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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

2018年07月

先日歌舞伎座に行ってきました。「通し狂言 源氏物語」
私は十八代勘三郎襲名公演以来の歌舞伎鑑賞となりました(なんと十数年ぶり)。

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これまで自主公演で行っていた内容を、初めて「歌舞伎座」で行ったと
あって、非常に演出の独自な舞台でした(以下、少々内容がわかってしまいます
ので、知りたくない方はお読みにならないほうが良いかもしれません)。


まず、紫式部が最初に登場。途中「世継の翁」(大鏡か!)と語らいますが、その後
物語に入って「源典侍」とラブラブに。この二人はまるで「高砂」のようでした。
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(実際に源典侍が言っていた台詞。この舞台ではかなり重要な役を担っています)

また「絵巻」を意識した映像表現の効果は、確かに異空間に人を誘う演出で、日本の四季が見事に表現されていました。一方で、舞台の作りは非常にシンプル。そこは逆に想像力が要求されていたように思います。


その後は、外国人の歌うオペラや、能面をつけた能役者、華道家の生け花、など、それはそれでいろいろ型破りだったわけですが、これらは海老蔵さんがプログラム記載のインタビューで語っていたように「光源氏の孤独」を表現するのに苦心して考え出された演出なのだとか。


全体的に「母を失い父に捨てられ」というのが光源氏の孤独の原点にあり、光と闇をテーマとしますが、源氏に関しては「闇」の部分がより多く描かれていたように思います。
また桐壺更衣や藤壺は実体が登場しないことで、「父子の物語」がより強調されていました。ただ実際、物語のヤマは、六条御息所の生き霊事件と、須磨での暴風雨(海老蔵さんが竜王になって宙づりに)だと感じましたが、物語では全く描かれない「葵の上」の心情が本人の口から詳しく語られ、逆に物語では内面の詳しく描かれる六条御息所には何も語らせず、能役者に内面を表現させる趣向は、面白かったです。(今年度、大学の演習で葵巻を読んでいることもありますが......)


久しぶりに銀座に来て、率直に「外国人観光客増えたなあ」と思いましたが、歌舞伎の方もそういったお客さんを意識しているのでしょう。

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(プログラムより)
そういう意味で気になったのは、「紫の上」が全く登場しないどころか、触れられもしなかったところ。完全に「紫の上」の存在は消されていました。プログラム(冊子)では、林望氏が『源氏物語』全体の解説を行っていましたが、その見出しが「光源氏をめぐる女達、そして紫の上」とあったのが、逆に皮肉な感じで。外国人からすると、紫の上の話(少女略奪)はどうにも受け入れられないようだということを、留学生と話したばかりでもあったので、その辺の配慮があるのかしらと思いました。ただ作者の日記にもあったように(今月24日の記事参照)、光源氏と対になるのはやはり紫の上。今回のように、第一部で物語を終えるのであれば、存在を消しても何とかなりますが、この先にある源氏の真の孤独を追究するには、紫の上との関係は切っても切れないでしょう。ゆかり・形代(かたしろ)という問題を、現代に置き換えて考えるのは、いろいろと難しいのかもしれませんね(世間からいろいろ言われましたが、まやさんは結婚されて良かったです)。


最後に、幼少の光君と冷泉帝を演じた勧玄君がとても可愛らしくて。須磨流離前に藤壺に逢えず、代わりに冷泉帝を抱きしめる光源氏(海老蔵さん)との親子の別れが、またなんとも切なくて......(オペラグラスでしっかり表情まで拝見)。

久々に、大変有意義な歌舞伎鑑賞の夕べでした。最後におまけ。

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カワイイと歌舞伎のコラボ商品。歌舞伎座で手に入れたものです。

太宰府名物「梅ヶ枝餅」。家族がお土産で持ってきてくれました。なつかしい私の郷里の味です。

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太宰府天満宮の参道には「梅ヶ枝餅」のお店がいくつもあって、イメージとしては、鯛焼きのように店頭で焼かれていました。焼き餅の中には黒いあんこが入っていて、この餅がのびてモチモチするのがたまりません!

