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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2013年02月

2013年02月21日01:13
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放送作家の鈴木おさむ氏による「芸人交換日記」が内村光良監督によって映画化されるということで文庫化され、またこの話題に悪乗っかりしてTwitterを炎上させたクソ芸人もいるなど何かと盛り上がっている。



オードリーの若林がこの芸人交換日記の舞台版に出演したということもあって、オードリーのオールナイトニッポンでも話題に上がっていたし、原作の連載もとであるクイックジャパンでも盛り上がっていたので、かなり前から気になっていたし常に読まなきゃ観なきゃと思っていたのだけど、どういうわけかタイミングを逸していた。



で、ここ最近で一気に原作を読み、舞台のDVDを観た。
その両方ともで嗚咽といえるくらい泣いて泣いて、目から鼻から体液を流しまくった。感動したとかいう安直な言葉で形容したくないてくらい、心がのたうちまわった。



ちゃんとした離別、解散などを体験したことのある人間は必ず大きく心を動かされる作品だと思う。本当にグッと熱い思いが込み上げまくって吐き出してしまう作品だと思う。



「これ泣けるよ〜」という言い方で自分がいいと思う作品を紹介するのは好きではない。好きではないけどこれは何をどう抗っても泣いてしまうよ。この本、電車とかで読んだら本当にヤヴァイことになる。人目をはばからず泣いてしまってへんな目で見られる。


特に舞台における田中圭、若林正恭両人の演技を越えたような魂の芝居、いやあれは若林にとっては芝居じゃなく若林のドキュメントじゃないかと思えるくらい何かが憑いていた。



文庫本の方のあとがきで若林が書いてるんだが、演者が揃っての初めて本読みの時、若林が号泣して稽古が止まってしまったという。共演者もあまりの泣きっぷりに驚いたようだ。若林にとっては他人事ではなかったんだろう。なにせあまりにも売れないもんだから、車に轢かれでもすれば新聞に出られるだろうということで道路に寝転んでたという逸話がある人だ。



本当に泣ける脚本であれば芝居初心者だろうがなんだろうが泣けるのだ。昔、黒澤明監督がインタビューで役者が泣かないときはどうやって演出するんですか?という質問に「脚本をね、本当にしっかりとしっかりと作ってればね、泣くとこはおのずと泣けるし、怒るとこは本当に怒れるんだよ」と返していた。さすが巨匠としか言いようがない。確かに今ドラマ観てても単なる泣き芝居をしてるだけで、涙も出てなきゃ身体も震えてないってのがたくさんある。役者の力量の問題ではなく、脚本、演出、製作システム全てが問題だからだろう。順撮りじゃなくバラ撮りでぶつ切りぶつ切りでやらざるを得ない現場じゃあそら役者だって魂じゃなく技術で泣かなきゃしょうがないもんな。



芝居初心者の若林の演技は本当に、本当に素晴らしかった。芸人仲間からは「あれは演技じゃなくて若林まんまじゃねーか」と突っ込まれたらしいが、だからこそ伝わるのだ。若林をキャスティングした鈴木おさむの慧眼はどんだけ讃えても讃えきれない。



俺、芸人の別れ話ってグッとくるんよねぇ。俺のツボだ。バンドの解散だってドロドロしてて心と心の削りあいだったりするけど、でもそれってどっかで音楽に還元できるっていうナルシスティックな甘さがあるように思える。映画だってなんだってそういった側面はあるだろう。もちろんそれっていいことなんだが。けれどお笑いはそうはいかない。当然辛さ哀しさが芸の深みにはなるけど、ネタに直接反映させることは中々出来ない。魂と魂のぶつかりをそのまんまネタにしたって笑えない。それを歯を食いしばって乗り越えて、しういった経験を俯瞰して見られるようになって初めて笑えるネタになる。だからお笑いってとても、とっても切ない。ピエロのメイクが泣き顔であるのはそういうことだろう。。



昔ビートたけしがテレビでツービートが解散するときの話をしていて、お互いがもうこれ以上続けて行くのは無理って分かってたので、最後の漫才の舞台に上がる前、意を決して二人だけで楽屋に籠ってボロボロ泣きながらビールを酌み交わし「俺もひでぇこと散々言ったけどよぅ、売れるために必死だったんだよ、悪かったなぁ」とか言い合いながらベロベロに酔っぱらったらしい。それを語るときのたけしも珍しく声を震わせていたし、見ている俺はもう大号泣だよ。やっぱツボなんだな。ある意味男女の別れより男同士の離別の方が込み上げてくるものが大きいかもしれない。ホモじゃないよ。それにしてもそれほどベロベロになって泣きまくった挙げ句の最後の漫才ってどんなんだったんだろう?芸人交換日記でも泣きまくって泣きまくったあげく最期に天国で漫才をするってことで本当に若林と田中圭が漫才をするのだが、とてもいい漫才だった。さすがにこちらも大泣きしたあとだから身体が付いていかないところもあったけど、でも声をあげて笑ってしまうとこもあった。若林は芝居は素人だけどこの漫才のとこだけは自分の本分だから絶対にスベる訳にはいかないということで猛練習したらしい。いい話だ。漫才師若林の矜持だ。





