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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2007年05月

2007年05月28日23:21
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昨日アルバムの歌入れをしてきたんですが、俺の中だけで確立している「ヴァースト」という唱法を連発してきたので今日は喉がボロボロです。



本来歌のための発声というのは100パーセント腹を使って出すものなのですが、俺が昔から使ってきた「ヴァースト」(だからそんな言葉はないって)は、腹から出した声を喉でせき止めて無理矢理声を絞り出すというような発声法なので、歌い手にとっては自殺行為です。
普段はそんなに使わないし使ってもあまり力まないでやればそれほどダメージはないのだけれど、ライブとかテンション上がっているときにこれを連発すると完全に喉が死亡します。



なぜそんな歌唱法を編み出したかというと、昔は低くて野太い自分の声が大嫌いだったので、とにかくそんな声じゃない別の声が欲しかったんですな。ハイトーンで歪んだ声、いかにもロックていう声を何とか手に入れたいという切なる願いがたぐり寄せた苦肉の策的な歌唱法です。


とにかく俺は声が低い。あんまり通りの良くない声。性格が反映されているのか内っかわにこもる様な、言葉を伝える意志が稀薄な低くて抑揚のない声。ま、これは声だけの問題ではないのですが。


変声期の頃は、それまで出せなかった低い声が出るようになったので面白がってどんどん低い声を出していたんだけど、そうこうしているうちにすっかり変声期を終えてはたと気づくと高い声がすっかり出なくなってしまった。


だから高校生の頃はツェッペリンの様なハイトーンシャウトはおろか、ビートルズでさえキツくて出せないわ...と凹んでいた。
でその頃に、一番暗黒だった頃のエレファントカシマシにずっぽりとはまってしまったんです。


知ってる人は知ってるけどエレカシのヴォーカリスト宮本浩次は、昔は殆どキチガイのように無茶なシャウトをしまくる人だった。高い音が出ていようが出ていまいが、声がかすれてようがかすれていまいがおかまいなしに限界点を越えるシャウトをしていた。せっかくの美しいメロディーをも台無しにしてしまうくらい。


で、 その自らの情念を吐き出す様な彼の歌い方にしびれ、これを何とかものにしたいと思った俺はとにかく所構わず日々絶叫し続けました。親が諦めるくらい。その過程で産み出された歌唱法が「ヴァースト」何だと思われます。あんまり良く覚えてないけど......。



この声、相撲取りが「ごっつぁんです」と出すあのうわずった様な声にもとの野太い実音の声をぶつけた様なもので、言わば喉にディストーション的な過大出力のエフェクターをかけて出てきたジリジリとした上の成分の様なも。一応高い音は出るけど喉に悪い悪い。


でもそんな喉から血が出る様な無茶をしてまでも自分の地声を捨て去りたかったんですよ。自分の肉体的資質と、中毒になってた音楽との違和を認めたくなかったのかどうか知らないけど、その後10年近く喉に無茶をして歌を歌っていた。


だからメジャーで出た頃にはすっかり喉は死んでいて、長年の喉の酷使と精神内のバランスのズレですっかり歌が歌えないシンガーソングライターになっていた。その節はどうもご迷惑をおかけしましたと謝りたい人がいっぱいです。その節はテメエこの野郎とも言いたいけど...。同じ人に。



で、さすがに今は(歌唱法だけの話じゃないですが)だいぶ自分の出来る事と資質がどんなもんかというのを把握しつつあって、それらの限界線を内側から押し広げていくという正当的なスタイルで音楽活動やってます。


が、やはり「ヴァースト」の持つ「限界線を飛び越えて外側から圧迫する」様な正しくない道筋、危険球、それらの持つ殺傷能力には抗し難い魅力がございまして。
やっぱそこを忘れると単に現実を反映させただけのしみったれた現状肯定音楽しか出来ない訳です。
ありえねえだろ!っていう主張に強引に正当性を持たせる様な暴力的な音楽こそをロックと呼んでいるので、音楽における「ヴァースト」は失ってはいけないものです。
実際の「ヴァースト」声も、自分で言うのもバカだけどカッコいいんですよ。新作でも随所に使われる模様です。



