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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2009年11月

2009年11月30日14:44
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こないだの弾き語りライブに来てくれた方々、どうもありがとう。


全く初めてやる新曲とか、「四季のうた」なんて昔に作った曲なんかも交えてじんわりと弾き語った。昔の曲もそれはそれでいいもんだ。
日吉NAPでは来年の1月22日にもまたやることになった。おそらく新しい曲がもっと増えていると思われます。ぜひぜひ遊びに来てやってください。金曜日だしね。



昨日はたけやんと一緒に「ルーツ・ストラッティン」というファンキーなユニットでのリハーサルがあった。



元ジューク・ジョイント・ジャイヴ・バンドのおいちゃんと太郎君が始めたユニットなんだけれど、プラスティック・オノ・バンドのように一度セッションに加わったらもうメンバーになれるという、いい具合に緩いユニットだ。そんな彼らに混じってギターを弾くんだけど、自分が歌わないリハーサルってなんて楽しいんだろう(笑)。ひたすらギターを弾きまくる楽しさ!単なる一介のギター弾きの実感、久しく味わってなかったな。



こんなこと言うと歌が嫌いなのか?と思われるけど、責任感の重さが違うんでございます。
自分で歌うバンドだと、自分の歌の他にもアレンジやバランスやミストーンなどいろんなことが気になって、ひとつのことに集中できないきらいが無きにしも非ず。困った性分だ。



とにかく久々に開放感バリバリのブルースギターを弾きまくれるぞ。気分はバディ・ガイ(笑)。
12月11日に下北にあるバーでライブをやるんだけれど、お近くにお住まいのそこのアナタ!ぜひぜひ遊びに、呑みにきておくれやす。
2009年11月26日23:33
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サンボマスターの新曲「ラブソング」がとてもいい。


http://www.youtube.com/watch?v=xNWlzRTr62s


変化球なし。普遍的でストレートなラブソング。いつもの絶叫も、激しいギターサウンドも、ソウル魂バリバリのフェイクもなし。いいメロディーと素敵な歌詞を素直に、素直にやってるだけ。
少し物足りないという気もしなくもないけれど、何度も何度も聴き込むことのできる実にいい具合の温度設定。意外とこういう曲はサンボマスターにはなかった気がする。いや〜いい曲だ。PVもなんだかこみ上げてくるもんがある。20歳の頃を思い出した。



「ラブソング」。誰もかれもラブソングをつくりたがる。誰も頼みもしないのに多くのラブソングが作られ消えていく。御多分に漏れず俺もラブソングといえるようなものをいくつも作っている。



なんでポップスやロックの曲のテーマはラブソングが殆どなのだろう。とあえて問うまでもなくラブソングというのは「切なさ」が多分に含まれるから、それが人の心を打つ。前回の日記と同じ内容になってきたな。



あんまり切なくないラブソング、幸せ幸せみんなもハッピーになりましょね的なラブソングもあるんだろうけど、どちらかというと、より思いを共有できるのは、人の幸せよりも人の悲しみや切なさだろう。ラブソングの名曲の多くは悲しくて切ない。



今まで心を打たれたラブソングは数多いけれど、そうした曲には必ず必殺のフレーズがある。
例えば清志朗の初期の作品である「僕とあの娘」、



汚れた心しかあげられないとあの娘は泣いていた

きれいじゃないか



こんなフレーズを思いついたらさぁこれにどんなメロディーをつけようかと腕が鳴るしあるいは途方に暮れる。



イエロー・モンキーの「球根」にも必殺のフレーズがあったな。


身体で身体を強く結びました

夜の叫び 生命のスタッカート

土の中で待て 命の球根よ

哀しいだけ根を増やせ



そんな必殺フレーズを求めて自分の内面をほじくってみる。自分の内面をえぐらないとなんだか嘘をついてるようで心苦しい。人とちゃんと繋がりたいからつい内面を曝け出そうとする。それで拒否反応を起こされるときもあるけれど、それをうまくコントロール出来るほど大人になれていない。だから作る歌は全てぎこちないラブソングになる。