さてそれに比べてといっちゃ若林に失礼だけど、最近キングコングの西野がツイッターで「芸人交換日記なんてちっとも面白くないし、それに都合よく乗っかる芸人ももっとつまらないですね」という本当に意味のわからないツイートをしていて、それに対して鈴木は「僕の作品が悪く言われるのは構わないけど、都合よく乗っかる芸人て誰のことを言ってるんですかね?正直悲しいです」と返していた。すぐに西野は謝罪したらしいけど鈴木の嫁である森三中の大島はテレビでブチキレて「西野以外は観に来てください」とちゃっかり映画の宣伝をしていた笑ってしまったが、にしてもこの西野絡みのニュースを読んだときはやっぱり腹がたった。



元々個人的にはキングコングは大嫌いなコンビだった。漫才は達者は達者なんだろうけど、やたら五月蝿いしスピードだけで乗りきるようながさつな漫才だと思ってた。まあなにより笑えない。正に有吉のいう通り「元気な大学生」レベルの笑いだと思った。
でもそういった好みはともかく、西野だって相方の精神がプッツンいったり、賞レースでなんとか優勝しようと死に物狂いで漫才に取り組んできた芸人のはず。だのに芸人交換日記がつまらんって、もし自身の作った絵本の宣伝のために炎上商法的に利用したんだったらクズだし、本当につまらないと思ってるんだったらもう芸人やめちまえ!!!って本当に思う。



これまたソースはオールナイトニッポンなんだが、関西の番組で若林は西野と酒を飲みながらただひたすら喋りあうという番組をやったことがあるらしく、かなり盛り上がったようだ。若林は漫才コンビとしての苦労話などで西野と共通の思いがあったと嬉々として語っていた。正に西野が言うところの芸人交換日記に都合よく乗っかった芸人の一人である若林と、最近また様々な芸人のパターンで舞台で再演されている芸人交換日記に都合よく乗っかれなかった西野が。
要するにひがみか?西野というかキングコングの漫才ってテクニックのみで人となりが全く感じられない漫才ロボットコンビって感じ。人となり全開のオードリーの漫才と比較すりゃ明らか。どう考えたって西野が鈴木おさむのアンテナに引っ掛かるわけがない。最近跳ねるのとびらも終わったしそれ以外テレビでは見ることないし焦ってたのかね?で、大御所に噛みつけばなんかきっかけになるかなとか思ってやってみたはいいけど結局失敗したってパターン?そこら辺のセンスは本当に無い人なんだね。



まあそんなことはいいや。とにかく芸人交換日記は素晴らしい。長い間タイミングを逸してきたけど、今この時期に観て良かった。色々動き出す契機になるインプットを摂取してるけど、これは決定的だ。



あ、まさに今放送が始まったTBSラジオ水曜JUNK山里亮太の不毛な議論に西野がゲストで出るのだ(笑)。若林とはこの騒ぎをネタにニヤニヤしながら酒を飲んだらしい山ちゃん(笑)。今夜はどんな話をするんでしょうね。同期ながら西野と自分を星とゴキブリと表現する山ちゃん。妬み嫉みが笑いの源泉になってる山ちゃん。ああ楽しみだ、楽しみだ。若林もゲストに来てくんねぇかな。なんだかんだ言って俺もこの騒ぎに乗って楽しんでんなぁ。
2013年02月20日00:26
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鬼の右腕のレコ発ライブに行ってきた。物凄くいいライブだった。


一年半くらい前にこのバンドと対バンして以来大好きになって、折に触れてライブに通ってきたけど、あんまりお客さんが居なかった最初の頃からこのバンドは絶対に多くのお客さんの気持ちをつかむはずだと思ってた。こういうちょっとマニアックで実験的な音楽性を持ったバンドにありがちな排他的なスノッビズムが音楽からは感じられ無かったし、ハイテクではない人懐っこいグルーヴがあったから、自然と身体が動くだろうし、なんか送り手と受け手という関係性がハッキリした「ショウ」じゃあなく、バンドとお客が互いにエネルギー交換をしあうような「ライブ」が出来るバンドだと思った。



