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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2010年04月

2010年04月28日02:06
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とあるニュース記事より。


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レジャーシーズンを控え、この時期、女性がもっとも気になるのはムダ毛ではないだろうか? トレンダーズとTBCグループは、27歳〜33歳のアラサー女性300名を対象に4月16日〜18日、「ムダ毛に関する意識調査」を実施した。

「自分のムダ毛処理は完璧ですか?」の問いには、94%の女性が「完璧ではない」と回答。さらに、「彼氏がいない時にワキ毛がボーボーでも気になりませんか?」という質問には、5人に1人が「気にならない」と答えている。その一方で、「ムダ毛の処理が完璧な女性はモテると思うか?」との質問には「モテると思う」が71%と多く、気にはなりながらも、完璧に処理できていない実情が明らかになった。

また、「ムダ毛処理ができていないことが原因で男性からの誘いを断った経験がありますか?」には、10人に1人が「ある」と回答。「ムダ毛を理由に彼氏と気まずくなった」という経験がある人からは、「脚がざらざらするから、という理由で彼氏から一緒に寝るのを断られ、ショックだった」(28歳・企画職)、「一緒にお風呂に入った時に指摘された。そして、彼氏に剃ってもらった・・・なんかむなしかった」(31歳・大学職員)といったコメントも寄せられた。

「永久脱毛したい箇所はどこですか?」では、ワキ(73%)、アシ(71%)、ウデ(61%)、ビキニライン(52%)という結果となっている。これから夏に向けて肌の露出も出会いも増える季節だが、素敵な男性を逃さないためにも、この夏はムダ毛を完璧に処理して、出会いの季節に備えてはいかがだろうか。
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なんかこの類いの記事を良く見かけるけれど、なんで皆そんなにムダ毛こだわるか?


いいじゃねえか生えてたって。ていうか濃く生えてる方がいいっていう男もおる。俺か。


古来より人間は毛を崇拝してきた歴史があって、凄く神聖なものなのですよ、毛は。



その古来よりの遺伝子が近年は絶えているのか、やたらと男の方で女のムダ毛を気にする輩が居る。小せぇな。
しかもテメェの毛もやたらと気にして剃ってたりする。
男で眉毛がやたらと加工されてるのを見ると正直気持ち悪い。それも往年のジュリーみたいな美男子がやるならまだしも、山出しの田舎臭い醜男がそこだけは丁寧にこだわってたりすると、たんなる売れないオカマみたいだ。
俺にとっちゃそれは実に幼稚な感性だ。濃いほうが動物的でそそるじゃないか、男も女も。


欧米人だな、悪いのは。なにやら局部の毛を変にデザイン的に凝って剃るのが流行ってるらしい。ハート型とか。バカだな、あいつら。そんなことしたらどんどんこっちの気持ちは萎えるのに。
ていうかあいつらはそれでいいのかもしれないけれど、その感覚を平行移入して日本人でもそれやってそれがグローバル(?)な感性だと思ってるバカが居る。米国至上主義的烏合の衆。


そういや話は飛ぶけど、最近アメリカのどっかの州でいわゆる「腰パン」禁止っておふれが出てたなぁ。
確かにあの腰パンは美観的に実に見苦しいこと極まりないし、誰が好き好んで野郎のパンツなんか見てぇんだよ!って怒鳴りたくなるくらい不愉快だったけど、お上が禁止した瞬間から「腰パン」になんだか別な意味というか付加価値が生まれてくる様な気がしてなんとも腑に落ちない。


あんなもんはほっときゃいいんだ。禁止するとそれだけでなんかファッションとしてある種のお墨付きというか、歴史的位置づけを貰った様な感じ、あの恰好をするだけで何らかの意思表明になる様な気がして不愉快だ。
全然いい育ちのお坊ちゃんがパンクファッションしていきがってるのと同じ様な滑稽な景色が生まれそう。



一時期隆盛を誇ったガングロコギャルやルーズソックスが今や絶滅したのは、あれを一過性のブームとして無視したお上の無関心さ故の事。
しかもあれはあれで突然変異的なアートとしてヨーロッパの一部では評価されたりもして、それなりに立派なもんだったけれど、今や誰もあんな恰好してないし、今となっちゃあの恰好を「嘆かわしい」と批判した当時の識者の見識なんか笑いのネタだ。



