2009年08月
今回の投票率ってどれくらいだったんだろう?あまり取り上げられないな。ただ多くの人が積極的な意思を持って投票した選挙だったことは確かだろう。
たぶん民主党の圧倒的な勝利と自民党の徹底的な惨敗の快感を味わいために投票所に向かった人がかな〜り多かったのではなかろうか。マニュフェストがどうとかやっぱ民主しかないな、とかいう思いより、とにかく今回は「歴史的総選挙にしたい」という日本特有の集団意識がこの結果に反映されている気がしてならない。
かくいう俺もそうなのだけど、そこで民主党に入れるのはなんだか気持ち悪かったので他の党に入れた。渡辺さんが自民党を離党した時から気になっているもんで。
今麻生総理の会見が生放送されている。
さすがに憔悴しきっているな。でも歴史に残る総理になれたわけだから結果オーライ?なわけねぇか。
台風が来ているねぇ。風が冷たい。
たぶん民主党の圧倒的な勝利と自民党の徹底的な惨敗の快感を味わいために投票所に向かった人がかな〜り多かったのではなかろうか。マニュフェストがどうとかやっぱ民主しかないな、とかいう思いより、とにかく今回は「歴史的総選挙にしたい」という日本特有の集団意識がこの結果に反映されている気がしてならない。
かくいう俺もそうなのだけど、そこで民主党に入れるのはなんだか気持ち悪かったので他の党に入れた。渡辺さんが自民党を離党した時から気になっているもんで。
今麻生総理の会見が生放送されている。
さすがに憔悴しきっているな。でも歴史に残る総理になれたわけだから結果オーライ?なわけねぇか。
台風が来ているねぇ。風が冷たい。
仕事帰りの朝、バート・バカラックのベストを聴きながら鼻歌を歌っていた。
代表曲の一つ「小さな願い」を久し振りに口ずさんでみたんだけど、これがまたえらい難しいんだ。ディオンヌ・ワーウィックをはじめこの歌をちゃんと歌いこなす人はたいした技量の持ち主である。技術を量るための課題曲にぴったりじゃないかね、この曲。
だいたいバート・バカラックの曲は変拍子や転調が多い多い。ポピュラーミュージックの巨匠作曲家なのに、実は作る曲の構造自体は無茶苦茶実験的。う〜ん深い。
昨日の朝だったのか一昨日に朝だったのか忘れたけれど、かなり早い時間に民放で政見放送をやっていて、ちょうど麻生自民党の番で、沖縄の女性候補者と一緒に政策を喋っていた。
殆ど感情のこもらない口調で、例の御家芸である読み間違い(「みなも」を「みずも」と間違う)しながら台本通りの掛け合いが展開されていったが、他の党も同じようにぎこちない口調でキャベツ畑人形のような表情をした候補者がダラダラと喋っていたので、まあ政見放送なんてそんなもんかと思いながら眠ってしまった。
つくづく話し方ってのは大事な事だなと思う。喋ってている内容が正しいか正しくないかなんて今の段階じゃ分からない事の方が多いわけだから、喋っている内容に説得力を与えるのはやはり声のトーン、上げ下げ、間、といった喋りのテクニックだ。そしてそれはテクニック以前のその人の天分や資質をも明確に露にすることになる。要するに「喋る」というのは音楽と全く同じベクトルの才能が要求されるものだ。
それを考えると麻生太郎のあの喋り方、声質、トーンコントロール、上げ下げ、間、全てが人を不快にさせるベクトルに働いていてある意味凄い。ついでに言うならあのここぞとばかりに作る破顔一笑のような笑顔。あれ程内実と反比例するような笑顔は中々見る事は出来ない。
我々は普段テレビや映画に出て来るタレントによって、喋りや自己演出のプロの技術を当たり前のように享受しているから、そっちに関してはアマチュアレベルの政治家なんかがテレビに登場するとその異物感に敏感な反応してしまう。
昔はそれを政治家に要求してもしょうがなかったし「餅は餅屋」で済まされたが、これだけメディアを利用して活動している以上は喋り、或いは自己演出もそれなりの水準が要求される。中には処世術としてそれを身に付け過ぎて説得力を失ってしまったような政治家もいるので痛し痒しなのだが。
結局国民が求めるのはテクニックや自己演出でどうこう出来るレベルを超えた「天然」の人心掌握力を持ったパーソナリティーなわけで、かつての小泉フィーバーもあの「変人」というイメージに何かしらの面白みと変化の匂いを感じたからこそ起きた過ちなわけだ。あの人は「ボケ」というイメージだったからね。それはそれでもいいけど、小泉さんの場合「ツッコミ」があまり美味しく機能しない「ボケ」体質だったから変な方向に行ってしまったんだろうな。
とにかく民主党を熱烈に歓迎してる訳ではないけど、自民党よりゃいいわ、という消極的な政権交代が明日起こる訳だが、高い政治的手腕と際立ったキャラクターを兼ね揃えた政治家がこの国にもいつか現れたらいいな、という遠い遠い願いのための小さな布石を置く意味を込めて投票に行きます。
しかし「小さな願い」の実現すら、まあ冒頭のバート・バカラックじゃないけど、今の時代にゃ中々に難しいもんだ。
代表曲の一つ「小さな願い」を久し振りに口ずさんでみたんだけど、これがまたえらい難しいんだ。ディオンヌ・ワーウィックをはじめこの歌をちゃんと歌いこなす人はたいした技量の持ち主である。技術を量るための課題曲にぴったりじゃないかね、この曲。
だいたいバート・バカラックの曲は変拍子や転調が多い多い。ポピュラーミュージックの巨匠作曲家なのに、実は作る曲の構造自体は無茶苦茶実験的。う〜ん深い。
昨日の朝だったのか一昨日に朝だったのか忘れたけれど、かなり早い時間に民放で政見放送をやっていて、ちょうど麻生自民党の番で、沖縄の女性候補者と一緒に政策を喋っていた。
殆ど感情のこもらない口調で、例の御家芸である読み間違い(「みなも」を「みずも」と間違う)しながら台本通りの掛け合いが展開されていったが、他の党も同じようにぎこちない口調でキャベツ畑人形のような表情をした候補者がダラダラと喋っていたので、まあ政見放送なんてそんなもんかと思いながら眠ってしまった。
つくづく話し方ってのは大事な事だなと思う。喋ってている内容が正しいか正しくないかなんて今の段階じゃ分からない事の方が多いわけだから、喋っている内容に説得力を与えるのはやはり声のトーン、上げ下げ、間、といった喋りのテクニックだ。そしてそれはテクニック以前のその人の天分や資質をも明確に露にすることになる。要するに「喋る」というのは音楽と全く同じベクトルの才能が要求されるものだ。