かつては「焼きたてで柔らかいのが絶対おいしい」と思っていました。
でも今は、時間がたって少し堅くなったのも、これはこれでおいしいと思います。


梅ヶ枝餅の由来は、次のように書かれていました。「菅公が南館(榎社)で不遇な生活を送って居られた折、老女(浄明尼)が、公の境遇に同情し、時折餅を持参して、公の無聊を慰めたという。(─以下略。)」
(太宰府天満宮参道「かさの家」パンフレットより)

「菅公」とは、菅原道真(845-903)のこと。平安時代、一時は右大臣の地位までのぼりつめましたが、左遷され、大宰府の地で没します。
道真公が愛した梅は、京から大宰府まで飛んできた「飛び梅伝承」として伝わっていますが、その契機となった道真公の歌がこちら。

道真公
流され侍ける時、家の梅の花を見侍て

東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

(もし東風が吹いたなら、私にも届くように咲いて匂いを送っておくれ。
家の主人がいないからといって花咲く春を忘れるな。)

(新日本古典文学大系『拾遺和歌集』雑春・1006 *表記は一部改めました)

太宰府天満宮は、現在たくさんの人で賑わっていますが、実際に道真公が過ごした南館跡は、ひっそりとしていたのを覚えています。お餅に同封されていた「かさの家」のパンフレットには、この館を絵画化している対馬の八幡宮神社蔵「天満宮縁起絵巻」(江戸時代)が掲載されています(最初の写真)。

衣冠束帯の立派な道真公の姿と周りの鄙びた情景との落差が印象的です(よく見るとお餅が献上されているところのようです)。

太宰府に行かれた際は、ぜひご賞味あれ〜(「グレーテルのかまど」風に)。

少しご無沙汰してしまいました。土曜日は社会人講座、日曜は家族のお稽古事の発表会、と連日出歩いております(暑いのに)。社会人講座では、今回「源氏物語と歴史の接点」と題し、私のほかに3名の先生方にご講演を依頼しお話いただきました。
アカデミー2018
私は冒頭「最近は国文学(特に古典)に興味を持っている層が減っている」と愚痴を言いましたが、連日の猛暑のなか、100名近い方のお申込み、ご参加者を得て、大変ありがたく存じました。
私がお話ししたのは「源氏物語と日本紀」というテーマでしたが、源氏物語の作者と言われている紫式部の日記には、次のような記述があります。

「内裏の上の、源氏の物語、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたまへけれ。まことに才あるべし」とのたまはせけるを、(左衛門の内侍が)ふと推しはかりに、「いみじうなん才がある」と、殿上人などにいひ散らして、日本紀の御局とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。このふる里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて、才さかし出ではべらむよ。
(新編日本古典文学全集『紫式部日記』二〇八頁*本文・表記は一部改めました)

(概要)
一条天皇は『源氏物語』を読み、物語の作者・紫式部の学才を「日本紀」を引き合いにして大変評価した。それを知った左衛門の内侍は、作者に「日本紀の御局」とあだ名をつけて殿上人などに言いふらした。しかし、作者は実家でも能力を隠して過ごしているのになぜそのようなところで才能をひけらかしたりしようか、と憤慨する。

当時、公式文書は漢文で書かれ、仮名文(現在わたしたちが用いている漢字交じりの文章)は、あくまで私的なやりとりに用いられていました。勅撰(天皇の命令で撰ばれた)の詩文集も、最初は『凌雲集』などの「漢詩文」から始まります。ただし韻文の場合は、醍醐天皇のときに『古今和歌集』という勅撰集が作られ、和歌については、仮名で書かれていても公的な立場を得ます。

一方、物語(仮名散文)は、その作者を男性官人と推測できるものが多いものの、読者については「女性や子供の読み物」とされ、男性が堂々と作者と名乗ったり、読書したりできる環境ではなかったようです(たとえば紀貫之も、女性に自己を仮託しながら『土佐日記』を書いたと言われています)。

ところが、『源氏物語』の場合、藤原公任という当代一級の知識人も物語の内容を知っているとみられる呼びかけを作者にしています(『紫式部日記』より)。
-2紫式部と公任
公任は作者を物語のヒロインにちなんで「若紫」(「我が紫」説もあります)と呼びかけ、作者は「光源氏に似ている人もお見えにならないのにましてや紫の上さまなんてどうしていらっしゃるでしょう(いるわけないわ)」と思ったと記されています。

その上、時の天皇までこの物語を読んでおり、作者の学才をほめるようなことを言っているわけです。日記には、この物語の制作にあたって、藤原道長のサポート(紙・筆などの提供)もあったように記されています。
つまり、『源氏物語』は、できた当初から傑作として認められ、これまでの物語の読者層を大いに広げた(もしくは堂々と男性も読めるようになった)ことが推測できます。

現在のイメージとして、「恋物語」(不倫・浮気を描く)の要素が強い『源氏物語』ですが、いやいや実は歴史や漢文の素養がなければ読み解けない仕掛けが随所にほどこされた骨太な作品です。そして、この作品は、当代だけでなく、中世・近世・近代と読み継がれ、千年もの間、読者を魅了し続けています。

