2010年01月
お笑い芸人でもないくせに「ヒトは何故笑うか?」「ヒトはどのようなメカニズムで笑うのか?」なんて事に非常に興味を持っている。
そこで面白い分析をしているのが、
桂枝雀の「緊張の緩和理論」
http://www.youtube.com/watch?v=D17pyz0n99w
全部で小一時間ある番組だけど,これは俺の様な人間にとって本っっっっっ当に面白いコンテンツだ。普通のヒトからは「そんな事を考えてどうすんの?」的なもんだけれど、「そんな事考えてどうすんの」な事を知らず知らずのうちに考えるのが人間だし,たまたまそれが笑いであったり音楽であったりするだけで屁の役にも立たないと思われがちだが,今現在ある「生活に不可欠」だと思われているものの殆どは「そんな事考えても無駄じゃん」の果ての果てに発見、採取されたものだと思う。
桂枝雀さんの落語というのはここで提示されている様に非常に理論構築されたものである。一時間を越す大演目である『地獄八景亡者戯』なんてそれらの理論を集約しまくった凄まじいパフォーマンスがいくつか残されている。これがもうホントにとんでもない大熱演で聴いてると圧倒されるし,なんだか感動を覚えてしまう。
ただその理論構築の山がどこかしら覗いているのか、ちょっと息苦しい部分があり、聴くものに体力知力を使わせるものだったりもする。師匠である桂米朝さんの『地獄八景亡者戯』の方が心地よいスキマがあって楽に聴く事が出来る。まあどちらも別物だしどちらも大好きなんだけど。
それにしてもここで展開されている理論構築、それを説明するときの絶妙な言葉や演目の選択、また桂枝雀さんから実に的確な言葉を引き出す上岡龍太郎さんの腕,そのどれもが見事でこの番組自体が良く出来た落語のようである。
EXテレビって俺が中学生の頃やってた番組だったので、その面白さが分ってなかったけど,今これをやってくれたらあまりの面白さに毎週座りしょんべんをしてバカになってしまうかもしれない。
ただこういった理論構築を完璧にして行くタイプの人って、その完璧主義さゆえにどこかで人間が生来的に持っている「不条理」というものに対しても理論で解析しようとしてしまうのかもしれない。
勿論観念的には分っている筈だ。全ての事が理論理屈でかたがつくほど世界はそんなに図式的に出来ていないという事を。
しかし分っちゃいるけど止められない、なんとかその「不条理」というものすらも自らの理論の手中に収めたいとおもってしまうんだろう。
で、どうやっても太刀打ち出来ない事を知り枝雀さんは自殺(ハッキリ断定は出来ないが)し、上岡龍太郎さんはリタイアした。発狂していった科学者や哲学者なんかもこの手合いだと思う。
同じ様に恐るべきロジックを持って笑いを解析する人に立川談志という人がいるけれど,談志さんは「イリュージョン」という言葉でその不条理を人間の業と断定し,その業を肯定する事こそが落語であるという論法で,この世に絶望しながらもしぶとく生きている。
その乱暴さと諦めの良さが強みだと思うし,どれだけロジックを積み重ねていって挙げ句にはまくらが40分を越そうとも,どこかしらで風通しの良さがあってゆったり出来るのだ。まさに緊張の緩和。というか「緊張」と「緩和」だ。談志さんの場合かなりあり得ない方向から緊張や緩和がやってくるので、時として全く別な関連性のない様なものを持ってきて緊張と緩和を強引に成立させようとする。で、たまに成立出来なくなって破綻したら「ガウ!」とか奇声を発してケムに巻かれてしまう。頭良いんだか破綻してんのか、やさしいんだか恐ろしいんだか分らないけど、それが希代の天の邪鬼の天の邪鬼たる所以だ。
枝雀さんは笑いの種類を大きく4つに分けていたけれど,俺個人が思うにもう一つ大きな要素として思うのは、「声」でありもっというと「音」だ。
枝雀さんが主に述べているのは話の構造、さげの仕組みからそれがどう人間の笑いの感覚に作用するかだけれど、落語というのは読むものや考えたりするものでなく「聴く」ものであったり「見る」ものである。
だから話の構造自体が聴いている側の思考を操って笑いに導くのと同時に、その演じ手の「間」とか「スピード」とかいったグルーヴ面、あるいは声自体が持っていてる「トーン」とか「高低」とかいった要素、また「動き」や「佇まい」の要素が、えも言われぬおかしみになり笑いに大きく作用するものだと思う。
これは一見人間が生来的に持っている「生理的に笑ってしまう」作用と近いかもしれないけれど,それを誘発するのが芸人の腕であり天分なのだからちゃんとした「技法」であり、笑いの種類の中でもしっかりと位置付けられるべき一ジャンルであろう。まあ、そんなことは枝雀さんからすりゃ了解済み過ぎてあえて取り上げないんだろうけどさ。
ただね、もし落語とか漫才ってのがネタそのものの構造上笑える仕組みになっているのなら、誰がやっても「居残り佐平次」は笑えるし「替わり目」は腑に落ちるし「芝浜」は泣ける。
しかしこれが演じ手によって恐ろしい程差が出て来るのだ。好みというのを越えて「笑える」「笑えない」という歴然とした差が生まれる。だから「声」や「音」や「佇まい」といった要素は「笑う」という生体反応において欠かせない要素なのだと思う。
最近はよく喋っている事なのだけれど,「音楽」と「お笑い」っていうのは人間の実に微妙で繊細な感覚的な部分を刺激するという意味で、全く同じ構造を持っていると思うし,理論理屈では絶対に解析出来ないという所も実に符合している。
また「音楽」と「笑い」に限らず、映画や文学、マンガやスポーツに至るまで、人間のあらゆる「所行」なんてのは、行き着く所まで行けば恐らく同じなんじゃなかろうかと思わせる位、全てのものが関連性を持って語れる。様な気がする。
ついさっきの事,ガジュマルさんと「料理」についての話をしていたのだけれど,料理というジャンルは実に音楽に置き換えやすいつくづく思った。
いうならば料理はアレンジやミックスのようなものであり、材料選びは作詞や作曲であり、調理器具選びは楽器選びであり、調味料はエフェクターやイコライジングであり,刺身は弾き語りであり、中華料理やフランス料理はオーケストラの様なものであり,といった具合。
またそれの符号のさせかたも人それぞれあるわけで、色々と言い換えが出来るという意味でも興味が尽きない。
俺が大瀧詠一さんを好きなのも、彼はかなり早いうちからそういった「一見違うものの様に思えるもの同士の中にある、通低するものを捉えて符合させる」事について言及していたからだ。
昔は「それってこじつけでは?」とか思ったし、それこそ笑いと音楽が繋がっているなんて20代の頃は想像出来なかったけれど,この歳になってきたら朧げながらも分りかけている気がする。
ただね・・・「そんな事考えてどうすんの?」って言葉は重いね。実に重い。こんな朝方にパソコンに向かってこんな事を文章にしているオレという生き物を俯瞰で観てみると、まさにその言葉「そんな事考えて何になる?」をそいつに投げかけたくなって来る。だけどよ「これが人間だ、分っちゃいるけどやめられない」。
開き直るしかないね。人間は生まれてきた段階で既に病気なんだから、何ら生産性のない様な事にも夢中になれるんだ。食って寝てセックスするだけが人間じゃない。
そこで面白い分析をしているのが、
桂枝雀の「緊張の緩和理論」
http://www.youtube.com/watch?v=D17pyz0n99w
全部で小一時間ある番組だけど,これは俺の様な人間にとって本っっっっっ当に面白いコンテンツだ。普通のヒトからは「そんな事を考えてどうすんの?」的なもんだけれど、「そんな事考えてどうすんの」な事を知らず知らずのうちに考えるのが人間だし,たまたまそれが笑いであったり音楽であったりするだけで屁の役にも立たないと思われがちだが,今現在ある「生活に不可欠」だと思われているものの殆どは「そんな事考えても無駄じゃん」の果ての果てに発見、採取されたものだと思う。