それを考えると麻生太郎のあの喋り方、声質、トーンコントロール、上げ下げ、間、全てが人を不快にさせるベクトルに働いていてある意味凄い。ついでに言うならあのここぞとばかりに作る破顔一笑のような笑顔。あれ程内実と反比例するような笑顔は中々見る事は出来ない。
我々は普段テレビや映画に出て来るタレントによって、喋りや自己演出のプロの技術を当たり前のように享受しているから、そっちに関してはアマチュアレベルの政治家なんかがテレビに登場するとその異物感に敏感な反応してしまう。
昔はそれを政治家に要求してもしょうがなかったし「餅は餅屋」で済まされたが、これだけメディアを利用して活動している以上は喋り、或いは自己演出もそれなりの水準が要求される。中には処世術としてそれを身に付け過ぎて説得力を失ってしまったような政治家もいるので痛し痒しなのだが。
結局国民が求めるのはテクニックや自己演出でどうこう出来るレベルを超えた「天然」の人心掌握力を持ったパーソナリティーなわけで、かつての小泉フィーバーもあの「変人」というイメージに何かしらの面白みと変化の匂いを感じたからこそ起きた過ちなわけだ。あの人は「ボケ」というイメージだったからね。それはそれでもいいけど、小泉さんの場合「ツッコミ」があまり美味しく機能しない「ボケ」体質だったから変な方向に行ってしまったんだろうな。
とにかく民主党を熱烈に歓迎してる訳ではないけど、自民党よりゃいいわ、という消極的な政権交代が明日起こる訳だが、高い政治的手腕と際立ったキャラクターを兼ね揃えた政治家がこの国にもいつか現れたらいいな、という遠い遠い願いのための小さな布石を置く意味を込めて投票に行きます。
しかし「小さな願い」の実現すら、まあ冒頭のバート・バカラックじゃないけど、今の時代にゃ中々に難しいもんだ。
今週4日間に渡って放送された「井上陽水、40年を語る」はとても面白かった。
井上陽水は、好きではあったけれどあまり詳しくは知らなかったので、初めて知るエピソードも多く、その人となりも含めてとても興味深い事ばかりだ。
近年はあの朗々とした威風堂々な歌唱の印象が強いけど、若い頃の曲にはかなり無茶なキー設定の曲を強引に歌い倒してるのもあってゾクゾクする。
もともと破格に歌の上手い人だけど、そういう人のする「無茶」ってなんてチャーミングなんだろう。
最近の陽水の歌唱なんかはもう凄過ぎて、上手いんだか下手なんだか分からない(笑)次元に到達していてとにかく壮絶に「巧い」。40年は伊達じゃない。
しかしなにより、その歌詞もメロディーラインも常人には思い付かないというか、一筋縄では行かないというか、「ちょっと頭おかしいな」ってな感じのものばかりだ。同時代のフォークシンガーと較べても一つ線が違うとこから発想されたような楽曲の数々は、井上陽水宇宙人説を唱えたくもなってくる。
そういう曲を作る人ってな俺からすりゃ大変徳が高いわけで、日本にこんな人がいてくれてホントにありかとうと思う。しかもそんな人がメガセールスを記録したり社会現象になったりしたなんて、人間たまには正しい事もあるもんだと感慨深くなってしまう。
個人的なことだが、80年代後半から90年代前半のポップミュージック及びロックのサウンドの質感が生理的に好きではないので、井上陽水に限らずその時代のものには中々触手が伸びないのだけれど、井上陽水みたいな徳の高いアーティストに関しては変な偏見を捨てて聴いていった方がいいですわな。これからは聴こう。
彼の人となりも合わせて何かと刺激される事の多い四日間だった。これをフィードバックさせて自分の音楽の糧にしよう。
さてそれを実践するためのライブがあります。
9月4日に代々木ブーガルーで独り弾き語りライブをやります。今回はちょっと早めで19時から。多分トップバッターなはず。
9月4日(金) 「Soul Trip Garden」
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:高瀬大介、嵯峨絹子、REIKO
独りの自由さを生かし、独りの不便さを感じさせない世界を現出させつつ、こないだ体験した「本気営業モード」もなんとか入れつつ、いいライブにしたいので来れそうな方は是非是非遊びに来て下さいな。時間に余裕がありそうなんで、酒と音楽と会話を楽しみましょう。
井上陽水は、好きではあったけれどあまり詳しくは知らなかったので、初めて知るエピソードも多く、その人となりも含めてとても興味深い事ばかりだ。
近年はあの朗々とした威風堂々な歌唱の印象が強いけど、若い頃の曲にはかなり無茶なキー設定の曲を強引に歌い倒してるのもあってゾクゾクする。
もともと破格に歌の上手い人だけど、そういう人のする「無茶」ってなんてチャーミングなんだろう。
最近の陽水の歌唱なんかはもう凄過ぎて、上手いんだか下手なんだか分からない(笑)次元に到達していてとにかく壮絶に「巧い」。40年は伊達じゃない。
しかしなにより、その歌詞もメロディーラインも常人には思い付かないというか、一筋縄では行かないというか、「ちょっと頭おかしいな」ってな感じのものばかりだ。同時代のフォークシンガーと較べても一つ線が違うとこから発想されたような楽曲の数々は、井上陽水宇宙人説を唱えたくもなってくる。
そういう曲を作る人ってな俺からすりゃ大変徳が高いわけで、日本にこんな人がいてくれてホントにありかとうと思う。しかもそんな人がメガセールスを記録したり社会現象になったりしたなんて、人間たまには正しい事もあるもんだと感慨深くなってしまう。
個人的なことだが、80年代後半から90年代前半のポップミュージック及びロックのサウンドの質感が生理的に好きではないので、井上陽水に限らずその時代のものには中々触手が伸びないのだけれど、井上陽水みたいな徳の高いアーティストに関しては変な偏見を捨てて聴いていった方がいいですわな。これからは聴こう。
彼の人となりも合わせて何かと刺激される事の多い四日間だった。これをフィードバックさせて自分の音楽の糧にしよう。
さてそれを実践するためのライブがあります。
9月4日に代々木ブーガルーで独り弾き語りライブをやります。今回はちょっと早めで19時から。多分トップバッターなはず。
9月4日(金) 「Soul Trip Garden」
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:高瀬大介、嵯峨絹子、REIKO
