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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2011年12月

2011年12月29日17:57
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昨夜MXテレビにて放送された立川談志追悼特集、さすが地上波の治外封建と言われるMXテレビだけあって凄まじいばかりの舌鋒を繰り出す談志が観られて最高だった。


歯に衣着せぬ毒舌とかよく言われるけど、この人の言っていることは衣を被せて言っては意味の無いことばかりなのでいいのだ。
不快に思うヒトも居るんだろうけど、そういった本音や毒の中にも裏もあれば表もあるわけで、人の言うことを真に受けるしか脳の無い人には談志は分からないのだ。


で、さんざっぱら勝手な方言を流したあとに一時間にも及ぶ絶品の「芝浜」をノーカットで放映しぐうの音も言わせない、というMXテレビの粋さ。石原慎太郎と談志の仲だからこんな番組が出来たんだろう。


立川談志という人は本音と建前を上手く使う人だったし、その建前ですら建前であるということはっきりとこちらに分かるように示してくれた人で、その辺はさすがに照れ屋の江戸っ子らしい心意気だけど、今年はその照れもなければ恥も外聞もない「建前」ばかりを聞いた年だった。


あの東日本大震災以降、むちゃくちゃ顕著になったけれど、政府も東電もマスコミも識者も建前とか自分達にとって都合のいい嘘しか言わない、ということを、連日突き詰められ続けた一年だった。


色んなものを見聞きし、もやもやと考えてたらこういう構造が延々、何千年にもわたって繰返されてきて歴史というのが出来上がってきたんだろうなぁ...とすっかり厭世的になって塞ぎこんでしまって音楽をやる気が失せてしまった。まあ時代や国のせいばかりではなく、殆どは自分のせいなんだろうけどね。



世の中なんて根本的には変わりゃしない、あるのはマイナーチェンジだけであってお上と国民の関係性とか、大きな流れに逆らうことの出来ない国民性、人間が持つ「業」なんかは不変なんだなぁと改めて感じた。



時間というのがは一方方向へしか流れないものなわけで、タイムマシンかなんかが発明されない限りは人間は前に進むしかない。ということは「前向き」でいることを強いられる存在なんだということも強く感じた。なんて残酷なんだろう。選択肢がひとつしかないなんて。


でもだからこそ少しずつでも復興は進むし、人の心は時と共に治癒される。震災以降すっかり厭世的で自暴自棄気味だった自分の生活も幾分ましになってきた。



今年は真昼の月夜の太陽というライブハウスで多くの人と知り合いになれたし、それに正比例するように幾人かの人に迷惑をかけたり不愉快にもさせたろうと思うけど、プラスマイナス含めてとっても有難い一年であったとも思う。



ほっとくと家に閉じ籠ってしまう俺なのだけど、能動的に人と会う気にさせてくれたのはこのライブハウスのお陰だ。なんせあの震災の日に真っ先に向かったもんね。あの時独りで家に帰ってテレビで津波の映像を観てたらどんな気持ちになってたんだろうと思うと...。


で、そういった縁もありまして明後日の大晦日、真昼の月夜の太陽で年越しイベントに参加させてもらいやす。今回もtwo peas in a pod でギターを弾きます。時間は何時だったか、まあいいやイベントは6時くらいから始まるんで是非遊びに来てください。


あと来年の1月9日に久々に歌います。ソロ名義だけど今回は新しい試みとしてキーボードの田中治美さんとのデュオでちょっとアヴァンギャルドな方向のライブをやります。まあ歌うのは自分の歌だけど、だいぶテイストが違うというかサウンドデザインが違うというか。楽しみ。是非是非遊びに来てくださいな。


とううわけで総括的な文章になってしまったけど、ひょっとしたら年内にまた更新するかもしれないので「良いお年を」とはまだ言わねぇよ。
2011年12月20日05:07
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昨日は前々から気になってたラーメン屋「松波ラーメン」に行ってきた。


世田谷線という東京ローカルな沿線の「松陰神社前」という駅近くにある、ちょっと洒落た、しかしちょうどいい感じにひなびたたたずまいのラーメン屋。
この辺りのちょっと古びた商店街にピッタリとハマるような感じの店で、女性一人でも入れそうな雰囲気、地元民だけを相手にしている夫婦経営の喫茶店みたいな感じのラーメン屋だ。


そういや高円寺に引っ越してくる前は殆ど毎日のようにこの辺りをチャリで通ってたのに、この店は知らんかったんだよなぁ。知ってたらしょっちゅう行ってたろうに。



そう、地元や通り道にあったらつい寄ってしまいそうな「程よさ」や「品のよさ」が店の佇まいだけじゃなく味にもあって、濃厚背油醤油!!!みたいなジャンク感が無く、見た目アッサリ、しかしちゃんと出汁の味が濃厚に効いていて美味く、麺も素直な細麺ながらしっかりコシがあって小麦の匂いがするし、トッピングも過剰な盛り付けじゃなく、脂身ギットギトじゃなく、かといってパサパサしてなく、味がちゃんとついてるチャーシューと、メンマにホウレン草っていう昔ながらの東京ラーメン。



雰囲気的に女性的なラーメン。 表情や元の目鼻立ちがいいから薄化粧するくらいでどんな場所にも行っちゃう人って感じの、俺が好きそうなタイプ。


のラーメン。



ファッション雑誌丸写しの格好じゃなく、どちらかと言えば地味なんだけど、そこにしっかりと自分のセンスとちょっとした主義主張が滲み出てるっていう、俺が大好きなタイプ。


のラーメン(笑)。


近所にあったらしょっちゅう行くのになぁ。


で、近所にあって、たまに中毒患者がナニかを吸引するように通ってしまうラーメン屋が「ラーメン花月」だ。


もうこっちはバッキバキの男臭がするラーメン、しかもいわゆるDQNな感じがプンプンするチェーン店だ。これをたまに喰いたくなる!


しょっちゅう期間限定ラーメンを発表していて、それがまた「ラーメン花月BLACK」とか「ラーメン花月DEVIL」とか「ラーメン銀次郎」とか「ラーメン一番星」とかいった暴走族の名前かデコトラか、はたまた本宮ひろし的世界観がプンプンするネーミングセンスで押してくるあたりまさにDQNというか元ヤンキーって感じがする。



ちなみにDQNというネットでよく出てくるこの単語、最初は何を意味するのか分からなかったけど、ある時気になって調べたら思わず膝を打って納得してしまうほどイーエテーミョーなセンスで笑ってしまった。あったなそんな番組。



そういったDQN文化圏はバカにしながら素通りしてきたワタシなくせに、ラーメンDQNに関してはついリピートしてしまう。ネクラならぬネDQN?



注文するのはそういった期間限定DQNメニューじゃなく、いつも決まって塩ラーメン。
ところがこれが塩ラーメンとは名ばかりで、ガッチョリ背油は入ってるという代物。で、これに生ニンニクをギョリギョリ絞り入れ、メッチャ辛い壺入りニラキムチをつまみつまみ喰らうとそこは宇宙。
俺的にはラーメン二郎よりもトリップ感がある。つうかあの二郎は好きじゃないんだよね。量が多いばっかりで旨味に乏しいっつうか。とか言うとジロリアンから睨まれそうだけど。


まとにかく、食ったあとにその吸収したカロリーと塩分を考えると空恐ろしくなってくるような、しかしそれでもついリピートしてしまうこのジャンキーでDQNなラーメン花月の塩ラーメン。



チェーン店なのであなたの住む街にも在るかもしれない。そしてあなたの正常な味覚を破壊するためにその牙を研いで待っているのだと思うと、そんな日本を憂いでワタシは夜も眠れない。



というかメチャ早く目覚めてしまったので、朝飯を食う前に腹が減る日記を書いちゃいました。


にしてもなんで近所にあるのが松波ラーメンじゃなくラーメン花月なんだ...。東京に来てから半分は近所にこのラーメン花月が近所にあるという巡り合わせを恨む。おかげで名店とか人気店と言われているラーメンの殆どがたいして美味いと思えない舌になっちまった。
2011年12月08日19:23
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「ビートルズ」と聞いて何を連想するかといううと、ごくごく一般の人なら「ヘイ・ジュード」や「レット・イット・ビー」のような有名曲を思い出すかもしれないし、ちょっとミュージシャン寄りの人だったらサイケ期のリンゴの微妙にハネたドラムだったりするかもしれない。



で、俺の場合は圧倒的に初期のジョン・レノンの声だ。リアルタイムでビートルズを聴いた人の多くはそうなのだろうと思う。まあ俺はリアルタイムでは全然ないんだけど。



「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」といった初期の大ヒット曲ではジョンとポールがユニゾンで歌っているものが殆どだけど、圧倒的にジョンの方が声量もあり押し出しも強い。
ジョンの破裂音のような声が初期ビートルズのイメージを決定付けていることに間違いはないと思う。



ジョン・レノンの声というのはビートルズの初期の頃はとてもハスキーでドスが効いていて、絶妙な倍音を含んでいた。
ロックンロールナンバーではハードで性急に響き、バラードナンバーにおいてはそのかすれが甘さを醸し出している。
弱冠23,24歳にして既にどんな曲を歌おうとジョン・レノン印を刻印できるような貫禄のあるシンガーの佇まいさえある。



「ア・ハード・デイズ・ナイト」や「ノー・リプライ」や「アイム・ア・ルーザー」や「
ミスター・ムーンライト」の歌いたいだしの迫力と色気は尋常ではないし、「マネー」や「スロウ・ダウン」「ロックンロール・ミュージック」といったロックンロールのカバーでもオリジナルを軽く凌駕するような凄まじい歌を残している。



この初期ビートルズのジョン・レノンの声というのは、世界に立ち向かうために身に付けたマッチョなタフガイ的なイメージと不可分だと思う。要するにカッコつけていたということ。ロックンロールには大事な要素だと思う。


エルヴィスもジーン・ヴィンセントもバディ・ホリーもチャック・ベリーも、どこかしらナチュラルではない技巧のようなもの、独特の気取りと虚勢のようなものが感じられる。弱味など見せねぇよといった気概のようなものだ。



同様にジョンの激しくかつクールなシャウティングにも、弱味など見せねぇという強がりが感じられて、そこが実にロックンロールなのだが、1965年発表された「ラバー・ソウル」辺りからジョンはシャウトをしなくなる。



世界の頂点に立ったことによる安堵と倦怠を反映しているのか、はたまたドラッグでラリっていただけなのか、ジョンの声からはハードなエッジが取れ、ハスキーというよりは寝起きのかすれ声のような疲れた質感になっていった。「ノルウェーの森」や「ガール」「ノーウェア・マン」でのジョンの声の気怠さと色気は凄いし、1966年発表のアルバム「リヴォルバー」における「アイム・オンリー・スリーピング」や「シー・セッド・シー・セッド」「アンド・ユア・バード・キャン・シング」ではどこか甘えたような、弱々しいようなしんなりした声に変わっている。時代はマッチョなロックンロールではなく、フラワーでピースでフェミニンなサイケに突入しようとしていた。



そんなサイケ期を経てジョンが再びシャウトするようになるのは1968年、ホワイトアルバムの頃からだが、初期のタフでクールなカッコいいシャウトではなく、もっとへしゃげたような、線の細い、ノイズのようなシャウト声になった。



「レヴォリューション」「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」「ヤー・ブルース」「アイム・ソー・タイアード」といった曲におけるジョンのシャウトは、カッコつけや鎧を着ることを止め、歌詞も含めて自分の弱い部分も強がりも全てひっくるめて歌声で表現しちまおうという開き直りを感じる。



この時期はオノ・ヨーコとの蜜月時代になるわけで、タフガイを気取ることも、倦怠感で内に籠ることもやめ、身も心も剥き出しにしていくことによる解放感を感じていた時期である。実際に自分達のヌードをアルバムジャケットにして発禁を食らっている。



よくオノ・ヨーコがビートルズ解散の原因であるという言われ方をするが、直接的な引き金を引いた戦犯が誰かはともかく、ジョンに本音をぶちまける解放感を与え、「人気者のビートル」を演じることのバカらしさをジョンに促したという意味では、オノ・ヨーコという存在がビートルズの解散を用意したと言えるかもしれない。



ソロになってからのジョン・レノンの声は、当然の事このオノ・ヨーコ元年を起点に変化した、線の細い、ひしゃげたような、しかし心をわしづかみするような独特な声で晩年まで貫かれている。




タフなロックンローラーの真似でもない、黒人っぽくもない、技術でどうこう出来るものでもない、自分の心の裂け目を表出した以外の何者でもない声。



世界を魅了したビートル・ジョンの艶っぽい美しいハスキー声ではなく、一人の情けなくだらしない女房ボケの夢想家のジョン・レノンの声こそが、ソロのジョンの曲のリアリティーを支えている。



生前最後のアルバムである「ダブル・ファンタジー」、このアルバムからギター・ベース・ドラム・キーボード・歌のみを抜き出し、余計なエフェクトを外した「ストリップド・バージョン」というのがあって、それこそyoutubeで検索すればすぐ出てくるので是非とも聞いてほしい。勿論ブートじゃなくてちゃんと手に入るものだ(笑)。



ここでのジョンの声の説得力、特に「スターティング・オーバー」や「ウーマン」におけるジョンの声の剥き出しの美しさは尋常ではない。
ヒットソング的な口当たりのよさは通常版の方があるのだろうけど、「ロック」としてのヒリヒリした緊張感や美しさは比べようもないくらいストリップド・バージョンの方が圧倒的だ。



死の直前、ジョンの声はこんな境地まで来ていたのだ。それなのに余計なリバーヴや加工を施したりするなんて...まあその弱さがジョンなのだが(笑)。ジョンは元々自分の声が嫌いだったしね。天才の感性ってのはようわからん。



ここまでジョンの声の変遷と精神的変化をリンクさせてもっともらしく書き連ねてきたのだが、実際のところはもっとフィジカルなもんかもしれないという気もしなくもない。



ビートルズ初期の頃は過密スケジュールのせいで声が疲弊してたから良い感じでかすれていて絶妙なシャウティングが可能だった、ツアーを止めて以降は歌入れの時ぐらいしか本気で歌わないからひしゃげた声で集音されただけかもしれない、と乱暴に考えることも出来るがそれじゃあファンタジーが無い(笑)。



それにその論で行くと一つ合点が行かないことがあって、実はデビュー前のデッカ・オーディション・テープにおけるジョンの声はソロのジョンの声のように細くひしゃげているのだ。あれだけ毎晩ハードなステージを毎晩やっていて喉を酷使していたのに、質感はビートルズデビュー後のタフでクールなジョンの声とは違うのだ。だから精神的変遷論という妄想に思いを寄せてしまう。



デビュー前のジョンはソロ時代のジョンと同じくらい剥き出しで、人気者でもカリスマでもない、何にも盛っていないただの不良少年でロックンローラーだったから、素のままの線が細くノイジーな声なのだ。



結局ジョンはオノ・ヨーコと出会って何が嬉しかったかといううと、虚栄と有象無象に囲まれた人気者であるビートルジョンの自分を忘れさせ、ハンブルク時代のような自由で剥き出しのジョンに戻してくれるからだったのではなかろうか。


そのような妄想をしてしまうくらいデビュー前のジョンの声とソロのジョンの声は酷似している。
そしてそれは世界を魅了したビートル・ジョンの声と同じくらい美しい。
2011年12月07日22:41
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エリック・クラプトン&スティーヴ・ウィンウッドの武道館公演、終わったー。


近年は声量が落ちたかな?と思ってたウィンウッドだけど、やっぱ生で聴くと流石に声に艶があって、オルガンプレイ共々良い感じでキテた。
スペンサー・デイヴィス・グループの「ギミ・サム・ラヴィン」が生で聴けるとは!しかし年齢層高めのお客さんの割にはそこまで盛り上がってなかったの哀しい。ピッカピカの箔の付いたロッククラシックだぜ?!もっと盛り上がろうや。


十年振りのスティーヴ・ガッドも良かった。堅実過ぎるくらい堅実だったけど、ここぞという時は一人で楽曲の温度を上げていた。
スネアの残響がムチャクチャタイトで全体の迫力をガッツリ上げていた。天晴れ。でももうちょっとクラプトンのケツ蹴ってもいいのに...。


キーボードのクリス・ステイトンも相変わらずのいい仕事っぷりしていた。
アンコール最後の「コカイン」でも堂々のソロを弾いてコンサートの最後を締めていた。毎度のことながらこの曲のソロは頑なにマイナースケールで押しまくってるなぁ。なんかこだわりがあんのか?
それにしても自分の名前が看板に出てるライブの締めでキーボードソロ弾かせるなよクラプトン。



で、肝心の御大。まあブート擦れしてるワタシですからある程度想定していたが、とにかくクラプトンがやる気ねぇ!手癖で流してるフレーズばっかでちっとも熱量の上がらないプレイに終止してた。
アコギでブルース「ドリフティン」やってた時とウィンウッドが歌う「ジョージア・オン・マイ・マインド」での渋いソロが一番良かったけど、マッシヴなクラプトンを期待する身としては今回はあまりにも腑抜け過ぎる。
調子の良いときのクラプトンはチョーキング・ビヴラートがバンバン決まるのに、今日は俺が認識している限りでは一回も出なかった。つまりギターが泣かなかったということ。
一緒に観た星野さんにも言われたが本当に俺がステージに上がって弾き倒したかった。


...まあギター始めて半年で「もうクラプトンを越えたな」と思っていたという客観性の無い俺の言うことなんで流してくれてもいいけど、とにかくハズレなクラプトンだった。日本公演では手を抜く傾向のあるクラプトンなんだから、甘やかしてはいけない。



で、やっぱ御大がそんなだと全体的にも堅実にならざるを得ないわけで、どんだけガッドとウィリー・ウィークスが気張っても限度があった。


特に日本のお客さんは保守的だから自分等で演者の温度を上げてやろうという能動性に欠けるので、まずは先制パンチを向こうから繰り出してくれないと盛り上がんないわ。特に武道館のように音響はいいんだけど、ライブ感に乏しい箱だとそうなっちゃう。


そう、PAが上手いんだかバンドが上手いんだか、とにかく音が良かった。というか既製品みたいなまとまりがあって、まあそれはそれで良いんだけど普段ライブハウスのガチャっとしたサウンドに馴れた身体にはいささか上品すぎた。ま、やる方も60オーバーのロートルだし観る方もアダルトなんでそれはしょうがないんだけどね。


とりあえずロック・レジェンドのライブを観たという以上の意味は無かったライブだけれど、「ギミ・サム・ラヴィン」のウィンウッドと「ヴゥードゥー・チャイル」でのクラプトンのギター(生煮えなソロだったけど)が聴けただけでも良しとしよう。ありがとぅー星野さん。


でもブートを聴く限りでは今年のライブでもギンギンに弾いてるんだけどなぁ...エリック。しつこいか。
2011年12月06日19:42
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惰性とは言え相変わらず「こち亀」を読んでしまう俺のくせに、ある程度の年齢に達しても少年ジャンプを本気で読んでるヤツはアホだ、という偏見を長らく持っていた。


けど、こないだテレビでやってた劇場版のワンピースを観てたら「良くできてるなぁ、やっぱこんだけ高い支持を得るもんにはなんかある」とすっかり改宗してしまった。


で、それ以来たまにジャンプを立ち読みしている。絵として惹かれるものは皆無だけど、ギャグの感性なんかは流石に今のグルーヴが感じられて興味深い。とは言えまあ、相変わらず心底はイントゥ出来ねぇんだが。


今新刊が出たら買う漫画と言えば、「リバースエッジ大川端探偵社」(作:ひじかた憂峰/画:たなか亜希夫)。これは俺のソウル漫画「迷走王ボーダー」のコンビだからある意味惰性。


もひとつ惰性で言えば「弁護士の九頭」(井浦秀夫)。わりと有名な漫画で、画は牧歌的で好みは分かれるだろうけど物語の語り口は凄く面白い。


しかし今、最も続きが読みたい漫画は「老人賭博」(作:松尾スズキ/画:すぎむらしんいち)。
つい最近二巻が出たばっかだけど早くも次を期待してしまう。


松尾スズキとすぎむらしんいち、予想通りというか予想以上にグルーヴが合う。合いすぎる。
ネームの一つ一つ、絵の一個一個が笑えるしグッと来るので、まあ読んでるとちょっと疲れるがそれでも手応えがある。なんかいちいち心の中でツッコミを入れてしまってちょっと疲れるクドカンのドラマのように、詰まっている情報量は多い。さすが大人計画。そのくせ流れているグルーヴ自体はアナログでダルなのでついつい癖になる。


手塚治虫のスタアシステムのように、すぎむらしんいちの漫画もよくかつての漫画のキャラクターが名前を代えて登場するが、今回は「スタア学園」のコキジと「東京プー」のせんべい屋のジジイが出ていて、実に良〜〜い味を出している。


この人の漫画ってストーリーがどうとか画がキャッチーとか云々じゃなくて、画や語り口の「グルーヴ」とか「匂い」とかいった、微妙な判断基準、しかし揺るがしようのない審美眼が好き嫌いを分けるので、この漫画の面白さを感じ取れる少数派の誰かとこの思いを共有したい。嗚呼〜共有したい。
2011年12月04日22:42
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一昨日はサルパラの田中さんの誕生日ライブに出演、昨夜は友人の誕生日パーティーに行って朝まで飲んでた。飲んだくれる大義名分を与えてくれるという意味で誕生日はありがたい。


その友人との話でムチャクチャ盛り上がったのが、映画「無法松の一生」について。ま、話だけじゃなくて結局観たんだが。何年ぶりに観たろう?10年くらい観てなかったなぁ。



稲垣浩監督の昭和33年の映画で三船敏朗と高峰秀子主演という、俺のためにあるような名作で、北野たけしから遡ること50年、日本映画初のベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞したという、ふう、そんな作品だ。



初めて高峰秀子さんが出ている映画を観たということでも個人的には思い入れの深い作品なのだけど、それを抜きにしても本当に日本映画の黄金時代を偲ばせる、日本人なら全員見てほしいと声を大にして言いたい叙情的名作で、男松五郎の切ない純情と寂しい晩年が涙を誘う。



観ていて自分の汚れた心がキレイになっていくような、そんな映画。
人間て汚い心を持っていても同時にこんな映画に心が愛撫されるんだなぁと改めて感慨深くなった。



朝3時にオッサン二人で酒飲みながらこれを泣きながら観るという、実に昭和チックで素敵な誕生日だった。



どん詰まって独りで奥の細道にはまりこんでる時間は決して無駄ではないけれど、やっぱり人と話したり音を出しあったりして摩擦をおこさないと良いノイズは生まれない。


「わかっちゃいるけどやめられない」じゃないけど、ふとした隙につい下らない思考にからめとられて排他的になったり現実逃避したりする。



でもバンドでエレキギターを一回弾いただけで脳のチャクラがちょっと開くくらいエンドルフィンのパッキンがバカになってる奴なのだからもっと積極的に生きなければいけないなぁと思った。何を言ってるんだ俺は?


2011年は世間的にも個人的にも色んな意味でひどい年だったけれど、あと一ケ月だけでも燃焼して行こうと思った。

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高瀬大介

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