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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2021年08月

現在、オリンピックの後、パラリンピックが開催されています。先日、家族の通う学校から、観戦希望を問うお知らせが来ました。そして後から、参加者にはPCR検査必須のお知らせも。若年層への感染が心配される中、やはりこのような観戦には不安を感じてしまいます。

オリンピックが開催される時も、賛否両論ありましたが、今は、救急車の搬送先がない、もしくは出られる救急車がないと言われ、状況は一層深刻化しているようです。

ワクチンについても、連日、様々な報道があり、日々、人々の不安を大きくしています。今の出口を見つけるには、これしかないように言われてきたのに、さらに出口までのゴールを遠ざけられた感じでしょうか。

ただ、これまでの経験則で言えば、だれもが風邪のワクチン(インフルエンザ等)の有効性は不確かなものに感じていたはずです。外の日差しを浴び、運動して、バランスのよい食事をし、笑って免疫力を上げる......今こそ基本に立ちかえるときのようにも思います。

そういえば、笑うだけでなく「感動して泣く」ことも、ストレス解消にはとても良いそうです。
アニメ映画ですが、先日自宅で「サマーウォーズ」と「虹色ほたる」を見て、家族ともども号泣し、とてもスッキリしました。

両方とも、この夏、親戚のいる実家に帰れない私たち家族にとっては、とても懐かしく、癒される内容の映画でした。

特に「虹色ほたる」は、幻想的な蛍の光が印象的ですが、そのはかないながらも強い光は、古来、歌に詠まれてきました。
虹色ほたる
(家族の画いた「虹色ほたる」の絵です。私たちが見たのは映画ですが、小説が原作だそうです)

『萬葉集』には長歌一首しか見られず、『古今和歌集』にも二首しか見られません。勅撰集で言えば、一条朝以降の『拾遺和歌集』から四首と増え始め、『後拾遺和歌集』(雑六/1162)に、かの有名な和泉式部の歌が入集しています。

もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞ見る
【あの人を想って思い悩んでいる私には沢辺を飛ぶ蛍も自分の身から抜け出た魂のように見える】
沢の蛍
(歌ではここまでたくさんの蛍が飛ぶイメージではなかったと思いますが、参考にした写真が素敵だったので)

蛍の光があの人の元に飛んでいきそうな魂の光に見えているところが、とても印象的です。蛍の光を「燃ゆ」の語と組み合わせ、「思いの火」として詠んだ歌は『古今和歌集』の二首に見られますが、それが「魂」(命の光にも)と詠まれる点、新しく感じます。

また「蛍」の語は、『和漢朗詠集』にもよく見られますので、漢籍からイメージを取り込んでいる部分もあります(「蛍雪の功」の語も有名ですね)。

平安朝の貴族に愛好された『白氏文集』には、次のような蛍の詩句があります。

夕殿蛍飛思悄然(せきてんにほたるとんでおもひせうぜんたり)
【夕暮れ時の宮殿に蛍が飛び、玄宗皇帝の気持ちは憂いに沈んでいる】

上記は、楊貴妃を失った玄宗皇帝の悲しみの日々を詠う場面の一句です。この後、眠れない夜を過ごす玄宗の姿が詠われていますので、つらい夜の始まりを告げる蛍の光と言えます。また、その光は、楊貴妃の魂も表しているかのようです。

最後に、以下、はかない光ながら、その蛍の美しさを歌った和歌をいくつか紹介して終わります。物語の方には、蛍の光を用いた印象的なエピソードもいくつかありますが、その紹介はまた後日。


拾遺集 物名 歌 409 輔相
雲まよひ 星のあゆくと 見えつるは 蛍の空に 飛ぶにぞ有りける
(雲が乱れ、星が揺れているように見えたのは、蛍が空に飛んでいたのだった)

拾遺集 雑春 歌 1078 健守法師
終夜(よもすがら)燃ゆる 蛍を今朝見れば 草の葉ごとに 露ぞ置きける
(一晩中、燃え輝いていた蛍を今朝見ると、蛍の代わりに草の葉ごとに置いた露が光っていたよ)

後拾遺集 夏 歌 216 源重之
音もせで 思ひに燃ゆる 蛍こそ 鳴く虫よりも あはれなりけれ
(声も立てないで思いの火に燃えている蛍の方が、鳴き声をあげる虫よりもしみじみと趣深いなあ)

鳴く虫については、先日「蝉のうた」として書きました。よければそちらもご覧ください。




賛否両論ありましたが、東京オリンピック、本日閉会式を迎えます。

私が見たのは体操、新体操、ボルダリング(女子)、アーティスティックスイミング等です。
基本的に、相手と直接戦っている競技は、およそ私が見て応援するとなぜか負けます(苦笑)。

ということで、主に「己との闘い」である「芸術的」な競技を拝見。

それも、「最初から最後まで」ということはあまりないのですが、なぜか偶然、
こちらを見た時はビックリしました。
DSC_0150
新体操ウズベキスタン「セーラームーン」衣装とボールの演技が話題 - 新体操 - 東京オリンピック2020 : 日刊スポーツ (nikkansports.com)


「あれ?何だろう。この衣装、似てるな」と思ったのですが、途中から「ムーンライト伝説」というアニメの主題歌まで流れたので、もう間違いないと思いました。

1990年代に放送していたアニメ「セーラームーン」(漫画原作)については、以前このブログでも書きました。→「セーラームーンとかぐや姫
元ネタは上記でも書いたように『竹取物語』だと思うのですが、明確に作者が意識していなくても、「月のプリンセス」「地上への転生」「地球の王子との恋」といった内容は、『竹取物語』のテーマと重なります。

