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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2009年12月

こないだのクリスマスの日、新井ヒカルのライブを観に行ってそのまま朝まで呑んでて、おまけにクリスマスソングを歌うことについてユウジ君とかなり議題が白熱してしまったので、どうやって帰ったか判らないほどへべれけになってしまった。


昼過ぎ頃やっとの事で起きると案の定二日酔い。地面が廻るくらい酒の残りよう。その週は目が回るほど忙しかったんで、一段落した体に酒がしみ込むだけしみ込んだんだろう。


頭がズンズンしながらも、前日に予約録画をしておいたオノ・ヨーコ特番を観た。


まさか、いまさらながらテレビで特集されるオノ・ヨーコ、ジョン・レノン・ストーリーであれほどまでに号泣するとは思いもしなかった。手垢にまみれた題材だし、テレビという事もあってジョンとヨーコの内部のドロドロとした部分やエッジがたった部分は省かれていた。キレイゴトと言えばキレイゴトだった。



けれどオノ・ヨーコの凛とした佇まいや、伝えたい事の明快さ、一人の女性として幸せだった事や傷ついた事を隠さず、あっけらかんと喋っていた事があまりにもストレートに心に染み込んできて、荒んだ自分の精神を浄化してくれた。


ジョン・レノンの死の再現フィルムを受けてのオノ・ヨーコの長い長い沈黙、テレビではあり得ないほどの沈黙は観ている側に取ってもの凄くインパクトがあったし、たまらずフォローする樹木希林の独特のコメントも染みた。



まあ、観てない人には何がなんだかさっぱり伝わらないだろうけれど、ビートルズを聴いて25年、ジョン・レノンを考え続けて10数年の俺が改めて、いかにオノ・ヨーコがジョン・レノンにとって重要だったかを強く認識した、それくらい意義のある番組であったということですよ。


放送された日がクリスマスという事もあってジョン・レノンのクリスマスソング「Happy X'mas(War Is Over If You Want It)」について大きく取り上げていた。
この曲を聴いてはや20年、元々大好きな曲だったけれど、改めてこの曲がいかに人を突き動かす凄まじいエネルギーに満ちていて、同時に慈悲の精神を持っているかを思い知らされたのがこの曲のプロモーションビデオだ。番組では訳詞が流れていてさらに伝わってくるんだけれど、とにかくこの曲のPVを貼付けておく。

[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/fvNRHrKyaX4&feature=youtube_gdata]http://mixi.jp/add_diary.pl?id=1432170


近年出たベスト盤に合わせて作られたPVなんだけれど、35年くらい前の曲にもかかわらず、いかに普遍的なテーマを持った曲であったかを思い知らされた。



クリスマスになるとどこでもかかるベタな曲だし、マライヤ・キャリーとかワムとかのクリスマスソングと同じように聞き流されてる可能性もあるけれど、とんでもない。



あくまで私感だけど音楽としての強さ、メッセージとしての強さはそれらの曲とは100億光年の隔たりがあると思う。キリスト教徒でもなんでもない我々日本人が、クリスマスの様な日に聴く「クリスマスソング」として真摯に受け取るべきメッセージはこの曲にこそあるのではないかと心の底から思った。


メロディーひとつとってもこんなに心かきむしられる様なエモーショナルな旋律はなかなかないし、恐ろしくシンプルであるにもかかわらず森羅万象のあらゆる事を俯瞰で観つつ、包み込む様な優しさに満ちあふれている歌詞。
そして極めてシンプルにして重要なメッセージ「あなたが望めば戦争は終わる」を大合唱する部分の神々しさ。



絵空事だと馬鹿にする人も居るかもしれないし、ジョンが歌う様に「夢想家」の理想論だと思う人も居るかもしれないけれど、違う。



人が願う力、人が発する波動というか力は本当に強いものだし、それは人の人生を、ひいては世界のあらゆる動きを変えてしまう「かもしれない」。
「かもしれない」だけど、そこを信じなければ音楽なんてやってられないし、生きてられない。