独りの自由さを生かし、独りの不便さを感じさせない世界を現出させつつ、こないだ体験した「本気営業モード」もなんとか入れつつ、いいライブにしたいので来れそうな方は是非是非遊びに来て下さいな。時間に余裕がありそうなんで、酒と音楽と会話を楽しみましょう。
1fd7dbf0.JPG 外出中に雷雨に出くわしちまって、通り掛かりのスーパーにて雨宿り。
雷の音ってのはかなり気持ちのいい重低音だ。今のところはあんまり激しくないけど、もっと大きくなるようなら近くで聴いてみたい。
BGMは柳家小さんと笑福亭松鶴。
どうせならYMOのライディーンが聴きたいな。
雷の音ってのはかなり気持ちのいい重低音だ。今のところはあんまり激しくないけど、もっと大きくなるようなら近くで聴いてみたい。
BGMは柳家小さんと笑福亭松鶴。
どうせならYMOのライディーンが聴きたいな。
昨夜のプードルでのライブは我々の企業努力が足りないせいか、全然お客さんが入って来ないので、マスターに悪いな〜と思いつつもそこにいた参加ミュージシャン全員でセッションしながら自棄酒を呑んでいた。
しかし宴もいい具合に煮えて来た頃、一組の一見のお客さんが入ってこられたので、これは絶対この方々を逃がしてはならないとミュージシャン全員「本気営業モード」になって盛り上がる。
自分の曲は最小限に抑えて、歌謡曲やフォークやロックの良く知られた曲のカバー、ノベルティソングからCMソング、はては無理矢理お客さんにリクエストを強要したり歌わせたり(歌わなかったけど)と、とにかくそのお客さんに楽しんでもらうためだけに全精力を尽くした。
そのおかげで最後には参加者全員がお客から酒を奢ってもらう、てなとこまでになってしまった(笑)。
いいなぁ〜こういうの。苦悩の発表会みたいなライブになるよか、目の前のお客さんに楽しんでもらうためだけ頑張って、あげく一杯の酒にありつくって方がよっぽどいい。なんかミュージシャンとして正しい気がする。まあ発端はミュージシャンの企業努力不足からではあるけど...(笑)。
でも次はもっとちゃんとする(笑)。昨夜の気持ちを持って。
次はまたしても代々木ブーガルーにて独り弾き語り。9月4日です。すっげえ来て欲しいわ〜。楽しみたい。
しかし宴もいい具合に煮えて来た頃、一組の一見のお客さんが入ってこられたので、これは絶対この方々を逃がしてはならないとミュージシャン全員「本気営業モード」になって盛り上がる。
自分の曲は最小限に抑えて、歌謡曲やフォークやロックの良く知られた曲のカバー、ノベルティソングからCMソング、はては無理矢理お客さんにリクエストを強要したり歌わせたり(歌わなかったけど)と、とにかくそのお客さんに楽しんでもらうためだけに全精力を尽くした。
そのおかげで最後には参加者全員がお客から酒を奢ってもらう、てなとこまでになってしまった(笑)。
いいなぁ〜こういうの。苦悩の発表会みたいなライブになるよか、目の前のお客さんに楽しんでもらうためだけ頑張って、あげく一杯の酒にありつくって方がよっぽどいい。なんかミュージシャンとして正しい気がする。まあ発端はミュージシャンの企業努力不足からではあるけど...(笑)。
でも次はもっとちゃんとする(笑)。昨夜の気持ちを持って。
次はまたしても代々木ブーガルーにて独り弾き語り。9月4日です。すっげえ来て欲しいわ〜。楽しみたい。
SLY STONEの窮状に迫ったドキュメンタリー映画が完成
スライ&ザ・ファミリー・ストーンを率いてブラック・ミュージックの歴史にその名を刻みながらも、さまざまなトラブルにより厳しい生活を強いられているスライ・ストーン。そんな彼の窮状に迫ったドキュメンタリー映画「Coming Back For More」が完成した。
スライは、80年代にマネージャーと「楽曲の権利を譲る代わりに一定額の給与と経費を支払い続ける」という契約を結んだものの、一方的に権利を奪われたまま契約を無視されたために収入源を失い、65歳となったいまでも生活保護を受けながらホテルを転々として暮らしているという。その現状を生々しく収めた「Coming Back For More」は、訴訟を起こすために弁護士を雇う費用も稼げず、ひたすら貧しい生活を送る彼の姿を通して、音楽業界の矛盾を描き出す作品となっているようだ。また、作中では惜しくも未完となってしまった故マイケル・ジャクソンのニュー・アルバムのために、スライが作曲を行っていた こともあきらかにされている。
この作品は、今秋にヨーロッパで封切られる予定となっている。日本での公開は未定だが、続報に期待しよう。
というとんでもないニュースが飛び込んで来た。
スライ・ストーンが単発のゲスト参加を除いて、自分名義の作品を発表しなくなった80年代前半以降から、一昨年の復活ライブで現場復帰するまでの20数年の間、スライは完全に終わった人だった。その間に漏れ伝わってくる噂と言えばやれドラッグ依存症で廃人になっているだのマフィアと繋がってるだのろくなもんではなかった。
そのスライ不在期間の謎が解明される事はファンにとっては長年の望みであり、そんなファンの溜飲を下げてくれそうなこのドキュメント映画の登場は、ある意味最近の彼のライブよりも興味深い話題だ。と言ったら失礼か(笑)。
多くのロックレジェンドが度々再評価され、新たな人気を獲得し続けているのに、まさにリビング・レジェンドたるスライがいつまでたっても地味なままという状況に長らく苛立っていたが、このドキュメントの登場で色々分かりそうだ。日本での公開は未定のようだが是非是非観てみたいドキュメントだ。
スライのウッドストックでのあの伝説的なライブが正規盤化されたニュースと合わせて、スライの世界的な再評価(特に日本で)が起こるとファンにとっては嬉しい限りだ。
スライに関するクドクドしいほどの熱き想いは過去に文章にしていますんで、興味ある方はどうぞ。
http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=daisukeamembo&articleId=10295720610
さて明日は小伝馬町プードルで弾き語りライブです。山崎怠雅君イベントなんで、いい感じに酩酊してるかもしれないけど、スライの窮状よりも自分の窮状を救わねば。遊びに来て下さい。良かったらCDも買って〜!