「腰パン」なんてアメリカのヒップホップ文化の象徴として10年も前からあったもんで、別にそれがことさら社会人甚大なる悪影響をもたらしてるとは思えないのに、今更になって禁止したところでなんになるっていうんだろう?ほっときゃいいのだ。やりたいヤツはやるし見苦しいって言って否定するヤツはする。それだけのこと。


日本でそれをマネしてる若者も、それを観て「見苦しいなぁ」と微笑んで観ている我らおっさんも、実に平和なもんだ。「禁止」なんかしたらホントに市民権を得てしまうぞ。ロックみたいに。



話が思いっきりずれた。


ムダ毛云々の叩き文句であおって女に危機感を募らせるのも、男に幼稚な思想を植え付けるのもナンセンス。


生えるもんは生やせ、出るもんは出せ、だ。芸術と一緒。


しかし・・・久しぶりに日記を書いてみたらこの内容かよ。
2010年04月01日03:04
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最近ブルーハーツの「夢」と「千のバイオリン」がCMで使われている。別の人が歌っているヤツだけど。
期せずしてどちらの曲もブルーハーツ後期の名盤にして最後の花火だった『STICK OUT』に入っている曲だ。


俺はブルーハーツ世代であるにも関わらず、ブルーハーツとちゃんと向き合い始めたのはこの「STICK OUT」の頃、つまり殆どブルハが終わる頃だった。18歳の頃。


もちろん中学生の頃から巷で流れていたので耳にしていたけれど、どうも洋楽スノッブなところとヴィンテージロック中毒患者としての症状が邪魔をして、リアルタイムの流行もの、ましてや日本のロックなんてもんに対しては心を閉ざしていた。


それに関しては本当に後悔しているけれど、でも出会いというのは必然を伴ってやってくるもので、中学生の頃の俺の心はブルハを必要としていなかったのだから仕方がない。


ブルーハーツに対して免疫が出てきたのはちょうど「情熱の薔薇」が流行ってた16歳の頃、渋谷陽一氏がDJをやったラジオ番組「日本のロック特番」にブルーハーツがゲストに出ていて、それをテープに録音して繰り返し繰り返し聴いた。
ただ自分でも意味が分からないのが、インタビューは録音していたけれどブルハの曲は全部カットしていた。今となっちゃなんでそんな事をしたのか分らないけれど、その時の自分にとっては必要ないと思ったんだな。すでに渋谷陽一はハマっていたから単純に渋谷ズトークを録音したかっただけだったようだ。う〜ん。



ただ本人達が語る日本のロックや自分達の歴史はとにかく大爆笑で、いまでもそのテープはたまに聴くけど、いまさらながらとても良いバランスのバンドだったんだな〜と感心する。
ヒロトのボケ体質にマーシーのクールな突っ込みボケ、河ちゃんと梶くんの普通人感覚のフォローなど、会話のスタンスがそのままバンドアンサンブルを顕している。
ただまあ音楽を聴かずに本人達のパーソナリティーとか言葉とかから好きになるってのが実に俺らしい。変わってねぇな。


で、時系列は曖昧だけれど17歳か18歳の頃だろうか、狩撫麻礼原作の漫画「迷走王ボーダー」でブルーハーツが大々的に取り上げられていたのを読んでブルーハーツのファーストを手に入れ、ほぼ同じ時期に渋谷陽一のラジオ番組で『STICK OUT』が新譜として特集されたのを聴いてそれを手に入れ、その2枚を繰り返し繰り返し聴いた。やっと自分の中でブルーハーツを受け入れる機が熟した。


で、ファーストを聴きながら、なんでこれをリアルタイムで受け止められなかったんだろう?と自分をなじり、リアルタイムで触れることの出来た『STICK OUT』に素直に喜びながら、こんなに分りやすく激しくて、こんなに分りやすくナイーヴで、こんなに分りやすくポップな音だったんだ!と感動していた。


その時分俺が狂っていた日本のロックはエレファント・カシマシで、何をおいてもエレカシが一番だったけれど、ブルーハーツのストレートな分りやすさとヘンさ加減は、全く別な角度から俺を打ち抜いた。



その頃テレビで観たブルハの強烈なライブパフォーマンスと、その反面その緊張感を弛緩させる様な本人達のユルユルなキャラは、まさに自分にとってのロックの理想型の一つだった。




ただ、エレカシの屈折した暴力性と、他を圧する異端性をこよなく愛していた俺にとって、ブルハの眩いばかりのポップさととっつきやすいストレートさは、もう最初から距離を置いたまま、純粋にその衝撃を堪能出来るバンドだった。
要するに偶像視することも、教祖として崇め奉る必要もない、ただひたすら「理想のロックバンド」としてのブルーハーツを受け止めればよかった。



さて、当時のブルーハーツの受け止められ方。
初期からのコアなファンはともかく、「TRAIN TRAIN」の爆発的ヒットによってファンになった人の多くは、シンガロングできる人生応援歌としてブルーハーツを受け取った人も多いかと思う。


時はちょどバブル真っ盛り。面白い事にブルーハーツのデビュー期からバブルは盛り上がり、ブルーハーツが解散する頃になってバブルがはじけたというふうに奇妙にバブルと符合しているのだけれどまあそれはおいといて、当時は学生がカラオケボックスなんかで女の子と酒を飲みながら「リンダリンダ〜」とヒロトのマネをして歌って皆で盛り上がるなんていう軽佻浮薄な光景が日本各地で展開されていたと聞く(実際は知らんからね)。ブルーハーツ本人としちゃ『?』の嵐だったろうな。
また、そうやって消費される一方で、すがりつく様にブルーハーツを聴いていた狂信的なファンの何人かが、当時カルトとして名を浸透させつつあったオウム真理教に入信したりとこれまた「?」な状況にもなったりする。



そんな状況で出された「STICK OUT」には、いわゆる「人生応援歌」的な方向で誤解される余地はない楽曲ばかりが並んでいる。安直にこちら側に語りかけてくれない、手を差し伸べてくれない曲ばっかりだ。


『STICK OUT』の一曲目である「すてごま」、当時のPKO問題に触発されて作られた曲だけれど、歌詞の


君、ちょっと行ってくれないか、すてごまになってくれないか?

いざこざに巻き込まれて 死んでくれないか?


というフレーズは、当時バンドブーム以降くさるほどいた「やさしさパンク」とか「人生応援歌」みたいなクソッタレたバンドどもの元祖的なイメージで一括りにされていたブルハが放った強烈なカウンターでもあった。そんなもんと一緒にされてたまるか的な「宣戦布告」。



すてごま、という「犬死に」とも同義語な言葉の、残酷なインパクトは半端ではなかった。そしてスピード感あふれるサウンドの上に、あのヒロトの朗々とした棒歌いで「死んでくれないか?」とくるもんだからその殺傷能力は凄いもんだった。当時エレカシの「奴隷天国」に心底ビビった俺としても、それとは全然違う角度からのブルハの殺人兵器にはやられてしまった。



ここにはやさしいパンクスとしてのブルーハーツはいない。「終わらない歌を歌おう」と呼びかけてくれないし、「かっこ悪くたっていいよ、そんなこと問題じゃない」と許容してくれない。


「情報やデマが飛び交う、声のデカイ奴が笑う」と盛り上がってる奴らに冷や水をぶっかけ、「プルトニウムの風に吹かれていこう」と冷静に呼びかけ、「誰かに金を貸していた気がする、そんなことはもうどうでもいいのだ」とあっさりと突き放すブルーハーツがいる。
これこそその時の自分にとっては実にピッタリ来るロックだった。拳を上げて一緒に歌うロックじゃなく、冷や水を浴びせて笑いながら疾走していくロック。これは多分従来のブルーハーツファンの意識にふるいをかける様な挑戦的なロックだったと思う。


このアルバムはブルーハーツにとって起死回生を狙ったものだったという。


解散直後のインタビューでヒロトが「ファーストアルバムにはゼロから1になるときの爆発力があったけれど、活動していくうちに1から1.5や2になる達成感は生み出せたけど、それは0から1になる衝撃にはかなわないんだ」と言っていたが、「STICK OUT」はもういっぺん0から1を生み出そうと試みたアルバムだと思う。
BPMの早いナンバーばかりが入っているし、歌詞も社会的なメッセージという方向性を保持しながらも、聴き手やブルーハーツそのものも対象化するような、安易な同調を拒否する鋭利な言葉が溢れている。


だからたまたまファーストアルバムと同じ時期にこのアルバムを体験した俺にとっては、この2枚は感触がとても良く似ていると感じた。
どちらも凄まじいエッジとエネルギーを持っている。ブルーハーツから御信託を頂こうとすり寄って来るアメーバを蹴散らす過激さを両方共持っていると思う。



しかしやはり0から1になる瞬間というのはたった一度しかない。ファーストと『STICK OUT』ではそこが違うし、だからこそ『STICK OUT』の、1を2にしたり3にしようとする悪戦苦闘は素晴らしいと思うのだ。
0から1になる初期衝動を再現しようとして、しかし再現出来ない苦しみを対象化し、新たな方法論を模索する姿も実にロックだと思う。



だから『STICK OUT』とほぼ同時期に作られ割と早い間隔で出された次のアルバム『DUG OUT』は、ブルーハーツがもう次の地点に立っているんだと強く感じさせるアルバムでとても感動した。一曲目の「手紙」のあきらかにそれまでと違う感触の完成度は、初期衝動の呪縛を鮮やかに解き放った新しいブルーハーツを感じさせてくれた。


しかし0から1になる瞬間の爆発力を再現出来なかったと痛感したヒロトはあっさりバンドの解散を決めてしまう。
まあメンバー内のゴタゴタ、宗教観の違いなんかが原因だと言われているし多分本当だと思うけれど、そのメンバー間のいろんなものに対する認識のずれが、0から1になる瞬間の爆発力と近似値の衝撃を生み出せなくなっていった原因かもしれない。まあバンドが解散するって時期は色んな事が同時多発的に起こるもんで、どれか一つが原因なんて絞られないもんだ。



この『STICK OUT』はファーストアルバムの様な出会い頭の衝撃ではない、本当の意味でのバンドのポテンシャルを実証したアルバムであり、それ故に解散が用意されてしまった、結構重いアルバムだ。
攻撃的な言葉は世間に向けてだけではなく、ブルーハーツ自身やブルーハーツのあり方そのものにも向けられている。
だからこのアルバムが出た当時の世相を反映して「プルトニウムの風」とか「おろしたての戦車」とかいった言葉が出てくるが、それらは単なる時事性を越えて今でも充分に通用するメタファーとして響いてくるし、その鋭利さは錆び付いてない。



そんなアルバムの中の曲が2曲、CMソングとして今頃になって流れてくるのは妙な気分にさせられるが、それを必要とする様な、そんな空気なんだろうか、今?



てなわけであらためてブルーハーツを聴き直してみたわけですよ。で、当たり前だけど古びてないわ。全然懐メロにならない。
まあリアルタイムで一緒に燃え尽きた様なファンでないからそんな風に感じるのかもしれないけれど、ブルーハーツ以後ブルハもどきのバンドが出ては消え出ては消えの盛衰を横目で眺めつつ、そのつどそのつど本家の巨大さを思い知らされ続けたから、常にブルーハーツは音楽シーンに居た様な気になってくる。



ブルーハーツはもの凄く乱暴に言ってしまうと、70年代フォークの直裁なメッセージ性を、パンキッシュなビートにのせて、童謡や唱歌にも通じる譜割りで歌ったところが画期的だったんだと思う。メンバーも「ブルーハーツ」は発明だったと語っている。
その当時のカッコつけたロックが失っていた青くさい主張や少年的な視点と、洋楽文化と日本的伝統をミクスチャーさせた音楽的スタイルがぶつかり合ったものが、バブルという稀に見る奇妙な季節と交差したところにブルーハーツの衝撃性があった。
ざっくり言うとそんなところだろうか。


ただそんな御託よりもヒロトのあの人懐っこい笑顔、それと表裏一体のキチガイの様なアクションに、まるで我関せずのようなマーシーのクールな佇まいが合わさった、あの圧倒的な説得力を持ったビジュアルを見れば、ブルーハーツのとんでもなさが理解出来るし、未だにあれほどヤバい雰囲気を持ったバンドは出てきてない。
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高瀬大介

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