歌舞伎座の源氏物語
先日歌舞伎座に行ってきました。「通し狂言 源氏物語」
私は十八代勘三郎襲名公演以来の歌舞伎鑑賞となりました(なんと十数年ぶり)。
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これまで自主公演で行っていた内容を、初めて「歌舞伎座」で行ったと
あって、非常に演出の独自な舞台でした(以下、少々内容がわかってしまいます
ので、知りたくない方はお読みにならないほうが良いかもしれません)。
まず、紫式部が最初に登場。途中「世継の翁」(大鏡か!)と語らいますが、その後
物語に入って「源典侍」とラブラブに。この二人はまるで「高砂」のようでした。
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(実際に源典侍が言っていた台詞。この舞台ではかなり重要な役を担っています)
また「絵巻」を意識した映像表現の効果は、確かに異空間に人を誘う演出で、日本の四季が見事に表現されていました。一方で、舞台の作りは非常にシンプル。そこは逆に想像力が要求されていたように思います。
その後は、外国人の歌うオペラや、能面をつけた能役者、華道家の生け花、など、それはそれでいろいろ型破りだったわけですが、これらは海老蔵さんがプログラム記載のインタビューで語っていたように「光源氏の孤独」を表現するのに苦心して考え出された演出なのだとか。
全体的に「母を失い父に捨てられ」というのが光源氏の孤独の原点にあり、光と闇をテーマとしますが、源氏に関しては「闇」の部分がより多く描かれていたように思います。
また桐壺更衣や藤壺は実体が登場しないことで、「父子の物語」がより強調されていました。ただ実際、物語のヤマは、六条御息所の生き霊事件と、須磨での暴風雨(海老蔵さんが竜王になって宙づりに)だと感じましたが、物語では全く描かれない「葵の上」の心情が本人の口から詳しく語られ、逆に物語では内面の詳しく描かれる六条御息所には何も語らせず、能役者に内面を表現させる趣向は、面白かったです。(今年度、大学の演習で葵巻を読んでいることもありますが......)
久しぶりに銀座に来て、率直に「外国人観光客増えたなあ」と思いましたが、歌舞伎の方もそういったお客さんを意識しているのでしょう。
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(プログラムより)
そういう意味で気になったのは、「紫の上」が全く登場しないどころか、触れられもしなかったところ。完全に「紫の上」の存在は消されていました。プログラム(冊子)では、林望氏が『源氏物語』全体の解説を行っていましたが、その見出しが「光源氏をめぐる女達、そして紫の上」とあったのが、逆に皮肉な感じで。外国人からすると、紫の上の話(少女略奪)はどうにも受け入れられないようだということを、留学生と話したばかりでもあったので、その辺の配慮があるのかしらと思いました。ただ作者の日記にもあったように(今月24日の記事参照)、光源氏と対になるのはやはり紫の上。今回のように、第一部で物語を終えるのであれば、存在を消しても何とかなりますが、この先にある源氏の真の孤独を追究するには、紫の上との関係は切っても切れないでしょう。ゆかり・形代(かたしろ)という問題を、現代に置き換えて考えるのは、いろいろと難しいのかもしれませんね(世間からいろいろ言われましたが、まやさんは結婚されて良かったです)。
最後に、幼少の光君と冷泉帝を演じた勧玄君がとても可愛らしくて。須磨流離前に藤壺に逢えず、代わりに冷泉帝を抱きしめる光源氏(海老蔵さん)との親子の別れが、またなんとも切なくて......(オペラグラスでしっかり表情まで拝見)。
久々に、大変有意義な歌舞伎鑑賞の夕べでした。最後におまけ。
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カワイイと歌舞伎のコラボ商品。歌舞伎座で手に入れたものです。