スライ&ザ・ファミリー・ストーンを率いてブラック・ミュージックの歴史にその名を刻みながらも、さまざまなトラブルにより厳しい生活を強いられているスライ・ストーン。そんな彼の窮状に迫ったドキュメンタリー映画「Coming Back For More」が完成した。
スライは、80年代にマネージャーと「楽曲の権利を譲る代わりに一定額の給与と経費を支払い続ける」という契約を結んだものの、一方的に権利を奪われたまま契約を無視されたために収入源を失い、65歳となったいまでも生活保護を受けながらホテルを転々として暮らしているという。その現状を生々しく収めた「Coming Back For More」は、訴訟を起こすために弁護士を雇う費用も稼げず、ひたすら貧しい生活を送る彼の姿を通して、音楽業界の矛盾を描き出す作品となっているようだ。また、作中では惜しくも未完となってしまった故マイケル・ジャクソンのニュー・アルバムのために、スライが作曲を行っていた こともあきらかにされている。
この作品は、今秋にヨーロッパで封切られる予定となっている。日本での公開は未定だが、続報に期待しよう。
というとんでもないニュースが飛び込んで来た。
スライ・ストーンが単発のゲスト参加を除いて、自分名義の作品を発表しなくなった80年代前半以降から、一昨年の復活ライブで現場復帰するまでの20数年の間、スライは完全に終わった人だった。その間に漏れ伝わってくる噂と言えばやれドラッグ依存症で廃人になっているだのマフィアと繋がってるだのろくなもんではなかった。
そのスライ不在期間の謎が解明される事はファンにとっては長年の望みであり、そんなファンの溜飲を下げてくれそうなこのドキュメント映画の登場は、ある意味最近の彼のライブよりも興味深い話題だ。と言ったら失礼か(笑)。
多くのロックレジェンドが度々再評価され、新たな人気を獲得し続けているのに、まさにリビング・レジェンドたるスライがいつまでたっても地味なままという状況に長らく苛立っていたが、このドキュメントの登場で色々分かりそうだ。日本での公開は未定のようだが是非是非観てみたいドキュメントだ。
スライのウッドストックでのあの伝説的なライブが正規盤化されたニュースと合わせて、スライの世界的な再評価(特に日本で)が起こるとファンにとっては嬉しい限りだ。
スライに関するクドクドしいほどの熱き想いは過去に文章にしていますんで、興味ある方はどうぞ。
http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=daisukeamembo&articleId=10295720610
さて明日は小伝馬町プードルで弾き語りライブです。山崎怠雅君イベントなんで、いい感じに酩酊してるかもしれないけど、スライの窮状よりも自分の窮状を救わねば。遊びに来て下さい。良かったらCDも買って〜!
昨日のキョドルト・ヴァレルのライブに来てくれた人、その場に居てくれた人、どうもありかとうございました。
代々木ブーガルーでライブやる時は必ず寄る「なぎ屋」といういい感じの居酒屋があって、他の場所でやるライブとはちょっと違う特別なイベントじみたものがある。
物干し台のような風通しのいい二階席でメンバーと呑みながら、
「酒と旨い肴と仲間との楽しい会話があれば、ドラッグなんかいらないのになぁ」
と感じた。俺は芸能人じゃないし、覚せい剤もやった事もないけど、そんなものを知らなくても充分ハイになれるじゃないか、とつくづく思うし、米や芋から作った焼酎や、野菜や魚や肉を食らってナチュラルトリップできりゃそれで充分だ。知覚の扉を開くためのドラッグなんて無くたっていい。知らないからそう言うんだと言われても構わない、知らなくてもいい。
音楽はその存在だけで充分ドラッギーだし、自分でそんなドラッギーなものを生み出そうとする行為こそトリップだ。
これからも旨い酒を呑むために頑張ろう。全てはそこに通じるんだろう。
流石っていう焼酎は旨いよ。
代々木ブーガルーでライブやる時は必ず寄る「なぎ屋」といういい感じの居酒屋があって、他の場所でやるライブとはちょっと違う特別なイベントじみたものがある。
物干し台のような風通しのいい二階席でメンバーと呑みながら、
「酒と旨い肴と仲間との楽しい会話があれば、ドラッグなんかいらないのになぁ」
と感じた。俺は芸能人じゃないし、覚せい剤もやった事もないけど、そんなものを知らなくても充分ハイになれるじゃないか、とつくづく思うし、米や芋から作った焼酎や、野菜や魚や肉を食らってナチュラルトリップできりゃそれで充分だ。知覚の扉を開くためのドラッグなんて無くたっていい。知らないからそう言うんだと言われても構わない、知らなくてもいい。
音楽はその存在だけで充分ドラッギーだし、自分でそんなドラッギーなものを生み出そうとする行為こそトリップだ。
これからも旨い酒を呑むために頑張ろう。全てはそこに通じるんだろう。
流石っていう焼酎は旨いよ。
こないだあるドキュメント番組で、現在も左翼活動を続ける中核派に所属している20代の学生や、街宣車に乗ってアジテーションを続ける右翼のおっさんを取り上げていた。
ノンポリ学生の白け切った視線をものともせず、大学の校門前で警察と小競り合いしながら「我々は革命を起こさなければいけないのだー!」とかなんとか叫ぶ中核派、街宣車から爆音で軍歌を流しながら、体制翼賛なお題目をグルーヴレスに唱え、たまにアメリカかぶれな一般人を見掛けると「恥知らずが!国から出て行け〜」と怒鳴ったりする右翼中年。
取材をするクルーが「一般の人に迷惑がられながらやる活動や、危害を加えるようなやり方は逆効果では?」と問うと、そこは右左同じような答え。
「革命を遂行するためならば暴力行使はやむを得ない」
「自分の主張が正しければ、たとえ騒音になろうとも大きな音で民衆に聞かせる」
どう見ても一般人の誰もまともに彼らを相手にしてないし、誰も彼らの文言など一笑に付しているだけなのに、彼らはああいった戦略をやめない。
「もう少しやり方を変えてみようとは思わないんですか?」
「それは大衆に迎合する事にな〜る!」
本当に自らの考えを「伝える」ために活動しているのなら、現在行使している方法論ではダメだから、なんとかより皆とコミットできる新たな戦略を練る、という発想になるはずだ。
しかしそれは大衆への迎合だという。
では彼らにとって大衆とはなんぞや?「伝える」相手は大衆ではないのか?その大衆にコミットすること対して「迎合」というスタンスでの発想しか出来ないのか?
彼らは本当の意味で革命を起こしたい訳でも、天皇を中心とする神国を築きたい訳でもなく、たた自らのスタイル、大衆に伝播しないという敗北主義も含めて、そのスタイルに陶酔したまま殉教したいだけだ。自分達の考えが伝わらないのは大衆が愚かなだけだ、ばーかばーか、あっちいけー愚民ども、それに引き換え俺たちゃなんて尊い殉教者なんだ、と世間の人に思ってもらいたいだけ。
どんなに素晴らしい作品を作っても、それをちゃんと人々に伝わるようなプレゼンテーションをしなければ右翼左翼と目クソ鼻クソだなぁ、とそのドキュメントを観ながら思った。
最もダイレクトで効果的なプレゼンテーションはライブだ。デモ隊突入すんのも、街宣車に乗ってアジテーションすんのもある意味ライブだ。
しかし人の迷惑省みず爆音軍歌を流すような、お客さんを疎外するようなノイズを吐くのだきゃやりたくない。ましてや暴力反対!ラブ&ピース!ラム&コーク!
実態の分からない「革命」とやらにリアリティを持たせるためにグルーヴとかハピネスとか侘び錆びとかの手練手管を駆使するのがロックだから、街宣車に見立てたステージから目一杯「味なてんしょん」を放つんだ〜。
という苦しいシャレにまぎれてライブ告知を。
もう本日になってしまっただ。
8月20日(木)代々木ブーガルーにて「Rock Garden」なるイベントっつうかブッキングです。
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:USUAL RAIN、キョドルト・ヴァレル、ブルースロマン
うちらは今回3番目の20:20から。たぶん酒で喉を湿らせて挑むんでいいてんしょんです!いいテンポです!つしまみれカッコいいなぁ...。
〒151-0053
渋谷区代々木1-42-4 代々木P1ビルB1
LIVEHOUSE Bogaloo(ブーガル)
tel&fax03−3320−5895
HP http://www.bogaloo.net
平日真っ直中ですがよかったら是非是非遊びに来て下さい。
ノンポリ学生の白け切った視線をものともせず、大学の校門前で警察と小競り合いしながら「我々は革命を起こさなければいけないのだー!」とかなんとか叫ぶ中核派、街宣車から爆音で軍歌を流しながら、体制翼賛なお題目をグルーヴレスに唱え、たまにアメリカかぶれな一般人を見掛けると「恥知らずが!国から出て行け〜」と怒鳴ったりする右翼中年。
取材をするクルーが「一般の人に迷惑がられながらやる活動や、危害を加えるようなやり方は逆効果では?」と問うと、そこは右左同じような答え。
「革命を遂行するためならば暴力行使はやむを得ない」
「自分の主張が正しければ、たとえ騒音になろうとも大きな音で民衆に聞かせる」
どう見ても一般人の誰もまともに彼らを相手にしてないし、誰も彼らの文言など一笑に付しているだけなのに、彼らはああいった戦略をやめない。
「もう少しやり方を変えてみようとは思わないんですか?」
「それは大衆に迎合する事にな〜る!」
本当に自らの考えを「伝える」ために活動しているのなら、現在行使している方法論ではダメだから、なんとかより皆とコミットできる新たな戦略を練る、という発想になるはずだ。
しかしそれは大衆への迎合だという。
では彼らにとって大衆とはなんぞや?「伝える」相手は大衆ではないのか?その大衆にコミットすること対して「迎合」というスタンスでの発想しか出来ないのか?
彼らは本当の意味で革命を起こしたい訳でも、天皇を中心とする神国を築きたい訳でもなく、たた自らのスタイル、大衆に伝播しないという敗北主義も含めて、そのスタイルに陶酔したまま殉教したいだけだ。自分達の考えが伝わらないのは大衆が愚かなだけだ、ばーかばーか、あっちいけー愚民ども、それに引き換え俺たちゃなんて尊い殉教者なんだ、と世間の人に思ってもらいたいだけ。
どんなに素晴らしい作品を作っても、それをちゃんと人々に伝わるようなプレゼンテーションをしなければ右翼左翼と目クソ鼻クソだなぁ、とそのドキュメントを観ながら思った。
最もダイレクトで効果的なプレゼンテーションはライブだ。デモ隊突入すんのも、街宣車に乗ってアジテーションすんのもある意味ライブだ。
しかし人の迷惑省みず爆音軍歌を流すような、お客さんを疎外するようなノイズを吐くのだきゃやりたくない。ましてや暴力反対!ラブ&ピース!ラム&コーク!