桂枝雀さんの落語というのはここで提示されている様に非常に理論構築されたものである。一時間を越す大演目である『地獄八景亡者戯』なんてそれらの理論を集約しまくった凄まじいパフォーマンスがいくつか残されている。これがもうホントにとんでもない大熱演で聴いてると圧倒されるし,なんだか感動を覚えてしまう。
ただその理論構築の山がどこかしら覗いているのか、ちょっと息苦しい部分があり、聴くものに体力知力を使わせるものだったりもする。師匠である桂米朝さんの『地獄八景亡者戯』の方が心地よいスキマがあって楽に聴く事が出来る。まあどちらも別物だしどちらも大好きなんだけど。
それにしてもここで展開されている理論構築、それを説明するときの絶妙な言葉や演目の選択、また桂枝雀さんから実に的確な言葉を引き出す上岡龍太郎さんの腕,そのどれもが見事でこの番組自体が良く出来た落語のようである。
EXテレビって俺が中学生の頃やってた番組だったので、その面白さが分ってなかったけど,今これをやってくれたらあまりの面白さに毎週座りしょんべんをしてバカになってしまうかもしれない。
ただこういった理論構築を完璧にして行くタイプの人って、その完璧主義さゆえにどこかで人間が生来的に持っている「不条理」というものに対しても理論で解析しようとしてしまうのかもしれない。
勿論観念的には分っている筈だ。全ての事が理論理屈でかたがつくほど世界はそんなに図式的に出来ていないという事を。
しかし分っちゃいるけど止められない、なんとかその「不条理」というものすらも自らの理論の手中に収めたいとおもってしまうんだろう。
で、どうやっても太刀打ち出来ない事を知り枝雀さんは自殺(ハッキリ断定は出来ないが)し、上岡龍太郎さんはリタイアした。発狂していった科学者や哲学者なんかもこの手合いだと思う。
同じ様に恐るべきロジックを持って笑いを解析する人に立川談志という人がいるけれど,談志さんは「イリュージョン」という言葉でその不条理を人間の業と断定し,その業を肯定する事こそが落語であるという論法で,この世に絶望しながらもしぶとく生きている。
その乱暴さと諦めの良さが強みだと思うし,どれだけロジックを積み重ねていって挙げ句にはまくらが40分を越そうとも,どこかしらで風通しの良さがあってゆったり出来るのだ。まさに緊張の緩和。というか「緊張」と「緩和」だ。談志さんの場合かなりあり得ない方向から緊張や緩和がやってくるので、時として全く別な関連性のない様なものを持ってきて緊張と緩和を強引に成立させようとする。で、たまに成立出来なくなって破綻したら「ガウ!」とか奇声を発してケムに巻かれてしまう。頭良いんだか破綻してんのか、やさしいんだか恐ろしいんだか分らないけど、それが希代の天の邪鬼の天の邪鬼たる所以だ。
枝雀さんは笑いの種類を大きく4つに分けていたけれど,俺個人が思うにもう一つ大きな要素として思うのは、「声」でありもっというと「音」だ。
枝雀さんが主に述べているのは話の構造、さげの仕組みからそれがどう人間の笑いの感覚に作用するかだけれど、落語というのは読むものや考えたりするものでなく「聴く」ものであったり「見る」ものである。
だから話の構造自体が聴いている側の思考を操って笑いに導くのと同時に、その演じ手の「間」とか「スピード」とかいったグルーヴ面、あるいは声自体が持っていてる「トーン」とか「高低」とかいった要素、また「動き」や「佇まい」の要素が、えも言われぬおかしみになり笑いに大きく作用するものだと思う。
これは一見人間が生来的に持っている「生理的に笑ってしまう」作用と近いかもしれないけれど,それを誘発するのが芸人の腕であり天分なのだからちゃんとした「技法」であり、笑いの種類の中でもしっかりと位置付けられるべき一ジャンルであろう。まあ、そんなことは枝雀さんからすりゃ了解済み過ぎてあえて取り上げないんだろうけどさ。
ただね、もし落語とか漫才ってのがネタそのものの構造上笑える仕組みになっているのなら、誰がやっても「居残り佐平次」は笑えるし「替わり目」は腑に落ちるし「芝浜」は泣ける。
しかしこれが演じ手によって恐ろしい程差が出て来るのだ。好みというのを越えて「笑える」「笑えない」という歴然とした差が生まれる。だから「声」や「音」や「佇まい」といった要素は「笑う」という生体反応において欠かせない要素なのだと思う。
最近はよく喋っている事なのだけれど,「音楽」と「お笑い」っていうのは人間の実に微妙で繊細な感覚的な部分を刺激するという意味で、全く同じ構造を持っていると思うし,理論理屈では絶対に解析出来ないという所も実に符合している。
また「音楽」と「笑い」に限らず、映画や文学、マンガやスポーツに至るまで、人間のあらゆる「所行」なんてのは、行き着く所まで行けば恐らく同じなんじゃなかろうかと思わせる位、全てのものが関連性を持って語れる。様な気がする。
ついさっきの事,ガジュマルさんと「料理」についての話をしていたのだけれど,料理というジャンルは実に音楽に置き換えやすいつくづく思った。
いうならば料理はアレンジやミックスのようなものであり、材料選びは作詞や作曲であり、調理器具選びは楽器選びであり、調味料はエフェクターやイコライジングであり,刺身は弾き語りであり、中華料理やフランス料理はオーケストラの様なものであり,といった具合。
またそれの符号のさせかたも人それぞれあるわけで、色々と言い換えが出来るという意味でも興味が尽きない。
俺が大瀧詠一さんを好きなのも、彼はかなり早いうちからそういった「一見違うものの様に思えるもの同士の中にある、通低するものを捉えて符合させる」事について言及していたからだ。
昔は「それってこじつけでは?」とか思ったし、それこそ笑いと音楽が繋がっているなんて20代の頃は想像出来なかったけれど,この歳になってきたら朧げながらも分りかけている気がする。
ただね・・・「そんな事考えてどうすんの?」って言葉は重いね。実に重い。こんな朝方にパソコンに向かってこんな事を文章にしているオレという生き物を俯瞰で観てみると、まさにその言葉「そんな事考えて何になる?」をそいつに投げかけたくなって来る。だけどよ「これが人間だ、分っちゃいるけどやめられない」。
開き直るしかないね。人間は生まれてきた段階で既に病気なんだから、何ら生産性のない様な事にも夢中になれるんだ。食って寝てセックスするだけが人間じゃない。
こないだの金曜日と月曜日の弾き語りのライブが終わった。オレンジタイガー以来の付き合いである森うぶゆさんとも対バンだった。
最近は新しい曲が半分を占めるメニューにして、自分を緊張させる様にしている。あとMCも長めにとって曲目紹介以上の、何らかの実のある話をする様にしている。
自分なりの課題を設けて自分に負荷をかけている。何が目的かと言われても答えに窮するけれど,充足感みたいなものを精神が欲しているんだと思う。
新しい曲のネタ下ろしするのはとても楽しい。曲が出来て間もない時期というのは、その曲がどういう事を伝えようとしているのか自分でも分ってないんで,徐々に曲の正体が露になってくるのが楽しい。
例えば、昨日初めて歌った「花歌」というのは歌う女性の美しさと逞しさと儚さをテーマにした歌であり、「霧中の舟」は自分なりに聴き手の想像力に委ねる様な抽象的な風景画の様な曲で、井上陽水さんから強く影響された曲、「空ばかり眺めていた」はモンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」にヒントを得て創った「なんとかなるさ」的な呑気な曲。