ただそれはあくまで「飛び道具」であって、乱発するものではなく、ここぞ!という時に使ってこそ効力を発揮する訳であります。
ただ延々「ヴァースト」しているだけでは洋物のポルノのように、「恥じらい」とか「ためらい」といったマイナスの力学もなくひたすら発情している様なもんで素敵じゃないです。



と、このように「ヴァースト」しまくった様な長々とした文章を書いているうちはまだまだその道の達人にはなれませんな。
2007年05月24日23:00
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高田馬場のライブに来てくれた方々、ありがとうございました。久々だったけどいい流れでいいバイヴレーションが出せたんではないかと自負しております。
で、ライブ中に蛇石が口走っていましたが今年の11月9日金曜日にワイセッツ発のワンマンライブをやる事になりました。場所は同じく高田馬場フェイズです。まだまだ先ですが、今から手帳に印をつけておきましょう。ていうかお願いします。あの〜人がおらん事にはどうにもならんので。今からいろいろネタを考えて趣向を凝らして飽きさせない、お腹いっぱいのライブコンサートを必ずやりますんで是非是非この日は予定をあけておいて下さいな。あんたのよていをくるわせたい。

で、今アルバムを作っている真っ最中。7合目くらいまでは来ました。もう気持ちは次のフェーズに行ってまして新曲もガンガン作っているんですが、しかし、俺にはアルバム収録曲の唄入れという重責が残っているのでまだ完全には次のフェーズにいけないんです。まあそんなことはどうでもいいですね。とにかく今回のアルバムは今までにもまして濃い〜アルバムになると思います。70分くらいあるし大曲と言える様なものもちらほらありますし。これ6月終わりくらいまでに出せりゃいいんですがね。ま、分りません。


6月2日に、浜松フォースでワイセッツのライブをやるんですが、そこでは期間限定アイテム、ワイセッツのライブミニアルバムを発売しようかなと思っています。これもまだ未定なんですがまあ来月7日の渋谷屋根裏でも売るかもしれませんというちょっとしたアイテムでございます。


告知ばっかだな。
2007年05月22日19:13
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今週の日曜日に放送されるラジオ「MASSIVELOOP」でスライ&ザ・ファミリーストーン大特集をやる予定でして、今それを編集しています。


スライの主なカタログが紙ジャケでしかもボックスセットで発売されたのを記念しての特集なんですが、酒を呑みながらやったのがいけなかったのか、全然プロモーションにならないかなりアバンギャルドな特集になってしまいまして......。


とにかくスライのまともな代表曲は殆どかかりません。かかったとしても無音の曲だったりとか、全然売れなかったアルバムからこれまた地味な曲だったりとか、あとはスライの曲だとず〜と勘違いしていた別なアーティストの曲だの、日本人アーティストによるスライからの影響が強い曲から、これは明らかにスライをパクっただろうと思わしき曲だとかで、スライのヒット曲がいっぱい聴けると楽しみにしている人の期待を見事に裏切る素晴らしい特集になってます。もし聴ける人はお楽しみに。


松本人志の映画初監督作品「大日本人」が来月頭に公開される。とんでもなく楽しみだ。松本人志のお笑いの世界が映画というある種シリアスなメディアの中でどう発揮されるのか、という七面倒くさい事はとりあえずおいといて、本人曰くエンターテイメント作品らしいので、あの大爆笑した後に残るえも言われぬ寂しい感触を期待して公開まで待とう。でも公開日私は浜松にいるので観れん!でもその前日、あの「さんまのまんま」に松本人志が出演というとんでもない楽しみが待っている。さんまと絡んだ事はここ20年ないという松本人志、どんな事になるのか楽しみだ〜。


毎回凄く楽しみにしていた漫画「わにとかげぎす」が恐ろしくあっけなく終わってしまった。
作者は古谷実。稲中とかシガテラとか描いた人だ。この人の漫画は全部好きだが、どの漫画も終わる時はかなりあっけなくズバッと終わってしまう。まあそれはいいんだけど今回のはあまりにもあまりにもという感じで終わってしまった。作者が飽きたとしか思えない終わり方だ。
この人に関する特集記事を読んだ事があるが、徹底して自己否定型の作家だ。あれだけ素晴らしい画力にも関わらず「なんてヘタクソなんだ、連載始めなきゃ良かった......」とか言う。しかも毎回。
まあ資質的にはかなりアングラな人だし、作品もまた実にリアルにどうしようもない。「悪循環」のもつ麻薬性と虚無感を素晴らしく描いている。まるで「混沌こそ我が墓碑銘」なプログレッシブロックのように否定の純粋性を追求して来た人だ。
しかしあの抗し難い魅力を持ったは画風とセンスは、何をどうしようとポップな感触があるのだからいつか肯定的な力図強さを持った素晴らしい作品が生まれるのを期待せずにはいられない。「シガテラ」はそうなりそうだったし、今回の「わにとかげぎす」もかなりいい感じで沸き上がっていたのにギリギリの所でネガティブとシニカルが勝ってしまった。
でも何作も何作もそうやってネガティヴィティの純粋性に逃げ込んでしまったのだから、次にある種ベタな世界に行った時はどんな暴力的に美しい世界を見せてくれるのだろう。楽しみだ。


同じく楽しみに読んでいる「ハクバノ王子様/朔ユキ蔵」も終わりそうな匂いがして来た。
この作品も半端ではなく楽しみにして来た作品だったがここ数週間の展開と言うか描写は......堪らんッス。次が早く読みたいのとでももう少しじらしてほしいのが入り交じって複雑です。
今週を読んで感じたのだけれど、どうも最終コーナーを回った様な気がして寂しい。まだまだ広げていってくれる事を期待している。


さて明日は久方ぶりのワイセッツのライブです。あるバムレコーディング中なのでなんだか無性にライブがしたくって...。かまします。

5/23(水)
高田馬場club PHASE

open 18:00
start 18:30

前日 ?2000 当日?2500

出演バンド
Savado
THE OLIVE
ザ・ワイセッツ
PLASMA GARDEN
LOVE GUN

ワイセッツはトリ21:10からです。


あと6月2日、浜松にもライブしに行きます。

愛知県、静岡県の方、是非遊びに来てください。
http://y-sets.com/tyrepm.html
2007年05月16日17:01
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いや〜これはヤヴァイDEATH。俺世代のファンにとっては伝説の映像。キヨシローかっこいい。いや、キヨシローと呼んではイケナイんだった。

http://www.youtube.com/watch?v=Yy9bUxN4YUs


もっともらしげな理由もなく、ただムカついたから歌ったという子供の様にシンプルで大胆な発想、リハーサルではやらずに生放送中にいきなりヤルという確信犯的狡猾さ。四文字言葉もかまわず歌っちゃう。かっこいい。たちの悪い労務者風の衣装といいノイジーなアコースティック編成といいすべてが既存の「ロックらしさ」に唾を吐きかける「正しきロック」だと思います。



実はこの上品な私もライブ中思わず四文字言葉を歌ってしまった事があります。
その言葉を口パクしながらギターのディストーションノイズをかます予定が、エフェクター踏み損なってしまったんで思わず反射的にその言葉を歌ってしまったんですねえ、しかもメンバーの両親が観に来ているライブで......。

話変わってそんなワタクシ、今週の金曜日、またしても弾き語りライブをやらかします。
場所は例によってまた小伝馬町のプードル。

http://www.poodle-live.com/


今回は3組中2番目という事で20時40分からの出番となります。いつもの山崎怠雅君企画ではないので超アウェイ感ばりばりでいい年こいて人見知りなワタシはちゃんと本領を発揮出来るのでしょうか?まあ、いいや。とにかくいきり立ちますんでお時間ある方は観に来て下さい。


2007年05月14日22:35
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昨日NHKアーカイヴスで手塚治虫の特集をやっていた。これは1986年に制作されたもので、手塚治虫の晩年というか後期の貴重なドキュメントだ。
この番組、幼い頃に観て以来なので殆ど内容は忘れていたが、あらためてこれは実に興味深い内容を持つドキュメントだと思った。


晩年の手塚治虫はある種文化人として落ち着き、油っけも抜け、人命の尊さを訴える人道漫画家というイメージが一般的にあるが、このドキュメントを見ればそれがとんでもない事実誤認である事が分る。
まあ晩年の作品を見ていればそんな認識はしないのだが、とにかく最晩年に至るまで一現役漫画家として苦悩し、ズタボロになりながらも過密スケジュールをこなし、ひたすら前進し続けていたんだと分る。

そのドキュメントの中で一番興味深かったのは、所謂大家とは思えないほどナイーヴに、テレビカメラの前でも躊躇する事なく自身の弱みを吐露するところだ。自らの画力に対しコンプレックスを感じ、なんとかその状態を克服して漫画を書き続けていこうとする姿勢。その姿は感動的ですらある。


もうひとつ興味深かったのは、ベレー帽をかぶってニコニコした穏やかな人という、よく写真で見る様な手塚治虫のイメージからはほど遠い厳しい目、表情がそのドキュメントには映し出されていたことだ。あれでもテレビ用にオブラートにくるまれている部分はあるんだろうけど、それにしてもその鋭い目はやはりある種の狂気が宿っていた。
途中、手塚が一番の苦境に立っていた頃の作品「アラバスター」(だったか?)の絵を見ながら、

「ウワ〜ひどいね、陰湿だよね。そりゃ読者に人気は得られないよ」

と淡々と過去の事のように語っていたが、「アドルフに告ぐ」など当時書いていた作品のほうがよっぽ陰惨な描写はあったし、むしろ闇は深くなっていたと思う。全然過去の事じゃないでしょアナタと言いたくなってくる。

そう、手塚治虫の作品は常に、最晩年の作品ですら「いちぬけた人の達観した哲学」みたいな青年にはアイデンティファイしにくいものにはならなくて、壮絶な苦悩の跡がありありと残っている青年性を強く持った作品ばかりだった。


絶筆となっている「どついたれ」「グリンゴ」「ネオファウスト」「ルードヴィッヒ・B」といった作品の続きが読みたくて仕方がない俺としては、もう少し身体をいたわって長生きしてほしかったなと思うのだが、反面なるほど最晩年まで現役であり続けたあの制作スタイルの中からしかあんな作品は生まれなかったんだよな、と強く納得してしまった。



さて話変わって今週の金曜日、ワタクシ高瀬大介またしても弾き語りライブをやらかします。
場所は例によってまた小伝馬町のプードル。

http://www.poodle-live.com/


今回は3組中2番目という事で20時40分からの出番となります。いつもの山崎怠雅君企画ではないので超アウェイ感ばりばりでいい年こいて人見知りなワタシはちゃんと本領を発揮出来るのでしょうか?まあ、いいや。とにかくいきり立ちますんでお時間ある方は観に来て下さい。
2007年05月10日18:26
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今日久々に涙が出るほど笑った。

http://blog.eau.jp/massiveloop/podcast/

「笑いによるヒーリング」の所を聴いていただきたいです。


この笑っている本人とこの音源をアップした人を知っているので、単なる内輪受けだという可能性もない事はないのだが、いや多分これは絶対普遍的なものだろうと思う。


人を笑わせる事を目的とした録音物としては最古の音源である[ラフィングレコード]というのがあるのだけれど、それはおばさんとおじさんがただゲラゲラ笑ってるだけの(後ろの方でトランペットを吹きながら辛抱たまらなくなって吹き出してるという画期的なギミックが施されてはいるが)レコードで、とにかく人間の根源的な部分をついた音源だ。

笑いは伝染する。人がゲラゲラ笑っているのを観たり聞いたりするとついこっちもおかしくなってくる。
笑う原因が下らなければ下らないほど感染力は強い。ていうか何の理由もなくただ笑っているというのが一番効く。
不条理だ。よく分らない。


それだけにちゃんとネタを繰って笑わせているひとにぎりの芸人さん達は凄いと思う。頭を使って、こっちの想像力を促してまでも笑わせるというのは凄まじい所業だ。ある意味上記の笑いとは真逆のベクトルから人を爆笑させているのだ。


笑うという事は人間にのみ与えられた快感だ。よっぽど偏屈な人間じゃない限り笑う事による快感を享受する事に抵抗はないはずだ。特に子供は何も考えてないからちょっとテンション上がったらギャアギャアわめいてうるさいぐらい笑う。


でも生きているうちになかなか素直に笑えなくなってくるのもこれまた人間だ。
「笑ってる場合じゃないだろう」と不謹慎さをたしなめられる事も良くある。心にいろいろなものを抱えていると自然と顔の筋肉がこわばってなかなか笑筋が動いてくれない。
「泣くことは簡単だけど笑う事は難しい」とオノヨーコも言ってた。


でもそんな鎧を突き破ってでも襲ってくる突発的笑いの快感があるから人間やめられないのだ。


今日は久々に意味もなく笑って少しすっきりした。
2007年05月04日20:59
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今度の月曜日、連休明けの夜と言う人々が全く動きたくない時間帯に弾き語りライブをやります。

元々世事に疎いんでこのライブの話があった時は全く考慮しなかったけど、考えてみりゃかなりデッドな日時だわな。騙された!