俺個人にとってラブソングは哀しいときにしか作れない。慰みを請うような情けない曲だろうと、哀しみを背にして先を見ようとする曲だろうと、やはり満たされていない時でなければ心に染み入るようなラブソングは作れない。



そんなラブソングの数々を歌う弾き語りライブ。いよいよ今週の土曜日、28日に日吉NAPというところでやります。
時間は6番目の21時25分から。ちょっと深めの時間だけれど土曜日だしね。いい時間をすごしたいのでもしこられそうって方はご一報を。


http://nap01.com/


http://naplive.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=11645929&dte=2009%2D11%2D01+;;;16%3A37%3A00%2E000
2009年11月24日22:20
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という早川義夫さんのアルバムがあったけどすごいタイトルだな。でもあのアルバムは本当に心に染みる。



最近ふとしたきっかけで、昔自分がやっていたラジオ番組「りせっと牡丹」
を実に久しぶりに聴くことがあったのだけれど、相変わらず赤面ものだった。


あらゆる面で未熟、不器用、浅薄、自己が希薄、無愛想、無礼。
これらの要素は決して悪いことばかりではなく、やりようによってはすごく魅力的になる事もあるのだけれど、俺の場合はナチュラルに全てが悪い方へ機能している。



自分の10代や20代なんてのはいくつになっても恥ずかしい。未だに過去は清算されてない。
自分が喋った事や文章にして書いたことなどとてもじゃないがまともな心理状態で読み聞き出来やしない。恐らく40代になったらその恥ずかしいリストに30代の俺も加わるんだろうな。なんでこうまでも昔の自分てのは恥ずかしいものなんだろうか?過去なんて綺麗サッパリ忘れちまえばいいのに、と泣きたくなってくる。



しかし20代の自分が作った「曲」はそれほど恥ずかしくないのが不思議だ。今でも出来る曲はいくつもある。勿論充分に青いし、まごうかたなき未成熟だけれど、音楽になってしまうとそれほど違和感がない。



多分ロックとかポップスって「未成熟」を旨とするような表現スタイルだからなのだろうか。
ちょっとしたことで思い悩んだりする幼児性、腫れた惚れたで一喜一憂する青年性を核に持っていなければ、その音楽に人の心を打つ霊感が宿らないからだろうか。
などと強引に納得しようとしている自分がいるが、多分間違ってはいないと思う。それだけが全てではないだろうけれど...。
この文章、一年後くらいに読んでも既に恥ずかしいものになっているんだろうな(笑)。



まあいいさ。過去にケチをつけるくせに現在の自分を省みない私が御送りする恥っさらしの独り舞台、弾き語りライブを今週の土曜日28日にやります。日吉NAPというところでやります。


http://nap01.com/


http://naplive.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=11645929&dte=2009%2D11%2D01+;16%3A37%3A00%2E000


時間はまたお知らせします。もし来られそうという御方がいたら連絡くださいな。ていうか来て欲しいなぁ。歌と音楽と酒でいい時間を共有したい。
2009年11月23日19:30
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いろいろ批判する人もいるし、理解できないと言う人もいるけれど、自分にとって幾つかの北野武監督作品は「自分の背骨を作った」といってもいいほどの衝撃を与えてくれた。



作品によっては出来不出来もあるけれど、一貫しているのは「照れ」と「品」。
これは感覚的な話なので文章で表現できないけれど、作品と観る側の間にすごく心地のいい距離感があって、そのおかげで自然に作品の中に入り込めるんだけれど、唐突に鋭角な刃物で心の臓を貫かれるような衝撃性を含んでいるのでショックはでかい。でもそれが好きな人間にはたまらないほどの麻薬となる。



特に暴力描写には、世界を探してもこの人にしか表現できないだろうというようなタイム感があって、それは北野武の生理的時間感覚としか説明出来ない独自のものだ。
言い過ぎかもしれないけれど、ここまで独自の時間感覚と生理が作品の核になっている監督は小津安二郎監督くらいしか思い浮かばない。



セリフが少なかったり顔のクローズアップよりも俯瞰の画が多いのは、北野武の人柄を表している。そんな人だから俳優魂がギラギラしたやけに饒舌な演技をする人なんかは鬱陶しいんだろうな。生理的に合わないんだろう。



