8月になりました。現在、中秋の名月は9月中旬ですが、陰暦の当時は8月15日の晩を「十五夜」と呼び、月を賞美していました。
『竹取物語』で「十五夜」と言えば、かぐや姫が昇天する日ですね。春学期の授業で講義した『竹取物語』では、ジブリ映画『かぐや姫の物語』との比較を多めに取り入れましたが、千年以上前の「平安時代」をイメージする上で、また原作の良さを再確認するにも、効果的だったかなと思っています。
ちなみに学生から教えてもらった下の「AGOMIKADO」というゲームアプリは、教室で紹介したら、大きな反響がありました。
AGOMIKADO (bzmm.jp)
CENTER_0001_BURST20210727144708682_COVER
(画面上で動く帝の顔を中央にきたところでストップさせるゲーム。点数によってセリフが変わり
ますが、この画像の帝のセリフは、ジブリ映画における帝の人物像を象徴しています)
この顎がやけに尖っている帝は、ハプスブルク家を想起させる、といった学生のコメントも寄せられましたが、あえてただのイケメンにしなかったのは、かぐや姫を地上の世界に幻滅させる決定的な「悪役」として、アニメの帝が描かれているからでしょう。その証拠に、背後から抱きつき(この行動はかなり学生の評判が悪かった)、かぐや姫を無理やり連れ去ろうとして失敗した後は、物語から退場します。
でも、原作では、宮中に迎え入れることができないとわかった後も、三年間、二人は文通を続け、帝は、かぐや姫が唯一「心の交流を実現できた相手」になります。この点で、他の求婚者とは大いに差別化されていますし、「月世界の姫と地上世界の王(日神の子孫)との恋」というダイナミズムが物語に生まれます。
帝とかぐや姫
(竹取の翁の家でかぐや姫の着物の袖をつかむ原作の帝。この後、かぐや姫はパッと透き通った姿となり、帝はあきらめて宮中に帰ります。それでも文通が始まるのは、互いにこの時、何かを感じ取ったのかもしれません)
この違いは、月からの使者を迎え撃つ武者たちを、帝が送ってくれる(原作)、竹取の翁自ら用意する(アニメ)、という違いにもなり、かぐや姫が昇天の際に別れを惜しむ相手も、翁・嫗と帝(原作)、翁・嫗のみ(アニメ)と変わってきます。
アニメの方が総じてわかりやすいのですが、地上の良さが「鳥・虫・獣・草木・花」といった「自然との共生」というアニメ独自のテーマに集約されてしまったのが残念です(原作にそのようなメッセージはない)。
原作における「あはれ」は、あくまで地上の人々との交流の中で生み出されるもので、翁・嫗とは「親子間の愛」を、帝とは「男女間の愛」を、「月世界の人」という制約の中で、かぐや姫が知り得た、肯定的な感情でした。
つまり、かぐや姫は、求婚者たちの嘘・偽りを暴きながらも、最終的には地上の価値観(「あはれ」を催す人々の心)を認めてくれる存在なのです。
現在、人々の心は大きく分断され、対立を促す要素が社会全体に蔓延していると感じます。お互い違うところがあっても、絆や結びつきは見いだせるはず(かぐや姫から見れば、同じ地球人ですしね!)......その点は、やはり忘れないでいたいと思います。
『竹取物語』で「十五夜」と言えば、かぐや姫が昇天する日ですね。春学期の授業で講義した『竹取物語』では、ジブリ映画『かぐや姫の物語』との比較を多めに取り入れましたが、千年以上前の「平安時代」をイメージする上で、また原作の良さを再確認するにも、効果的だったかなと思っています。
ちなみに学生から教えてもらった下の「AGOMIKADO」というゲームアプリは、教室で紹介したら、大きな反響がありました。
AGOMIKADO (bzmm.jp)
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(画面上で動く帝の顔を中央にきたところでストップさせるゲーム。点数によってセリフが変わり
ますが、この画像の帝のセリフは、ジブリ映画における帝の人物像を象徴しています)
この顎がやけに尖っている帝は、ハプスブルク家を想起させる、といった学生のコメントも寄せられましたが、あえてただのイケメンにしなかったのは、かぐや姫を地上の世界に幻滅させる決定的な「悪役」として、アニメの帝が描かれているからでしょう。その証拠に、背後から抱きつき(この行動はかなり学生の評判が悪かった)、かぐや姫を無理やり連れ去ろうとして失敗した後は、物語から退場します。
でも、原作では、宮中に迎え入れることができないとわかった後も、三年間、二人は文通を続け、帝は、かぐや姫が唯一「心の交流を実現できた相手」になります。この点で、他の求婚者とは大いに差別化されていますし、「月世界の姫と地上世界の王(日神の子孫)との恋」というダイナミズムが物語に生まれます。
帝とかぐや姫
(竹取の翁の家でかぐや姫の着物の袖をつかむ原作の帝。この後、かぐや姫はパッと透き通った姿となり、帝はあきらめて宮中に帰ります。それでも文通が始まるのは、互いにこの時、何かを感じ取ったのかもしれません)
この違いは、月からの使者を迎え撃つ武者たちを、帝が送ってくれる(原作)、竹取の翁自ら用意する(アニメ)、という違いにもなり、かぐや姫が昇天の際に別れを惜しむ相手も、翁・嫗と帝(原作)、翁・嫗のみ(アニメ)と変わってきます。
アニメの方が総じてわかりやすいのですが、地上の良さが「鳥・虫・獣・草木・花」といった「自然との共生」というアニメ独自のテーマに集約されてしまったのが残念です(原作にそのようなメッセージはない)。
原作における「あはれ」は、あくまで地上の人々との交流の中で生み出されるもので、翁・嫗とは「親子間の愛」を、帝とは「男女間の愛」を、「月世界の人」という制約の中で、かぐや姫が知り得た、肯定的な感情でした。
つまり、かぐや姫は、求婚者たちの嘘・偽りを暴きながらも、最終的には地上の価値観(「あはれ」を催す人々の心)を認めてくれる存在なのです。
現在、人々の心は大きく分断され、対立を促す要素が社会全体に蔓延していると感じます。お互い違うところがあっても、絆や結びつきは見いだせるはず(かぐや姫から見れば、同じ地球人ですしね!)......その点は、やはり忘れないでいたいと思います。