というように今の段階で自分が認識しているのはこのくらいだけれど,長くやればやる程、自分が気付いてなかった意味や、場合によっては別なテーマを持つ様になってくるのが不思議だ。
人間というのは自分が思っている程「自分」について分っているわけではないと思う。
色んな事を考えて推敲を重ねた挙げ句絞り出された言葉やメロディー、あるいは逆に衝動的な思いに突き動かされてこぼれた言葉やリズムに、その人すら気付かないその人の本音がある様な気がする。
このブログという奴はその最たるもんで,第三者に読まれるという前提がある以上、自分をある程度客観視した上で文章化しなければならないという属性を持っている。まあ、そんな事お構い無しに自分にしか分らないことをダラダラと書いている人もいるけど、大きなお世話か。脱線になるけど,独り言の様なものを文章化するtwitter(っていうの?)とかにはあまり積極的な意味を見いだせないでいるのは、そこには言葉にせざるを得ない様な必然性や切迫感が何一つ無いから。別にそんなもんを必要とするメディアじゃないから言ってもしょうがないけど,何にも伝わってこない意味の無い文章というのが目に入って来るとちょっとイラッとくる性分なんで。
とにかく自分が考えている事を文章や詩にするというのは、とても大事な行為だと思う。特にそれらを後で振り返ったりすると、自分というものが何者なのかを過去の自分に教えられるようだ。
それにしてもまあ、生きて行く上でものを考えざるを得なくて、なおかつそれを文章化したり音楽にしたり映画にしたりと「表現」というものに変換しなければ気が済まない「人間」と言う生き物は、生物としてはかなり奇形であろう。
しかし複雑にこんがらがった思いを、シンプルな言葉に変換して人に伝える時のえも言われぬ開放感は、人間という生き物にしか味わえない屈折した開放感だと思う。
こういったシチメンドクサイこと書いたって、殆どの人がこの最後の辺まで読まないと思うけどね。何言ってやがんだコイツはってなもんで。
「花歌」というのは、こんなシチメンドクサイ様な奴の思い込みを、シンプルで解放的な音楽にしてくれるディーヴァに捧げた曲だ。
最近は新しい曲が半分を占めるメニューにして、自分を緊張させる様にしている。あとMCも長めにとって曲目紹介以上の、何らかの実のある話をする様にしている。
自分なりの課題を設けて自分に負荷をかけている。何が目的かと言われても答えに窮するけれど,充足感みたいなものを精神が欲しているんだと思う。
新しい曲のネタ下ろしするのはとても楽しい。曲が出来て間もない時期というのは、その曲がどういう事を伝えようとしているのか自分でも分ってないんで,徐々に曲の正体が露になってくるのが楽しい。
例えば、昨日初めて歌った「花歌」というのは歌う女性の美しさと逞しさと儚さをテーマにした歌であり、「霧中の舟」は自分なりに聴き手の想像力に委ねる様な抽象的な風景画の様な曲で、井上陽水さんから強く影響された曲、「空ばかり眺めていた」はモンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」にヒントを得て創った「なんとかなるさ」的な呑気な曲。
というように今の段階で自分が認識しているのはこのくらいだけれど,長くやればやる程、自分が気付いてなかった意味や、場合によっては別なテーマを持つ様になってくるのが不思議だ。
人間というのは自分が思っている程「自分」について分っているわけではないと思う。
色んな事を考えて推敲を重ねた挙げ句絞り出された言葉やメロディー、あるいは逆に衝動的な思いに突き動かされてこぼれた言葉やリズムに、その人すら気付かないその人の本音がある様な気がする。
このブログという奴はその最たるもんで,第三者に読まれるという前提がある以上、自分をある程度客観視した上で文章化しなければならないという属性を持っている。まあ、そんな事お構い無しに自分にしか分らないことをダラダラと書いている人もいるけど、大きなお世話か。脱線になるけど,独り言の様なものを文章化するtwitter(っていうの?)とかにはあまり積極的な意味を見いだせないでいるのは、そこには言葉にせざるを得ない様な必然性や切迫感が何一つ無いから。別にそんなもんを必要とするメディアじゃないから言ってもしょうがないけど,何にも伝わってこない意味の無い文章というのが目に入って来るとちょっとイラッとくる性分なんで。
とにかく自分が考えている事を文章や詩にするというのは、とても大事な行為だと思う。特にそれらを後で振り返ったりすると、自分というものが何者なのかを過去の自分に教えられるようだ。
それにしてもまあ、生きて行く上でものを考えざるを得なくて、なおかつそれを文章化したり音楽にしたり映画にしたりと「表現」というものに変換しなければ気が済まない「人間」と言う生き物は、生物としてはかなり奇形であろう。
しかし複雑にこんがらがった思いを、シンプルな言葉に変換して人に伝える時のえも言われぬ開放感は、人間という生き物にしか味わえない屈折した開放感だと思う。
こういったシチメンドクサイこと書いたって、殆どの人がこの最後の辺まで読まないと思うけどね。何言ってやがんだコイツはってなもんで。
「花歌」というのは、こんなシチメンドクサイ様な奴の思い込みを、シンプルで解放的な音楽にしてくれるディーヴァに捧げた曲だ。
ここ数日凄まじく寒くて、外を出歩いていると手足の末端がしびれて来るけど、雪は殆ど降らない。
どうせなら降ってくれりゃそれなりにテンション上がるのに。どうやら明日からは春めいた季節になるらしい。
それはそれで嬉しいけれど雪の降らない冬なんてクリープを入れないコーヒーのよう・・・という昔のキャッチコピーを持ち出してもしょうがないが。
この季節になるとやたらと思い出す曲があってそれがくるり「JUBILEE」。何年か前、年に何度かある何ともいえない寂しい気持ちに襲われて、真冬の夜中に凍えながら何時間も散歩をしていた時にくるりをまとめて聴いていて、この曲がツボにハマりまくった。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/eNBZySaeWx8&feature=youtube_gdata]
元気づけるとか、悲しい気持ちにさせるとか、踊らせるとか、救うとか、そういった人をどうこうしようといった所すらも超越して、ひたすら崇高な芸術としての音楽のために奉仕しているかの様な曲だと思う。
いや、充分に歌モノという範疇に入る曲なんだろうけど、哀しい事に今の日本のチャートに入ってきそうな雰囲気が全く感じられないくらい「美し過ぎる」曲だと思う。
それとビーチボーイズの「Surfs Up」、ランプの「夕暮れ」、あるいはエイフェックス・ツイン「NANOW」やジョン・コルトレーンの「NAIMA」、といった、くるりと同様の超然とした佇まいの楽曲を繋げたミックスを、必要あって最近作った。俺もこのミックスの中に入っても不思議じゃないような曲を作らないとなぁ、と寒空の中思っております。
さてそんな俺ですが、近々ライブがあるので告知を。
●くろまる今週金曜日22日、日吉NAPで弾き語りを。時間は20時10分くらいからです。
OP18:30/ST19:00 1,000円(D別)
出演:赤空-shakku、本庄冬武、イワカワヒロシ、神谷 瑶 (かみやよう)
●くろまる来週月曜日25日、代々木ブーガルーで弾き語りを。こちらは時間が21時くらいから。
「talk in a song 〜月を唄う〜」
OPEN 18:30 /START 19:00 ■しかく前売/2,000・当日/2,000(ドリンク別)
出演:そら壱、山本兄弟、森うぶゆ、高瀬大介
