる。」

そのような中、緊急事態が解除され、対面授業が再開した途端、私が風邪を引いてしまったので、
学生は教室にいてもらい、自分は外からZOOMで授業をすることになりました。

もう、あらゆるパターンのメディア授業をこの1年で経験した気がします。

緊急事態宣言により、大学については人流が大きく変わります。これは間違いありません。

そのたびに、授業変更への対応を余儀なくされるのは、学生ともどもかなり大変です。

シラバス(授業計画)の意味が......あるようなないような、とも感じます。

このような状態で、学生の授業アンケートにおいて「授業はシラバス通りに行えているか」と
問うのは、ナンセンスでは?と思ってしまいます。

もう、月の最後に愚痴ばかり書いてしまいましたが、来月こそ、スッキリできますように。

またお天気も、雨が多くて自転車通勤が難儀でしたので、来月こそ、夏らしい日が来ますように。


DSC_0196 (1)
最後に、今月、私の心を癒してくれた美味しいランチをご紹介して終わります。

サンフラド (sunflowed.com)

三軒茶屋のお店です。




予定では、ここで「天狗」と会った話を書く予定でした。でも、どうしても大学教員として先に書かねばならないと思った事ができたので、天狗話は次回にします。ご了承ください。

さて、3回目の緊急事態宣言。私の務め先では、対面7割、オンライン3割で、4月から授業がスタートしました。キャンパスは活気であふれ、いつもの新学期風景が見られました。教室は定員の3分2以下とし、人との距離は確保しつつ、換気も行い、万全の体制で始まった対面授業でした。

学部の2年生は、昨年ほとんどキャンパスに来られなかったので、新入生同様、教室がわからない人が多く、はじめの一週間は、キャンパス内で「迷っている人」を大勢見かけました。でも、それもご愛敬。マスク下の中でも笑い声があふれ、遅刻者をまったく見ないという(対面の授業のありがたさからか)、いつもと同じようで少し違う新学期のはじまりでした。

それがまた緊急事態宣言により、今のところ一時的に、昨年の状態に戻ることになりました。オンライン7、対面3の割合での授業です。ただ、ゴールデンウイーク明けに終わる予定なので、この期間に終われば、影響は少なくすみます。このような状態を見越して、4月からオンラインでスタートした大学もありますが、4月のひと月だけでも、対面授業を成立させ得た意義は大きいと個人的には思っています(学生たちの様子を見ても)。ただ、実質、明日、演習の授業で行く予定だった「東京国立博物館」は閉館になり、予定変更せざるをえなくなりました。

私の対面授業における講義は、100名を超えていました。久々の対面における大人数授業で、教室の皆さんも楽しそうでしたが、こちらもオンラインを考えなくてはなりません(出席番号で対面出席者を入れ替えることも思案中)。

小・中・高は、それほど影響がない中、なぜ大学だけ?と思ってしまいますが(教室でのクラスター発生などは聞いたことがない)、学生ができるだけ不安を感じないような、また不利益を被らないような、授業の形を引き続き模索していきたいと思っています。

話は変わって、私のお気に入りのyoutubeの一つに「はろーふろむロングビーチ」さんのチャンネルがあります。この方、カリフォルニア州にお住まいの日本人女性の方ですが、州立大学の事務方としてお勤めで、創作好きの下の子のお子さんの絵や作品を動画の背景にしつつ(上のお子さんは今年から大学生)、アメリカでの生活の様子や大学の様子をお話ししてくれて、いつも楽しみにしていました。
[フレーム]
(ここ数回の動画は下のお子さんの作品待ちで、アロマポットの前でお話しされています)

私は勤務先の古代学研究所(文学・歴史・考古)の所員でもありますが、大学院GPと呼ばれる古代学研究センターでは、大学院生を連れて、毎年、海外(韓国・中国・アメリカ)での研究発表交流事業を行ってきました。私は家の事情で、海外への引率はしてこなかったのですが、日本で開かれる国際シンポジウムや学会には参加してきました。アメリカでは、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)が交流先なので、「はろー」さんのお話も、身近に感じていた次第です。

今日のお話は、大学における「予防接種」の内容で、かなり衝撃を受けました。カリフォルニアでは、州立大学の教職員・学生ともに、予防接種が「義務化」されたとの内容でした。学生においては、宗教上の理由も認められないようで、激しいアナフィキラシーを過去に起こした事のある場合のみ、証明書で接種しないで済むとのことでした。