今北野監督は久々のヤクザ映画を製作中ということで異様に楽しみだ。異様に。



昨日「たけしの日本教育白書」という番組で、たけしが新橋のガード下で戦前から理髪店を営んでいる老婆と対談していたけれど、その人が物凄く「品性」を感じさせる人で、観ていてとても心地いい時間が流れた。
伝法な口調の心地よさ、決してベタベタしない距離のとり方、厳しさの中にある情、凄く気骨のある「日本人」って感じで美しかった。
対談の最後にアナウンサーによる「この店は常連のみの完全予約制です」ってインフォメーションが流れてますます嬉しかった。
こういう番組を見て俺みたいなことを感じる奴がノコノコ出向いてああだこうだ美辞麗句を述べるられるなんてのを最も嫌う人だもんね、この婆さん。そういうことする奴は本当に「下品」。





北野武監督がズバリ語る、嫌いな俳優&好きな俳優
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1029195&media_id=62
2009年11月20日20:54
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昨夜の「雨トーーーク」は「人見知り芸人」というくくりの企画だった。



オードリーの若林の持ち込み企画で、バカリズムや有吉やフットボール岩尾、インパルスの板倉といった俺が好きな芸人が出ていた。



若林をはじめ彼らの言ってる事、ほんと〜〜によく分かる!ゲラゲラ笑ってしまったけれど、同時に異様に納得しながら観てた。



俺はみかけによらず人見知りだ。若林ほど極度ではないけれど、同じようなメンタリティを持っている。なんとか解消しようと意識的になっているからそれほどひどい空気を作り出すことは(あんまり)ないけれど。
まあ親しくなればかなり図々しいのだけれど、そうでない場においては本当に人見知りで場が持たない。



そこへ人見知り克服の講師として出てきたアンタッチャブルの二人!これがこれまた凄まじいハイテンションでその場をかき乱してこれまたゲラゲラ笑ってしまったが、とてもじゃないが参考にならない(笑)。
ライセンスの藤原が「二人はそもそも積んでるエンジンが違う!」と的確に突っ込んでいたが、人見知りが生む不穏な空気を作らないためにはここまでしなきゃならんのか?と本気で考えてしまうくらいこっちは余裕がないんですよ(笑)。



面白かったので人見知り芸人から出たエピソードを。



オードリー若林は楽屋でスポーツ選手2人と一緒になった際、その2人はスポーツの話で盛り上がっている間、1人でささくれを取っているフリをしたり、缶コーヒーの成分表をずっと読んでいた。



楽屋特有の感じが嫌なためフット岩尾はわざと11〜12分という怒られないのギリギリぐらいの遅刻をする。



ノンスタイルの石田は収録終わりにエレベーターで共演者と一緒になりたくないため、トイレに駆け込む。



バカリズムはそういう場合、帰りは非常階段を使ってエレベーターを追い抜くが、不運にもいったん挨拶をした人ともう一度会ってしまうことがありその場合は本当に困ってしまうらしい。



番組の打ち上げでは、バカリズムはマネージャーに架空の仕事を入れてもらって欠席する。単独ライブのVTRロケというウラを取りにくい手法も駆使する(笑)。



若林は打ち上げで近くに喋る人がいない席に座った場合は、1時間ぐらい喋らなかった。そのため口が開かなかったこともあって、やっと喋ったら最初のほうに食ったユッケの卵が乾いていて口がパリパリって鳴った。



有吉は竜平会のような馴染みのある会については問題ないが、番組の打ち上げの場合は酒の力を借りないとだめなため、酒を飲んで中枢神経を馬鹿にする。分かるなぁ。



バカリズムがタクシーの中で若林と笑い飯の哲夫の三人になったとき、哲夫に話しかけられている間なんとか助けを求めようとして若林の方を見たらずっと夜景を見て黙っていた。