お時間ありましたら是非是非お越し下さいな。
どうせなら降ってくれりゃそれなりにテンション上がるのに。どうやら明日からは春めいた季節になるらしい。
それはそれで嬉しいけれど雪の降らない冬なんてクリープを入れないコーヒーのよう・・・という昔のキャッチコピーを持ち出してもしょうがないが。
この季節になるとやたらと思い出す曲があってそれがくるり「JUBILEE」。何年か前、年に何度かある何ともいえない寂しい気持ちに襲われて、真冬の夜中に凍えながら何時間も散歩をしていた時にくるりをまとめて聴いていて、この曲がツボにハマりまくった。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/eNBZySaeWx8&feature=youtube_gdata]
元気づけるとか、悲しい気持ちにさせるとか、踊らせるとか、救うとか、そういった人をどうこうしようといった所すらも超越して、ひたすら崇高な芸術としての音楽のために奉仕しているかの様な曲だと思う。
いや、充分に歌モノという範疇に入る曲なんだろうけど、哀しい事に今の日本のチャートに入ってきそうな雰囲気が全く感じられないくらい「美し過ぎる」曲だと思う。
それとビーチボーイズの「Surfs Up」、ランプの「夕暮れ」、あるいはエイフェックス・ツイン「NANOW」やジョン・コルトレーンの「NAIMA」、といった、くるりと同様の超然とした佇まいの楽曲を繋げたミックスを、必要あって最近作った。俺もこのミックスの中に入っても不思議じゃないような曲を作らないとなぁ、と寒空の中思っております。
さてそんな俺ですが、近々ライブがあるので告知を。
●くろまる今週金曜日22日、日吉NAPで弾き語りを。時間は20時10分くらいからです。
OP18:30/ST19:00 1,000円(D別)
出演:赤空-shakku、本庄冬武、イワカワヒロシ、神谷 瑶 (かみやよう)
●くろまる来週月曜日25日、代々木ブーガルーで弾き語りを。こちらは時間が21時くらいから。
「talk in a song 〜月を唄う〜」
OPEN 18:30 /START 19:00 ■しかく前売/2,000・当日/2,000(ドリンク別)
出演:そら壱、山本兄弟、森うぶゆ、高瀬大介
お時間ありましたら是非是非お越し下さいな。
人の話を聞くというのは,ある意味では音楽を聴くよりも快楽だったりする。
身近にいる年上の人から、昔の落語まで、含蓄のある言葉というのはそれが身体を通り過ぎるだけでも快感だし,それを覚えておいて何度も咀嚼し、自分なりに取り込む事が出来たら最高だ。
偉大なる先達に比べればまるっきりヒヨッコではあるけれど,俺も比較的多趣味な方ではある。
映画やお笑いや絵画や文学やアートやスポーツや映像から漫画まで、それぞれのジャンルにそれなりにイントゥすれば、それぞれのジャンルには必ず通底する部分があることに、それなりに気付いて来る。俺の場合映画と漫画とお笑いに特化しているけれど・・・。
「色んな事を知っている」という知識自慢,トリビア自慢にはたいして興味は無く、それぞれ違うものに思えるものが実は底の方では繋がるものがあるという「関連性」のほうが興味がある。
落語の間、お笑いの間、映画の編集のグルーヴとかがこれほどまでに音楽と繋がるとは20代の頃は気付いてなかった。
通底するものに気付けばおのずと理解が深まるし,それだけ自分のやってる音楽や演奏、ひいては生き方にも取り入れやすくなる。
その昔、手塚治虫が、
「最近の若者は電車でマンガばっかり読んでるんだよ、実に嘆かわしいねえ。若者なら哲学書の一つや二つ持ち歩かなきゃ。マンガ家だってマンガからマンガを学ぼうとしてるんだから、それじゃダメだよ。一流のマンガを書こうと思ったら一流の映画を観て,一流の文学を読んで、一流の音楽を聴かなきゃダメだよ」
と、日本人をマンガ漬けにした張本人が語っていた事があるが,手塚治虫のようないわゆる「総合的な知識人」がどんどんいなくなっているのは確かだ。
あらゆるジャンルが細分化されて行って深化し、そのジャンル一つとればどんどんマニアックな知識を持っている人が多くなってきてはいるけれど,総合的な知識をもった人がなかなか出にくくなっている気がする。俺が好きな黒澤明にしても立川談志にしても、そのジャンルでの超一流ではあるけれども、同時にそのジャンルや他のジャンルに関しても一流の批評家である。物事を知識ではなく原理原則で見ようとする目を持たなければ,他のモノと関連性に気付かなくなる。そういった人々の発言や行動を見ることによって、いつも省みる所はそういった部分だ。音楽だけやってたって音楽の事は判らん。
人と話をしたり人の話を聞いたりしていて面白いのは、自分がそれなりに掴んでいる理屈理論を、違うジャンルの人からの話によって別な言い方をされ、それぞれが繋がっているということに気付いたりしたら、まさに「はたと手を打つ」という状態になる。
最近聞いた話で「なるほど!」と思ったのは、新春放談での大瀧詠一さんの話、
「ものごとのイロハの第一章とか第一項目ってのは飛ばしてしまう性分でね。ていうのもそれについて99パーセントくらいまでわかってから初めて第一章の内容を知ると実に良く理解出来るんだ。物事の第一章、第一項目ってのは最後に知るべきものなんだよ。」
実に言い得て妙というか、思い当たる節が幾つもある。「俺も・・・」とい言い出すとおこがましいけれど,基本的な第一歩をすっ飛ばして応用編からやってしまうという癖がある。音楽のみならず生き方においても(笑)。
それが良くない結果を生む原因にもなったりして、自分のその性分をどうにかしようと無理矢理にも思った事があるけれど,大瀧詠一さんの言葉は自分のこのいかんともし難い性分に免罪符を貰ったようで、正直心強い。勿論「99パーセントまで理解しないと」というのが大前提なので自重はするけれど、「基本というのは後から知る方がより理解が深まる」という事もあり得るんだ、決して間違ってはいないんだと少し安心した。
俺のアイドル高峰秀子さんも、子役時代から死ぬほど働かされていたので満足に学校に行く事も出来ず、基本的な教育を受けてないことを自覚して,だったら超一流の人間と付き合ってその人達から色んな事を耳学問で良いから学んで行けば良い、それが自分の人生においては最も早く賢くなる方法だ、と決意したそうだ。そらまあ小津安次郎だの梅原龍三郎だの司馬遼太郎だのといった人が周りにいりゃ、学ぶべきもんは沢山あろうなぁ。
そのレベルの人達がいう人生哲学とかメソッドなんてのを凡人にそのまま当てはめても無理があるのは判っているけれど,まあ「自分なりに」咀嚼し取り込んでみるのも無駄ではなかろう。
身近にいる年上の人から、昔の落語まで、含蓄のある言葉というのはそれが身体を通り過ぎるだけでも快感だし,それを覚えておいて何度も咀嚼し、自分なりに取り込む事が出来たら最高だ。
偉大なる先達に比べればまるっきりヒヨッコではあるけれど,俺も比較的多趣味な方ではある。
映画やお笑いや絵画や文学やアートやスポーツや映像から漫画まで、それぞれのジャンルにそれなりにイントゥすれば、それぞれのジャンルには必ず通底する部分があることに、それなりに気付いて来る。俺の場合映画と漫画とお笑いに特化しているけれど・・・。
「色んな事を知っている」という知識自慢,トリビア自慢にはたいして興味は無く、それぞれ違うものに思えるものが実は底の方では繋がるものがあるという「関連性」のほうが興味がある。
落語の間、お笑いの間、映画の編集のグルーヴとかがこれほどまでに音楽と繋がるとは20代の頃は気付いてなかった。
通底するものに気付けばおのずと理解が深まるし,それだけ自分のやってる音楽や演奏、ひいては生き方にも取り入れやすくなる。