そんなことを二日酔いのガンガンする頭で泣きながら考えたクリスマス翌日。
2009年12月21日16:34
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昨日のM−1。個人的には笑い飯が優勝して欲しかったけれど、決勝ネタの面白さと技術の高さではパンクブーブーのほうに軍配が上がるのは納得のいく所だったので、去年みたいな「?」はなかった。


よりによって決勝ネタの後半、延々と「チンポジ」ネタで突き進みオチまで行ってしまったところは笑い飯らしく無茶苦茶でよかったし、そのアヴァンギャルドな展開はハナッから優勝を狙ってなさそうで「心意気」を感じた。ま、喉から手が出るほどタイトルは欲しいんだろうけど、そんなときに「チンポジ」で押してくる幼児性と執拗さが笑い飯のクセになる所だしな。優勝して欲しかったけど、優勝しちゃったら「らしく」ない。


M−1を観ていて毎年つくづく思うのは、本当にその場の空気が結果を左右するということ。


まさに漫才の真剣勝負なので、出演者は当然、審査員やお客さんまでもが緊張しているという、通常のバラエティ、お笑いの現場とは一線を画す様な厳粛な雰囲気。
だから前半はどうしても空気が重い。場が暖まった後半に出てくる芸人の方が有利なのは、毎年審査員も言及している。


しかしだからこそその緊張した空気に突破口を開いて場を湧かせたコンビは高い評価が与えられる。
自然発生的に暖まった空気ではなく、自らの力技でその場の空気を支配する様な凄まじい気迫と、冷静な判断力、そしていい出順を引き込んだ運を持ったコンビが必ず大きな話題をあつめる。


番組後半で殴り込んで来るように出て来る敗者復活戦を勝ち抜いたコンビが、近年台風の目になってきていのはM−1という大会、あるいは「舞台の芸」が持っている気質を象徴している。


本当にライブというのは空気が全てだと言っても良い。どれだけ斬新で完成度が高い事をやっていようと、どれだけ気迫に溢れていようと、どれだけ技術があろうと、その場の空気を読み取ってうまく自らの方にたぐり寄せなければ、すぐに空回りしてすべってしまう。


どんなシチュエーションだろうと自分達の空気を作れてお客さんの温度を上げられる事が出来たら、それはプロ中のプロだし天賦の才能だけど、プロ中のプロでもそれはなかなかに難しい事だ。


ライブをやっていていつも考える事はその事だ。いかに空気を作るか。いかにお客さんの温度を確認し徐々に上げていくか。
まあそれは俺レベルの奴が幾ら考えても判るもんでもない。理論理屈があるわけでもないし、経験値と勘のみがものを言う世界なので、めんどくさい事考えず思いっきり振り切れてから初めて考えるしかないという、原始的な結論で最近は動いている。


M-1が通常のネタ番組と一線を画す最も大きな特徴、審査員というプロ中のプロでさえも緊張させてしまう独特な「空気」、その「空気」がひりひりと伝わってくるという一点があるから、毎年毎年真剣に観てしまうのだ。
2009年12月19日13:24
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WMの初ライブが終わった。めちゃくちゃ楽しかった。テンションが異状に上がるというより、やってる端から思わず笑みがこぼれてくるような感じだった。みんなアホだなぁ、ロック馬鹿だなぁって感じでいとおしかった。


お客さんの温度がどうだったのかはわからんけど、寒々しい感じではなかったな。つうか狙ったところは受けてたからホッとした。



やっぱ自分たちで思いっきり振り切ってから初めて、お客さんのご機嫌を伺うくらいじゃないと失礼だし恥ずかしいと感じた。お客さんとの温度差がどうとか気にしてる場合じゃないよ、やっぱり。思いっきりやんないとね。



ぶち切れてグランドピアノをたたきつけるゆうじ、思いっきりメンタル面が出まくる愛すべき琢磨のドラム、わけのわからないストッパーからはずれたような蛇のベース、ひたすら笑いながら絶唱する俺、馬鹿なロックバンドだなこりゃ。ぜひまたやりたいわ。ロックは麻薬だな。


来てくれた人々、ありがとう。来てくれなかった人々、残念でした。次に期待してます。いつまでもお待ちしております。


さて今年はライブ終わったし、あとは観にいくだけ。
2009年12月13日00:34
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こないだのキョドルト・ヴァレルのライブから高ぶっているのかもしれないけれど、あんまり面倒くさいこと考えず音楽を体現したくなっている。



一昨日はルーツ・ストラッティンのライブだった。お客さんの温度をめいっぱいあっためるような感じにはならなかったけれど、いいソウルライブだった。ヴォーカルの太郎君は本当にいい声を持っている。ルックスもいいしお洒落だし、なんか売れそうな男なんだよなぁ。



久しぶりに人前で叩くたけやんも勢いあまりまくってドラムセットを破壊する叩きっぷりだったし、俺も周りとのバランスを最低限はとりながらもでかい音でギターを弾き、ぎゃぁぎゃぁ歌い、ゲスト参加みたいなもんにもかかわらず勝手にMCしたりと、あまり空気を読まず思いついたらやる、って感じで騒いできた。楽しかったんだなこれが。



勿論反省点も自覚してるし、次こそはってな気持ちもあるけれど、しばらくはこんな感じで好き勝手に楽しんでみよう。



ちなみにこのルーツ・ストラッティンのベースであるおいちゃんとたけやんでクリームのコピーバンドをやるんですよ。原始人みたいに馬鹿な音楽をやりたい。



どうも思い切りが足りない人生を歩んできたような気がする。中二病かもしれないけれど、ロックに目覚めたばかりのころは自分が出来る事なんか非常に低レベルだったんだけど、でもハードに、過剰に、無茶苦茶に音を叩きつけたいという心意気だけは凄まじかった。



でもいろいろなことを経て、ある程度のことがわかるようになってくると、分からないことや出来ないこともある程度分かってきて、自然と楽なほうに向かっていくようになった。



あのころ頭の中で描いてたようなわけのわからない過剰さ、禍々しさ、開放感をいつの間にやら忘れて、ちゃんとした枠を自ら作りその枠からはみ出さないような範囲で暴れていい気になっていたようなところがある。



そういうのは嫌だ。もっともっと思いっきりやらないと。



今度の18日にやるWM(うむ)ってバンドのリハーサルに最近やっと入ったんだけれど、ほんとにロックロックこんにちわな音を出すバンドだ。



いろいろ細かいところは詰めた方がいいんだろうけど、でもごちゃごちゃ言う前にとにかくやってみりゃいいし、デコボコごつごつしてても転がっているうちにいい感じに丸みを帯びてくる。で、その丸みに飽きたらまた違う材料を持ち込んでごつごつすりゃいいやと思った。



このバンド、リハーサルした実質時間は恐ろしく少ないけれど、なんかそれによる不安要素よりも、どうなるかわからない好奇心のほうが強いから、あとは本番を待つだけという状況に早くもなってしまった。いいのか悪いのかはわからないけれど、今は神経が研ぎ澄まされるほうを選びたいなと。



キョドルト・ヴァレルやったりルーツ・ストラッティンやったりWMやったりCReeeamやったりと、なんだか定まらない奴に思われるかもしれないけれど、結局追い求めてるものはどれも変わらない。結局は最初にロックに夢中になった時の感覚に立ち返るようになっている。



すごろくでいうなら色々な紆余曲折を経ても毎回「ふりだしにもどる」のところに引っかかってループしているようだ。


12月18日、代々木ブーガルーでWM(うむ)やります。ぜひ観に来てください。
2009年12月09日17:45
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ちょっとした成り行きで来年の1月10日、代々木ブーガルーで行われるコピーバンド大会に、クリームのコピーバンド「creeeeam」としてライブをやります。コピーバンドでのライブなんて初めての経験かつ、いまさらなんていう青い経験。



まあコピーバンドといっても、もともとの本家が即興演奏を主体にライブをやってたんで完コピしてもしょうがないんだけれどね。
コピー大会なんて...となんともお気楽な企画なんだけど、実は個人的にはかなり血圧の上がる経験だと今から意気込んでいる。



俺のクリームにかける思い入れは半端ではなく、中学生から高校生にかけて、ほぼ毎日クリームのライブ音源に合わせてバーチャルセッションをしていた。最初はアコギにエレキ弦を張ってね(笑)。



ぶっちゃけて言えば、自分の持っているギターフレーズの8割くらいはクラプトンがクリーム時代に使ってたものの使い回しといっても過言ではない。



特に「ライブ・クリーム?」に入っている「Steppin' Out」というクラプトンが13分くらいひたすらギターソロを弾きまくるという曲に狂って、毎日聴いては一緒にジャムったりしていた。



まあとにかくギターを弾き始めて最初に学ぶノウハウは殆どクリームから得たといえる。いわば親も同然。



そんなクリームのコピーバンドをいまさらやってしまう。そんなのとっくに卒業しとけよと思うけれど、なんか身近にいる人間もやれニルヴァーナのコピバンだ、ラルク・アンシェルのコピバンだ、ブルーハ−ツのコピバンだなどやったりしていて、いくつになってもそういうのはやりたいもんなんだよなぁと、そういう中二病みたいなのを持ってない奴はかわいくないよなぁ、と自分を納得させている。なんとかコピバンをやる大義名分を探しているだけなんだが。



是非是非遊びに来てほしいです。単なるお気楽なコピバン大会ではないんです!俺のクラプトンにかける思い、クリームにかける思いは半端ではないのDeath!
んな大袈裟な...。



というわけで最近は久しぶりにクリームを聴き返している。今更聴き返してもなんら認識の変化はないんだけれど、つくづくこのバンドっていうのは雑な扱われ方をしてきたよなぁって思う。



後のクラプトン人気のお陰で需要が無くなることはなかったけど、それゆえにクリームの認識のされ方も歪んだものになった。



クリームの本質であるジャック・ブルース主体の、非常に混沌としたスウィンギン・ロンドンな雰囲気や、サイケデリックで雑多な音楽性を持ったポップバンドとしての面があまりクローズアップされず、ライブでの主役であったクラプトンが中心のブルースロック的なクリームばかりがクローズアップされ、いわゆるハードロックの元祖という言われ方ばかりが流布される。



しかし元祖ハードロックバンドとしてのポテンシャルを実証するような音源があまりにも少なく、多くの人に肩透かしを食らわせてしまう。実は海賊盤の中にはこれぞハードコア・ブルースロック!ともいえるような凄まじい音源が沢山あるのに、そういうのは一向に発掘されず、BBCライブみたいなラジオ収録のための軽いライブテイクしか正規盤化されない。



そもそもがあまりにもライブが人気があるから、なんとしてもそれを世に出して金に換えようとしたレーベルの勇み足でスタジオ盤との抱き合わせで出されたようなライブ盤ばかりだったり、解散後に適当にコンピレートされた粗製濫造気味のライブ盤が出たりしたための、ライブ盤自体に決定的な作品がない。



また肝心のスタジオ録音にしても、そのライブ盤に助けられたような出され方だったので不当に評価が低い。
「名盤」の誉れ高いものもあるけれど実際の内容は、ハードスケジュールの中録音されたものが殆どのため、中途半端なものも少なくはない。いくつかの作品は本当に完成度の高さと先見性の高さを証明するような名曲なのに、全体のバランスは悪かったりする。