U字工事益子は飲み会の席でつまみすら取ることもできないくらい遠慮するので、帰り道1人で叫んで発散する。



若林は病院などで初対面のお医者さんに症状を上手くいえないし、病状を決め付けてくる医者などには否定することもできないので無理やり納得する。



有吉は不動産屋にうまく希望が伝えられなくて、途中でめんどくさくなって適当に部屋を決めて後で後悔した。



板倉は合コンの乾杯の時特有の「イェーイ」なノリが苦手、宮迫もその寒いノリを避けるために乾杯を避けるか、乾杯しても顔を伏せてすぐ飲みだす。



バカリズムは後輩などが女の子を呼んでくれても、初対面の人に会うというストレスより分の欲望が上回った場合にのみ初めて会う。



有吉は風俗に行った際、本当はドMなのにM的な言葉を使ってコミュニケーションが取るのがめんどくさいためにドSのフリをする。



ノンスタイル石田も初めてデリヘルを呼んだ際に、家に来てチャイムがなったらどうしていいか分からなかったため居留守をした。



バカリズムは家から出ないので面白い出来事がなく話のネタに困るので、一念発起して渋谷を歩き回ったが結局夕方まで何も起こらず、唯一起こったのが靴擦れだった。



めんどくさいのと恥ずかしいので洋服屋で試着が出来ないから、有吉はつい大きめの服を選んでしまうことが多く、無茶な洗濯で縮めてから着る。



益子は東京に出て来た時に人に馴染めなくひたすら仕事に熱中していたら、周りのバイトから「ニヒルな彼」と呼ばれることになった。



フット岩尾も皿洗いのバイトを熱心にやっていたら、あまりの暗さに周りのバイトが「彼をやめさせてくれ」と店長に懇願したためバイトをクビにされた。
それからはトラウマになり「明るいスタッフがお待ちしています」などの広告を見ると「絶対無理無理」と思ってしまうようになった。




なんだか書いてて哀しくなってきたな...。どれもこれもよく分かる(笑)。



そんな人見知りな俺でも(笑)一人でライブをすることもあるんです。
今月28日、日吉NAPというところで弾き語りライブを決行。時間はまだ分からないけど、そんなに早い時間じゃないはず。土曜日なんで融通きく人はぜひ来てください。そして酒の相手をしてください(笑)。まんどくさく絡まないよ。
2009年11月17日05:56
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昨日の夕方にやっていたニュースで、またしても元恋人のストーカーによる殺人事件があったらしい。
こういうニュースを聞くと実に暗澹たる気持ちになる。



俺も男だから「過去に執着しすぎて狂ってしまう」という男特有の「女々しい」気持ちが分からなくは無いし、女の人の「過去」というものに対する残酷なまでの切り捨て方には、場合によっては殺意を覚えられても仕方ないなと思わなくもない。



だけどその男女の心のメカニズムの違いに対して「暴力行為」「殺戮行為」に及んでしまったこの男の愚かしさ、「どうしようもないことはどうしようもない」という諦観の心を持てなかったこの男の幼児性には、それこそ「どうしようもない」ほど怒りがこみ上げてくる。



女の人はまたちょっと違うのだろうけど、男は恋愛の局面において必ず「どうすることもできないことは確かにある」ということを学習するはずだ。「涙を呑んで諦める」という選択は決して後ろ向きなことではなく、いろいろ自分についてや女の人について、あるいは人間についてを考えさせる重い行為だ。「諦める」というのは決して「絶望する」ことと同意義ではない。



「願えば夢は必ず叶う」とか「ドリームズ・カム・トゥルー」とかいうどっかの英会話教室のキャッチコピーみたいな甘ったるい言葉が蔓延する時代に生きてきた世代には、自己実現できないことに対してどう納得しどう対処したらいいのか分からないという特性があるのかもしれない。
人のことは言えないけれど男がどんどん幼稚になってきているのは確かだろう。



こないだ知り合いの女の人と話していてすごく納得したのだけれど、男は過去の恋愛を「名前をつけて保存」するけど、女の人は過去のことなんかあっさり忘れて「上書き保存」するものだという。