その昔、手塚治虫が、
「最近の若者は電車でマンガばっかり読んでるんだよ、実に嘆かわしいねえ。若者なら哲学書の一つや二つ持ち歩かなきゃ。マンガ家だってマンガからマンガを学ぼうとしてるんだから、それじゃダメだよ。一流のマンガを書こうと思ったら一流の映画を観て,一流の文学を読んで、一流の音楽を聴かなきゃダメだよ」
と、日本人をマンガ漬けにした張本人が語っていた事があるが,手塚治虫のようないわゆる「総合的な知識人」がどんどんいなくなっているのは確かだ。
あらゆるジャンルが細分化されて行って深化し、そのジャンル一つとればどんどんマニアックな知識を持っている人が多くなってきてはいるけれど,総合的な知識をもった人がなかなか出にくくなっている気がする。俺が好きな黒澤明にしても立川談志にしても、そのジャンルでの超一流ではあるけれども、同時にそのジャンルや他のジャンルに関しても一流の批評家である。物事を知識ではなく原理原則で見ようとする目を持たなければ,他のモノと関連性に気付かなくなる。そういった人々の発言や行動を見ることによって、いつも省みる所はそういった部分だ。音楽だけやってたって音楽の事は判らん。
人と話をしたり人の話を聞いたりしていて面白いのは、自分がそれなりに掴んでいる理屈理論を、違うジャンルの人からの話によって別な言い方をされ、それぞれが繋がっているということに気付いたりしたら、まさに「はたと手を打つ」という状態になる。
最近聞いた話で「なるほど!」と思ったのは、新春放談での大瀧詠一さんの話、
「ものごとのイロハの第一章とか第一項目ってのは飛ばしてしまう性分でね。ていうのもそれについて99パーセントくらいまでわかってから初めて第一章の内容を知ると実に良く理解出来るんだ。物事の第一章、第一項目ってのは最後に知るべきものなんだよ。」
実に言い得て妙というか、思い当たる節が幾つもある。「俺も・・・」とい言い出すとおこがましいけれど,基本的な第一歩をすっ飛ばして応用編からやってしまうという癖がある。音楽のみならず生き方においても(笑)。
それが良くない結果を生む原因にもなったりして、自分のその性分をどうにかしようと無理矢理にも思った事があるけれど,大瀧詠一さんの言葉は自分のこのいかんともし難い性分に免罪符を貰ったようで、正直心強い。勿論「99パーセントまで理解しないと」というのが大前提なので自重はするけれど、「基本というのは後から知る方がより理解が深まる」という事もあり得るんだ、決して間違ってはいないんだと少し安心した。
俺のアイドル高峰秀子さんも、子役時代から死ぬほど働かされていたので満足に学校に行く事も出来ず、基本的な教育を受けてないことを自覚して,だったら超一流の人間と付き合ってその人達から色んな事を耳学問で良いから学んで行けば良い、それが自分の人生においては最も早く賢くなる方法だ、と決意したそうだ。そらまあ小津安次郎だの梅原龍三郎だの司馬遼太郎だのといった人が周りにいりゃ、学ぶべきもんは沢山あろうなぁ。
そのレベルの人達がいう人生哲学とかメソッドなんてのを凡人にそのまま当てはめても無理があるのは判っているけれど,まあ「自分なりに」咀嚼し取り込んでみるのも無駄ではなかろう。
こないだのクリームのコピバンCReeeamのライブ、終わったらドッと疲れが出たせいか、しばらく寝込んでしまった。
ていうくらい個人的には頭に血が上る様な体験だった。クリームのコピバンやりたいと思った時からはや20年近く。まあやっとどうにかこうにか出来た。
イベント自体はとても楽しかった。良い意味でのユルさと、さすが好きなだけあってかっちりやってるわ、なところと。
中でも「筒美 京平 SONG BOOK」をやった団体さんは思いっきり楽しんだ。萌えた。スクールメイツの恰好したお姉さん方の昭和な佇まいや、原始人の様なロンゲっぷりが笑えた野口五郎なんか、最高だった。バックで淡々と演奏している「ひつじ」さん(一度対バンした事のある屈折ポップバンド。好き)が良く笑わないなぁと思っていたら,キーボードの女の子も斉藤由貴を歌うし、ドラムの子に至ってはセーラー服で松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」をフリ付きで熱唱。いいねぇ。
往年のアイドル歌謡なんか全然興味なかったんだけど,やっぱり知ってる曲,というか筒美 京平の才能にあらためて感心してしまった。
Superflyのコピバンの歌の女の子も歌がうまかったなぁ。ただ単なる新年会で来ている奴はいなかった。気がする(笑)。
で、俺ら。リハが終わった後,気合いを入れ直すために西新宿のブート屋に足を運んでクリームのブートを眺めてていたら,いきなり鼻血が吹き出してきた。その鮮血を見ながら自分の身体がこの日のためにチューニングされているというか,アドレナリンが分泌されまくって鼻にきたか、と思いを新たにし,本番を迎えた。
いきなり変化球というか、世間的なイメージのクリームっぽくはないような曲、アカペラから始まる『I Feel Free』。メンバーも結構動揺する様なちょっとダサイ曲なんだけど,俺は大好きでビートルズっぽい雰囲気のあるキャッチーなナンバーだと思っている。この曲の中間のギターソロはこの頃のクラプトンの代名詞ともなった「ウーマントーン」でジワジワと始まり、最後にはリアピックアップでのナチュラル・ディストーションで果てるというめちゃくちゃカッコいい構成。勿論高一で完コピ済みのソロ。思いっきりスタジオテイク通り弾いたった。
次、間髪入れず「White Room」。クリームの曲としてはそれほど好きな曲ではないけれど,やっぱ世間的に知られたナンバーだからやらないわけにはいかない。後半のワウギターのソロによってジミヘンと共にワウ使いのクラプトンとして有名になった曲。
この曲らへんはまだ皆おとなしく演奏しているけれど,後奏あたりから徐々に種火に日が着き出す。
次は「荒れ果てた街」。一般的にはそれほど知られた曲ではないけど,個人的にはクリームの中でも五本指に入るくらい好きな曲。スタジオバージョンのサイケなストリングスが入った完成度の高い編曲も良いけど,ライブバージョンにおけるこれぞ「ハードロックの元祖」的な3人の演奏のぶつかり合いがカッコいい曲。
俺らも負けじとバトルしてみるが、意外とキメが多い曲なので今イチはじけきらずに終わる。でも会場の雰囲気は結構盛り上がっている。やっぱ俺らの気合いが伝わったという事か。
MCでは立川談志の落語の枕よろしく、ぼやき漫談風に「やっぱ良く知られた歌謡曲や、J−POPとかの方が会場の雰囲気がいいですね」とか「アウェイ感は最初から覚悟しておりました」とか言ってみるけれど,心の中では全然そんなこと考えてなくて,「どうだ、みたか!こいつをくらえ!」的な気概だった。もちろん良い反応を返してくれるお客さんにめちゃくちゃ感謝しながらね。実際クリームが好きな人も全然知らない人も結構楽しんでくれていた様な気がする。とってもやりやすい環境だったと思う。やっぱ良いヴァイヴ出しゃ跳ね返って来るもんなんだ。
次は定番「Crossroads」。これはリハでもすぐに出来上がった定型のブルース進行の曲で、なおかつ一番アップテンポというのもあってバンド全体がかなり白熱していた様な気がする。
二回目のギターソロはクラプトンのソロの完コピを決めてやったわ。70年代のギター少年なら誰でも一度はやってみたがる事を,この2010年にギター和尚である俺がやってもうた。バカだね。
で、最後はこれしかない。「Sunshine Of Your Love」。これのイントロを弾き出した瞬間の俺の愉悦といったらない。人様がはるか40年前に考えついたリフなのに、未だにこれを弾くだけで「俺、無敵」な気分になれる。ロックはいかにカッコいいリフを生み出せるかだな。俺長らくリフもの作ってないなぁ。