実態の分からない「革命」とやらにリアリティを持たせるためにグルーヴとかハピネスとか侘び錆びとかの手練手管を駆使するのがロックだから、街宣車に見立てたステージから目一杯「味なてんしょん」を放つんだ〜。
という苦しいシャレにまぎれてライブ告知を。
もう本日になってしまっただ。
8月20日(木)代々木ブーガルーにて「Rock Garden」なるイベントっつうかブッキングです。
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:USUAL RAIN、キョドルト・ヴァレル、ブルースロマン
うちらは今回3番目の20:20から。たぶん酒で喉を湿らせて挑むんでいいてんしょんです!いいテンポです!つしまみれカッコいいなぁ...。
〒151-0053
渋谷区代々木1-42-4 代々木P1ビルB1
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tel&fax03−3320−5895
HP http://www.bogaloo.net
平日真っ直中ですがよかったら是非是非遊びに来て下さい。
1969年はウッドストック・フェスティバルが開かれた年である。
一頃前までは今のロックフェスの元祖として、またそのスローガン通り「愛と平和と音楽の三日間」で、当時のヒッピー哲学にもとずく幸福なフェスという伝説になっていたが、後年、その内情がいかにずさんでいい加減だったか、出演したミュージシャンのエゴや金銭トラブルなどによるゴタゴタが相次ぎ、身勝手な群衆が招いた混乱が頻発していたかを検証するようなテキストやドキュメントが発表され、決して夢のような世界がそこにあったわけではなかったというのが露になっていった。最近でもウッドストックから40周年ということであの映画「ウッドストック」のディレクターズカットやドキュメント、ジャニス・ジョプリンやスライ&ザ・ファミリーストーンらのウッドストックにおけるライブ音源が単独でリリースされたりしている。
しかしウッドストックもののライブとしてはかなり前から単独でリリースされていたのが、他でもないジミ・ヘンドリックスだ。それくらいこのウッドストックにおけるジミヘンのステージは伝説的な名演とされ、早くからフェスのハイライトであったことは語られていたが、実際はこのウッドストック・フェスティバル自体と同じように、非常に混乱した中で始まり虚しく終わったライブで、決して最高の状況で迎えたわけではないし、最高潮の演奏で大観衆と共に盛り上がり切ったライブではなかった。そういう意味でもウッドストック幻想と真実を見事に象徴していたライブであった。
当時ジミヘンはこうしたフェスやイベントに出演する場合は必ずトリを飾っていたスターであった。ハードコアな音楽を追求しながら同時にポップでもあり、まさにサイケでフラワーな時代のヒーローであった。
しかし内実では混乱をきたしており、マフィアのようなマネージャーからの圧力と過密スケジュールによる疲れ、そこからくるメンバー間の不和、当代一の人気者に近寄ってくる魑魅魍魎、そこから流れてくるドラッグへの依存、などなど、まさに60年代後半の混乱の時代をそのまま体現するかのような状態であった。
ウッドストックへの出演が決まってからも、いきなりそれまでのトリオを解体し新たな布陣で再スタート、とかなりゴタゴタしていた。しかもそれまでの編成にはいなかったセカンド・ギタリストやパーカッション二人を加えての新たなスタイルを試みていたためか、リハーサルも中々進まず、音楽的方向が定まらないまま本番を迎える事となった。おまけにドラッグの影響かジミは三日間寝ていない状態で疲労困憊し切っていたという。
さらに悪い事に、フェスのずさんな運営により進行は遅れに遅れ、当初の出演予定では最高潮の盛り上がりをみせる最終日の夜のはずだったが、結局ジミヘンが登場したのが翌日の朝もだいぶ空けた頃だった。ピーク時には50万人近くいたと言われるオーディエンスは3〜4万になっていた。理由は月曜日になっていたから(笑)。なにが自由だよ。それにしても今だとこんなの有り得ないよなぁ。絶対怒って帰るだろう。よくジミはライブをやろうと思ったよなぁと不思議でしょうがない。。
とにかく疲労と混乱の中始まったステージは、確かに前半は精彩に欠いているとこもあり、演奏中にコードチェンジの指示をしたり、バラバラのアンサンブルに我関せずな顔をしてタバコをふかしてたり、一切譲り合わないエゴむき出しの二人のパーカッションにうんざりしたような表情をみせるジミの様子が映像で確認出来る。
しかし中盤の「ジャム・バック・アット・ザ・ハウス」や「ヴゥードゥー・チャイル」あたりから完全に火が付き、予定にはなかった「アメリカ国家」を突然やりだしてからは、まさにジミの独壇場、伝説の名に相応しい奇跡的なギターの爆音を鳴り響かせる。個人的にはこの「アメリカ国家」から「紫の煙」〜「ウッドストック・インプロヴィゼイション」〜「ヴィラノヴァ・ジャンクション」へと続く15分間は、音楽の神がジミに取り憑いてギターを弾かせているんじゃないかと思えるほど、超越的な空気を放ちながら、驚異的な表現力とテクニックで弾き倒している。
ファズとユニヴァイブとアーミングによる爆撃音のようなノイズ、マシンガンのような早弾き、津軽三味線のようなグルーヴィーなカッティング、ジャズスケールやブルージーなフレーズを駆使して驚くほど表情豊かなアドリブを繰り出すジャム、とまさにジミヘンのギター博覧会とも言うべき多才なプレイが繰り広げられている。
まるでリハーサルをしてるかのようにラフに演奏される「ヴィラノヴァ・ジャンクション」の「果てた後」の様な寂しげなプレイを聴いてると、観客が帰った後のゴミだらけの荒涼としたライブ会場に流れるのにこれほどうってつけの音楽もないと思えてくる。
ただその後アンコールで出て来て絶倫「ファイヤー」を猛烈なスピードで演奏するのだが(笑)。
ジミヘンにとっては決して納得のいく演奏ではなかったようだが、図らずも激動の時代とヒッピー幻想の終焉を感じさせ、やがて資本に取り込まれ組織化されて行くロックとの巨大な隔たりさえもノイズギターで表現してしまっていたという意味で、ウッドストックにおけるこの15分間は奇跡の15分だと思うし、ロックの魔法を最も体現する世紀の名演だと思う。
