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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: オンライン授業

最近、めっきり涼しくなってきました。いよいよ学問の秋、芸術の秋!(あと食欲の?)です。大学の授業が始まりました。

今期の授業、大学側は、オンライン授業と対面授業の「ハイブリッド」という言い方をしています。ただ現場はそこまで「いいとこどり」の感じではなく、また新たな混乱が生まれていました。

学部の授業は演習や実験等に限り、14回中、4回を上限とした対面授業、大学院は、上限なしで対面授業が可能です(文学部と文学研究科の場合)。

また、そもそも対面授業を設定せず、14回、すべてオンラインの授業もあります。人数が多くなる「講義」系の授業です。私も100名を越える「日本文学史」の授業は、オンライン(YouTubeリアルタイム配信)で行なっています。こちらは初のYouTuberデビュー(?)。

https://youtu.be/0dNPYALL1lk (←授業の一部です)

zoomでも300名まで理論的には大丈夫とのことでしたが、50名でもやはり不安定さ(学生側がのネット接続も含め)を感じていたので、今期は思い切ってトライしました。さらに学生側からすると、zoomアプリの立ち上げやパスワード入力等をせず、URLをクリックするだけで授業を視聴できる利点があります。

そして対面を予定していた演習の授業は、早速、台風で延期になりました。ただ、対面だとマスク必須ですから、自己紹介(顔合わせ)などがある初回授業は、全員が顔を見られる状態のオンラインで良かったかもしれないとも思いました。

そして、この対面とオンラインの授業が「一日」のうちに混在する学生は、大学構内の教室やメディア自習室でオンライン授業を受けることになります。同じ「オンライン授業」でも、学生が声を出す必要のある授業(意見を求められる演習など)と、声を出さずに受けられる授業(講義など)があるため、そこは場所も分けられています。ただ、声を出せるといっても、周囲に気をつかうようで、ひそひそ声で「聞こえますか〜?」といった形の応答になります(これは仕方ありません)。

また、大学備え付けのPCではなく、自分のスマホやタブレットを使っている場合は、「充電」が問題になります。「先生、あともう少しで充電が切れそうです!」といった事も実際、起こりました。「1授業100分」で、いわゆる動画状態となると、電池の消耗も激しいことが予想できます。かといって、教室にコンセントはいくつもないですから、自宅のように、コンセントにさしたままにもできません。

また、同じく演習を対面授業で行なう予定の先生とのやりとりで「朝の対面授業、学生が途中までオンラインで受け(電車の中とか)、遅れて教室にくるようなこともあるかもしれない。」といった話も出ました。ただ対面授業の場合、話の内容は聞けていても、遅れて来られるとそこで全体の進行が途切れてしまうので、途中から「オンライン」と「対面」を切り替えることは「不可」(上記の例は遅刻扱い)とせざるをえません。

実際、対面授業の後、移動中、オンラインで演習に参加(私が講義しているので基本的に視聴でOK)。最後の自己紹介の時には自宅に到着し「今、玄関なんですが〜」と、そこでビデオONにし、自己紹介してくれた学生がいました。教室でそのまま受け続けるより、気兼ねなく話せますし、移動時間と視聴時間を重ねることで、時間節約できますね。このように、現在、学生側では、様々な受講形態が可能となっています。

ただ、最初に書いた4回の対面授業、各授業で組まれ方が異なる点、もう一つの混乱の原因になるようにも感じました。もちろん、それぞれの授業で内容が異なりますから、一律にはできませんが、初回に2回、終わりに2回、組む授業や、隔週で対面を入れる授業、月に1回対面を入れる授業もあるでしょう。そのたびに、学生の方は、一日の過ごし方が変わるわけで、今日はどの授業が「対面」か「オンライン」か気をつけていないといけなくなります。

春学期のときは、とにかく「オンライン授業に慣れる」ことが課題だった学生たち。中には、途中で気持ちが落ち込んでしまい、全てのやる気をなくしてしまった、という声や、見るべきオンデマンドの動画がたまってしまい、単位を落とした、という声もありました。今度は、「ハイブリッド」授業に慣れる、という事が課されているようです。