もともと、日本ではすべての予防接種が「任意」です。「打っていないから学校に来てはいけません」というような事は言われません。でも、アメリカではそれが既に始まっており、交流事業で渡航する学生にもそれが課せられるようになるのでは?と思ってしまいました。今回、あまりにも短い治験期間でできたワクチンですが、何の疑いもなくほぼ「強制」に近いところまできていることになります。

日本はどうするのか......幸い私の勤め先は「私立」ですが、「対面授業」を成立させるべく、そのような圧力が今後かかってくるかもしれない、とも感じました。「ワクチンを待っている人」もいることは知っていますが、インフルエンザでさえ、打ってもかかるわけですから、そんなに簡単に集団免疫がつくとも思えません。激しい副反応を起こしている事例を海外のSNS等で目にすると、やはり大丈夫なの?と思ってしまいます。

未来ある若い学生たち、自分の子供たちの健康をどこまで守れるのか、本当に厳しい事態に直面しています。

今こそ、情報の選別、自分や家族の身をどのように守るべきか、真剣に考える時期にきているようです。


DSC_0132
(天狗の話は次こそしたいと思います。ほら貝の音に心洗われたお話しです)





新年度、はじまりました!今年度は、なんと「専攻主任」なるものになりまして、初日から様々対応の仕事をさせていただいています。

まだまだ序の口で、これからもっと大変なのでしょうが、去年までほとんど「自宅」にいた身としては、様々な部署の方とやりとりできるのが、不思議と楽しく感じております(マゾヒズム?)。

このブログの更新、ただでさえ、滞り気味なのに(もう一つは完全にストップ。新装開店のため、長期休業中です)、どうなることやら、ですが、むしろストレスがたまってかえって更新したくなるかもしれません。どうか気長にお付き合い下さい。

標題は、私も会員である「日本文学協会」の雑誌特集の見出しです。先月号をようやく読み終わり、考えたことを少し書きたいと思います。

高校の国語教育が2022年度から大きく変わることについては、以前ブログにも書きました。

それに伴って、学会では積極的に「国語教育」のあり方について、問う姿勢が顕著です。

「国語」自体は、学校教育の中で、教える時間が最も多い科目だと思います。算数とともに、小学1年生から始まります(理科・社会は3年生から)。

やはり、国語の「書く力」「読む力」は、全ての教科と関わってきますから、早い段階からしっかり教えられるのだと思います。

それでも、教材については、大いに疑問があります。自分らが小学生の時と同じ教材が多数見受けられるからです。40年以上、同じ教材が使われています。

もはや「古典」と言っていいのかもしれませんが、私は良い傾向だとは思いません。早い話、時代背景からしっかり教えないと、よくわからない言葉や内容が多々出てきます。

また、「音読」教育の名のもとに、毎日読むのが宿題になっている学校は多いと思いますが、数日ならともかく、2週間以上、同じ教材を読み続けることもあります。この「効果」は、どのあたりにあるのか、私にはちょっとはかりかねます。

数十年前と、今とでは、当然のことながら、作品の読み方、捉え方は変わるはずです。しかしながら、家族の導かれ方を見ていると、あまり変わっていないように感じます。

「国語」は、他の教科と違い、就学前から自然と家庭で学んできています。ですので、自分で教科書を読むことも、およそできます(習っていない漢字を除き)。

つまり、打楽器と同じで、とりあえず誰でも音を出すことはできるわけです(例えが飛躍してすみません。私は吹奏楽を10年やっていたもので)。

それが甘く見てしまいがちな原因なのでしょうが、「打楽器」を極めることが難しいと言われるように、「国語」を極めることはやはり容易なことではなく、また「言葉」を扱う以上、コミュニケーション(共感力・表現力)の源であって、重要なことは間違いありません。

以下、雑誌の特集号論文(三篇)の感想です。

「国語は内容ではなく言葉(技術?)を教えるべき」と言われると、禅問答のようで、現場の教員には伝わりにくい気がします。何より「教員は「名人芸」ではなく生徒のちょっと先を行け」というのも、若い教員にはあてはまりません。また教材によっては、生徒側の方がはるかにフレッシュで優れた解釈をする可能性があります。指導の最終目標はあるでしょうが、その過程は、先生の経験や年齢によって違っていいわけですし、それがまた国語の面白さのように私は感じました。ただ実践的な国語として、要約の仕方を教える必要がある、というご意見は納得しました。