まあいいや、とにかく7日月曜の8時半くらいから渋谷屋根裏で弾き語りライブやります。

こないだのライブで調子に乗ったんで更に図に乗ろうかなと独り思ってまして、とにかく勝手に気分よくやらかしますが、ひとつ皆さんもアコースティックな夜を過ごしてみませんか?癒し効果はあんまりないけれど、どっぷりと浸れる様な世界を現出するべく頑張りますので、連休疲れを更にだめ押ししてみませんか?って全くマイナスプロモーションばかりやってますな。


それにしてもつくづく音楽なんてのは、サバの腐った目をした様な状態の人間、心が腫れぼったい人間には冷たいって感じますわ。あくまで個人的な思いですが。

とにかく今は何聴いても雑音にしか聞こえない。心が開かれてない、感覚が覚醒してない状態では暖簾にエルボー、馬の耳に漫才。

いみじくもジョンレノンが歌っています「君が落ち込んでいる時は誰も君を愛してくれないよ」

世間はなかなか冷たいもんで、心に光がないまま物欲しげな態度だけが増長している人間は誰も助けちゃくれない、音楽も救っちゃくれない。

誰も腐った人間なんか相手にしたくないという事です。

とにかくもがいて無理矢理にでも自家発電して何らかのアクションを起こさなければ曙光は見えてこない。

そうやってもがきながらも僅かながら兆しが見えて来たときに音楽は絶大な効果を発揮する。

そういうときに本当に鼓舞される音楽に出会う。立ち上がろうとしない人間には音楽なんかクソの役にも立ちゃしない。個人的な経験上そういう確信があります。

弱ってる状態の人間を「そのままでいいよ、大丈夫」って言ってくれる新興宗教の説法の様な音楽、「優しさ」を押し売りする生命保険のCMソングの様な音楽、「頑張れ」だの「夢を持とう」
だの大きなお世話だ!っていいたくなるクラスの副委員長の様な音楽。

巷に溢れるそういう音楽に胡散臭さを感じて、ひたすらヒリヒリする様な自分を曝け出す様な音楽を求めてきた。

それらの歌は皆、異口同音に「俺はこんな奴だ。お前はどうなんだ?」と語りかけてくる。

「自分の事が分らなくて、人との距離が取れなくて、この世の矛盾が理解出来なくて俺はもう手一杯だ。お前はどうなんだ?まあどうでもいいや、とりあえず狂ったように踊ろう!」

俺が鼓舞される音楽とは要約するとこんな感じのものです。無責任で、迷っていて、狂っている。

安易には救ってくれない。お前どうなんだ?と聞かれても答える気力のない奴とは踊っちゃくれない。気の利いたハッタリがかませるようになったらツルんでくれる。

だから本気じゃないと相手にされない。嘘をつくと見透かされる。攻撃的にならないとやられてしまう。心に光がないと何も理解出来ない。


俺のイメージではジョンレノンのクールな含み笑い顔。そんな音楽。


だから今は音楽にそっぽを向かれてます。


今自分が出来る唯一の能動的な行為は「歌う」という原初的な行為です。それだけが今自分と人とを繋ぐとっかかりです。
まあある意味これも音楽に救われるという事にもなるのだろうな。人の音楽ではなくて自分の音楽ってだけで、救いを求めてんのは一緒だ。

鼓舞される音楽を感じ取れないなら自分で自分を鼓舞してやろうという究極の自慰行為。

それがスタート地点で、ひょっとしたら帰結点かもしれない。

自分すら鼓舞出来ない様な音楽に、人を鼓舞する力はない。

と思って個人の中の普遍を追求する事にしよう。本当の意味での大衆歌が作れるまでにはまだまだ「しっかり」と生きなければならない。



という訳で、7日には晴れやかな気持ちで舞台の上にいます。多分。

もし時間と身体の余裕があったら遊びに来て下さい。



しかし誰もリアクションのしようがない文面だなこりゃ...。
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