基本的に、若い学生たちの方が対応力はありますが、やはり、学生側の負担も配慮しつつ、授業を進めていく必要があるなと、改めて思いました。

今週は、教育実習生の研究授業を見に、都内の高校へも行きました。彼らが来年大学に入学するときには、もう少し状況が好転していますようにと、思わずにはいられません。

フェイスシールド
(大学から配付されたフェイスシールド。まだ使ったことはありません)

とにかく、来週の対面授業(オンラインで受講する人もいます)、私も楽しみにしています。

(注記)別ブログ始動しました。→「歌よみ源氏物語」http://utayomigenji.blog.jp/
こちらもどうぞよろしくお願いします。


8月最終日となりました。来月は20日から授業開始となりますが、その前に、4月にできなかった大学1年生向けの対面ガイダンスや、大学院入試など、諸々始まります。

私の勤め先の大学は、演習などの実習授業を中心に、全14回(1授業:100分)中、4回にかぎり、対面授業を認めることになりました。学生へのアンケート結果を見ても「対面授業」を希望する学生は多いです(特に新入生)。

私も演習授業については、一部対面を取り入れる形でやる予定です。もちろん、学生側にも個別の事情がありますから、来られない場合は、これまで通りオンラインで参加できるよう調整します。新たに広角用(ゼミの様子など広く映せる)のWEBカメラも準備しました。秋学期も試行錯誤になりそうですが、がんばります。

それからブログの方も、こちらの日常雑記的な内容とは別に、新たなブログを準備中です。タイトルは「歌よみ源氏物語」(歌とイラストで読む源氏物語)です。
PC表紙
(PC表紙。更新日は書きかけの絵をあげていたので翌日UPし直しました。スマホ版は絵が少し変わります。「光源氏」のつもりです。)

内容は、平安中期(1008年頃)に紫式部によって書かれたとされる『源氏物語』について、和歌をとりあげつつ、その内容を首巻である桐壺巻から解説していきます。今まで「なんとなく内容は知っている」「授業で一部だけ勉強した」「タイトルと主人公の名前くらいしか知らない」─でも、興味はあるし、もっと知りたい、といった方に向けてのものです。

実は昨年末から今年度にかけて、様々な『源氏物語』初学本、もしくは古典のあり方を考える本が出版されました。これは、やはり2022年度から高校で導入される「新学習指導要領」を意識してのものだと思います。これまで古典の科目は、「国語総合」と「古典A・B」の中で学ばれてきました。それが2年後、「現代の国語」と「言語文化」という必修科目の内、後者に分類され、さらに選択科目(「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」)の一つとなります。実質的に、文学的な国語、また古典や漢文を学ぶ時間は現状より少なくなると考えられています(詳しくは、こちらにわかりやすく解説されています。→https://note.com/ngomibuchi/n/n1772700fda5a)。

また、文学や古典を実学的な文章と対置させるようなあり方、またそれらを軽視するようなあり方に、見直しを迫る声も各方面から上がっています(→「国語系諸学会の見解」→「日本文藝家協会の声明」)。これらは、これまでの「センター試験」に代わる「大学入学共通テスト」の出題内容とも関わり、昨年大きな話題となりました(現状、大学入学共通テストの国語と数学の記述式については、多くの問題点から見送られています)。

確かに、学校における学び方、内容、試験、については、その時代において、検証し、変えていく必要があると思います。特に古典の場合、「現実には使わないのに、文法重視(暗記)で何のために学ぶのか疑問」といった声はよく聞きます。それは大学の入試問題に原因があるでしょうし、近代的な(文字面だけを追う)読書のあり方と同じ方法で教えようとする教育現場の問題でもあります。アクティブ・ラーニングが叫ばれて久しいですが、もっと柔軟な「学びの場」を考える必要があるのかもしれません。

ということで、私も早速「実践あるのみ」です。およそ「書籍」ではなく、まずは「電子媒体」で「講座」のような「通信」のような形で「古典」の内容に触れられる場を提供したいと思いました。原文は少なめですが、ネット上であれば、わからないことはすぐに調べられますし、こちらも情報をリンクとして貼り付けやすいという利点があります。まずは「読めなくて難しい」というところから「親しみ」をもってもらえるようなサイトを目指します(実質そうなるかはちょっとわかりませんが)。