とにかく最後の曲という事もあり、また余裕を持って暴れやすいテンポの曲という事もあって、バンドがさらに凶暴になる。ギターもウーマントーンやワウやペンタトニックバリバリのスローハンド的な早弾きを駆使して、完全にクラプトンの「イタコ」と化す。
テな感じで中二病再発の俺だけど,まあこういったコピバンはしばらくやらないだろう。60年代の高校生のせ●くろまるずりの迷信よろしく「あんまりやったらバカになる」ので、この興奮を自分の音楽で再燃させられるようにまた自分を堀り続けるですよ。自分の音楽で中二病をぶり返さねば。
というわけで今,宅録モードで引き蘢り中。今月の22日か25日の弾き語りに間に合えば良いんだけれど,間に合わせるために適当に切り上げるよりももっと追求しよう。良い曲はもうかなり出来ているんだから、もうちょっと自分をいぢめよう。
ていうくらい個人的には頭に血が上る様な体験だった。クリームのコピバンやりたいと思った時からはや20年近く。まあやっとどうにかこうにか出来た。
イベント自体はとても楽しかった。良い意味でのユルさと、さすが好きなだけあってかっちりやってるわ、なところと。
中でも「筒美 京平 SONG BOOK」をやった団体さんは思いっきり楽しんだ。萌えた。スクールメイツの恰好したお姉さん方の昭和な佇まいや、原始人の様なロンゲっぷりが笑えた野口五郎なんか、最高だった。バックで淡々と演奏している「ひつじ」さん(一度対バンした事のある屈折ポップバンド。好き)が良く笑わないなぁと思っていたら,キーボードの女の子も斉藤由貴を歌うし、ドラムの子に至ってはセーラー服で松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」をフリ付きで熱唱。いいねぇ。
往年のアイドル歌謡なんか全然興味なかったんだけど,やっぱり知ってる曲,というか筒美 京平の才能にあらためて感心してしまった。
Superflyのコピバンの歌の女の子も歌がうまかったなぁ。ただ単なる新年会で来ている奴はいなかった。気がする(笑)。
で、俺ら。リハが終わった後,気合いを入れ直すために西新宿のブート屋に足を運んでクリームのブートを眺めてていたら,いきなり鼻血が吹き出してきた。その鮮血を見ながら自分の身体がこの日のためにチューニングされているというか,アドレナリンが分泌されまくって鼻にきたか、と思いを新たにし,本番を迎えた。
いきなり変化球というか、世間的なイメージのクリームっぽくはないような曲、アカペラから始まる『I Feel Free』。メンバーも結構動揺する様なちょっとダサイ曲なんだけど,俺は大好きでビートルズっぽい雰囲気のあるキャッチーなナンバーだと思っている。この曲の中間のギターソロはこの頃のクラプトンの代名詞ともなった「ウーマントーン」でジワジワと始まり、最後にはリアピックアップでのナチュラル・ディストーションで果てるというめちゃくちゃカッコいい構成。勿論高一で完コピ済みのソロ。思いっきりスタジオテイク通り弾いたった。
次、間髪入れず「White Room」。クリームの曲としてはそれほど好きな曲ではないけれど,やっぱ世間的に知られたナンバーだからやらないわけにはいかない。後半のワウギターのソロによってジミヘンと共にワウ使いのクラプトンとして有名になった曲。
この曲らへんはまだ皆おとなしく演奏しているけれど,後奏あたりから徐々に種火に日が着き出す。
次は「荒れ果てた街」。一般的にはそれほど知られた曲ではないけど,個人的にはクリームの中でも五本指に入るくらい好きな曲。スタジオバージョンのサイケなストリングスが入った完成度の高い編曲も良いけど,ライブバージョンにおけるこれぞ「ハードロックの元祖」的な3人の演奏のぶつかり合いがカッコいい曲。
俺らも負けじとバトルしてみるが、意外とキメが多い曲なので今イチはじけきらずに終わる。でも会場の雰囲気は結構盛り上がっている。やっぱ俺らの気合いが伝わったという事か。
MCでは立川談志の落語の枕よろしく、ぼやき漫談風に「やっぱ良く知られた歌謡曲や、J−POPとかの方が会場の雰囲気がいいですね」とか「アウェイ感は最初から覚悟しておりました」とか言ってみるけれど,心の中では全然そんなこと考えてなくて,「どうだ、みたか!こいつをくらえ!」的な気概だった。もちろん良い反応を返してくれるお客さんにめちゃくちゃ感謝しながらね。実際クリームが好きな人も全然知らない人も結構楽しんでくれていた様な気がする。とってもやりやすい環境だったと思う。やっぱ良いヴァイヴ出しゃ跳ね返って来るもんなんだ。
次は定番「Crossroads」。これはリハでもすぐに出来上がった定型のブルース進行の曲で、なおかつ一番アップテンポというのもあってバンド全体がかなり白熱していた様な気がする。
二回目のギターソロはクラプトンのソロの完コピを決めてやったわ。70年代のギター少年なら誰でも一度はやってみたがる事を,この2010年にギター和尚である俺がやってもうた。バカだね。
で、最後はこれしかない。「Sunshine Of Your Love」。これのイントロを弾き出した瞬間の俺の愉悦といったらない。人様がはるか40年前に考えついたリフなのに、未だにこれを弾くだけで「俺、無敵」な気分になれる。ロックはいかにカッコいいリフを生み出せるかだな。俺長らくリフもの作ってないなぁ。
とにかく最後の曲という事もあり、また余裕を持って暴れやすいテンポの曲という事もあって、バンドがさらに凶暴になる。ギターもウーマントーンやワウやペンタトニックバリバリのスローハンド的な早弾きを駆使して、完全にクラプトンの「イタコ」と化す。
テな感じで中二病再発の俺だけど,まあこういったコピバンはしばらくやらないだろう。60年代の高校生のせ●くろまるずりの迷信よろしく「あんまりやったらバカになる」ので、この興奮を自分の音楽で再燃させられるようにまた自分を堀り続けるですよ。自分の音楽で中二病をぶり返さねば。
というわけで今,宅録モードで引き蘢り中。今月の22日か25日の弾き語りに間に合えば良いんだけれど,間に合わせるために適当に切り上げるよりももっと追求しよう。良い曲はもうかなり出来ているんだから、もうちょっと自分をいぢめよう。
今度やるクリームのコピバン「CReeeam」はかなりかっちょいいことになりそうだ。昨日初リハしてみたら殆ど出来上がってた。あとは本番での一発勝負的スリルを楽しめるかどうかだな。クリームってバンドがもともとそういうバンドだしね。
ある一定以上の演奏力がある人たちと組むと、基本的な仕上げに持っていくまでのスピードが速いから、俺みたいなせっかちな人間にとってはいい。
逆に言うといわゆる楽器が下手な人とは一緒にやったことないから比較はできないんだけどね。
大道芸的なテクニックなんかは音楽をやるうえで必要ないし、こちらもそんなもんは持ち合わせてないけれど、自分の楽器、あるいは歌で自分を表現するってことができてない人とはやっていても楽しくない。そういう意味での「旨さ」とか「巧さ」ってのは重要な要素だ。
「下手だけど味がある」ってのはあまりいい表現ではない。そういう表現が当てはまる人の中にもいい人はいるけど、「俺節」ってのが表現できてる時点でその人は「下手」ではない。逆に言うとどんだけ小手先の技術があっても「俺節」が伝わってこない人こそ「下手」と呼ぶべきだろう。
昔のロックやジャズを聴いていて思うのはやはり「俺節」を持った人たちが沢山いたんだなぁということ。
