2014年05月
だいぶ以前にも今回のと似たような文章を書いたんだけど、なんか気持ちが高ぶってね。
好きだしよく聴くんだけど、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったいわゆるストーリーテラー的な方面で天才性を発揮する人の歌詞を熱心に研究したことがない。
英語を母国語にしてないので歌詞は歌詞カードを読んで理解してきた。だから言葉と音が同時に耳から入って脳ミソにいくってわけじゃなくて、いったん視覚を通らざるをえない。
なのでそういうストーリーを通じてなにかを伝えようとしている楽曲を聴いてても、物語は物語、音楽は音楽で分離してしまいがちだ。
それらが一体になった時の説得力とか殺傷能力とかはどうしてもバーチャル体験になってしまう。ラップなんていまだに本当の意味での面白さを味わえてないんだろう。
正直洋楽でちゃんと歌詞を読んで噛みしめて血肉化したと思えてるものはジョン・レノンくらいかもしれない。ジョンの歌詞は割とシンプルだし散文的だったりするから分かりやすい。
日本人だから当然日本語で歌われたものに関しては、音と言葉が一体となったときの爆発力というのは理解出来る。ものは出来る。
やっぱりそこでも物語性のある歌詞よりも、散文的な歌詞の方が惹かれるものが多い。
どうも物語を伝えるために音楽をつけてる、みたいな「言葉に音楽が従属している」ものには惹かれないようだ。
音楽の素晴らしさを形成するための言葉が歌詞となってる、みたいな在り方というか、その言葉の意味や背景だけでなく、音節やイントネーションなど総てが音楽の爆発のために機能しているっていう、そんな歌詞が好きだ。
特に決定的なワンフレーズ、一行とか2行の言葉、あるいはサビの歌詞全部とかでもいいんだけど、その言葉を吐き出すために曲が存在してる、っていうくらいの爆発力のある言葉を歌詞に持つ楽曲。そういう曲に力づけられてきた。
それが言葉として、詩として単独で優れているかどうかはどうでもよく、ロックのビートやヴォーカリストの声と一体となったときに最大の殺傷能力を発揮するような、そんな「ロックな言葉」を持った楽曲、それがなにより重要だ。
自分もそういうワンフレーズを生み出すためにウンウン頭をひねる。ま、頭をひねってるいうんじゃだめなんだろう。その人の肉体から、生活から、性癖から生まれてくるような、呼吸をするように出てきた言葉じゃなければロックな言葉になりえない。
とにかくそんな言葉が吐き出されるまで、歩いたり寝転がったり、どこかにでかけたり、部屋にこもったりする。まああんまり思い詰めすぎても、シャブに頼るような精神状態になったら元も子もないので、テキトーさとか成り行きとか諦めも、ある程度のさじ加減で必要になってくるんだが。
今まで聴いてきたロックの、聴くだけで血湧き肉踊るような言葉をざっと思いつくまま挙げてみた。
あの娘はズベ公で 僕は身なし子さ
とっても似合いの二人じゃないか
汚れた心しかあげられないとあの娘は泣いていた
きれいじゃないか
ぼくとあの娘/RCサクセション
キミかわいいね でもそれだけだね
キミかわいいね ただそれだけだね
水のない川 エンジンのないクルマ
弦の切れたギター ヤニのないタバコ
キミかわいいね/RCサクセション
もうたくさんだ 俺たち 傷つきあったって
何も生まれてこないよ 敵はもっと遠くにいるんだから
敵は遠くに/早川義夫
しかたないさ 好きだもの 涙がこぼれてゆく
しかたないさ 好きだもの 僕らは恋人
パパ/早川義夫
声を出さなくとも 歌は歌える
音のないところに 音は降りてくる
本当に素晴らしいものは解説を拒絶する
音楽がめざしてるのは音楽ではない
音楽/早川義夫
もともと無理な話さ
勝てるわけがない
俺達の脳ミソは
奴らにつくられたんだから
脳ミソを入れ変えるんだ
つらい事だけど
頭にノミをつきたてて
自分の手で切りきざむんだ
コペルニクス的回転のすすめ/岡林信康
今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ
私たちの望むものは/岡林信康
「頑張れよ」なんて言うんじゃないよ
俺はいつでも最高なのさ
俺は不滅の男 俺は不滅の男
不滅の男/遠藤賢司
ああ ああ ああ
なんて訳の分からない夕暮れなんだ
ああ ああ ああ
なんて、なんてみっともない人類の平和なんだ
なんてひどい唄なんだ/三上寛
君によせる愛はジェラシー
ジェラシー/井上陽水
薬漬けにされて治るあてをなくし
痩せた体合わせてどんな恋をしているの
今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye
最後のニュース/井上陽水
痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう
全てのボクのようなロクデナシのために
この星はグルグルと回る
ロクデナシ/ブルーハーツ
キミ ちょっと行ってくれないか
すてごまになってくれないか
いざこざに巻き込まれて
死んでくれないか
すてごま/ブルーハーツ
なにもかわらないものはなにもかえられない
このソウルを激しくキックしたい
風向きを変えろ
インディビジュアリスト/佐野元春
黒いバラとりはらい 白い風流し込む
悪い奴等けちらし 本当の自由取り戻すのさ
自信を全て失っても 誰かがお前を待ってる
お前の力必要さ 俺を俺を力づけろよ
ファイティングマン/エレファント・カシマシ
ああ 青バエのごとく 小うるさき人達よ
豚に真珠だ
貴様らに聞かせる歌などなくなった
男は行く/エレファント・カシマシ
何度目の太陽だ 何度目の落胆だ
伊達や酔狂じゃねえ
パワー・イン・ザ・ワールド
これは冗談じゃねえ 戦いの歌だ
枯れ果てた大地の 一輪の花
パワー・イン・ザ・ワールド/エレファント・カシマシ
あなたをこの手で殺したい
あなたをこの手で犯したい
気弱な僕は いつでもそばにいる
ハネムーン/奥田民生
カンタンなのさ ひとりきりって
おきらくなのさ ひとりきりって
しあわせなのさ ひとりきりって
愛のうたをうたっても ひとり
一人カンタビレのテーマ/奥田民生
君と寝ました 他人のままで
惚れていました 嗚呼
月/桑田佳祐
身体で身体を強く結びました
夜の叫び生命のスタッカート
土の中で待て命の球根よ
悲しいだけ根を増やせ
球根/イエローモンキー
暴かれた世界は オレンジのハートを
抱きしめながらゆく とぐろをまく闇
暴かれた世界/ミッシェルガンエレファント
じりじりと 夜になる
じりじりと 夜をゆく
神の手は にじむピンク
ドロップ/ミッシェル・ガン・エレファント
よこしまな僕は
やはり君の涙を美しく思うの
よこしまな よこしまな僕は
やはり君の思い出を美しくしてるの
あなたが人を裏切るなら僕は誰かを殺してしまったさ/サンボマスター
今あなたに言う 今あなたに言う 今あなたに言う
全ての言葉は ウソじゃないの 夢じゃないの これが最後
夜が明けたら/サンボマスター
悲しみで花が咲くものか
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター
言葉だけ抜き出しても真の殺傷能力は伝わらないかもしれないけど、それでも読んでるだけでなんか漲ってくる。ロックな言葉はそれだけで音楽が聞こえる。
ちなみに、これらと並べるのはおこがましいのかもしれないけど、人のばっか並べてもズルいので。
今まで自分が書いた歌詞の中で、一番音楽と一体となって爆発した言葉はどの曲だっただろか?と思いだしてみたがやっぱりこの2つだろうか。字面で読む以上の力をバンド全体で言葉から引き出していると思う。
過去の記憶を切り刻んで
今の空気を切り裂いて
未来を切り開くよ
うしろまえ/ザ・ワイセッツ
君が見せてくれた 夢も現実も
すべては いつか歌に変わる
そばにいてくれないか
人間はとてもはかない
人間はとてもはかない/ザ・ワイセッツ
でもこうして並べてみるとまだまだだな。もっともっと感覚をヒリヒリさせて言葉を掘り下げねーと。
というわけで本日はライブ。東新宿の真昼の月夜の太陽にて、20時くらいから。
今回もドラムの河野瞬とのデュオ。言葉よりもどちらかというと暴走する演奏の方がメインになっちまうデュオだけど(笑)だからこそ発する言葉一つ一つを音でシバきたい。
きてほしいです!
好きだしよく聴くんだけど、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったいわゆるストーリーテラー的な方面で天才性を発揮する人の歌詞を熱心に研究したことがない。
英語を母国語にしてないので歌詞は歌詞カードを読んで理解してきた。だから言葉と音が同時に耳から入って脳ミソにいくってわけじゃなくて、いったん視覚を通らざるをえない。
なのでそういうストーリーを通じてなにかを伝えようとしている楽曲を聴いてても、物語は物語、音楽は音楽で分離してしまいがちだ。
それらが一体になった時の説得力とか殺傷能力とかはどうしてもバーチャル体験になってしまう。ラップなんていまだに本当の意味での面白さを味わえてないんだろう。
正直洋楽でちゃんと歌詞を読んで噛みしめて血肉化したと思えてるものはジョン・レノンくらいかもしれない。ジョンの歌詞は割とシンプルだし散文的だったりするから分かりやすい。
日本人だから当然日本語で歌われたものに関しては、音と言葉が一体となったときの爆発力というのは理解出来る。ものは出来る。
やっぱりそこでも物語性のある歌詞よりも、散文的な歌詞の方が惹かれるものが多い。
どうも物語を伝えるために音楽をつけてる、みたいな「言葉に音楽が従属している」ものには惹かれないようだ。
音楽の素晴らしさを形成するための言葉が歌詞となってる、みたいな在り方というか、その言葉の意味や背景だけでなく、音節やイントネーションなど総てが音楽の爆発のために機能しているっていう、そんな歌詞が好きだ。
特に決定的なワンフレーズ、一行とか2行の言葉、あるいはサビの歌詞全部とかでもいいんだけど、その言葉を吐き出すために曲が存在してる、っていうくらいの爆発力のある言葉を歌詞に持つ楽曲。そういう曲に力づけられてきた。
それが言葉として、詩として単独で優れているかどうかはどうでもよく、ロックのビートやヴォーカリストの声と一体となったときに最大の殺傷能力を発揮するような、そんな「ロックな言葉」を持った楽曲、それがなにより重要だ。
自分もそういうワンフレーズを生み出すためにウンウン頭をひねる。ま、頭をひねってるいうんじゃだめなんだろう。その人の肉体から、生活から、性癖から生まれてくるような、呼吸をするように出てきた言葉じゃなければロックな言葉になりえない。
とにかくそんな言葉が吐き出されるまで、歩いたり寝転がったり、どこかにでかけたり、部屋にこもったりする。まああんまり思い詰めすぎても、シャブに頼るような精神状態になったら元も子もないので、テキトーさとか成り行きとか諦めも、ある程度のさじ加減で必要になってくるんだが。
今まで聴いてきたロックの、聴くだけで血湧き肉踊るような言葉をざっと思いつくまま挙げてみた。
あの娘はズベ公で 僕は身なし子さ
とっても似合いの二人じゃないか
汚れた心しかあげられないとあの娘は泣いていた
きれいじゃないか
ぼくとあの娘/RCサクセション
キミかわいいね でもそれだけだね
キミかわいいね ただそれだけだね
水のない川 エンジンのないクルマ
弦の切れたギター ヤニのないタバコ
キミかわいいね/RCサクセション
もうたくさんだ 俺たち 傷つきあったって
何も生まれてこないよ 敵はもっと遠くにいるんだから
敵は遠くに/早川義夫
しかたないさ 好きだもの 涙がこぼれてゆく
しかたないさ 好きだもの 僕らは恋人
パパ/早川義夫
声を出さなくとも 歌は歌える
音のないところに 音は降りてくる
本当に素晴らしいものは解説を拒絶する
音楽がめざしてるのは音楽ではない
音楽/早川義夫
もともと無理な話さ
勝てるわけがない
俺達の脳ミソは
奴らにつくられたんだから
脳ミソを入れ変えるんだ
つらい事だけど
頭にノミをつきたてて
自分の手で切りきざむんだ
コペルニクス的回転のすすめ/岡林信康
今ある不幸せにとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ
私たちの望むものは/岡林信康
「頑張れよ」なんて言うんじゃないよ
俺はいつでも最高なのさ
俺は不滅の男 俺は不滅の男
不滅の男/遠藤賢司
ああ ああ ああ
なんて訳の分からない夕暮れなんだ
ああ ああ ああ
なんて、なんてみっともない人類の平和なんだ
なんてひどい唄なんだ/三上寛
君によせる愛はジェラシー
ジェラシー/井上陽水
薬漬けにされて治るあてをなくし
痩せた体合わせてどんな恋をしているの
今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye
最後のニュース/井上陽水
痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう
全てのボクのようなロクデナシのために
この星はグルグルと回る
ロクデナシ/ブルーハーツ
キミ ちょっと行ってくれないか
すてごまになってくれないか
いざこざに巻き込まれて
死んでくれないか
すてごま/ブルーハーツ
なにもかわらないものはなにもかえられない
このソウルを激しくキックしたい
風向きを変えろ
インディビジュアリスト/佐野元春
黒いバラとりはらい 白い風流し込む
悪い奴等けちらし 本当の自由取り戻すのさ
自信を全て失っても 誰かがお前を待ってる
お前の力必要さ 俺を俺を力づけろよ
ファイティングマン/エレファント・カシマシ
ああ 青バエのごとく 小うるさき人達よ
豚に真珠だ
貴様らに聞かせる歌などなくなった
男は行く/エレファント・カシマシ
何度目の太陽だ 何度目の落胆だ
伊達や酔狂じゃねえ
パワー・イン・ザ・ワールド
これは冗談じゃねえ 戦いの歌だ
枯れ果てた大地の 一輪の花
パワー・イン・ザ・ワールド/エレファント・カシマシ
あなたをこの手で殺したい
あなたをこの手で犯したい
気弱な僕は いつでもそばにいる
ハネムーン/奥田民生
カンタンなのさ ひとりきりって
おきらくなのさ ひとりきりって
しあわせなのさ ひとりきりって
愛のうたをうたっても ひとり
一人カンタビレのテーマ/奥田民生
君と寝ました 他人のままで
惚れていました 嗚呼
月/桑田佳祐
身体で身体を強く結びました
夜の叫び生命のスタッカート
土の中で待て命の球根よ
悲しいだけ根を増やせ
球根/イエローモンキー
暴かれた世界は オレンジのハートを
抱きしめながらゆく とぐろをまく闇
暴かれた世界/ミッシェルガンエレファント
じりじりと 夜になる
じりじりと 夜をゆく
神の手は にじむピンク
ドロップ/ミッシェル・ガン・エレファント
よこしまな僕は
やはり君の涙を美しく思うの
よこしまな よこしまな僕は
やはり君の思い出を美しくしてるの
あなたが人を裏切るなら僕は誰かを殺してしまったさ/サンボマスター
今あなたに言う 今あなたに言う 今あなたに言う
全ての言葉は ウソじゃないの 夢じゃないの これが最後
夜が明けたら/サンボマスター
悲しみで花が咲くものか
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター
言葉だけ抜き出しても真の殺傷能力は伝わらないかもしれないけど、それでも読んでるだけでなんか漲ってくる。ロックな言葉はそれだけで音楽が聞こえる。
ちなみに、これらと並べるのはおこがましいのかもしれないけど、人のばっか並べてもズルいので。
今まで自分が書いた歌詞の中で、一番音楽と一体となって爆発した言葉はどの曲だっただろか?と思いだしてみたがやっぱりこの2つだろうか。字面で読む以上の力をバンド全体で言葉から引き出していると思う。
過去の記憶を切り刻んで
今の空気を切り裂いて
未来を切り開くよ
うしろまえ/ザ・ワイセッツ
君が見せてくれた 夢も現実も
すべては いつか歌に変わる
そばにいてくれないか
人間はとてもはかない
人間はとてもはかない/ザ・ワイセッツ
でもこうして並べてみるとまだまだだな。もっともっと感覚をヒリヒリさせて言葉を掘り下げねーと。
というわけで本日はライブ。東新宿の真昼の月夜の太陽にて、20時くらいから。
今回もドラムの河野瞬とのデュオ。言葉よりもどちらかというと暴走する演奏の方がメインになっちまうデュオだけど(笑)だからこそ発する言葉一つ一つを音でシバきたい。
きてほしいです!
AKB総選挙の季節になるたびに「一人が何百枚もCDを買ってそれでミリオンセラーなんてインチキだ、良心的な創作活動をしているアーティストに失礼だ」とか「あんなのキャバ譲にカネつぎ込んでんのと同じだ。そんなもんが国民的行事だなんて笑止千万」とかいうもっともらしい意見が山ほど出てくる。
オリコンチャート年間トップ10がアイドル勢で埋め尽くされると「日本の音楽は終わりだ。本物の音楽が支持されないこの世は闇夜だ」とか「あんなアイドル連中のCDなんてノベルティグッズと同じだ。チャートでは本物の音楽とは別にすべきだ」とかいった意見が山ほど出てくる。
音楽の配信が普及しきてCDが売れなくなってくたら「やっぱりモノとして音楽を所有するという行為が無くなって、データで音楽をやりとりしたり所有したりするのが当たり前になったら、音楽の価値が下がる」とかいった意見が山ほど出てくる。
初音ミクみたいなものがヒットチャートに入ってくると「しょせんコンピューターの声なんか人間の魂のこもった歌にはかなわない」「こんなのが普及すれば人間の感受性はどんどん狂っていくし、歌や楽器のの訓練を積んでいこうとする人間がいなくなってしまう」みたいな意見が山ほど出てくる。
韓流が流行ろうが、ヴォーカルがピッチシフトされた歌が流行ろうが、ビジュアル系が流行ろうが、テクノが流行ろうが、ヒップホップが流行ろうが、産業ロックが流行ろうが、ディスコが流行ろうが、ニューミュージックが流行ろうが、フォークが流行ろうがGSが流行ろうが、演歌が流行ろうが、ジャズが流行ろうが、ブギーが流行ろうが、常に「こんなのが流行ったら日本の音楽界に先は無い」といわれ続けてきた。
つうか俺も同じようなこと思ったこともあるし言ったこともある。
けど相変わらず音楽界とやらはまだあるし、音楽を聴く人もライブに行く人も演奏する人も歌う人も商売にする人も神格化する人もいる。ただそれぞれの在りようやビジネススタイルが時代に応じて変化しただけだ。
自分にとって都合のいい、心地いい音楽の存在の仕方、なんてぇのは自分が思春期とかに夢中になった時期以降はどんどん居心地悪くなっていくもんで、そこに付いていけなくなったことを認めたくない人は「こんなもんが流行ればこの先...」云々みたいなことを言って自分の認めるものを正当化する。
有名な話だがエジプトのピラミッド内部に画かれた壁画にも「最近の若者は堕落している」みたいなことが描かれているらしい。
どんなに今の状況を危惧したところで変化するもんは変化していくし、変わらないものは変わらない。
こないだ友人と話していて暗澹たる気持ちになった。
国民がどんなに反対しようと首相は自分のやりたいことを勝手にやっていくし、もっと言うなら首相の考えというよりも経済界とかの見えざる巨大な力が働いて、自分たちの富のためだけに世界を動かそうとする。そのためなら戦争も辞さない。人が死のうが関係ない。
こないだ原発再稼働を退ける司法判断がなされたが、それを単純に反原発の民意が勝ったと喜べないのは、結局これも「見えざる巨大な力」があらかじめプログラムした一時の判断じゃないかと思ってしまう。
友人曰わく「20年以内に戦争が起こらなかったら奇跡」というくらい日本の状況に危機感を抱いていた。というか諦観まじりにそう言っていた。
実は俺もそういう考えはあるが、やっぱり戦後30年たった時代に生まれ、バブル真っ盛りに育ったのでどうしても実際に日本が戦争をするということにリアリティを持てない。ぬるま湯に浸かって生きてきたんだ。中国や韓国北朝鮮の脅威、というのは毎日ニュースで見るし意識としては常にあるのに、皮膚感覚としてはどうしてもリアルに戦争を感じられない。これからどうなっていくんだろう。
まあとにかく「見えざる巨大な力」を持った連中の都合のいいように世の中が動いていってるのに比べれば、音楽の世界なんてなんだかんだいって「民意」が動かしてきた(少なくとも戦争のなかったこの70年は)んだから、AKBがどうなろうがチャートがどうなろうがもうどうでもいいじゃねぇかと思えてしまう。好きか嫌いかで充分だ。
なんてことを考えてるとせめて音楽くらいは自分が好きなこと、興味をもてること、ワクワク出来ることをやればいいじゃないかとおもう。
ささいな意見の食い違いや価値観の違いをぶつけ合って、その摩擦が生む熱が音楽のエッジを鋭くして素晴らしいものにする、なんてこと人に強要したところでそれはごり押しでしかない。どーでもいいもんはどーでもいい。
勿論、価値観のぶつかり合いが音楽のエッジを云々ていうのは自分の中でぶれてないんだけど、目的意識や危機意識を共有する関係性が前提になければすれ違うだけだ。そんな徒労に舌打ちするくらいなら、その時間をもっと充実した創作に費やさないと。いつ戦争が起こって理不尽な暴力に組み伏せられるかわからないんだから。
そんなことを考えてライブをやってるわけじゃないけど、その切迫感の片鱗でも表れりゃいいな、という気持ちでライブやります。
5月24日(土) 「三日月の夜に」
open17:20 ・ start17:50 ・ ticket2500円(ドリンク別)
出演:Bobrina(O.A)、Soul Realize、ANNABELL、高瀬大介、leemix
今回もドラムの河野瞬とふたりでうねるようなグルーヴミュージックを生み出せたらと思ってるよ。
是非是非きてほしいです。土曜日だから酒飲んで楽しもうじゃないか。
さあ今からリハだ。
オリコンチャート年間トップ10がアイドル勢で埋め尽くされると「日本の音楽は終わりだ。本物の音楽が支持されないこの世は闇夜だ」とか「あんなアイドル連中のCDなんてノベルティグッズと同じだ。チャートでは本物の音楽とは別にすべきだ」とかいった意見が山ほど出てくる。
音楽の配信が普及しきてCDが売れなくなってくたら「やっぱりモノとして音楽を所有するという行為が無くなって、データで音楽をやりとりしたり所有したりするのが当たり前になったら、音楽の価値が下がる」とかいった意見が山ほど出てくる。
初音ミクみたいなものがヒットチャートに入ってくると「しょせんコンピューターの声なんか人間の魂のこもった歌にはかなわない」「こんなのが普及すれば人間の感受性はどんどん狂っていくし、歌や楽器のの訓練を積んでいこうとする人間がいなくなってしまう」みたいな意見が山ほど出てくる。
韓流が流行ろうが、ヴォーカルがピッチシフトされた歌が流行ろうが、ビジュアル系が流行ろうが、テクノが流行ろうが、ヒップホップが流行ろうが、産業ロックが流行ろうが、ディスコが流行ろうが、ニューミュージックが流行ろうが、フォークが流行ろうがGSが流行ろうが、演歌が流行ろうが、ジャズが流行ろうが、ブギーが流行ろうが、常に「こんなのが流行ったら日本の音楽界に先は無い」といわれ続けてきた。
つうか俺も同じようなこと思ったこともあるし言ったこともある。
けど相変わらず音楽界とやらはまだあるし、音楽を聴く人もライブに行く人も演奏する人も歌う人も商売にする人も神格化する人もいる。ただそれぞれの在りようやビジネススタイルが時代に応じて変化しただけだ。
自分にとって都合のいい、心地いい音楽の存在の仕方、なんてぇのは自分が思春期とかに夢中になった時期以降はどんどん居心地悪くなっていくもんで、そこに付いていけなくなったことを認めたくない人は「こんなもんが流行ればこの先...」云々みたいなことを言って自分の認めるものを正当化する。
有名な話だがエジプトのピラミッド内部に画かれた壁画にも「最近の若者は堕落している」みたいなことが描かれているらしい。
どんなに今の状況を危惧したところで変化するもんは変化していくし、変わらないものは変わらない。
こないだ友人と話していて暗澹たる気持ちになった。
国民がどんなに反対しようと首相は自分のやりたいことを勝手にやっていくし、もっと言うなら首相の考えというよりも経済界とかの見えざる巨大な力が働いて、自分たちの富のためだけに世界を動かそうとする。そのためなら戦争も辞さない。人が死のうが関係ない。
こないだ原発再稼働を退ける司法判断がなされたが、それを単純に反原発の民意が勝ったと喜べないのは、結局これも「見えざる巨大な力」があらかじめプログラムした一時の判断じゃないかと思ってしまう。
友人曰わく「20年以内に戦争が起こらなかったら奇跡」というくらい日本の状況に危機感を抱いていた。というか諦観まじりにそう言っていた。
実は俺もそういう考えはあるが、やっぱり戦後30年たった時代に生まれ、バブル真っ盛りに育ったのでどうしても実際に日本が戦争をするということにリアリティを持てない。ぬるま湯に浸かって生きてきたんだ。中国や韓国北朝鮮の脅威、というのは毎日ニュースで見るし意識としては常にあるのに、皮膚感覚としてはどうしてもリアルに戦争を感じられない。これからどうなっていくんだろう。
まあとにかく「見えざる巨大な力」を持った連中の都合のいいように世の中が動いていってるのに比べれば、音楽の世界なんてなんだかんだいって「民意」が動かしてきた(少なくとも戦争のなかったこの70年は)んだから、AKBがどうなろうがチャートがどうなろうがもうどうでもいいじゃねぇかと思えてしまう。好きか嫌いかで充分だ。
なんてことを考えてるとせめて音楽くらいは自分が好きなこと、興味をもてること、ワクワク出来ることをやればいいじゃないかとおもう。
ささいな意見の食い違いや価値観の違いをぶつけ合って、その摩擦が生む熱が音楽のエッジを鋭くして素晴らしいものにする、なんてこと人に強要したところでそれはごり押しでしかない。どーでもいいもんはどーでもいい。
勿論、価値観のぶつかり合いが音楽のエッジを云々ていうのは自分の中でぶれてないんだけど、目的意識や危機意識を共有する関係性が前提になければすれ違うだけだ。そんな徒労に舌打ちするくらいなら、その時間をもっと充実した創作に費やさないと。いつ戦争が起こって理不尽な暴力に組み伏せられるかわからないんだから。
そんなことを考えてライブをやってるわけじゃないけど、その切迫感の片鱗でも表れりゃいいな、という気持ちでライブやります。
5月24日(土) 「三日月の夜に」
open17:20 ・ start17:50 ・ ticket2500円(ドリンク別)
出演:Bobrina(O.A)、Soul Realize、ANNABELL、高瀬大介、leemix
今回もドラムの河野瞬とふたりでうねるようなグルーヴミュージックを生み出せたらと思ってるよ。
是非是非きてほしいです。土曜日だから酒飲んで楽しもうじゃないか。
さあ今からリハだ。
昨夜のたりないふたりの漫才は凄かった。なんと客を前にして40分で新作漫才を作る、その過程を全て見せすぐに舞台にかける、という今時あまりないストロングスタイルのお笑いを地上波で目撃できた。
実際にできあがったものは、漫才としての完成度はともかく、二人のいかようにも漫才を変化させることの出来る柔軟性と技量を見せ付けられた。
若林の「悪ふざけ」は時として漫才に「破壊」をもたらすけど、山里の軌道修正力とそれが摩擦を起こして、とてもスリリングな漫才が「即興的」に出来上がっていた。ほとんどジャズのインプロだ。
今度の水曜日14日、真昼の月夜の太陽でライブするんだけど、今回はドラムの河野瞬と俺という「たりないふたり」だけでやるという、個人的には初の試み。
ホワイトストライプスが好きだったということもあってこういう変則スタイルには抵抗感は無かったのだけど、いざスタジオで合わせてみると想像以上に自分の性分と合ってることに気付いた。
自分の他に音階楽器がないということはどんなフレーズを弾こうがどんなコードをならそうがどんなノイズを出そうが、制約となる別の音階は無いし、ドラムという「肉体性」の塊が「音」を自動的に「音楽」にしてくれる。
ベースやキーボードとのコンセンサスが必要ないから様々なリズムアプローチを仕掛けても仕掛けられても、柔軟な反射神経さえあればいかようにでも音楽に変化をもたらすことができる。約束事が少ないからその場の磁場に感応して楽曲そのものをインプロヴァイズ出来る。これはたのしい。単なるソロ合戦みたいなのをダラダラやってると、演る方も聴く方もツラい。インプロで延々と音で遊ぶのは好きなんだが、それよりもちゃんと構成なりコードなりが決まってる楽曲を即興でぶち壊すのは愉悦です。これはベースやキーボードと一緒だとなかなか出来ない。
まとにかく飽きっぽくてすぐに音楽に変化を求めたがりの俺の性分にこれほど合うもんは無いわ。なんで今までこれやらんかったんだろう。まあリスナーフレンドリーな音楽では無くなってるのかもしれんけど、「聴きやすさ」よりもやってる側の「熱」とか「好奇心」とか「スリル」を重要視したほうが、俺の場合はなにか伝わるじゃねーか。勿論様式美を研磨していって一つの完成型を提示することのもの凄さを否定している訳じゃありません。
ただ、ロックみたいな「古典的な芸術形式」を否定することを出自としてる音楽には、気分次第でポンポン変化していくくらいの軽佻浮薄さが似合ってんじゃないか思う。
ドラマーの河野瞬とは長い付き合いで一緒にバンドやったこともある仲だが、一緒に音を出すのはかなりひさしぶりだ。柔軟性と俊敏さの塊みたいなドラマーで、こちらのテンションを上げることに関してはピカイチのプレイヤーだ。
ちなみに今彼がやってるバンド「ターコイズ」のライブを観ながらこの文章を書いてる。華奢な身体に似合わずかなり肉食っつうか前のめりでパワフルなプレイをしておる。
とにかく、14日はいいライブになると思う。いや、いいライブする!是非とも目撃しにきてほしい。俺らはトリなので21時くらいからです。
5月14日(水) 「言葉の降る丘」
open18:30 ・ start19:00 ・ ticket2000円(ドリンク別)
出演:上野優太、泉和香、高瀬大介、
LIVE HOUSE 「真昼の月 夜の太陽」
〒169-0072・
東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビル地下1階
TEL&FAX 03-6380-3260
HP http://mahiru-yoru.com/
実際にできあがったものは、漫才としての完成度はともかく、二人のいかようにも漫才を変化させることの出来る柔軟性と技量を見せ付けられた。
若林の「悪ふざけ」は時として漫才に「破壊」をもたらすけど、山里の軌道修正力とそれが摩擦を起こして、とてもスリリングな漫才が「即興的」に出来上がっていた。ほとんどジャズのインプロだ。
今度の水曜日14日、真昼の月夜の太陽でライブするんだけど、今回はドラムの河野瞬と俺という「たりないふたり」だけでやるという、個人的には初の試み。
ホワイトストライプスが好きだったということもあってこういう変則スタイルには抵抗感は無かったのだけど、いざスタジオで合わせてみると想像以上に自分の性分と合ってることに気付いた。
自分の他に音階楽器がないということはどんなフレーズを弾こうがどんなコードをならそうがどんなノイズを出そうが、制約となる別の音階は無いし、ドラムという「肉体性」の塊が「音」を自動的に「音楽」にしてくれる。
ベースやキーボードとのコンセンサスが必要ないから様々なリズムアプローチを仕掛けても仕掛けられても、柔軟な反射神経さえあればいかようにでも音楽に変化をもたらすことができる。約束事が少ないからその場の磁場に感応して楽曲そのものをインプロヴァイズ出来る。これはたのしい。単なるソロ合戦みたいなのをダラダラやってると、演る方も聴く方もツラい。インプロで延々と音で遊ぶのは好きなんだが、それよりもちゃんと構成なりコードなりが決まってる楽曲を即興でぶち壊すのは愉悦です。これはベースやキーボードと一緒だとなかなか出来ない。
まとにかく飽きっぽくてすぐに音楽に変化を求めたがりの俺の性分にこれほど合うもんは無いわ。なんで今までこれやらんかったんだろう。まあリスナーフレンドリーな音楽では無くなってるのかもしれんけど、「聴きやすさ」よりもやってる側の「熱」とか「好奇心」とか「スリル」を重要視したほうが、俺の場合はなにか伝わるじゃねーか。勿論様式美を研磨していって一つの完成型を提示することのもの凄さを否定している訳じゃありません。
ただ、ロックみたいな「古典的な芸術形式」を否定することを出自としてる音楽には、気分次第でポンポン変化していくくらいの軽佻浮薄さが似合ってんじゃないか思う。
ドラマーの河野瞬とは長い付き合いで一緒にバンドやったこともある仲だが、一緒に音を出すのはかなりひさしぶりだ。柔軟性と俊敏さの塊みたいなドラマーで、こちらのテンションを上げることに関してはピカイチのプレイヤーだ。
ちなみに今彼がやってるバンド「ターコイズ」のライブを観ながらこの文章を書いてる。華奢な身体に似合わずかなり肉食っつうか前のめりでパワフルなプレイをしておる。
とにかく、14日はいいライブになると思う。いや、いいライブする!是非とも目撃しにきてほしい。俺らはトリなので21時くらいからです。
5月14日(水) 「言葉の降る丘」
open18:30 ・ start19:00 ・ ticket2000円(ドリンク別)
出演:上野優太、泉和香、高瀬大介、
LIVE HOUSE 「真昼の月 夜の太陽」
〒169-0072・
東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビル地下1階
TEL&FAX 03-6380-3260
HP http://mahiru-yoru.com/
前々から気になっていた映画「アクト・オブ・キリング」を観に行ってきた。
これは1965年から1966年にかけてインドネシアで起こった100万人規模の共産主義者の大量虐殺事件に迫ったドキュメント映画だ。この事件はこれだけの大量虐殺であるにもかかわらずあまり知られていない史実だ。概要に関しては公式ホームページをみてもらいたいが、http://www.aok-movie.com/
とにかくこのドキュメントが画期的なのは被害者側ではなく、加害者側が語った虐殺事件の真相であるということ。
しかも彼らは「国を滅ぼすコミュニストを排除する」という大義名分の元、正当な行為として大量虐殺を行い、そのおかげで未だに英雄視され、良い暮らしをしている立場の高い人間なので、実に誇らしく自らが行った殺戮の模様を語る。いかに自分達が残虐にコミュニストどもを殺したか、映画スター気取りで実演してみせる。
そう、当初は監督のジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で被害者側を取材していたのだが、当局から被害者への接触を妨害され続行が不可能になり、だったらということで加害者側の彼等へ
「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」
という風に依頼したことからこのドキュメント映画が「本当の意味」でスタートしたのだ。
なのでかつての虐殺者は生き生きと、自ら演出を加え、得意気に演技してみせる。
中でも驚いたのは、かつて虐殺された共産主義者を身内に持った人間が映画のスタッフとして参加しており、その彼が目撃した虐殺の一部始終も「参考事項」として主演の加害者に聞かせ、「エピソードとして入れよう」とまで言われている。
ここまでくるともういったいなにがどうなってんのかよく分からなくなってくる。
なにが常識なのか?なにが悪なのか?平和な日本に暮らす我々にはとうてい想像もつかない複雑な政治的状況がインドネシアにはあるのだろうがそれにしても狂っている。
監督のジョシュア・オッペンハイマーはその異常な情況を、実に冷徹に客観的に記録していく。
ところどころ「罪悪感はなかったのか?」みたいな「こちら側」的な視点からの質問もするが、基本的には加害者たちが誇らしく、ディテールにこだわりながら、かつての虐殺の様子を演じる様子を淡々と記録していく。
しかし次第にその「英雄」の一人の様子がおかしくなっていく。
自らが行った虐殺を演じるうちに、自らの内部に封じ込めていた「罪悪感」が目覚め始める。
自分が演じた姿をプレイバックで観るうちに、かつて自分が殺した人間がどんな気持ちで死んでいったかに思いを致していき、嗚咽がとまらなくなって苦しむ。カメラはその彼の姿を、近づきもせず、背けることもなく、冷徹に定点で「記録」し続ける。
最後は自分がかつてよく「殺害現場」として利用していた場所で殺害の様子を話しているうち、またもや「吐瀉物の出ない嗚咽」でもがき苦しんだ後、言葉もなくフラフラと歩き出し、その建物から出て行くカットで映画は終わる。
この間もカメラは彼に寄るわけでも引くわけでもなく、ただひたすら自らに芽生えた罪悪感にのたうちまわりおかしくなってしまった男を冷徹に「視ている」だけだ。
その彼が出て行ったあとしばらくの間カメラはその出口を奥にした部屋を映したままフィックス。そして画面は暗くなり、音楽も流れず、雑踏のノイズがかすかに聞こえる中エンドロールが流れて終わり。
この最後の数分間ほどこの映画の特性をあらわしたものはないと思った。
罪悪感が芽生えたその虐殺者に対し、ああやっぱりこんなやつでも「こちら側」が思うところの常識や道徳観、倫理観があってよかったよかった、人間は捨てたもんじゃない。みたいな単純で図式化された結論を押し付けてくるわけではない。
チラシに書いてあるような「悪の正体とは、悪とはなんなのか?」を投げかけてるだけとは思えないし「人間の本当の恐ろしさとは?」の問いに対する答えを提示してるとも思えない。
「その後、彼がどうなったのかは知らない」という事実をポンと置いただけ。としか言いようがないほど、突き放した冷徹な距離感のまま、とりあえずの結末をむかえてしまったという感じだ。
ハッキリいって見終わった後はちっともスッキリしないし、それどころか凄く気持ちが重くなって、なんか気分が悪くなった。
しかしあの最後の数分間の描写は本当に、本当に凄い。
特にエンドロールの部分。あそこには絶対に音楽を付けてはならなかった。あそここではいかなる音楽が付こうとも、監督の思惑以外の「意味」が生まれてしまう。あの単なるそのままの雑踏のノイズではならなかった。その必然性が痛いほど伝わってきた。
そういえばエンドロールのスタッフ名のところにはAnonymous(匿名)と山ほどクレジットされていたのも驚きだった。もしこの映画に参加したことが特定されたら、おそらく当局からなにがしかの制裁が加えられるのだろう。