そう、この特性の違いがあるからこそストーカーのような幼児性の発露ともいうべき行為が生まれるし、女の人はそういう愚かしい人間を生んでしまうような残酷な仕打ちを平気で男にするのだ。
お互いがお互いの気持ち、心のメカニズムの違いを理解しあえればそれに越したことではないけれど、大体においては男が諦めて納得することのほうが多いような気がする。その辺は反論が大いに予想されるけれど。しかし「諦める」ことが出来ず、一方的な愛をもってして女の人の残酷さに太刀打ちしようと思うからストーカーという歪んだ愛が生まれる。原因はどっちにもあるといえる。
ま、暴力行為に及んだ時点で、そこにいかなる理由があろうとも男の側の圧倒的な負けというか罪なのだけど。



違う生き物同士だからこそ必要とするし、繋がりたいと思うのだ。そして繋がるたびにその違いを確認するから切なくなるし哀しくもなる。



だからいつの時代も哀しい歌や切ない歌が必要とされる。喜怒哀楽の中でも「哀」に特化した「愛」の歌が人の心を打つのは、男女がいつも違いを確認しあっているからだと思う。



最近ずっと家で歌っている歌がある。井上陽水の「ジェラシー」。
「君に寄せる愛はジェラシー」という必殺のフレーズを持つ名曲だけれど、これほど「哀しさ」と「切なさ」を漂わせた美しい曲もなかなか無い。こんな歌がもっともっと聴かれるようになれば、男ももっともっと自らの情けなさを自覚できて、女の人の残酷さを理解しようとするのに。AKB48のメンバーの住所を調べてる場合じゃないのだ。情けない...。

http://www.youtube.com/watch?v=BrGXemLcMdg&feature=related


今月の28日に日吉NAPで弾き語りをするんだけれど、その日までにこの歌が歌えればいいなと思っている。凄く表現力を要求される歌だけれど、これほど歌ってて気持ちがこもるというか気持ちがいい歌はなかなか無い。
2009年11月16日17:22
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今度の12月18日に新しいバンドでライブをするので、何やかんや忙しい。というかメンバーを含むいろんな人と会ってよく話をするようにしている。
ほっとくとムッツリと黙っているような人間なんで、自発的に話すオーラをかもし出さないと黙殺されちゃう。



朝まで酒を飲みながら話すなんてことをちょいちょいしていると、さすがに昔に比べて睡魔に弱くなったなと感じる時はある。けれど、やはり酒が入って喋っている俺の目は血走ってるんだろうし、同じことを繰り返しながらも饒舌なんだろう。鬱陶しい奴。



でも何かを始めようとするときの高揚した気分というのは実にいいもんだ。実際は皆さん忙しくて予定を合わせるだけでも大変でバタバタしまくっているけれど、それでも0から1になるときの瞬間を味わえるのは嬉しい。



来年のためにも今年中に何らかの証を残さないとなぁ。



新しいバンド名は「WM(うむ)」。ライブハウスのスケジュールに載せるので、すぐバンド名を考えてくれと代々木ブーガルーの店長に言われて即座に考えた名前。
意味としては色々こじつけられるけど、ぶっちゃけていうなら手塚治虫の傑作「MW」から連想しただけだ。あんまり色んな意味とか志のあるバンド名を作るのは性に合わないので今回もテキトーに勢いにまかせてつけた。そういう意味では「キョドルト・ヴァレル」は我ながらいい名前だなぁ。


メンバーは今まで俺と関わりあったツワモノな人達で構成されている。
ドラム:山田タクマ、ベース:蛇石徹、キーボード:たなかゆうじ


てな感じ。どういう音になるかは未だ未知数。ただ妙に凝りまくった難しいこととか、やたらとキャッチーであろうとかするよりも、もっとガッツンガッツンと魂がぶつかる音にしたいなと思ってます。



という事で12月18日は是非是非空けておいてくださいな。
2009年11月13日14:27
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昨日やっていた「雨ト−−−ク」は久々にとんでもない大暴投企画で、ゲラゲラ笑ってしまった。



企画タイトルは「思いついたことをすぐ口に出してしまう芸人特集」。
観てない人に説明するのは非常に難しい企画内容なのだけれど、要するに人の言葉尻を取って駄洒落てみたり、連想ゲームのようにして引き継いだり、関連するトリビアを発表したりと、普通のバラエティ番組の中だと「話の進行を乱すような脱線行為」をするのが好きな芸人を集めた企画で、その脱線部分のみをクローズアップさせた1時間だった。う〜んこれでも説明になってないな。