今の音楽だってそりゃあ沢山いるだろうけど、今は音楽教育とか教則ビデオなんかが充実しているからか知らないけれど、みんなそれなりに「キチンと」上手い。そつが無いと言えばそつが無いんだけどさ。
先人たちが技術を磨くために発見、開発してきたメソッドを、割とありがたみ無く機械的になぞって上手くなっているような気がする。偏見だけど。
で、別にそれが悪いとはいわないし、その分水準が高いプレイヤーが多いってことで、ちゃんとしたいい作品が作れるってことはいいことなんだけど、ちゃんとした作品が必ずしも面白い作品ってわけではない。
最近わけあって60年代のモッズとかガレージロックを聴いていたんだけど、ことさら高いテクニックがあるわけじゃないのに異様に「グルーヴ」があるんだよな。
その「グルーヴ」というやつは多分どこの教則ビデオにも出てこない、その人がその人の道筋で手に入れるもの、あるいはその人がもともと持っている気質が大いに反映されるものだから、もともとが狂ってるような奴が生み出すグルーヴってのは、本当に気持ちいい。
フーのキースムーンなんて人のドラムはとにかく「破綻している」としか言いようが無い。あんなドラムについて行ってりゃ、そりゃ画期的なアンサンブルが生まれるわ。っていうくらい唯一無二なグルーヴだ。それはジョン・ボーナムしかり、トニー・ウィリアムスしかり、スチュアート・コープランドしかり、そしてクリームのジンジャー・ベイカーしかりだ。いや、ドラマーに限ったことではなくどの楽器でも歌でも同じことだけれd。
その人独自のグルーヴが出ているってことはいわゆる「正確」ではないということであって、それは「間違いである」っていう教育をしてきた日本の長い歴史の中から、独自のグルーヴが生まれてくるのはなかなか難しそうだし、ちまたで流れてくるJ-POP,J-ROCKの、よく出来てはいるけれど、ちっとも心と体が揺さぶられない端正な録音作品を聴いていると「下手でもいいじゃないか〜!」って叫びたい衝動に駆られる。あ、ここでいう下手ってのは悪い意味ではなくて、「正確さ」を至上価値とする完成品に対しての言葉です。
端正な演奏よりも、もっとブレててグラングランしているぐらいのグルーヴのほうが、より遠くへたどり着けそうな遠心力があるとおもうのだけれどねぇ。なんでそんなに「よく出来ました」をもらおうとするかねぇ。
なんだか愚痴っぽくなってきたんでやめよう。日付的にはもう明日だ。
1/10(日) 「Bogaloo de CoverNight」 〜Bogaloo大新年会!!〜
2000円+1drink(前/当)
16:30 オープン 17:00 スタート
http://www.bogaloo.net/pic/1001.html
我々の出順は5番目、19:10から。
なんでも今回はビートルズ、スマップ、ビジュアル系(?)、Superfly、合唱コンクール(?)、椎名林檎、筒美京平ソングブック 、などなど色々ばらえてぃに富んだメンツだそうで。単純に遊びにきて欲しいし、あるいは俺のクリームに対する暑苦しい思いを浴びにきて欲しいので日曜日は是非是非代々木の方へ足を運んではくれませんか?
まあ企画が企画なんで終わった後は楽し〜く酒を飲んでますんで、年始の御挨拶がてらって俺が言う立場じゃないけど、企画に遊びにきて下さいな。
「俺節」出しまくりでっせ。ちなみに俺にとっての最大の教則ビデオは、クリームの「伝説公演」ってライブビデオで、その中でクラプトンが自分のプレイスタイルについて説明しているところがあって、中二のときにそれを何度も何度も観て聴いてギターを覚えた。「フィンガービブラートってのが出来るとえらくカッコいいぞ!」って思った
ある一定以上の演奏力がある人たちと組むと、基本的な仕上げに持っていくまでのスピードが速いから、俺みたいなせっかちな人間にとってはいい。
逆に言うといわゆる楽器が下手な人とは一緒にやったことないから比較はできないんだけどね。
大道芸的なテクニックなんかは音楽をやるうえで必要ないし、こちらもそんなもんは持ち合わせてないけれど、自分の楽器、あるいは歌で自分を表現するってことができてない人とはやっていても楽しくない。そういう意味での「旨さ」とか「巧さ」ってのは重要な要素だ。
「下手だけど味がある」ってのはあまりいい表現ではない。そういう表現が当てはまる人の中にもいい人はいるけど、「俺節」ってのが表現できてる時点でその人は「下手」ではない。逆に言うとどんだけ小手先の技術があっても「俺節」が伝わってこない人こそ「下手」と呼ぶべきだろう。
昔のロックやジャズを聴いていて思うのはやはり「俺節」を持った人たちが沢山いたんだなぁということ。
今の音楽だってそりゃあ沢山いるだろうけど、今は音楽教育とか教則ビデオなんかが充実しているからか知らないけれど、みんなそれなりに「キチンと」上手い。そつが無いと言えばそつが無いんだけどさ。
先人たちが技術を磨くために発見、開発してきたメソッドを、割とありがたみ無く機械的になぞって上手くなっているような気がする。偏見だけど。
で、別にそれが悪いとはいわないし、その分水準が高いプレイヤーが多いってことで、ちゃんとしたいい作品が作れるってことはいいことなんだけど、ちゃんとした作品が必ずしも面白い作品ってわけではない。
最近わけあって60年代のモッズとかガレージロックを聴いていたんだけど、ことさら高いテクニックがあるわけじゃないのに異様に「グルーヴ」があるんだよな。
その「グルーヴ」というやつは多分どこの教則ビデオにも出てこない、その人がその人の道筋で手に入れるもの、あるいはその人がもともと持っている気質が大いに反映されるものだから、もともとが狂ってるような奴が生み出すグルーヴってのは、本当に気持ちいい。
フーのキースムーンなんて人のドラムはとにかく「破綻している」としか言いようが無い。あんなドラムについて行ってりゃ、そりゃ画期的なアンサンブルが生まれるわ。っていうくらい唯一無二なグルーヴだ。それはジョン・ボーナムしかり、トニー・ウィリアムスしかり、スチュアート・コープランドしかり、そしてクリームのジンジャー・ベイカーしかりだ。いや、ドラマーに限ったことではなくどの楽器でも歌でも同じことだけれd。
その人独自のグルーヴが出ているってことはいわゆる「正確」ではないということであって、それは「間違いである」っていう教育をしてきた日本の長い歴史の中から、独自のグルーヴが生まれてくるのはなかなか難しそうだし、ちまたで流れてくるJ-POP,J-ROCKの、よく出来てはいるけれど、ちっとも心と体が揺さぶられない端正な録音作品を聴いていると「下手でもいいじゃないか〜!」って叫びたい衝動に駆られる。あ、ここでいう下手ってのは悪い意味ではなくて、「正確さ」を至上価値とする完成品に対しての言葉です。
端正な演奏よりも、もっとブレててグラングランしているぐらいのグルーヴのほうが、より遠くへたどり着けそうな遠心力があるとおもうのだけれどねぇ。なんでそんなに「よく出来ました」をもらおうとするかねぇ。
なんだか愚痴っぽくなってきたんでやめよう。日付的にはもう明日だ。
1/10(日) 「Bogaloo de CoverNight」 〜Bogaloo大新年会!!〜
2000円+1drink(前/当)
16:30 オープン 17:00 スタート
http://www.bogaloo.net/pic/1001.html
我々の出順は5番目、19:10から。
なんでも今回はビートルズ、スマップ、ビジュアル系(?)、Superfly、合唱コンクール(?)、椎名林檎、筒美京平ソングブック 、などなど色々ばらえてぃに富んだメンツだそうで。単純に遊びにきて欲しいし、あるいは俺のクリームに対する暑苦しい思いを浴びにきて欲しいので日曜日は是非是非代々木の方へ足を運んではくれませんか?