まだポップスとかロックが海のものとも山のものともつかなかった時代なのでしょうがないけれど、じっくりと時間の余裕を持ってスタジオ録音が出来なかったために決定的な名作を作ることが出来なかった。それがツェッペリンとかとは評価のされ方が違う原因かもしれない。



解散の原因にしたって、マネージメントが乱暴で、果てしなく続くライブツアーのせいでメンバー間の仲が悪化して解散するに至ったたわけだし、メンバー自身も「一ヶ月ぐらいのオフがあったりしたら充電も出来て、もっといろんな可能性を試せたかもしれないのに...」と後に語っている。
つうか一ヶ月のオフもなかったのか?と驚いてしまうのだけれど、確かに男三人がず〜と一緒に行動を共にしてりゃいがみ合いもするし、まあそれ故に火の噴くようなインプロヴィゼーションを延々と続けそれが魅力になってたわけで、痛し痒しだ。



クリームというのはいろんな可能性を秘めながらも、それらを試行錯誤のまま途中で放り投げたため、決定的な評価が抜け落ち「伝説のトリオ」とか「ハードロックの元祖」という曖昧な形容詞ばかりが先行するようになってしまった、まあ良くも悪くも「先駆者」だったんだなぁと思う。



同時代にその衝撃を体験したファンや、後に生まれた熱心な信者は、その可能性の先を深読みもするけれど、ごく一般の後追いのロックファンにはなかなかその魅力が伝わりにくいバンドである。
2009年12月05日01:22
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昨夜は捻転時計の最後のライブイベントに参加してきた。



捻転時計とはワイセッツの頃からの付き合いなのでなんとしても駆けつけるつもりだったんだけれど、あれよあれよというまにイベントに参加ということになってしまって、それはそれで感慨深いものがあった。



それにしても昨夜の捻転時計は今まで観た彼らのどのライブよりもよかった。
個人的には最後だからという感傷はほとんど入らなくて、純粋にバンドとしての完成度にただただ圧倒された。



内実はいろいろあるんだろうけれど、音楽として、ロックのグルーヴとして、とてもとても凄いとこにいっていた。ライヴを見ている途中、キング・クリムゾンの「RED」ってアルバムの裏ジャケットのようにタコメーターが振り切れているという画が浮かんできた。
まあこのバンドは終わるべくして終わったんだな。惜しいという気もするけど、やれることはやりつくして終わったんだ。



ただ感動したのと同時に、こういうバンドが集客に苦しんでいる現状をどうにも歯がゆくって苦味を残したライブでもあった。ぬるいバンドばっか観てんじゃねーよ!って怒りすらわいてきた。




あと、今回はスリーピースでのキョドルト・ナレルで参加させてもらったんだけれど、こちらのほうもかつてないほどの充足感があった。



自分にとってのルーツであるクリームとかジミヘンドリックス・エクスペリエンスとかツェッペリンといったスリーリズムのロックアンサンブルってやつを思いっきり、思いっきり、思いっきりやりまくった。




当日、会場での申し訳程度のリハーサルで挑んだ、ぶっつけ本番真剣勝負みたいなライブだったんだけれど、井上のドラムも怠雅君のベースもかつてなかいほどの凄まじいぶちきれ加減で、もう安心してそのグルーヴに身をゆだね、思いっきり歌い、思いっきりシャウトし、思いっきりギターを弾きまくった。



自分の原点を再確認したようなライブで、自分で言うのもはばかられるが「壮絶」な斬り合いをした気分だ。
たぶんこの面子でライブすることは当分ないだろうけれど、こう感覚をもってこれからやっていく。思いっきりやんなきゃだめだわ。たとえ色んなことが気になろうとも。



なんか異様に高ぶっているけれど、昨夜は完全にノンアルコールだったんだよ(笑)。シラフで気持ちよかったし、色んなやる気が沸々と沸いてきたんだ。




さてそんな高ぶりの中、次のライブは、12月18日のWM(うむ)だ。場所は代々木ブーガルー。時間は19時40分から。俺にとっては今年のライブ納めになる。
壮絶にして気持ちのいいライブ空間にするので是非是非遊びに来てください。
2009年12月02日19:06
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NUUさんという作詞「産曲」するシンガーのアルバム「唄波」を久しぶりに聴いている。「春のにほひの唄」「奥」「或る女の日記」といったあまりにも素晴らしい曲が並ぶ名作だ。



7年くらい前だろうか、自分がやっていたラジオ番組にゲストとして登場してくれたことがあって、彼女とはその時が初対面だったんだけれど、その時期というのは個人的に最もアイデンティティが崩壊していた時期で、自分の番組にゲストに招いておきながらほとんど彼女が俺を分析してそれをつらづらと喋っているのを聴いてるだけという、ホスト失格な有様だった。どんなだったかなと思って久しぶりにそのときの音源を聴いてみた。



「高瀬さんの音楽は金平糖のようですね」とか「演奏している姿を拝見しましたが、腕とか身体とかが半分子宮に浸かっているようですね」とか言われて、当時は正直「?」だったんだけれど今考えると実に納得がいくというか、簡単に見透かされちゃってたんだなぁと思う。



彼女は決してえっらそうな占いババァみたいな感じで上から目線でそういうことを言ったんではなく、ほんとに邪気の無い笑顔でおっとりとした口調で、しかしスコーンとこちらのツボに鋭利に入ってくるようなスピードとタイミングで言うのでとても強く印象に残っている。



おっとりしているようでいて、ちゃんと自分の哲学とか音楽に向かう意思を、難しい言葉ではなく実にシンプルに明確に喋っていて、もうその時点でのアーティストとしての成熟度の差、一個の動物としての差を感じてしまい、いかに自分が不安定で何も出来てなかったか、何も分かってなかったがあまりにも明確に出ていて、逆に笑えた。



ただ正直なもんで彼女と喋っている自分のトーンがとても心地よさそうなのだ。いろいろゲストを招いた番組だったけれど、波動が合ってないゲストのときは思いっきり乗ってないトーンだし、波動が合っていそうなゲストのときは色々言い包められていてもなんだか楽しそうだ。素人DJの悲しさと言ってしまえばそれまでだけど、でも心と身体は正直だね。



俺は男だから女性アーティストにはどうしても「母性」というやつを求めてしまう。
未成熟で潔癖症的な少女的感性を押し出している女性アーティストでも素晴らしい人はいるんだろうけれど、なんだか生理痛の重さをそのまま歌にしているような人アーティストは好きになれない。




俺の好きな女性アーティストというのはおおむね傾向が偏っている。最初に好きになったのが矢野顕子だったのでそういった傾向になったのかもしれないけれど、いかにもオンナオンナした部分を押し出す人よりも、もっと大らかで巨大な「母性」というものを感じる人にこそかえってエロスを嗅ぎ取ってしまい、ついかぶとを脱いでしまう。なんせ「ごはんができたよ」だからね。



NUUさんの音楽、いやもっといえば人となりは(一回しか合ってないのに言うのもなんだけど)、とても繊細でありながら大らかな官能性があり、器の大きい愛情を感じさせる人という感じだ。まあ繰り返しになるけれど「母性」というやつでしょうか。
歌っている内容は結構ドロドロとした男女の悲喜こもごもだったりするんだけれど、こちらに伝わってくる波動は「生理痛の痛み」みたいな男にゃわからんみたいな微妙なもんではなく、もっと大らかで普遍的なものだ。内容ではなく、声やブレスや存在感からそう感じる。