で、今夜のライヴはまさにそんなライブだった。大勢のお客さんが集まり思い思いに身体を揺らし、声援を贈っていた。ある曲が終わった瞬間、グラスを落としてガシャーンいわせた客がいて、そのあまりにも良すぎるタイミングに仕込みかと思ったわ。それはともかく声援が飛んでくるたびメンバーの表情はちょっと照れたようだったけど、堂々と誇らしげに自分達の音楽を響かせていて良い顔をしていた。このバンドの後見人でもマネージャーでも何でもないけど、音に任せて身体を揺らしながら一人とっても感慨深くなってた。



この鬼の右腕の何が良いって、常に音楽的に変化、進化していること。見るたんびに新曲が増えているし、既存の曲もアレンジがどんどん変わっていく。
同じアレンジを貫いて楽曲を深化させるのも良いけど、現状に満足せず衝動の赴くままに変形させていって進化へと至る方が若いバンドらしくて好きだ。自分もこうありたいもんだつくづく思う。定番の曲ばっかやってるとお客さんも「お馴染みのあれが来た〜やった〜」ばっかりになって緊張感が無くなる。「次はなんだ?この先どうなる?」というある種のストレスとワクワクが無かったら馴れ合いのライブ空間になる。これ、言うのは簡単だけど中々出来ることではない。鬼の右腕はこれをナチュラルにか、四苦八苦しながらかは分からないけど実現できてる。凄いことだと思う。



今夜観たライブで驚いたのは今までの鬼の右腕ではあんまり目立たなかったロック的な要素、歪んだギターやハードなドラムフィルとビートがあったこと。あとヴォーカルうてなさんの歌唱力とドープ具合がよりヤヴァイことになってたし、ベースの音圧と存在感が今までと全然違ったし、とにかく全員がプレイヤーとして進化してた。別に上から目線でも何様でもないけど、こういう進化ってグッとくるんだわ。若いっていいなぁ。



あともうひとついいところは、変化する音楽性とは反対に、相変わらずステージにおける朴突とした佇まいの変わらなさ。ライブを重ねてるとそこら辺が擦れっ枯らしになってお約束のショウっぽくなってくることがあるけど、彼女らはある意味で不器用で飾り気がないまんま。別に昨今のアイドルのようなカマトトぶったそれではなくて、音楽至上主義であるがゆえの当然の所作って感じで好感が持てる。でも肩叩き券を配ったりCD購入者にはうなぎパイが付いてきたりと、いい意味での学芸会イズムが健在なのも嬉しい。


途中突然メンバー全員が笛を持って四重奏していて凄くいいチェンジ・オブ・ペースになってた。うてなさんは「ここ笑うとこですよ」って言ってたけど、笛が音色が重なって生まれる倍音が凄く気持ちいい周波数が出していて、皆マジで聴き入ってたんだよ。



今、購入したCDを聴きながらこれを書いてるんだけど、凄く良い音源だ。
最初に見た頃からライブも素晴らしいけど、これはヘッドフォンでも聴きたくなる音楽だと思って音源制作を懇願してたくらいだから、個人的には正に「待望の」ってやつだ。



凄く聴きやすくて何度もリピートしている。ミニマルでエクスペメンタル(ハハッ)な音楽なのに凄くキャッチー。グルーヴがキュートだからだろうな。あと何語で歌ってるのかは分からんけど声が凄くキレイでドープ。ライブだともっとサイケでトんじゃうんだ。
とにかくまあプログレ好きが抱くこっ恥ずかしさも、民族音楽しか聴けませんってな「ぶってる」感も呑み込んで踊らせてしまうような抜けのいいグルーヴがある。




最近はずーとインプットする一方で、創作はしてるも外に向けてアウトプットしてなかった。けど、今夜のライブに大いに触発された。アクチブに行こう。
2013年02月16日07:41
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「こんなことにこだわったって別に誰もわかっちゃくれない」


「こんなこと、有史以来の人類の歩みからしたらとるに足らない」


「こんなことしたところで世界は変わらない」


といった風にマクロな視点で物事を考えるというのはついやってしまいがちだけど、あんまりそこにハマり過ぎるとろくなことにならない。
その穴にはまりこんだらとたんに虚しくなって無気力になるか、あるいは焦燥感にかられてテロや無差別殺人をやりだす輩も現れるかもしれない。オウムってそういうやつらの集まりだったわけでしょ。



テロルを恐れる支配層はそうならないためのガス抜きとして大衆に「努力は必ず報われる」とか「願い続ければ夢はきっと叶う」といった麻薬的な思想を与えて、群衆の狂気をなだめている。



