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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

国語・文学教育のこれから(「日本文学」3月号の感想)

新年度、はじまりました!今年度は、なんと「専攻主任」なるものになりまして、初日から様々対応の仕事をさせていただいています。

まだまだ序の口で、これからもっと大変なのでしょうが、去年までほとんど「自宅」にいた身としては、様々な部署の方とやりとりできるのが、不思議と楽しく感じております(マゾヒズム?)。

このブログの更新、ただでさえ、滞り気味なのに(もう一つは完全にストップ。新装開店のため、長期休業中です)、どうなることやら、ですが、むしろストレスがたまってかえって更新したくなるかもしれません。どうか気長にお付き合い下さい。

標題は、私も会員である「日本文学協会」の雑誌特集の見出しです。先月号をようやく読み終わり、考えたことを少し書きたいと思います。

高校の国語教育が2022年度から大きく変わることについては、以前ブログにも書きました。

それに伴って、学会では積極的に「国語教育」のあり方について、問う姿勢が顕著です。

「国語」自体は、学校教育の中で、教える時間が最も多い科目だと思います。算数とともに、小学1年生から始まります(理科・社会は3年生から)。

やはり、国語の「書く力」「読む力」は、全ての教科と関わってきますから、早い段階からしっかり教えられるのだと思います。

それでも、教材については、大いに疑問があります。自分らが小学生の時と同じ教材が多数見受けられるからです。40年以上、同じ教材が使われています。

もはや「古典」と言っていいのかもしれませんが、私は良い傾向だとは思いません。早い話、時代背景からしっかり教えないと、よくわからない言葉や内容が多々出てきます。

また、「音読」教育の名のもとに、毎日読むのが宿題になっている学校は多いと思いますが、数日ならともかく、2週間以上、同じ教材を読み続けることもあります。この「効果」は、どのあたりにあるのか、私にはちょっとはかりかねます。

数十年前と、今とでは、当然のことながら、作品の読み方、捉え方は変わるはずです。しかしながら、家族の導かれ方を見ていると、あまり変わっていないように感じます。

「国語」は、他の教科と違い、就学前から自然と家庭で学んできています。ですので、自分で教科書を読むことも、およそできます(習っていない漢字を除き)。

つまり、打楽器と同じで、とりあえず誰でも音を出すことはできるわけです(例えが飛躍してすみません。私は吹奏楽を10年やっていたもので)。

それが甘く見てしまいがちな原因なのでしょうが、「打楽器」を極めることが難しいと言われるように、「国語」を極めることはやはり容易なことではなく、また「言葉」を扱う以上、コミュニケーション(共感力・表現力)の源であって、重要なことは間違いありません。

以下、雑誌の特集号論文(三篇)の感想です。

「国語は内容ではなく言葉(技術?)を教えるべき」と言われると、禅問答のようで、現場の教員には伝わりにくい気がします。何より「教員は「名人芸」ではなく生徒のちょっと先を行け」というのも、若い教員にはあてはまりません。また教材によっては、生徒側の方がはるかにフレッシュで優れた解釈をする可能性があります。指導の最終目標はあるでしょうが、その過程は、先生の経験や年齢によって違っていいわけですし、それがまた国語の面白さのように私は感じました。ただ実践的な国語として、要約の仕方を教える必要がある、というご意見は納得しました。

次に「You Tubeが図書館だー!」というご意見も、理念としてはよくわかりました。でもこれを現実に導入した時、様々な困難にぶち当たりそうな気がします。そもそも、社会の基準や規範を逃れた「雑多さ」「ゆるさ」が売りのネット空間なので(最近はそうでもなくなってきましたが)、ここを基とする「教育モデル」というのが、私にはイメージしにくいのかもしれません。学校のデジタルシフトの象徴として挙げられていたN高校の不祥事を見ると、むしろ学校教育の中で、「実習」や直接的な「体験」を重視すべきではと感じました。

最後に「高校に古典は本当に必要か」については、「必要な人もいるし必要の無い人もいる」というのが正直な私の感想です。長い余生、必ずしも古典をお供にするとは限りません。今の時代であれば、ゲームや手芸、絵を画く、映画を見るなど、様々な楽しみ方があります。でも、今挙げたもののうち、古典の世界がおよそベースになっていると思われる人気作は、今でもかなり多いのです。古典が創造の源泉となり続けていることを考えると、やはり長い間受け継がれ、読み継がれてきたものには、それなりの価値と魅力があり、それを知る機会を設けておくことは大事だと感じます(ただ全員が必修でやる必要はないでしょう)。またディスカッサントの方のご意見で、「言葉の歴史」の一環として、「古典」(古語)を捉える、という部分には深く共鳴しました。

私は中学生で古典の世界が好きになり、いまだにそれが続いています。義務教育で入り口を示せば、好きな人は高校でも学ぶでしょう。

そもそも「文学」と「教育」は、相容れないもので、「読み方」なんて、正直、教えられるものではないと思います。あえて言うなら、個人が自分の「読み方」を見つけるために、いろいろな方法を知る、その手助けをすることくらいでしょうか。

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とはいえ、日々の生活の中、皆さんの心の癒やしとなるような言葉、暗闇を照らしてくれる言葉が見つかりますように、願ってなりません。








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