よくアンタッチャブルの山崎がテキト−な思いつきで人の話の言葉尻をとって、結局たいしたオチもないままヘラヘラ笑って終わらすみたいな、「いらんことすな」みたいな感じ。核にあるトークを聞きたい側にとっては限りなく鬱陶しい「こちょばし」の部分を、核になるトーク無しでひたすらだらだらやったような感じだった。



で、お客の反応はポカ〜ン。当たり前だよな。その話の中に入ってやり取りしなきゃぜんぜん面白くないもん。
芸人たちもお客さんを笑かそうと思って発言してるわけでもなく、本当に思いついたことを口走っているだけなんだから。すごい閉鎖的な空間。
ましてやその中に出てくる言葉と言葉、トリビアとトリビアを関連付けられるだけの知識と瞬発力がなけりゃすぐ振り落とされるしね。



友近が持ち込んだ企画だけどかなり力技な企画というか、番組の雰囲気と演者の雰囲気からはなかなか見えてこない、実はかなりストロングスタイルな笑いが充満していた。



これは賛否両論だろうな。実験的な企画の多い「雨トーーーク」の中でも久しぶりにツボった企画だった。



実はこういうのって昔、立川談志家元とか円鏡とか山城新伍とかいった膨大な知識量を誇る芸能人が、凄いスピードで駄洒落やらトリビアやらで話を繋いでいくゲームというか大喜利みたいなのを深夜番組とかでやっていて同じにおいがしたのだけれど、談志家元とかがやっているものにはそこにいかに知性とかシュールさを混入して、ブラックな笑いを取るかってことに意識を注いでた。あえていうなら自分の知性を売りにするような自己顕示欲を押し出していた。




しかし昨夜の「雨トーーーク」に出ていた芸人はそこまでの自意識みたいなものは殆どなく、ひたすら思いついたことを反射神経で口走ってただけで、しかもそれがなんとも不思議な笑いになってくというのを潜在的にわかってやっていて、そこが実に面白かった。
会場にいたお客の殆どを占める若い女性は全く理解できていなくって、その現象がまた笑えたんだが。
諸刃の刃みたいなかなりキワキワの笑いだ。


なんか飲みの席で話すことがなくなった朝方にやるようなゲームに近かったけど、こういう企画からなんか新しい笑いのあり方が生まれたら楽しいな。



それにしても「雨トーーーク」とか「ゴッドタン」とかいったいくつかの深夜番組は、ちゃんと意欲的で実験的な企画を打ち出していて面白いな。いくつかはあるんだよな。本当に笑えるもの。
こういうのが普通に面白いと思ってしまう人間にとって、ゴールデンタイム、プライムタイムに流れている番組のヌルさというのは心底理解できない。「ロンハー」なんてゴールデンとしてはギリギリなんだろうな。あれもっと深い時間でやってさらに悪意を上乗せしてくれたら最高なんだけどな。
2009年11月11日17:28
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今年は本当に死んでいく人が多いな...。前にも書いたけれど10年の終わりは毎度こうなんかな?



森重久弥の映画はよく観たな。社長シリーズや駅前シリーズが大好きだったし、シリアスで重厚な役柄もよかったけれど、何より新東宝で作った喜劇三部作は良かったな。初期のモリシゲのイバリ芸の片鱗を存分に覗かせる見事な「厭な奴」っぷりだった。



話芸の達人としてのモリシゲの記録(音源、映像)は残念ながら残ってないんだよな。伝説によると、まったくノープランでいきなり舞台に出て行って1時間以上爆笑をとりまくってたって逸話があって、そういう全盛期のトンガッてたころの音源を聴きたかったな。
インチキ中国語もハナモゲラ語の原型もみんなモリシゲがやってたらしい。タモリの元祖だね。