来月24日から公開予定です。こちらも本ブログとあわせ、よろしくお願いします。




「線路は続くよ〜どこまでも〜」という歌がありますが、最近は「(授業)準備は続くよ〜どこまでも〜」という気分です。一日15時間パソコンの前に座っている、という先生の話も聞きました。「野を越え山越え〜谷越えて〜」という部分、本当に共感します(家にいるのに)。

さて、先日の中古文学会シンポジウム、早くも中古文学会HPで公開されております。

中古文学会特別企画(オンラインシンポジウム)YouTube公開のお知らせhttps://chukobungakukai.org/archives/722

とにかく「早い!」という印象です。すごい。1週間たってませんから。本当にありがたい
ことです。

まだ確認作業(もう一度聞きたい部分を集中的に)で、通して見たわけではないのですが、
初の試みで、まだぎこちなかった部分、最後なんとなくブチっと終わってしまったところなど、
上手に編集されておりました(野中先生の気になるTシャツの文字なども)。

リアルタイム配信を選ぶか、録画配信(編集済み)を選ぶか、ここにも選択が生まれて面白いと
思いました。

リアルタイム配信では、それこそほぼ「生の情報」が得られます。情報の「早さ」というだけ
なら、1週間以内の差ですから、それほど録画以上に優位とはいえません。でも、発表者それぞれの
「意図」がほぼそのまま受け取れます。これは対面式に限りなく近い形です。

でも「配信」ならではのノイズもあって、「聞こえてますか?」とか「マイク入ってませんよ〜。」
といった、発表には直接関わらないやりとりも聞かなくてはなりません。「芸能人」のコンサート
であれば、それが「特別感」に変わる可能性もありますが、忙しい人が多い現代では、自分の
好きな時間に好きな場所で余計な時間をとられずに(ノイズカットされた内容で)視聴できる、
録画配信は利点が多いと思いました。

その一方で、やはりきれいに整理された内容を見ると、ある大御所先生の話を思い出します。

「この前、雑誌の企画で対談があったんだけど、遅れてくる先生はいるし、内容もイマイチだった
のに、雑誌の誌面ではきれいになっててびっくりしたよ。」と。

中古文学会シンポジウムの録画は、リアル配信とそこまでの違いはありませんし、むしろ編集された
方が見やすいのは確かです。でも、「リアル配信」がないようなものの場合、編集でどうなって
いるかわからない、というのが実態かもしれません(最近もテレビの編集で様々な事が問題になって
いましたよね)。

やはり、できる限り、直接情報を得る、というのは、「オンライン」時代になっても大事だな、と
改めて感じました。

それこそ、野中先生のお話にあった「YouTube」図書館時代の到来は、情報の選別、フェイクニュース
との格闘になるのではないかと思いました。その見極め方について教えるのも教員の仕事になるのでしょうか。大変なことです。

あと学校の「古典」の授業テキストは、それこそ「写本」を一次情報とすると、何段階も手が入ることで、文字面では「近代文学」や「現代文学」と変わらない形で読むことになります。もちろん「読みやすいように」という配慮だったわけですが、それでは実態(作者の原本などない。本文も定まっていない)は伝わりませんし、むしろ今では、他の作品のようには「読めない」「わからない」「むずかしい」という第一印象を持ってしまうようにも感じました。内容を重視するなら、まずは現代語訳で読んでしまう方が、苦手意識はなくなるのかもしれません。
それから、今回のシンポジウムの内容は、かなり上級者向けの「古典教育」実践例だ、という声もあったようですが、私はモード界の「パリコレ」のように考えています。

「パリコレ」では、服の今年の流行、最先端が示され、その「要素」を取り入れた服が世の中に出回りますが、学会シンポジウムの提言も、そこから各自で「要素」を抽出して、「応用」していくことが求められているのでしょう。

とにかく様々な事を考えさせてくれる、ありがたいシンポジウムでした。

KIMG0635
(五島美術館の庭園にて。またゼミの皆さんと一緒に見学できますように)