まあ企画が企画なんで終わった後は楽し〜く酒を飲んでますんで、年始の御挨拶がてらって俺が言う立場じゃないけど、企画に遊びにきて下さいな。
「俺節」出しまくりでっせ。ちなみに俺にとっての最大の教則ビデオは、クリームの「伝説公演」ってライブビデオで、その中でクラプトンが自分のプレイスタイルについて説明しているところがあって、中二のときにそれを何度も何度も観て聴いてギターを覚えた。「フィンガービブラートってのが出来るとえらくカッコいいぞ!」って思った
めまぐるしい年末進行と金策に追われながらもなんとか帰郷し、酒と肴と説教で年始を実家で過ごし、愚痴が枕代わりの談志の落語を聴きながら慌ただしくこっちに舞い戻って来、年末年始に撮り溜めていた「ガキの使い」だの「ドリームマッチ」のあいかわらずのクオリティーの高さに感心しつつゲラゲラ笑ってるだけの日も終わり、やっと今日から今年が始まりつつある俺でございますが皆さんいかがお過ごしでしょうか?
色々思う所があって、今年こそはあまり表へ出ないでお篭りの作業なぞをして一発逆転サヨナラなどを狙いたいと思いながらも、いきなり今月は3本もライブを入れていやがる。バカだね先月の俺。
ただね、年を経る毎に益々実演て奴が好きになってくるんだからしょうがない。人前で思いっきり自己表現なんぞをかまして、あわよくばお客さんとエネルギー交換、うまくいったらイイヒトと唾液交換と、これは蛇足だけど、とにかく音楽に、ライヴに向かう熱だけはおさまりようがない。
でも去年はなにかと身辺関係もゴタゴタしてたし、色々活動形態も拡散していたんで、今年は厳選して一本ウラ筋の通った神出愧没っぷりをした慰問です。
といいながら今年最初のライブがいきなり変化球!カバー大会なんでございますよ。・・・先が思いやられるな。
しかし!個人的にはド本気中の本気の企画バンド。何度か告知しているCREAMのコピーバンド『CReeeeam』の最初にして最後のライブがありんす。
メンツは歌ギターの俺にドラムのたけやんにベースのおいちゃん。クリームはベースのジャック・ブルースがメインヴォーカルなのに、今回はクラプトン役の俺が歌もやっちゃうという我が儘バンド。
選曲は開き直って限りなくベタな方向でやります。面倒くさい俺のクリーム解釈云々でマニアックにやるよりも「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」とか「ホワイト・ルーム」とかいったロック・クラシックを正々堂々と、しかし完コピじゃなくてインプロ長めでお送りします。
1/10(日) 「Bogaloo de CoverNight」 〜Bogaloo大新年会!!〜
2000円+1drink(前/当)
16:30 オープン 17:00 スタート
http://www.bogaloo.net/pic/1001.html
我々の出順は5番目、19:10からセッティング別30分ステージをよろしくお願い致します。
なんでも今回はビートルズ、スマップ、ビジュアル系(?)、Superfly、合唱コンクール(?)、椎名林檎、筒美京平ソングブック、などなど色々ばらえてぃに富んだメンツだそうで。単純に遊びにきて欲しいし、あるいは俺のクリームに対する暑苦しい思いを浴びにきて欲しいので日曜日は是非是非代々木の方へ足を運んではくれませんか?
まあ企画が企画なんで終わった後は楽し〜く酒を飲んでますんで、年始の御挨拶がてらって俺が言う立場じゃないけど、企画に遊びにきて下さいな。
色々思う所があって、今年こそはあまり表へ出ないでお篭りの作業なぞをして一発逆転サヨナラなどを狙いたいと思いながらも、いきなり今月は3本もライブを入れていやがる。バカだね先月の俺。
ただね、年を経る毎に益々実演て奴が好きになってくるんだからしょうがない。人前で思いっきり自己表現なんぞをかまして、あわよくばお客さんとエネルギー交換、うまくいったらイイヒトと唾液交換と、これは蛇足だけど、とにかく音楽に、ライヴに向かう熱だけはおさまりようがない。
でも去年はなにかと身辺関係もゴタゴタしてたし、色々活動形態も拡散していたんで、今年は厳選して一本ウラ筋の通った神出愧没っぷりをした慰問です。
といいながら今年最初のライブがいきなり変化球!カバー大会なんでございますよ。・・・先が思いやられるな。
しかし!個人的にはド本気中の本気の企画バンド。何度か告知しているCREAMのコピーバンド『CReeeeam』の最初にして最後のライブがありんす。
メンツは歌ギターの俺にドラムのたけやんにベースのおいちゃん。クリームはベースのジャック・ブルースがメインヴォーカルなのに、今回はクラプトン役の俺が歌もやっちゃうという我が儘バンド。
選曲は開き直って限りなくベタな方向でやります。面倒くさい俺のクリーム解釈云々でマニアックにやるよりも「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」とか「ホワイト・ルーム」とかいったロック・クラシックを正々堂々と、しかし完コピじゃなくてインプロ長めでお送りします。
1/10(日) 「Bogaloo de CoverNight」 〜Bogaloo大新年会!!〜
2000円+1drink(前/当)
16:30 オープン 17:00 スタート
http://www.bogaloo.net/pic/1001.html
我々の出順は5番目、19:10からセッティング別30分ステージをよろしくお願い致します。
なんでも今回はビートルズ、スマップ、ビジュアル系(?)、Superfly、合唱コンクール(?)、椎名林檎、筒美京平ソングブック、などなど色々ばらえてぃに富んだメンツだそうで。単純に遊びにきて欲しいし、あるいは俺のクリームに対する暑苦しい思いを浴びにきて欲しいので日曜日は是非是非代々木の方へ足を運んではくれませんか?
まあ企画が企画なんで終わった後は楽し〜く酒を飲んでますんで、年始の御挨拶がてらって俺が言う立場じゃないけど、企画に遊びにきて下さいな。