わたしは毎年この時期だけではありますが、学外の方に『源氏物語』についてお話ししていますので、ぜひこちらの講座にも足を運んでいただければ幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いします。
https://academy.meiji.jp/
リバティアカデミー講座

さかのぼることおよそ二十年前、このような漫画を画いていたことがありました。
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タイトルは、「勝手に葵祭れぽ」。内容は現在、五月十五日に京都で行われる葵祭の体験記です。
何度か、学会の例会通知と一緒に同封されていた私文書に載せていただいたこともありました。
平安時代「祭」といえば、この葵祭をさしていました。いま基礎演習で輪読している『枕草子』にも葵祭の記述があります。

四月、祭の頃いとをかし。上達部・殿上人も、うへのきぬのこきうすきばかりのけぢめにて、白襲どもおなじさまに、すずしげにをかし。

男性貴族たちが、みな白い薄物をつけている様子が、確かに涼しげですね。最近、ものすごく暑いので、初夏のさわやかな気候がなつかしく感じられます。
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上記のくわしい内容は、また葵祭の時期にご紹介しますね。

最近、猛暑が続いています。ようやく咲きだした家の朝顔も、1日2回(朝・夕方)の水やりでは追いつかないようです。気づくと葉が萎れてしまっていることも。でもここのところ毎日咲いてくれるので、朝のちょっとした楽しみになっています。

さて、源氏物語では、花のイメージで語られている女性たちが多く登場します。中でも「朝顔」といえば、光源氏に最後までなびくことのない式部卿宮の姫君の呼び名です。彼女は、前斎院(賀茂神社の巫女)ということもあってか、独身を通します。反対に、夕方に咲く夕顔と呼ばれる女君が、頭中将の元恋人でありながら源氏とも通じることを考えると、二人のイメージは対照的ですね(そういえば少し前に「昼顔」というドラマもありましたが......)。
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平安時代の朝顔は、元々薬用として渡来したものが後に観賞用になったと言われていて、現在の朝顔と同様の花です(上代の「アサガオ」はムクゲやキキョウなど)。

ちなみに「朝顔」の姫君の由来となる本文はこちら。

「枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれてあるかなきかに咲きて、にほひ(色)もことに変れるを折らせたまひて奉れたまふ。
(源氏)「けざやかなりし(他人行儀な)御もてなしに、人わろき心地しはべりて、後手(私の後ろ姿)もいとどいかがご覧じけむと、ねたく。されど、
見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん
(昔お目にかかった時から全く忘れることのできない盛りの朝顔の花のようだったあなたの美しさも今はもう盛りを過ぎてしまったのでしょうか)

年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも思し知るらむやとなむ、かつは」など聞こえたまへり。
おとなびたる御文の心ばへに、おぼつかなからむも見知らぬやうにやと思し、人々も御硯とりまかなひて聞こゆれば、
(朝顔)「秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔
(秋も過ぎ果て霧たつ垣根にまつわりついてあるかなきかの姿で色のうつろっている朝顔は確かに私です)
似つかはしき御よそへ(この身にふさわしい朝顔の御たとえ)につけても、露けく」とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。」(朝顔巻より)

姫君は、父の死により斎院を辞し、叔母である女五の宮のもとに住まいを移していました。光源氏は、自分にとっても叔母(父院の妹)である年老いた五の宮を見舞うついでに、姫君の元を尋ねます。しかし御簾内での対面は許されず、互いに歌を詠み交わしただけ(姫君は源氏の恋情を拒否)で源氏は退出します。その対面を恨んでか、帰邸後に詠み贈ったのが上記の歌で、その返歌を周囲に促されて、姫君も歌を返します。歌とともに贈られた「色が変わってしまった朝顔」とは枯れる寸前の最後の美しさを保った花で、まさに朝顔その人のたとえとなっていました。源氏の歌は、冷たくあしらわれたからなのか、皮肉にも感じられる詠みぶりです。その歌をそのまま受け入れる朝顔の姫君の対応からして、二人がすでに時期を逸してしまった(恋人にはなれない)関係にあることを示しているようです。
そういえば、六条御息所の庭にも朝顔は咲いていました。また紫式部には、朝顔を詠んだ歌もあるので、朝顔の花には何かこだわりがあったのかもしれません。
最後に我が家の朝顔の写真です。
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〈参考文献〉
新編日本古典文学全集『源氏物語』(小学館)ほか

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