この時期のジミは、ライブにおいては相変わらず曲芸的なアクションと「ギター壊し」を要求するオーディエンスにかなり辟易していたが、スタジオレコーディングにおいてはサイケなブルース・ハードロックに別れを告げ、新たなステージであるより構築的なファンクミュージックに接近していた。まるでウッドストック幻想に象徴されるような空疎な理想主義のヒッピーイズムを断ち切って、より具体的な行動によって理想を追求するかのように。
当時のファンクミュージックにはアフロ・アメリカンに対して自覚と行動を促す求心力があったので、突然変異のブルースマンであったジミがサイケという「時代の意匠」を脱ぎ捨て、より黒人のアイデンティティーに根差したファンクミュージックに活路を見出だしたのはまさに必定だったとは言える。
その独自のファンク路線がジミの他界によって試行錯誤のまま頓挫してしまったことは大変悔やまれるが、果たしてこのウッドストックで見せたような神々しい風景を再び創造し得たかどうかは神のみぞ知るところだし、ジミが疾走したそれまでの3年間の魔法は、本人の天才性もさることながら、時代の勢いが荷担した部分もかなり大きいので、それまで以上の実りある創作活動が出来ていたかはどこか疑問符が付いて回る。
それを思うと本当にこのウッドストックの開催された1969年というのはジミヘン本人にとっての分岐点でもあるが、もっと大きな時代そのもののターニングポイントであったのだなぁとつくづく思う。理想と幻想で膨れ上がった60年代が飽和点を迎え、よりシビアに現実と対峙し、したたかに巨大化する70年代のロックビジネスを開始した年だったのだ。
ジミのような宇宙的スケールを持った夢想家が、資本化し組織化する70年代のロックに取り込まれる前に死んだのは「必然」だったのだと、運命論めいたものを感じる。
一頃前までは今のロックフェスの元祖として、またそのスローガン通り「愛と平和と音楽の三日間」で、当時のヒッピー哲学にもとずく幸福なフェスという伝説になっていたが、後年、その内情がいかにずさんでいい加減だったか、出演したミュージシャンのエゴや金銭トラブルなどによるゴタゴタが相次ぎ、身勝手な群衆が招いた混乱が頻発していたかを検証するようなテキストやドキュメントが発表され、決して夢のような世界がそこにあったわけではなかったというのが露になっていった。最近でもウッドストックから40周年ということであの映画「ウッドストック」のディレクターズカットやドキュメント、ジャニス・ジョプリンやスライ&ザ・ファミリーストーンらのウッドストックにおけるライブ音源が単独でリリースされたりしている。
しかしウッドストックもののライブとしてはかなり前から単独でリリースされていたのが、他でもないジミ・ヘンドリックスだ。それくらいこのウッドストックにおけるジミヘンのステージは伝説的な名演とされ、早くからフェスのハイライトであったことは語られていたが、実際はこのウッドストック・フェスティバル自体と同じように、非常に混乱した中で始まり虚しく終わったライブで、決して最高の状況で迎えたわけではないし、最高潮の演奏で大観衆と共に盛り上がり切ったライブではなかった。そういう意味でもウッドストック幻想と真実を見事に象徴していたライブであった。
当時ジミヘンはこうしたフェスやイベントに出演する場合は必ずトリを飾っていたスターであった。ハードコアな音楽を追求しながら同時にポップでもあり、まさにサイケでフラワーな時代のヒーローであった。
しかし内実では混乱をきたしており、マフィアのようなマネージャーからの圧力と過密スケジュールによる疲れ、そこからくるメンバー間の不和、当代一の人気者に近寄ってくる魑魅魍魎、そこから流れてくるドラッグへの依存、などなど、まさに60年代後半の混乱の時代をそのまま体現するかのような状態であった。
ウッドストックへの出演が決まってからも、いきなりそれまでのトリオを解体し新たな布陣で再スタート、とかなりゴタゴタしていた。しかもそれまでの編成にはいなかったセカンド・ギタリストやパーカッション二人を加えての新たなスタイルを試みていたためか、リハーサルも中々進まず、音楽的方向が定まらないまま本番を迎える事となった。おまけにドラッグの影響かジミは三日間寝ていない状態で疲労困憊し切っていたという。
さらに悪い事に、フェスのずさんな運営により進行は遅れに遅れ、当初の出演予定では最高潮の盛り上がりをみせる最終日の夜のはずだったが、結局ジミヘンが登場したのが翌日の朝もだいぶ空けた頃だった。ピーク時には50万人近くいたと言われるオーディエンスは3〜4万になっていた。理由は月曜日になっていたから(笑)。なにが自由だよ。それにしても今だとこんなの有り得ないよなぁ。絶対怒って帰るだろう。よくジミはライブをやろうと思ったよなぁと不思議でしょうがない。。
とにかく疲労と混乱の中始まったステージは、確かに前半は精彩に欠いているとこもあり、演奏中にコードチェンジの指示をしたり、バラバラのアンサンブルに我関せずな顔をしてタバコをふかしてたり、一切譲り合わないエゴむき出しの二人のパーカッションにうんざりしたような表情をみせるジミの様子が映像で確認出来る。
しかし中盤の「ジャム・バック・アット・ザ・ハウス」や「ヴゥードゥー・チャイル」あたりから完全に火が付き、予定にはなかった「アメリカ国家」を突然やりだしてからは、まさにジミの独壇場、伝説の名に相応しい奇跡的なギターの爆音を鳴り響かせる。個人的にはこの「アメリカ国家」から「紫の煙」〜「ウッドストック・インプロヴィゼイション」〜「ヴィラノヴァ・ジャンクション」へと続く15分間は、音楽の神がジミに取り憑いてギターを弾かせているんじゃないかと思えるほど、超越的な空気を放ちながら、驚異的な表現力とテクニックで弾き倒している。
ファズとユニヴァイブとアーミングによる爆撃音のようなノイズ、マシンガンのような早弾き、津軽三味線のようなグルーヴィーなカッティング、ジャズスケールやブルージーなフレーズを駆使して驚くほど表情豊かなアドリブを繰り出すジャム、とまさにジミヘンのギター博覧会とも言うべき多才なプレイが繰り広げられている。
まるでリハーサルをしてるかのようにラフに演奏される「ヴィラノヴァ・ジャンクション」の「果てた後」の様な寂しげなプレイを聴いてると、観客が帰った後のゴミだらけの荒涼としたライブ会場に流れるのにこれほどうってつけの音楽もないと思えてくる。
ただその後アンコールで出て来て絶倫「ファイヤー」を猛烈なスピードで演奏するのだが(笑)。