彼女はいまだにバリバリと音楽活動をやっていて海外でもライブをやったりしているようだ。年末には都内でライブをやるみたいだし行ってみようかな。


http://nuu-nuu.com/



さて俺もいくつかライブが決まっているのでここらで整理を。



12月4日(金)、恵比寿LIVE GATE TOKYOでスリーピースのキョドルト・ヴァレルで出演。多分18時半から。


12月11日(金)、Roots Struttin'というユニットにギターと歌で参加、下北沢colored jamというところでやります。


12月18日(金)、新生バンドWM(うむ)で代々木ブーガルーに出演。19時40分から。


来年1月22日(金)、日吉NAPにて弾き語りライブ。

1月25日(月)、代々木ブーガルーにて弾き語り。


なんだかんだ決まってるなあ。都合のよい日はぜひ遊びに来てくださいな。
2009年12月02日00:24
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今度の金曜日、捻転時計の活動休止前の最後のライブがあるからってんで行くつもりだったんだけれど、急遽出演することになりました。



キョドルト・ヴァレルとして出るのだけれど、今回はキーボードがいないくてギター、ベース、ドラムのトリオだからクリーム魂つうかブルーチアー魂みたいなもんがメラメラとしてます。ゴリゴリのブルースロックギター弾くぞ。絶唱するぞ。多分キョドルト・ヴァレルも当分ライブやらないんで今回こそは見納めに来てくれる人、お願いしますよ。時間は、多分トップバッターだろうから18時半とか?怠雅クン詳細を頼む。



今日はフラミンゴ・ミルクのKAYOの弾き語りに行ってきた。前から好きだった曲「Hello and Goodbye」が今日は一際深かった。
マイスペースにも上がってるんで興味ある人は聴いてみて。いかにも俺が好きそうなヘヴィな雰囲気を持ってる曲だ。

http://www.myspace.com/flamingomilk





日々の心情の機微を反映してか、いろんなタイプの曲ができるんだけど、最終的に求めてるのは「快心のメロディーに必殺のフレーズを乗せたい」ということ。常にそれを思って曲を作っている。
その「快心のメロディー」ってのは個人個人によって違うんだろうけど、俺にとってのそれはなぜか幼少に頃に聴いた歌謡曲よりのロックやポップスに存在したりする。



甲斐バンドの「ヒーロー」の「♪お前を はぁ〜なしはしない〜」のところにえもいわれぬ「快心」感を感じるし、ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」の「♪ひとりずつ〜ひとつ」を繰り返すところにポップスとしての高揚感の極みを感じるし、ツイストの「♪今夜こそお前を落としてみせる」のとこになんとも言えないキャッチーさを感じる。


でも実はこれらの曲をじっくりと聴いたことはない。記憶の中に残っていたり、テレビとかでチラッと流れていたのを記憶しているだけだ。聴こうと思えば聴けるんだけど、なぜかそうしたいと思わない。聴きこんで研究すると、自分の中にあるイメージやら何やらが全て台無しになりそうで。なんかおぼろげに体に染み込んでいる「快心」というイメージだけで充分だ。



これが例えば「あの鐘を鳴らすのはあなた」とか「また逢う日まで」みたいなど真ん中の歌謡曲(なおかつファンキー)ならば、骨の髄までその曲の旨みを味わい尽くしてしまおうとするんだけれど、ゴダイゴとかツイストとかは、なんかそういう王道の歌謡曲よりももっと自分のやりたい音楽に近いためなのか、必要以上に近寄ってはいけないという気がする。ヘンなこだわりだけどね。聴いたら聴いたですごい発見があって興奮するんだろうけど。



単なる趣味としてならば洋邦問わず好きな曲は星の数ほどあるんだけれど、自分が狙いたいピンポイントの「快心」ってやつは、やはり幼き日々に刷り込まれていた歌謡ロックだったんだな。



だからどんだけ趣味性まるだしの爆音ロックロックこんにちわなサウンドを求めていても、そこに快心のメロディーを混入して「ポップ」な範疇の音楽にしたくなる。
昔作った「カーブ」とか「苦い記憶、甘い夢」とか最近の「結わえたい」なんて曲はその「快心」のメロディーを自分なりに追い詰めたいくつかの結果だ。でももっともっと「快心」なやつを探って行くんだ。
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