昨日、「中古文学会」という平安文学研究の学会(春季大会)シンポジウムが初めて
「オンライン開催」という形で行なわれました。

これまで、私は学会出張を入れるたび、なぜか家族が発熱する、超ド急の台風で新幹線が動かない、
という事態に見舞われ、遠方での「学会」参加ができない状態が続いていました。

ですので、今回のシンポジウム開催は、一度「中止」の連絡を受けていただけに、大変うれしく、
ありがたい時間でした。関係者の方々に心からお礼申し上げます。

これまでの中古文学会大会は、一会場に全員が集まれる教室やホールを確保し、何百人という
人数がぎゅうぎゅうで座っていた時もありました。それでも研究発表では、質疑応答の
時間が確保されますが、シンポジウムのときは、壇上で話している方々、意見交換している方々の
話を「聞く」のがメインで、フロアからの質問時間、またやりとりを行なう時間は、シンポジウム
全体の時間を考えると、かなり短い印象でした。

最近のメディアの作り方(特にテレビ)を見ると、聞いている側がどのように思っているのか、
「共感」というあり方をかなり意識しているように感じます(元々は、ニコニコ動画やyoutubeのコメント機能が発端でしょうか)。

コメンテーターのワイプ、画面下に常に流されているツイッターのコメントなどは、発信されている情報に対し、視聴者がどのような意見や印象を持ったか、すぐさま知ることができるように示すものと言えます。ただ、危険なのは、そこに発信者側の「選択」が機能している場合も多く、人々の思考を誘導している可能性もあります(少数意見を多数意見のように見せる、発信者側への非難コメントは示さない等)。

学会のシンポジウムも同様で、発信された内容に対し、多数の意見が寄せられたことを理由に(時間の制約があって全てには答えられない等)、司会や発表者より選ばれた質問にのみ回答してもらう、また長時間のシンポジウムに比して、圧倒的に短い質疑応答時間であるようなシンポジウムは、徐々に世間からずれていき、参加者(長時間その場で身動きはとれないし自分の考えも述べられない)の苦痛を誘っていたようにも思います。

ただこのようなこれまでのシンポジウムの仕組みは、日本の学校教育の弊害なのかもしれません。「主体的学び」「双方向授業」が声高に叫ばれながら、それを主導しなければならない私たちがなかなか実践できない現状を如実に示していたわけです(また日本人特有の、大勢の聴衆の前で意見を言うのは恥ずかしい、自分は聞いているだけでいい、と、大方の人が考えているだろうという思い込み)。

でも、昨日のオンライン開催では、それらの苦痛がかなり軽減されました。元々、経済的理由や家庭の事情、身体の問題等で、遠方で行なわれる学会には参加が難しいという人も、このような形の開催であれば多くの人が参加できます。また会場での苦痛(発信者側の情報をひたすら受け取り長時間身動きとれないまま終わる)もありませんでした。なんせ自宅ですから(笑)。

ただ可能であれば、寄せられた質問は、すべて知りたかったなと思いました(回答はなくても)。今回は、会場で開催されるシンポジウムとほぼ変わらない形を「オンライン」で実現したわけですが(凄いことです!)、フォームで質問を募っているということは、それらの意見はデータ化されていて、すぐさま公開することが可能です。もちろん「匿名にする」といった必要はあると思いますが、フロアの他の人がどのような意見・感想を持ったのか、ということは、自分の考えを相対化する上でも、壇上の回答とは別に気になったところです。

今後、会場で開催できるようになっても、オンライン中継が続けられることを期待してしまいました。

また内容については、以下の通り。

開催日程:5月24日(日)13時30分〜17時
コーディネーター・趣意説明
東京学芸大学 河添 房江
パネリスト基調報告
「教育の未来、大学の未来―再定義の時代の国語教育と文学研究―」
都留文科大学 野中 潤
「新学習指導要領下の高校国語科と古典文学研究をどう結ぶか―『大鏡』花山天皇の出家、『伊勢物語』『源氏物語』の実践から―」
城北中学校・高等学校 吉野 誠
「新たな古文教材の可能性―〈定番〉外の中古・中世王朝物語を中心に―」
琉球大学 萩野 敦子
「『源氏物語』で「深い学び」はいかにして可能か―桐壺巻・若紫巻における古典教育と研究の協働―」
東京学芸大学 河添 房江
討議・質疑応答
〈司会〉岐阜女子大学 助川幸逸郎