昔ラジオで「知床旅情」と「金毘羅山」をかけたことがあるけど、味のある歌声が好きでたま〜にCDを聴いてた。



芸能界の重鎮になってからの活動はあまり知らないけれど、初期の尖ってた喜劇人時代のことをもっと掘り下げてテレビなんかで特集してくれないかね。



老衰による自然死だし、ショックというわけではないけれど、今年はとにかくいろんな人が死んでいくので、少し「時代の移り変わり」ということを意識してしまうことが多い。
2009年11月10日18:06
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ラジオでサイモンとガーファンクルの1969年のライブから「明日に架ける橋」を聴いた。



サイモンとガーファンクルはかなり昔から聴いていてそれなりに好きだったけど、この「明日に架ける橋」は嫌いな曲だった。
なんだか大袈裟で、偉そうで、感動をごり押しされてるようで。ちょうど同じ時期に流行っていたビートルズの「ロング・アンド・ワインディングロード」と同じように、情緒過多で甘ったるくてくどい。



しかしラジオで聴いたライブの「明日に架ける橋」はとってもよかった。
ピアノ一本とアート・ガーファンクルの独唱で演奏されたこのテイクは、今まで持っていたこの曲に対するろくでもないイメージを粉砕するだけの説得力があった。



曲が作られ、録音されたのがこのデュオが解散を決意したころ。ポール・サイモンが相当な自信を持って書き上げたこの曲、アートに歌ってほしいと意気揚々と聞かせたら「自分が歌えば?」とつれなくされたそうだ。
どういうニュアンスでアート・ガーファンクルがそう言ったのかは知らないけれど、ポール・サイモンとしてはなんとしてもあのアート・ガーファンクルの聖なる声で歌ってほしいと願って作った曲だったはずである。



ところがアルバムに収められ、シングルとしても大ヒットしたこの曲には大袈裟なオーケストラ、情緒過剰なアレンジによって思いっ切り装飾され、アート・ガーファンクルの歌唱もなんだか大物歌手のディナーショーみたいな油っこいものになり、サイモンとガーファンクルという「アメリカの良心」のようなフォークデュオの終焉に相応しい大感動ナンバーに仕立て上げられた。いかにも文部省認定の音楽の教科書に乗りそうな曲に。



で、繰り返すが俺はこれが大嫌いだった。なんだかかったるいし、胃にもたれそうなくらい甘いし。



この1969年に行われたライブというのは、サイモンとガーファンクルにとっては解散を決意した後の最後のライブツアーだった。
アルバム「明日に架ける橋」のレコーディング中にあった二人の間の軋轢というのは沈静化し、かえって憑き物が取れたようにフラットな気分でライブ活動をしていたころのテイクだ。



だからなのか、おそらくこの曲が当初持っていたイメージに近いと思われる、シンプルで祈るようなニュアンスで演奏されている。なにせスタジオ版にはあった中間部のポール・サイモンとのハモリのパートですらポールは参加せず、アートが一人で主メロではない上のパートを歌っている。
とにかくポール・サイモンはこの自分の自信作であるこの曲の、ゴスペルのような、なにか祈るようなメロディーを、この時期のアートの奇跡的に美しい声で聴きたかったんではないか?一緒に演奏するよりも舞台袖で聴いていたかったんではないかと憶測したくなってくる。



そしてその自分はこの曲では参加しないというポールの判断は実に正しかったと思う。
この何にも取り繕わないむき出しの佇まいが、この曲が本来持っている力を存分に引き出しているのだろう。アート・ガーファンクルがこんなにも凄い歌手だったって言うのにはじめて気が付いた。



このライブが録音された時点では全くはじめて聴く新曲であったこの曲に、観客がじっと耳を傾けて聴いている様がその録音から伝わってくる。それは曲が終わった後の一瞬の沈黙とその後に来るわれんばかりの拍手がよく笑わしている。本当に凄いものを体験した後ではないとこの様な感じの拍手は起こらない。



感動させようとしてないところが良い。感動させよう感動させようと大掛かりになればなるほど、本当の感動からは遠ざかっていく。



この曲を聴いてから20年以上経つけれど、初めてこの曲が素晴らしいんだって事に気づいた。やっぱりとんでもない大ヒット曲にはその保守的な鎧の下に隠された、深い深い味わいや暗闇が潜んでいるんだなぁ。
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高瀬大介

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