ジミヘンにとっては決して納得のいく演奏ではなかったようだが、図らずも激動の時代とヒッピー幻想の終焉を感じさせ、やがて資本に取り込まれ組織化されて行くロックとの巨大な隔たりさえもノイズギターで表現してしまっていたという意味で、ウッドストックにおけるこの15分間は奇跡の15分だと思うし、ロックの魔法を最も体現する世紀の名演だと思う。
この時期のジミは、ライブにおいては相変わらず曲芸的なアクションと「ギター壊し」を要求するオーディエンスにかなり辟易していたが、スタジオレコーディングにおいてはサイケなブルース・ハードロックに別れを告げ、新たなステージであるより構築的なファンクミュージックに接近していた。まるでウッドストック幻想に象徴されるような空疎な理想主義のヒッピーイズムを断ち切って、より具体的な行動によって理想を追求するかのように。
当時のファンクミュージックにはアフロ・アメリカンに対して自覚と行動を促す求心力があったので、突然変異のブルースマンであったジミがサイケという「時代の意匠」を脱ぎ捨て、より黒人のアイデンティティーに根差したファンクミュージックに活路を見出だしたのはまさに必定だったとは言える。
その独自のファンク路線がジミの他界によって試行錯誤のまま頓挫してしまったことは大変悔やまれるが、果たしてこのウッドストックで見せたような神々しい風景を再び創造し得たかどうかは神のみぞ知るところだし、ジミが疾走したそれまでの3年間の魔法は、本人の天才性もさることながら、時代の勢いが荷担した部分もかなり大きいので、それまで以上の実りある創作活動が出来ていたかはどこか疑問符が付いて回る。
それを思うと本当にこのウッドストックの開催された1969年というのはジミヘン本人にとっての分岐点でもあるが、もっと大きな時代そのもののターニングポイントであったのだなぁとつくづく思う。理想と幻想で膨れ上がった60年代が飽和点を迎え、よりシビアに現実と対峙し、したたかに巨大化する70年代のロックビジネスを開始した年だったのだ。
ジミのような宇宙的スケールを持った夢想家が、資本化し組織化する70年代のロックに取り込まれる前に死んだのは「必然」だったのだと、運命論めいたものを感じる。
こないだから忌野清志郎をはじめマイケル・ジャクソン、アベフトシといった大物ミュージシャンや、大原麗子、山城新吾といった大物タレントの死が相次ぎ、酒井法子や押尾学といったよく知られたタレントの逮捕も相次いだ。
また現在のお笑い隆盛を反映してか芸人の結婚のニュースが相次ぎ、松本人志やホリケンといった大物芸人まで結婚した。
60年続いた自民党政権が交代しそうだし、なんか今年は終わりと始まりが交錯する年のようだ。
10年の終わりの年っつうのはなにかとゴタゴタするみたいだ。
10年前の1999年に文化面で起こった事を調べたら、三木のり平、由利徹といった喜劇俳優、名優千秋実、ジャイアント馬場といった昭和を代表するスターの死去、宇多田ヒカル、ドラゴン・アッシュ、椎名林檎といったその後の10年を代表するミュージシャンのメガヒット、今につながるお笑いブームの始まりなどがあった。
個人的にも1999年は、20代後半ずっと付き合うことになるレコード会社から声が掛かった年だ。うん、確かにゴタゴタはしてたな。そことの出会いがなければワイセッツも生まれなかったし、今付き合いのあるミュージシャンとも会わなかったわけだから、やっぱり始まりの年だったんだろうな。そういやついこないだ、長らく連絡をとっていなかった元プロデューサーのヤマサキさんに偶然街で出合ったな。なんだか妙に嬉しかったが、なんやかんや一周回ったってことか。
今年は色々なことを総括しなきゃいかんのだろう。とはいうものの10年に一遍だけものを考えても仕方ないんで、日々
なんやかんや実践しながら生きるしかないんだが。
さて来週の木曜日、代々木ブーガルーでキョドルト・ヴァレルのライブあります。時間は20時20分くらいからです。是非おいでませ。
8月20日(木) 「Rock Garden」
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:USUAL RAIN、キョドルト・ヴァレル、ブルースロマン
〒151-0053
渋谷区代々木1-42-4 代々木P1ビルB1
LIVEHOUSE Bogaloo(ブーガル)
tel&fax03−3320−5895
HP http://www.bogaloo.net
また現在のお笑い隆盛を反映してか芸人の結婚のニュースが相次ぎ、松本人志やホリケンといった大物芸人まで結婚した。
60年続いた自民党政権が交代しそうだし、なんか今年は終わりと始まりが交錯する年のようだ。
10年の終わりの年っつうのはなにかとゴタゴタするみたいだ。
10年前の1999年に文化面で起こった事を調べたら、三木のり平、由利徹といった喜劇俳優、名優千秋実、ジャイアント馬場といった昭和を代表するスターの死去、宇多田ヒカル、ドラゴン・アッシュ、椎名林檎といったその後の10年を代表するミュージシャンのメガヒット、今につながるお笑いブームの始まりなどがあった。
個人的にも1999年は、20代後半ずっと付き合うことになるレコード会社から声が掛かった年だ。うん、確かにゴタゴタはしてたな。そことの出会いがなければワイセッツも生まれなかったし、今付き合いのあるミュージシャンとも会わなかったわけだから、やっぱり始まりの年だったんだろうな。そういやついこないだ、長らく連絡をとっていなかった元プロデューサーのヤマサキさんに偶然街で出合ったな。なんだか妙に嬉しかったが、なんやかんや一周回ったってことか。
今年は色々なことを総括しなきゃいかんのだろう。とはいうものの10年に一遍だけものを考えても仕方ないんで、日々
なんやかんや実践しながら生きるしかないんだが。
さて来週の木曜日、代々木ブーガルーでキョドルト・ヴァレルのライブあります。時間は20時20分くらいからです。是非おいでませ。
8月20日(木) 「Rock Garden」
open18:30 start19:00 ticket2000円(ドリンク別)
出演:USUAL RAIN、キョドルト・ヴァレル、ブルースロマン
〒151-0053
渋谷区代々木1-42-4 代々木P1ビルB1
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tel&fax03−3320−5895
HP http://www.bogaloo.net