去年だか一昨年のAKBの総選挙で高橋みなみがまるで女子プロレスラーのマイクパフォーマンスのようなトーンで「努力は必ず報われるとー」と高らかに宣言していたが、そのVTRを観てニヤニヤが止まらない有吉なんかは早速ネタにしてラジオコーナーを作ってたりした。



恐らく有吉のような諦観と怒りで出来たタイプの芸人は、本能的にああいった麻薬性はあるが実態はまるでない空虚なアジテーションによって世の中の価値観が一元化されてしまうその窮屈さを嫌う。だから冷笑的にネタにすることによってバランスをとったんだろう。
歴代の世の中の虚を衝くタイプのお笑い芸人はビートたけしにしても松本人志にしても太田光にしても、必ずもっともらしい正義に対しては毒ずいて笑いにしてきた。晩年の談志だったらば笑いに転化するのもバカらしいとボヤいただろう。それくらい絶望していた。



別に努力することがカッコ悪い訳ではないし、夢を持つことが恥ずかしいとも思わない。とってもいいことだし美しいと思う。そうありたいとも思う。
ただ、それを唯一の正義と信じて疑わず、人に押し付けようとする行為がカッコ悪いし恥ずかしいのだ。そこらへんを全く疑わず、堂々と押し付けてくる表現者が山のようにいる。


こないだ問題になった女子柔道のパワハラや暴力の横行も根本は同じ。体育会系の縦社会のシステムによって延々と信じ続けさせられた根性主義、そんな非合理的な思想を全ての選手に押し付けることによって良しとする前時代的な管理体勢、それを世界のスポーツの情勢に照らし合わせてみる客観性の欠如、それらの無反省さが今回の訴えによって顕在化したわけだ。気合いでオリンピックで優勝出来りゃ世話ねぇよ。




話が逸れた。本題に戻す。去年自分が作った曲で「夢みたい(な)もんだ」というのがあるんだけど、そのなかに


夢見ないと何にも出来ないなんて

押し付けられるのはうんざりなんだよ


という一節があって、歌うときに一番感情が乗っかる部分なんだけど、とにかく「夢を持つ」ことの素晴らしさを謳うことが世の中に一方的に溢れすぎていることに対しての、自分の素直な気持ちだ。



とかく日本人は熱しやすい国民のせいか、一つの価値観を盲信してしまうと、それ以外の多様な価値観の存在を認めようとしなくなる。



当然自戒の念も込めて言うんだけど、自分が信じている考えを一度俯瞰で観てみるということが中々に苦手な国民だ。いや、それは日本人に限ったことではなく全ての人間の性(さが)だろう。


疑うことよりも信じる方が楽なのだ。酒でも呑んで自分の考えを滔々と語り、誰かを否定してる方が楽だし気持ちがいい。あんなんロックじゃねぇ、とか言ってる方が楽だ。そんな考えは認めないといってる方が楽だ。そういった自分の宗教を否定されれば、時として人間は平気で戦争を起こして人を殺す。ファシストはそこの弱味につけこんで大衆を操り戦場へ人を送り込む。やたらとナショナリズムを喚起する政治家が殖えていくのは危険な兆候だ。ナショナリズムとはもっとも強大な宗教だから。



「夢を見よう」「明日に向かって頑張ろう」というメッセージと同じくらい「叶わない夢だってある」「頑張ったってどうにもならないことはある」というメッセージも発せられるべきだと思う。
一歩方向の考えだけが正しいなんてあり得ない。光あれば影ができる。夢や希望もあれば現実や絶望だってある。陰と陽で世の中成り立っている。その中間のグレイだって様々なグラデーションを持って存在している。美しいものと同じくらい醜悪なものもある。そのどちらでもないものだっていっぱいある。



最近はことあるごとに新しい曲の歌詞の研磨バリ取りをしているんだけど、あまり一方方向の考えに凝り固まらず、自分のなかの矛盾を恐れないで、曲にあわせて好き勝手に放言していきたい、そうありたいと思いつつやってる。自分を疑い、自分を俯瞰で見て笑ってやる。冒頭に書いたような宇宙的なまでにマクロな視点を持ったら途方にくれるだけだが、せめてテメェのつむじくらいは見られるくらいには視座を高めてみよう。



肉食動物のように前方方向にしか視野を持てなかった十代や二十代の頃の、思い込みと初期衝動に任せたような作品作りはもう出来ないし、無理にそこにしがみつくもんでもない。それが出来る人はやりつづければいいけど、出来ないのに初期衝動を延命させようともがくことは「夢を見なければいけない」という考えに固執することとさも似たり。今の自分に生理に逆らわず物事を考えてみよう。



RCサクセションの1stアルバムに「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」という曲と「この世は金さ」という曲が並んで収められている。忌野清志郎18歳の時の作品。さすがだよな。
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高瀬大介

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