(後日、中古文学会のHPでyoutube動画として公開されるそうです)

はい。「古典教育」についてのシンポジウムでした。このテーマが4回続けて大会テーマになるというのは「異例」です。ざっくりいうと、教育における「古典」の重要性を再確認し、時代に合わせた効果的教育方法を探る、ということでしたが、やはり自分たち(私も他人事ではない)の「職」がかかっていますからね。熱くならざるをえません。でも「古典」を読むことっていつから「学問」になったのか、それこそ「古今集」「伊勢」「源氏」が特殊なのであって、他は「学問」とか「教育」という形にそぐわないのかもしれません(あまり「勉強」!という形で読むことを強いるとかえって楽しめなくなる)。

シンポジウム中、「定番教材」と言われていた上記の作品は、やはり「古典」として権威をもったことに大方由来しているので、そのような背景についてもしっかり教えていくべきではないかと思いました。これまでの時代において「傑作」とみなされ、現在の日本文化を支える「伝統」となりえているのはなぜなのか、ということです。それは、中学・高校でも教えることは可能だと思います。『竹取物語』は、本当に、いまでもあらゆる側面で、創造力の源泉となり得ていますから。→「セーラームーンとかぐや姫」blog.livedoor.jp/yuas2018/archives/11086594.html

先日『文藝』(2020夏季号、河出書房新社)で、角田光代さんの『源氏物語』現代語訳の完成を祝すような対談や訳語比較等の特集がありましたが、その中でたびたび古文からの訳が「翻訳」と言われていることに少なからずショックを受けました。古文は「外国語」になってしまったのだなと(これから古文の問題文は「現代語訳しなさい」「口語訳しなさい」ではなく、「翻訳しなさい」になるのかしら?)。

そのように考えると、現実社会で「外国語」を使う機会はあっても、「古文」を使う機会はありませんから、「古典不要論」が言い出されるようになるのもわからないではありません。

古典を楽しく味わえるようにするためには、その入り口(出会い)が大事なように思いました。学ばなければならない理由──それは「大学入試」に出るから、ということだけではないことを、伝えていく必要があります。

それと、ICT教育についての紹介がありましたが、最後に「紙」はなくなるのか否か、という質問に対する答えが分かれていて面白かったです。「いまさら筆には戻れないのと同様に紙とえんぴつ(?)はなくなるだろう」というような発言と「紙は絶対なくならない」という発言。

昔(25年以上前)、大学の視聴覚教育の授業で「映画はなくなるか?」という題でグループ討論させられたことがありました。その頃、家庭内ビデオが普及しつつあったので、自宅で全員映画を見られるようになれば、高いお金を払う映画館はなくなるのではないか、ということだったようです。でも、映画館はなくなっていませんよね(笑)。(もちろん、当時から私は「なくならない」派でした)

電子書籍は便利ですが、気に入った作品ほど、紙でも持っていたいと思うんですよね。人気作家の漫画も、紙の方が売り切れています(「鬼滅の刃」など)。電子書籍なら、そんなことないでしょうに。

やはり「手触りがある」というのは重要で、平面なタブレットやスマホでは味わえない醍醐味がそこにあるのだと思います。あと「手書き感」ですね。

現在まで千年以上の月日をひたすら「手書き」で書き写されてきたからこそ残っている文学作品たち(古典籍)、後世(未来)に残したい!と思った人たちの熱い思いを受け留め、現代で意味を再発見していく(私たちが未来へ渡していく)ことこそが、古典を学ぶ意味だと私は考えています。

最後に、まったく関係ないですが、「新江ノ島水族館公式チャンネル」 https://www.youtube.com/watch?v=scJPy4Tji-U(ライブ配信)からのいやしの写真です(家族が重度なくらげファンです)。

水クラゲ特集。四つ葉(?)ではない頭の六つ葉模様は、四つ葉のクローバーくらい珍しいように
思います。中継中も、「六つ葉見えた!」「どこ?」とコメント欄で話題でした。
[画像:六つ葉水くらげです]

皆さんにもいいことがありますように!



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