そういえば監督のジョシュア・オッペンハイマーも、この映画を創った以上、長年住んだインドネシアにいたら身の安全は保障されないということで国外に脱出しているという。まさに身体を張った渾身の作品といえる。
これは是非とも、是非とも観た方がいい映画だと思うのでこのような稚拙なレビューを書いてみた。
これは1965年から1966年にかけてインドネシアで起こった100万人規模の共産主義者の大量虐殺事件に迫ったドキュメント映画だ。この事件はこれだけの大量虐殺であるにもかかわらずあまり知られていない史実だ。概要に関しては公式ホームページをみてもらいたいが、http://www.aok-movie.com/
とにかくこのドキュメントが画期的なのは被害者側ではなく、加害者側が語った虐殺事件の真相であるということ。
しかも彼らは「国を滅ぼすコミュニストを排除する」という大義名分の元、正当な行為として大量虐殺を行い、そのおかげで未だに英雄視され、良い暮らしをしている立場の高い人間なので、実に誇らしく自らが行った殺戮の模様を語る。いかに自分達が残虐にコミュニストどもを殺したか、映画スター気取りで実演してみせる。
そう、当初は監督のジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で被害者側を取材していたのだが、当局から被害者への接触を妨害され続行が不可能になり、だったらということで加害者側の彼等へ
「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」
という風に依頼したことからこのドキュメント映画が「本当の意味」でスタートしたのだ。
なのでかつての虐殺者は生き生きと、自ら演出を加え、得意気に演技してみせる。
中でも驚いたのは、かつて虐殺された共産主義者を身内に持った人間が映画のスタッフとして参加しており、その彼が目撃した虐殺の一部始終も「参考事項」として主演の加害者に聞かせ、「エピソードとして入れよう」とまで言われている。
ここまでくるともういったいなにがどうなってんのかよく分からなくなってくる。
なにが常識なのか?なにが悪なのか?平和な日本に暮らす我々にはとうてい想像もつかない複雑な政治的状況がインドネシアにはあるのだろうがそれにしても狂っている。
監督のジョシュア・オッペンハイマーはその異常な情況を、実に冷徹に客観的に記録していく。
ところどころ「罪悪感はなかったのか?」みたいな「こちら側」的な視点からの質問もするが、基本的には加害者たちが誇らしく、ディテールにこだわりながら、かつての虐殺の様子を演じる様子を淡々と記録していく。
しかし次第にその「英雄」の一人の様子がおかしくなっていく。
自らが行った虐殺を演じるうちに、自らの内部に封じ込めていた「罪悪感」が目覚め始める。
自分が演じた姿をプレイバックで観るうちに、かつて自分が殺した人間がどんな気持ちで死んでいったかに思いを致していき、嗚咽がとまらなくなって苦しむ。カメラはその彼の姿を、近づきもせず、背けることもなく、冷徹に定点で「記録」し続ける。
最後は自分がかつてよく「殺害現場」として利用していた場所で殺害の様子を話しているうち、またもや「吐瀉物の出ない嗚咽」でもがき苦しんだ後、言葉もなくフラフラと歩き出し、その建物から出て行くカットで映画は終わる。
この間もカメラは彼に寄るわけでも引くわけでもなく、ただひたすら自らに芽生えた罪悪感にのたうちまわりおかしくなってしまった男を冷徹に「視ている」だけだ。
その彼が出て行ったあとしばらくの間カメラはその出口を奥にした部屋を映したままフィックス。そして画面は暗くなり、音楽も流れず、雑踏のノイズがかすかに聞こえる中エンドロールが流れて終わり。
この最後の数分間ほどこの映画の特性をあらわしたものはないと思った。
罪悪感が芽生えたその虐殺者に対し、ああやっぱりこんなやつでも「こちら側」が思うところの常識や道徳観、倫理観があってよかったよかった、人間は捨てたもんじゃない。みたいな単純で図式化された結論を押し付けてくるわけではない。
チラシに書いてあるような「悪の正体とは、悪とはなんなのか?」を投げかけてるだけとは思えないし「人間の本当の恐ろしさとは?」の問いに対する答えを提示してるとも思えない。
「その後、彼がどうなったのかは知らない」という事実をポンと置いただけ。としか言いようがないほど、突き放した冷徹な距離感のまま、とりあえずの結末をむかえてしまったという感じだ。
ハッキリいって見終わった後はちっともスッキリしないし、それどころか凄く気持ちが重くなって、なんか気分が悪くなった。
しかしあの最後の数分間の描写は本当に、本当に凄い。
特にエンドロールの部分。あそこには絶対に音楽を付けてはならなかった。あそここではいかなる音楽が付こうとも、監督の思惑以外の「意味」が生まれてしまう。あの単なるそのままの雑踏のノイズではならなかった。その必然性が痛いほど伝わってきた。
そういえばエンドロールのスタッフ名のところにはAnonymous(匿名)と山ほどクレジットされていたのも驚きだった。もしこの映画に参加したことが特定されたら、おそらく当局からなにがしかの制裁が加えられるのだろう。
そういえば監督のジョシュア・オッペンハイマーも、この映画を創った以上、長年住んだインドネシアにいたら身の安全は保障されないということで国外に脱出しているという。まさに身体を張った渾身の作品といえる。
これは是非とも、是非とも観た方がいい映画だと思うのでこのような稚拙なレビューを書いてみた。