次に「You Tubeが図書館だー!」というご意見も、理念としてはよくわかりました。でもこれを現実に導入した時、様々な困難にぶち当たりそうな気がします。そもそも、社会の基準や規範を逃れた「雑多さ」「ゆるさ」が売りのネット空間なので(最近はそうでもなくなってきましたが)、ここを基とする「教育モデル」というのが、私にはイメージしにくいのかもしれません。学校のデジタルシフトの象徴として挙げられていたN高校の不祥事を見ると、むしろ学校教育の中で、「実習」や直接的な「体験」を重視すべきではと感じました。

最後に「高校に古典は本当に必要か」については、「必要な人もいるし必要の無い人もいる」というのが正直な私の感想です。長い余生、必ずしも古典をお供にするとは限りません。今の時代であれば、ゲームや手芸、絵を画く、映画を見るなど、様々な楽しみ方があります。でも、今挙げたもののうち、古典の世界がおよそベースになっていると思われる人気作は、今でもかなり多いのです。古典が創造の源泉となり続けていることを考えると、やはり長い間受け継がれ、読み継がれてきたものには、それなりの価値と魅力があり、それを知る機会を設けておくことは大事だと感じます(ただ全員が必修でやる必要はないでしょう)。またディスカッサントの方のご意見で、「言葉の歴史」の一環として、「古典」(古語)を捉える、という部分には深く共鳴しました。

私は中学生で古典の世界が好きになり、いまだにそれが続いています。義務教育で入り口を示せば、好きな人は高校でも学ぶでしょう。

そもそも「文学」と「教育」は、相容れないもので、「読み方」なんて、正直、教えられるものではないと思います。あえて言うなら、個人が自分の「読み方」を見つけるために、いろいろな方法を知る、その手助けをすることくらいでしょうか。

CIMG7026

とはいえ、日々の生活の中、皆さんの心の癒やしとなるような言葉、暗闇を照らしてくれる言葉が見つかりますように、願ってなりません。








10月も最終日になってしまいました。いろいろ振り回された1ヶ月。まず、学部のオンライン授業ですが、学期中4回、という制限がなくなり、再度、対面授業を増やすことになりました。

そして、学生の作業量をオンラインでも対面でも同じにすべく、発表者のレジュメ印刷を教員で引き受けることに。この対面とオンラインの折衷授業、なかなか大変です。

学部の演習は、1授業で毎回2人の発表者がいますが、一人は対面発表、一人はオンライン発表の場合、オンラインでの発表者の声(PCから出る)を、教室の学生に聞こえるようにするのが至難の業でした。教室の音声を拾うマイクはありますが、逆に拡声のためのマイクが必要なことがわかりました。本当に、毎回、試行錯誤です。

しかも、まさかの「爆破予告」もあり、予告日前日の対面授業は、正直ドキドキものでした(後から知りましたが、他大学にも、同様の脅迫が来ていたようです)。

さてさて、かなり前の更新から時間がたってしまいましたが、東京国立博物館、いよいよ見学パートです。

まずは考古の資料から。場所は平成館です。
KIMG1142
(縄文時代後期。ハート型土偶です。人のような、そうでないような)

KIMG1144
(縄文時代晩期。遮光器型土偶。頭の冠と目のインパクトが大です)

ハート型土偶は、見た目通りの名前ですが、遮光器型土偶は、目の部分がイヌイットの遮光器(スノーゴーグル)に似ているからの名なのだとか。服装の模様も細かくて、ステキです。

東博は、古墳時代以前の展示が少なめだと聞きましたが、充分楽しめました。あと、やはり勾玉(まがたま)でしょうか。

KIMG1150
(いつ見ても不思議なかたち。左下の水晶も大きくてカットがきれいでした)

KIMG1145
(ペンダントにしているのもおしゃれです。赤と緑のコントラスト)

KIMG1152
(縄文時代の刀。しっかり形が残っています。)

KIMG1147
(一番右の大きな銅鐸にびっくり。弥生時代後期、2000年くらい前の代物です。どんな音が出るのか叩いてみたくなります)

埴輪には、「しろまるしろまる女子」「しろまるしろまる男子」と名前の付いているものがあり、男子の方はおよそ甲冑を着ている、兜をつけている、といったことでわかるのですが、女子の場合は、胸の表現と、髪型で判断しているとのことのでした(考古学の先生談)。

次回は、もう少し時代が進みます。お楽しみに。





このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /