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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2011年05月

2011年05月25日15:41
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スティーヴンタイラーがエアロスミスからクビを突きつけられていたさいに、スティーヴンに「お前の代わりにレニー・クラヴィッツかポール・ロジャース入れるぞ」って脅したら「なにいってんだ、俺なんかツェッペリンに入らないかって言われたんだぜ」と言い返したらし。


こりゃおもしれぇや。スティーブン・タイラーのツェッペリン。レニクラのエアロスミス。なんでもやったれやったれ。ついでにロバート・プラントはヴァン・ヘイレンに加入してくれぃ。


プログレ人脈やディープ・パープル系のヘヴィーメタル部族って昔からメンバーの順列組み替えが激しくて、どのバンドにも元しろまるしろまるって肩書きがあるメンバーがいるもんだが、ツェッペリンやエアロスミスにもそんな動きがあるとはねぇ。
まあジミー・ペイジがデビカバつかまえてツェッペリンナンバーをガンガンやってたこともあったし今に始まった事じゃないか。要するにロバート・プラントが現在に拘りすぎて過去を必死で捨てようとするからジミー・ペイジは右往左往するんだよなぁ。とっとと開き直ってツェッペリンやりゃあいいのに。


それに比べてこのポール・ロジャース、もう90年代くらいからはロック界の開き直り懐メロオヤジになっとるなぁ。
「ポール・ロジャース、マディー・ウォーターズを歌う」「ポール・ロジャース、ジミヘンを歌う」みたいなアルバム連発したり、クィーンのヴォーカルなんていう重責を勤めたり、バッド・カンパニー再結成しちゃったり。
ついでに言うなら80年代は全くやる気が無くなっていたジミー・ペイジを表舞台に引っ張り出してあげるためにファーム結成したりと便利屋な面もあるし。


とにかくこの人の開き直りは凄い。自作のソロアルバムとかは果たして出してるんだろうか?ていうくらい漏れ伝わってくるのは回顧のニュースばかり。自分の商品性は過去にしか無い!というのを自覚し過ぎるくらいしている。


どうせならフリーも再結成してくれい。でも今やあのポール・コゾフの超絶チョーキング・ビブラートを再現できるギタリストが居ないかもなぁ。
2011年05月24日23:49
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一人称の呼び方は色々ある。


僕、俺、儂、私、あたい、小生、我輩、アチキ、ウチ、などなど。他にもあるかもしれない。


それぞれ自分の性質、キャラクターに合わせて呼び方を決めている。
俺は「俺」が一番しっくりくるので自分のことを「俺」と言うけど、ライブの時は「ワタシ」と言うことも多い。一番自分を客観視してたニュアンスを感じるからだ。多分おもいっきり客観視してキャラクターに殉じてないと照れるからねぇ。


でも普通に社会生活をし人と接していると、その空間に相応しい自分というのを、多かれ少なかれ演じている部分は誰しもあるはずだ。つうかそうじゃなきゃあ生きていけない。


で、それは他人にどう思われたいか、どう見られたいかというそれぞれの基準によってキャラも決まってくる。
またそのキャラというのはそれぞれに何らかのロールモデルがあって、そこに近づけたり距離をはかったりという試行錯誤があるにせよ、ひとつの基準になってる場合が多い。と思う。
まあ女子の場合はわかりましぇん。あくまで男の場合の話です。



ちなみに俺はビートたけしと立川談志に松本人志エッセンスを足したようなキャラクターをロールモデルとしてるようなとこがある。
勿論あんな天才達の真似なぞ才能レベルでも人格レベルでも出来るはずも無いが、真似しきれずに生じてしまった「違和感」こそが「自分」のオリジナルの部分かもしれないな。それは神々には洗脳しきれなかったDNAの部分だろう。



それはまあ置いといて、少なくとも自意識が十分に働いているであろう「自分のことを俺と呼ぶのが最も自分らしいと感じている俺」も、そんな「俺」というキャラクターを演じて生きているのかもしれない。いや、絶対そうだ。


だから「本当の自分」「演じてない自分」なんてのが果たしてあんのか?と時々思ってしまう。


本能に忠実な瞬間、死に直面した時、あるいは人間の三大欲求に際した時とかはひょっとしたら「本当の自分」なのかもしれないが、それじゃあすぐ話が終わってしまうので置いておこう。



まあそんな切迫した状況ではなくて理性のタガが吹っ飛んでる時、取り繕ってる場合じゃ無いだろ?っていう時間、自分が自分じゃなくなっていくような瞬間、そんな時が「本当の自分」というものに一番近いんじゃないかと思うようになってきた。


そう思える時ってのは二つばかしある。



酒呑んで酩酊して好きな人達とベラベラ下らないことをくっちゃべっている時、素面の時の自主規制を軽く越えて、地雷を除去しながらもズケズケと相手の心に踏み込んでコミニュケートしようとしてる泥酔中の自分、そんな時が「本当の自分」とやらに近いのかもしれない。
そんな時に地雷踏んで相手を傷つけてしまっては元もこもないので、ある程度はブレーキを踏んでいるが、こと自分の事に関しては一切ブレーキが効かないっつうかNGワードが存在しなくなるから、ベラベラあられもない自分のことを喋っちまう。
「どうでもいいや」「どうにでもなりやがれ」という気持ちになると楽になるんだな。
多分酔っぱらってる時に家に火をつけられてCDや本が雨散霧消してしまっても「まあ仕方ねぇか」と納得してしまいそうだ。



酔って下半身に関する話を嬉々としてる俺というのは、いくら「あれは俺じゃない別人だ」と言い張っても、まごうかたなき「本当の俺」なんだろうな、残念ながら。
「酔ってたんです!スイマセン」なんて弁解すんじゃねぇ。それが本来のオメェだ。と自分を叱咤しよう。



で、あともうひとつ、ステージで熱唱、絶唱してる時、バンドメンバー全員がレッドゾーンに達してノイズの塊となり、俺も流血しながらギターをかきむしっている時、頭がほんの一瞬だが白くなって「どうにでもなりやがれ」と忘我していると思う。
つまり理性の歯止めが効かなくなってる、自分が自分じゃなくなってる、どう思われたいなんてこと考えてない瞬間なのだと思う。
そんな時、どうやってそんな心理状態をもう一度ステージパフォーマンスという形に帰結したらいいか分からないから、絶叫しながら転げ回ったりギター蹴飛ばして壊したり、飛んだり跳ねたり頭から水かぶったりするんだと思う。あとで人や自分に迷惑かかるかもしれんのにね。


前やっていたワイセッツが終わって以来そういう忘我を長らくしてないような気がする。それに近いような瞬間はあったかもしれないけれど、でも、あの全員で一つのベクトルに向かって壊れていくような解放感は体験してないなぁ。
だからもう一方の忘我の手段、酒の量が増えたのかもしれない(笑)。ダメだな。



ステージに立って歌うという極度に自己抑制を強いられかねない空間に身を置くことによって、かえって反転して「あとはどうにでもしやがれ」ってな心理状態に持っていき、全ての理性を吹っ飛ばしパフォーマンスをする。聴いてる人、その場にいる人を巻き込んでいけるような解放を音楽とパフォーマンスで作り出す。
そのあとに酒を呑んで精神を弛緩させ忘我して、魂の洗浄と濃密なコミニュケーションをする。


そんな幸せな状態に自分を持っていけるように日々精進しよ。



六月にはバンド形態のライブが二つあるよ。そんな空間を生み出したいねぇ。
1つは6月15日(水)に高円寺ミッションで「prayforyou」というチャリテーライブに出ることになっております。


で、もう一個は6月18日(土)に真昼の月 夜の太陽で、なんと奥田民生およびユニコーンのカバーバンドをやりんす。恒例のカバーイベント。
以前も書いたが、本当は前回と同様クリームのカバーをやるつもりだったんだけど、殆んど要望が無いだろうという現状に対する絶望と、単純にお客さんの美女に「ユニコーンで!」って言われたので簡単に路線変更。そんな単純なヤツです。だから酔うとすぐに自分の中のNGワードを喋るんです。
ちなみに民生バンドの名はメンバーに全く相談せずに俺が決めた「ヤッチモニャー」。これは広島の備後地区の方言で「無意味なこと」「やらんでもいいこと」の意。



詳細は追って知らせるので、よかったら予定をあけといてね~。
2011年05月22日03:42
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鈍いうたた寝から目覚めた。大学生の頃の夢を見ていた。


背伸びしたい盛りの二十歳頃、それまで狂ってきたロックやポップスばかりを慈しむのではなく、フリージャズや前衛音楽、コンセプチュアルアート、アートくさい無愛想な映画などを必死で「分かろうと」もがいてた時期だった。



ジョーン・ゾーンの作品に憧れて自分の部屋で思い付くまま音を出したり奇声を上げたりしながら延々二時間テープを回して、その生活音を「作品」と称して粋がってたこともあった。



Tシャツや派手な模様の布地を超適当に切り刻んで適当にパッチワークしてカーテン代わりにしていたら、そのボロボロのカーテンを見た近所の住民から「あそこにキチガイが住んでいる」と苦情がきたと大家に言われたこともあった。


フルクサスのロバート・アシュレイのアートパフォーマンスを観に徹夜で大阪まで行ったら案の定爆睡してしまい「これでは何のために大阪に来たのか分からん、何が爪痕を残さねば」と深夜に雑居ビルの非常階段をつたって屋上に上がり、訳のわからない言語で絶叫していたら警察に連れていかれて職質され、あまりの恥ずかしさに「少し酒が入ってます」とを嘘ついた、なんてこともあった。



いいエコーが集音出来るという理由だけでチャリンコで二時間くらいかけて山の上にあるコロシアムみたいな野外音楽堂に忍び込み、背中に担いでいった電池で動くアンプであるピグノーズにマイクぶっ刺して絶叫してたら警備員に捕まったこともあった。



大学祭の軽音楽部のヌルいライブの雰囲気がイヤで、幼なじみの児玉くんを無理矢理引きずり込みアンチ学祭ユニット「ゲシュタポ」を結成、カセットMTRにギンギンに歪ませて録音したマイドラムとベースをPAで流しながら、ギター2本と絶叫を乗せてビートルズとジミヘンをカバー、最後はカオスな音の渦の中、気の弱い児玉くんに蹴りを入れたり、ギターを棄ててアジ演説しながら転げ回ったりしたこともあった。



まあどれも若気のいったりきたりで、いかにも粋がりたい若造の偽悪的な暴走、というか「アート行為」という名目で自己顕示欲を満たしてたんだろうな。
ヘドが出るほど恥ずかしいけど、ある面では切なくもある過去の記憶だ。



けれど夢に出てきたのはそんなおもひでではなく、深夜の真っ暗な海の夢だった。



住んでたアパートから徒歩5分で海だったので、ピグノーズとエレキ背負って海まで行ってよく歌っていた。
波の音混じりの録音テープもある。
フラれた時に酒とテレコ持って海まで出掛けて、テキトーにアドリブで悲しみの心情吐露を絶叫するのを録音して、いい曲が生まれないかとスケベ根性丸だしでもがいたりもした。当然ながら何も生まれなかったけど。



でも結局寂しくなるたび、切なくなるたび海にフラフラ出掛けていったような気がする。



モテるわけでもなく、彼女も居らず、コンパやレジャーに勤しんでるわけでもなく、殆んど引きこもってMTR相手に作品創りをしていた俺は、生きてる殆んどの時間が寂しく、切なかったので、呆れるくらい頻繁に海へ出かけていた。


だからあの頃のことを夢に見たり思い出したりすると、深夜の真っ暗な海のにおい、波の音は不可欠なんだろう。



と思ったら昨夜の酒のツマミに食った赤海老の剥いた殼をテーブルに置きっぱなしだった。どうりで海のにおいっつうか潮くせぇわけだ。


妙な時間に妙な匂いの妙な夢で目覚めてしまった。妙な日曜日が始まるなぁ。
2011年05月16日20:04
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今日の何とも言えない不穏な曇天のヴァイヴにやられたか、久々に虚脱状態で心が不感症。むー。


つうかここ数日非常に気持ちが落ちていて、昂りがなーい。
今日に限ってだが、レッド・ツェッペリン聴いてもサンボマスター聴いても心にターボがかからないなんて非常事態だ。


もうインプットはイナフ、そろそろアウトプットしろ、そのために心と感性をキリキリと張りつめろ、という生体反応かもしれないし、それとも単なる甘え鬱かもしれない。



数日たてば小康化してまた曖昧な状態に戻るかもしれないし、何かを産み落として誰かとコミニュケートしなければ「あパーン」て破裂するのかもしれない。


いつになっても自分の心をうまく保つ術が見つからねーもんだなー。
以前に比べりゃだいぶ安定してきたし、笑顔がデフォルトなキャラクターになりきりつつあったけど、「裏俺」は簡単には居なくならない。



「心」が身体のどこかにある器官なら対処療法もあろうが、そうじゃないからもがく。
もがきながら何らかの解決法を探るために頭や体を使ってみたり、感性や感覚をヒリヒリさせる。自分が聴きたい最高の音楽を作る、手間のかかる自慰行為をおっぱじめる。


それしか思い浮かばないまま何十年も生きてきたから、今回の命は愚直にそれ一本で行くしかねーだろーなー。


新しく生まれるかもしれない曲がいつ出来るかは未定だが、6月はバンドでライブやる予定が入っとります。


1つは6月15日(水)に高円寺ミッションで「prayforyou」というチャリテーライブに出ることになっております。
オリジナルを中心としながらもジャムっぽい要素が出るような方向に持っていこうかと目論見んぐ。


で、もう一個は6月18日(土)に真昼の月 夜の太陽で、なんと奥田民生およびユニコーンのカバーバンドをやりんす。恒例のカバーイベント。
本当は前回と同様クリームのカバーをやるつもりだったんだけど、殆んど要望が無いだろうという懸念と、単純にお客さんの美女子に「ユニコーンで!」って言われたので簡単に路線変更。単純なもんだぜ。すぐ騙されるな俺。



ただ!そうはいっても民生にかけるワタシの並々ならぬ思いは嘘じゃぁない。
作詞作曲および歌唱でとてつもない影響を受けたし、ライブでも何度もカバーしたし、宅録でやったりもした。ついでに言うなら民生ネタで長文の論文を何度も書いた。
それらの思い込みと実積を総動員して、最終的には力の抜けたシンプルな民生を表現できたらいいな。



バンド名はメンバーに全く相談せずに俺が決めた「ヤッチモニャー」。メンバーはここで初めて知ることになるバンド名だが、これは広島の備後地区の方言で「無意味なこと」「やらんでもいいこと」の意。
ちょっとチャットモンチーっぽい語感だなと思ってつけたんだけど、ユニコーンのイベントタイトル(だったか?)の「チョットオンチー」には到底かなわないな。


詳細は追って知らせるので、よかったら予定をあけといてね~。
2011年05月11日02:53
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さっきというか昨夜の弾き語り、ハードフォークとも言えるような激しくて速いリズムの曲をやるので、やる前はまるで出産を待つ父親のように落ち着かなかったが、もうひとつ、久々に「10年」という曲をやるというので緊張していた。


この曲はワイセッツの頃に作った歌で、音源を聴くとあのバンドでしか表現出来ないようないいアレンジといい演奏をしているが、曲そのものは実に個人的な「実感」のみで出来上がってるので、バンドの時は殆んどライブでやらなかった。というか「やろう」という俺の提案はことごとく却下された不運な曲だ。


なので一人で弾き語りだったら供養のつもりでガンガンやってやろうと思っていたが、いざ一人になるとそれはそれで難しい曲だということに気付いた。


なんせ曲が長いからエネルギーを使うし、そのくせコードは4つだけのいわゆる循環コードのみだし、歌詞は個人的過ぎてとても多くの人に共有されるとは思えないようなもんだし、要するに逃げ場がないというか言い訳が出来ない「ズル剥け」な曲なので、ちょっと心の準備がいるっつうか、あんまり頻繁にやる気にはなれない。


けど、たまに、無性にあの曲を歌いたくなる。人が好きになってくれようがくれまいが構わず、じっくりと自分はこんな奴だということを誰かに伝えたい時にはあの曲をやりたくなる。
そんな曲が一曲でも作れて良かった。簡単なコード、シンプルなメロディー、素直な言葉で良いと言えるような曲を作るのって俺にゃ最も難しいことだ。


あと今回はイベントタイトルは「星空メロディー」というもんだったので、うる星やつらのエンディングテーマだった「星空サイクリング」をカバーした。原曲はキュートなテクノポップだけど俺がそれをやってもしょうがないので、セカンドライン、というか宴会ビートでアーシーに、皆さんのお手を拝借しながらやった。でもあの曲ってあがた森魚が歌ってたのね。あのヘタウマな歌が妙にひっかかってたんだけど成る程ね。


その他「くじら」とか「ラ王のテーマ」とかいったネタ的な曲も勢いでやってしまった。でもネタっぽい曲こそ俺の本気と本心が詰まってるんだよな。


終わったあとは例によって焼酎。我が口角が弛むのを押さえ切れないような綺麗ドコロに囲まれて幸せでした。ありがとう。
にもかかわらず下らねぇ話ばっかしてる俺というのはやっぱ大馬鹿野郎だな。



でもまたそんな馬鹿な酒が呑みたいな。
2011年05月08日10:11
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遅ればせながら録画しておいた「佐野元春ソングライター/山口隆(サンボマスター)編」を観た。


あまりにも面白く、素晴らしすぎて朝っぱらから号泣してしまった。



特に面白かったのが、聴講生である学生が作った詩を、何センテンスか佐野元春と山口隆がセレクトして、その出来上がった歌詞を元に学生の前でサンボマスターが作曲してアレンジしてライブするというワークショップの時間。サンボじゃなきゃ出来ないような思いきったことを企画したもんだと思うが、あれノーカットで全部観たいなぁ。相当割愛されてたから。


で、めちゃくちゃへヴィーでテンションが高くて感動的な曲が出来上がった。



もう見たくないよ もううんざりさ
きみとハミングできるまで
ふるえる魂でうたわせて

祈りのために 目を閉じた

僕たちは歌うんだよ
僕たちは泣くんだよ
僕たちは食べるんだよ
僕たちは生きていくんぜ



綺麗事じゃなく、その場にいる人間全員で産んだ名曲と言えるだろう。
全員が今の震災後の日本の状況を考え、全員が何らかの形を残そうという意志が、佐野元春とサンボマスターというフィルターを通って「音楽」として「ロック」として空気に放たれた。



曲の最後のリフレイン「僕らの世界をどうするの?」の部分でテンションが上がった山口君が、佐野さんに向かってかなり乱暴な感じで「こっち来て歌えよ」的な手招きをして、いてもたってもたまらなくなった佐野さんも一緒にリフレインを歌った。
恐らく予定にはなかったであろうが、誰もが予想した通りサンボと佐野のコラボが実現。凄く感動的な瞬間だった。



で、また最高なのがこの件に関する落とし前を、最後の質問コーナーで山口君がきっちりやってるとこだ。
学生が山口君に、


「自分の行動が嘘くさいと感じるような時はありますか?自分の本心から出来る行動はどういうときに出来ますか?」


と質問すると山口は


「まずそういう事を考えてる時点で君は立派だから心配すんな(笑)ってことと、まあ「本心」てのは初期衝動しかないよな。で、理想は衝動でやったあとに修正するってのかな。例えばさっき俺、佐野さんのこうやって(こっち来いよ)やったじゃん?それダメじゃんそんなことしちゃ、レジェンドにさぁ。でも俺、初期衝動でやっちゃうんだよ。で、後であやまるっていうね(笑)」



これ本日の最高の答え。佐野さんも笑いながら嬉しそうに聞いてた。



山口隆という人は最高に愛嬌のある人で、大瀧詠一さんと対談しても「あなた、歌を歌いなさいよ、歌を」とか乱暴な事をポンポン言うけど、憎めない。というか笑えるんだよなぁ。さすが談志とたけしのイズムを受け継ぐ山口。どんだけポンポン乱暴に言っても笑えるし優しい。ロックじゃないか。



質問コーナーの最後に佐野さんが



「じゃあ僕の方から皆さんに質問。山口さんのどんなところが好きですか?」



こういう質問が出ると言うこと自体が、佐野さんの本心を何よりも語っている。



この「ソングライター」シリーズは非常に非常に有意義なコンテンツで、是非是非ソフト化してほしい。矢野顕子さんの回なんか素晴らしすぎたもんなぁ。



でも今回のサンボの回というか山口君の回は熱かった。これほどグッときた回は無い。
マイナス思考の女の子が「サンボの音楽が自分を引き上げてくれる」と泣きながら山口君に言ったとき



「君、名前はなんてぇの?あゆみちゃん?あゆみちゃんが悪いわけじゃないんだよねぇ。世の中があゆみちゃんを闇に引きずり込むようにグルグル回ってんだよねぇ。だから俺、ロックで出来ることなんかは分かんないけど、日本中の闇を食い尽くしてやろうかと思ってんだよ、爆音で」



クルね。相変わらずこの男は。



サンボマスターの音楽を聴くといつも血沸き肉踊るけど、山口隆のアジな発言の力強さと優しさを感じるにつけ、ロックにとっては音楽的な才能よりももっと大事なものはアジテーションだ、と言うことを思い出させてくれる。
ジョン・レノンやボブ・ディランや忌野清志郎がそうだったように。
2011年05月06日21:14
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昨夜はご近所さんの宴に参加した。


どちらかというとどこにでも顔を出すタイプでは無いのだけど、あんまり独居老人のような乾いた生活をしてると孤独死しそうなので、克己心を出してお邪魔させてもらった。
新参モノなのに皆さん優しく接してくれたので、図々しくも長居させてもらった。



餃子にカツオのタタキに肉じゃがにタコライスにetc...御馳走様でした。
どれもこれも大変美味しゅうございまして、おかげさまで俺の酒のペースがおもいのほか上がっちまいやがって、あんまり人様の居るところで押してはいけない自らのブーストスイッチを押してしまい、後半は何があったか覚えてない状態へ。
水谷豊言うところのZONEに突入してしまった。いや、そこまで大袈裟じゃねぇか。



いいトシこいて自分の酒量をわきまえずグビグビいってホンマ情けないけど、とにかく楽しかったんでしょうなぁ。色んな人と話して酒呑んで笑って笑われて。これで歌でも歌えばテンションフルマックスへ。


あ、近々それが揃う日、ZONEに突入しそうな予感(願望)がするエベントがあるぢゃないか!!白々しいねどうも。



5月10日(火)、いつもの真昼の月 夜の太陽にて弾き語りライブがありんす。あちきがやりんす。花魁口調が好きでおわす。
昨夜の宴でも一緒だったatsukoさんが胎盤です。つうかナニゲに彼女とは胎盤が多いんだよね。



前回はまったりしんみりし過ぎたんで今回は自分のデフォルトパターン、ハードフォークからファンクバラッドまで、少々テキトーな形容詞なので分かりにくいでしょうが...とにかくバラエティー豊かにやりんす。
エベントタイトルが「星空のメロディー」という俺のためにあるようなタイトルなので、それにちなんだカバーもやろうかなと考えてます。


連休明けの平日というかなり香ばしい夜のライブだけど、是非とも遊びに来て酒呑んで景気復興に荷担しようぜ。
ワタシの出番は20時20分くらいですが、その前から陽気になってる(よてい)なので、いい感じでおいでませ。

2011年05月04日00:45
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最近発刊された斎藤明美著「高峰秀子との仕事」一巻二巻を読んだ。


俺はある時期から高峰秀子さんという人に対し、往年の大女優や銀幕の大スタアとしての高峰秀子よりも、人生の達人、唯一無二の稀人、清廉な生き方を貫くイカしたバアサンとしての高峰秀子さん、の方に興味が移っていった。



と言うのも、高峰秀子さんは自分が望んで女優になったわけではなく、女優という職業を生涯好きになれなかった人で、しかし自分を取り巻く有象無象を養うために女優を止めることが出来なかったのだ。
なので、それがどうしても避けられない運命ならば、「プロ」に徹して仕事として完璧にこなそう、女優というものを「生き様」ではなく「商売」として割りきろう、という決意を10代になる前から決断、というか「諦めて開き直った」人なのだ。


だから映画の中にいる高峰秀子さんは非常に優秀な仕事人であって、それはそれでとっても素敵だが、本当の秀子さんの実体というか本心は映画の中にはない。
まあだからこそ「自我」や「生き様」などといった余分なものが介在しない純粋な演技力、しかし自らの不幸と不合理が静かに内包されたオーラが滲み出る銀幕の中の高峰秀子さんは本当に輝いているし、単なる人気女優、単なるアイドルにはない異質な暗さと深さが感じられるのだ。
大衆の巨大な欲求を引き受けざるを得ない人というのは、必ず巨大な不幸と暗黒を抱えている。


で、そんな不幸な人生を生きる為の術、女優業を廃業し、公に出ることも執筆活動も全て止め、本当に彼女が自分自身の人生を、自分の意思で全う出来るようになったのはここ十年くらいのことなのだ。
6歳から子役として働かされてから70年以上経ってやっと手に入れた自分の人生。


なので近年、高峰秀子の養女になり、晩年の彼女の最も近くにいた斎藤明美さんの著作は、そんな俺の興味、全ての表現活動を止めて自分の人生に充足している今の高峰秀子さんがどんな心境なのか、という興味を充分に満足させてくれる嬉しいものだった。まあこんなファンが山ほどいるからいつまでたっても秀子さんは穏やかに生きられなかったのだが......。




斎藤明美さんによる高峰さんに関する本はこれまでにも何冊か出されているが、今回の著作はそれが書かれている間に高峰さんが亡くなられるという、斉藤さんにとっては身を引き裂かれるような出来事があっただけに、読む前は少し気が重かった。


しかしそれは杞憂だった。もとより高峰さんはかなり早いうちから人生の後始末をしてきた人で、ましてや80歳を前にして随筆家としての筆を折ってからは、今世に未練を残さないようにそれまで以上に殆んど人と会わず表に出ず、ただ旦那さんとの生活と読書三昧で晩年を過ごした。


だからファンであるこちらには寂しさとか哀しさはあるが、高峰さん自身は幸せに、清廉なままあの世に逝ったんだなぁと伺えたので、それはそれで楽になった。


つくづく斎藤明美さんという、高峰秀子に心酔し、時に恐れおののき、尊敬し、そして珍しく甘えることを許された人物が高峰さんの晩年の人生に表れたという幸福に、ファンは感謝しなければならない。


死ぬまで「ワタシを観て!」な往年の大スタア、人生一女優な人とはまさに真逆で、自分の過去の偉業なんか「全く興味がない!」と平然と言い切る高峰さんのこと、斉藤さんのような人が居なければかつての映画黄金時代の思い出話や、傑人奇人揃いの彼女の交友録、そしてここ十年の高峰さん自身の動向なぞは漏れ伝わって来ることは無かったろう。


この二冊の本、とにかく面白すぎてあっという間に読んでしまったが、読んでいる間中ずっと心が洗われるような心地よさがあった。



それは高峰さんが人生訓めいた事を連発してるわけでも、いかにも高潔な生き方を誇示し、こちらに自省を促してるわけではないからだ。


とにかく残酷なまでにあっさりザックリと要るもの要らないものを取捨選択し、結局殆んどのものを捨て去り、過去に執着せず、しかし愛情は持ち、かといってベタベタするわけではない、絶妙な塩梅のさじ加減。
とにかく人間はこうありたいというべき生き方を、これみよがしではなく、ごくごく自然に、しかし自分の意思で貫いている。



中でも心が洗われた部分を引用するが、「自分にとって何人かいる尊敬できる人、大切な人っていうのは言わば救急車みたいなもの。そう簡単にしょっちゅう呼ぶものではないけれど、存在してくれているだけで、生きていてくれるだけで安心できる存在」「だから電話して最近どぉ?なんてこと聞くことは、その人の人生の貴重な時間を奪うこと。人の時間を奪うことは罪悪です」



普通の優しい人というのは大事に思ってる人に対しては、たまに声を聞いたり優しい言葉をかけたりして愛情なりなんなりを確認して関係を続けるもんだが、高峰さんは自分の心のなかで大事な人の健在をふっと思うだけで充分なのだ。たまにどこかで偶然合ったり向こうの方から会う機会を持ってくれたりしたら、愛情や敬意を持って接する。それだけ。自分から近づいて行って自己満足に等しい安心を得ることを良しとしない。



これは中々出来るもんではない。これをなんとも「ざんない」と感じるか、清廉と思うかは人それぞれだけど、少なくとも人と接する時ってのはその人の貴重な時間を奪ってるということは自覚しなければと思わされる。



そんな高峰さんの性質は数々の著作から感じていたので、かつてファンレターを書いて送ったときも「果してファンレターなんて厚かましいものを出していいものだろうか」と相当悩んだが、未熟者の若僧という立場に甘えさせてもらって、思いのたけを綴ったフミを出したこともあるワタシの二十代。
頂いた返事は後生大事に持っております。



他にもたくさんたくさん心が洗われるようなエピソード、笑えるくらいあっさりとした人生観が記述されていて本当に読んでいて嬉しくなる本だ。
まあとてもじゃないが高峰さんのような美しい生き方なぞ出来ないヨゴレな俺だが、多少なりともマシな生き方をするためのヒントを沢山貰える指南本として繰り返し読みたくなる。



高峰秀子さんのファンになって本当によかった。
そしてそんな人がもうこの世にいないというのがとても淋しい。


わざわざ「ファンです、ご焼香を!」なんて押し掛ける気は更々無いが、家の近くを通り掛かると思わず手を合わせてしまう。
2011年05月01日03:12
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連休でもどこにも行かずなんも変わらぬ生活をしてますが、連休あけたらちょっと動きます。


弾き語りライブやるよ。前回はちょっとまったりし過ぎたので、今回はリズミックなもんも混ぜつつ、ゆったり酒が進むようないい感じで君に迫るよ。
場所はいつもの東新宿、真昼の月 夜の太陽。



5月10日(火) 「星空のメロディー」
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)

俺は8時20分くらいから唄います。是非遊びに来て下さいな。
そてにしてもイベントタイトル「星空のメロディー」......加山雄三でも歌おうかな。そんな感じの曲あったような無かったような。

LIVE HOUSE 「真昼の月 夜の太陽」
〒169-0072
東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビル地下1階
TEL&FAX 03-6380-3260
HP http://mahiru-yoru.com/
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