以前、私のゼミでは、ウズベキスタンからの留学生を受け入れていました。この国の民は多くがイスラム教で、日本とは大きく文化が異なります。その学生は、大学で第二外国語として日本語を勉強しており、その時、日本の文化をアニメや古典から知り、ぜひ留学して勉強したいと思ったそうです。最終的には『源氏物語』で博士論文を書いて母国に帰りました。

学生は、千年以上も前に、このような大作を残した女性作家がいたことに、大変感銘を受けたようです。また『源氏物語』が女性の生き方を問う内容でもあることから、母国語に翻訳して広く読んでもらいたいという志も持っていました。

世界では、女性は保護する対象であり、男性の劣位にあるのが当然と考えられている国が多くありますが、「セーラームーン」はそのような世界に生きる女性たちも、応援してくれるアニメなんだなと改めて思います。

そして、その背後には、男性の結婚を拒否し続け、最後は帝をも袖にして月へ帰る「かぐや姫」の存在があります(「セーラームーン」では地球の王子と両想いになりますが)。自分の意志を貫くかぐや姫に、どれだけの女性たちが憧れ、救われてきたことか、そしてこれから先も、不可侵の神々しい存在としてあり続けることでしょう。

また、もう一つ見つけた「古典」は、日本のアーティスティックスイミング(団体・フリー)の曲中に流れた「天(あま)つ風 雲の通ひ路(ぢ)吹き閉じよ をとめの姿 しばしとどめむ」(古今和歌集・雑上・872・良岑宗貞)の和歌でした。

こちらの歌は「百人一首」でおなじみですが、『古今和歌集』の詞書によれば、宮中で舞う、五節舞姫(ごせちのまいひめ)を見て詠まれたとか。

五節舞も、4人以上の少女で舞っていたので、水中で舞う乙女たちと重なりますが、和歌では、地上にひととき舞い降りた天女が天へ帰ってしまわないように、風が雲の通り道をふさいで、もう少し地上に少女たちの姿を留めてほしいと願っています。

確かに、水中での演技の方も、「もう少し長く見ていたい」と思わせる素晴らしいものでした。

また、もう一つ想起したのは、古代からある天人女房譚です。天女たちが水浴びをしていた時に、そのうちの一人が羽衣を隠されて天へ帰れなくなり、地上の男と結婚するお話(最後は羽衣を見つけて天に帰っていく)。アーティスティックスイミング(団体)は、その「天女」と「水辺」との関わりも踏まえているようで、面白かったです。

オリンピックは、多くの国々が開催国、また自国の文化を意識する場でもあるのだと改めて思いました。



8月になりました。現在、中秋の名月は9月中旬ですが、陰暦の当時は8月15日の晩を「十五夜」と呼び、月を賞美していました。

『竹取物語』で「十五夜」と言えば、かぐや姫が昇天する日ですね。春学期の授業で講義した『竹取物語』では、ジブリ映画『かぐや姫の物語』との比較を多めに取り入れましたが、千年以上前の「平安時代」をイメージする上で、また原作の良さを再確認するにも、効果的だったかなと思っています。

ちなみに学生から教えてもらった下の「AGOMIKADO」というゲームアプリは、教室で紹介したら、大きな反響がありました。

AGOMIKADO (bzmm.jp)
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(画面上で動く帝の顔を中央にきたところでストップさせるゲーム。点数によってセリフが変わり
ますが、この画像の帝のセリフは、ジブリ映画における帝の人物像を象徴しています)

この顎がやけに尖っている帝は、ハプスブルク家を想起させる、といった学生のコメントも寄せられましたが、あえてただのイケメンにしなかったのは、かぐや姫を地上の世界に幻滅させる決定的な「悪役」として、アニメの帝が描かれているからでしょう。その証拠に、背後から抱きつき(この行動はかなり学生の評判が悪かった)、かぐや姫を無理やり連れ去ろうとして失敗した後は、物語から退場します。

でも、原作では、宮中に迎え入れることができないとわかった後も、三年間、二人は文通を続け、帝は、かぐや姫が唯一「心の交流を実現できた相手」になります。この点で、他の求婚者とは大いに差別化されていますし、「月世界の姫と地上世界の王(日神の子孫)との恋」というダイナミズムが物語に生まれます。
帝とかぐや姫
(竹取の翁の家でかぐや姫の着物の袖をつかむ原作の帝。この後、かぐや姫はパッと透き通った姿となり、帝はあきらめて宮中に帰ります。それでも文通が始まるのは、互いにこの時、何かを感じ取ったのかもしれません)

この違いは、月からの使者を迎え撃つ武者たちを、帝が送ってくれる(原作)、竹取の翁自ら用意する(アニメ)、という違いにもなり、かぐや姫が昇天の際に別れを惜しむ相手も、翁・嫗と帝(原作)、翁・嫗のみ(アニメ)と変わってきます。

アニメの方が総じてわかりやすいのですが、地上の良さが「鳥・虫・獣・草木・花」といった「自然との共生」というアニメ独自のテーマに集約されてしまったのが残念です(原作にそのようなメッセージはない)。

原作における「あはれ」は、あくまで地上の人々との交流の中で生み出されるもので、翁・嫗とは「親子間の愛」を、帝とは「男女間の愛」を、「月世界の人」という制約の中で、かぐや姫が知り得た、肯定的な感情でした。

つまり、かぐや姫は、求婚者たちの嘘・偽りを暴きながらも、最終的には地上の価値観(「あはれ」を催す人々の心)を認めてくれる存在なのです。

現在、人々の心は大きく分断され、対立を促す要素が社会全体に蔓延していると感じます。お互い違うところがあっても、絆や結びつきは見いだせるはず(かぐや姫から見れば、同じ地球人ですしね!)......その点は、やはり忘れないでいたいと思います。




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