2011年02月
明日の夜、東新宿のライブハウス「真昼の月夜の大陽」という俺の最近のお馴染みの場所で、セッション大会にふらっと参加する予定。
実は先月も参加していて、そういう時じゃなきゃ中々やる機会がないスローブルースをぶちかましたけど、さて今回はどうなるのやら。
ミュージシャンで参加したい人は参加料金千円で出来るはず。
「オラァ!やったらんかい」という気分より、気楽に酒でも呑みながら軽く酔いが回ってきたらいっちょ揉んでやるかってくらいの気持ちg相応しい雰囲気だけど、面白そうって思った人、参加してみないかい?楽器やらないヴォーカリストだって参加してるしよ。
もちろん普通に呑みに来るもよし、月曜日の鬱陶しい夜に軽く憂さ晴らしにどうだろう?
実は先月も参加していて、そういう時じゃなきゃ中々やる機会がないスローブルースをぶちかましたけど、さて今回はどうなるのやら。
ミュージシャンで参加したい人は参加料金千円で出来るはず。
「オラァ!やったらんかい」という気分より、気楽に酒でも呑みながら軽く酔いが回ってきたらいっちょ揉んでやるかってくらいの気持ちg相応しい雰囲気だけど、面白そうって思った人、参加してみないかい?楽器やらないヴォーカリストだって参加してるしよ。
もちろん普通に呑みに来るもよし、月曜日の鬱陶しい夜に軽く憂さ晴らしにどうだろう?
一昨日からの準備の仕上げに始まり、昨日の夜まで約35時間ぶっ通しで動き回って引っ越しとりあえず一段落。土屋と井上に安いギャラ(回転寿司)で助っ人してもらいなんとか格好がついた。
で、さっき部屋の明け渡しを終え、4年間住んだ高津の家、7年間住んだ高津溝ノ口近辺におサラヴァし、久々に都民に戻ることになった。
とは言え、色んな思い出やらなんやらが交錯する多摩川を渡るのはなんとも言えない寂しさがあるのは事実。
神奈川県民になってからの7年間には、そりゃぁもういろんなことがあったし、多摩川を歩きながら色々な事をもの思ったりした。
呆けるくらい幸福だったときも、涙もでないくらいズタボロだったときも、この街にて存在してた。
恐らく当分ここらへんは近寄らないだろうけど、何年か経ったときに、あんまり切なくない感じで懐かしみたいもんだ。
そのためにも今を充実させねーとな。今日からは杉並区民だ。わたし今日からよその人になります。
ちなみに新しい俺の安アパートの名前は「アーバンライフ」(笑)。嬉しぃなぁ、今日からアーバンライフが始まるぞ。
昨日の作業時、前の部屋よりも狭くなった新しい部屋にすべての荷物を運び終えた時、井上が部屋を眺めながら「バカか?」と言いやがったが、まあそれくらい荷物で溢れかえった状態だったのさ。居住スペースが無いくらい。
でもな、俺のレイアウトマジックをなめんじゃねぇよ、フフフ。実家で自分の部屋をもらって以来、部屋のレイアウトチェンジは俺の趣味よ。...まあ今気付いたんだけどさ。
昨日の夜、ヘロヘロの身体にムチ打ちながらも、ある程度の目算をたてて物を仮置きしたら、前の家よりもスッキリしたいい部屋になりそうだと俺のぶっ壊れたカンピューター(古いねどうも)がはじき出してるなう。土屋の風水アドバイス(笑)通り、窓際から入り口の方へ向かって背の高い順に本棚を並べたしな。
ということで断捨利を全然実践できない男の報告でした。でも捨てられるもんは捨てよう...。じゃねぇとなんも始まらないし。
で、さっき部屋の明け渡しを終え、4年間住んだ高津の家、7年間住んだ高津溝ノ口近辺におサラヴァし、久々に都民に戻ることになった。
とは言え、色んな思い出やらなんやらが交錯する多摩川を渡るのはなんとも言えない寂しさがあるのは事実。
神奈川県民になってからの7年間には、そりゃぁもういろんなことがあったし、多摩川を歩きながら色々な事をもの思ったりした。
呆けるくらい幸福だったときも、涙もでないくらいズタボロだったときも、この街にて存在してた。
恐らく当分ここらへんは近寄らないだろうけど、何年か経ったときに、あんまり切なくない感じで懐かしみたいもんだ。
そのためにも今を充実させねーとな。今日からは杉並区民だ。わたし今日からよその人になります。
ちなみに新しい俺の安アパートの名前は「アーバンライフ」(笑)。嬉しぃなぁ、今日からアーバンライフが始まるぞ。
昨日の作業時、前の部屋よりも狭くなった新しい部屋にすべての荷物を運び終えた時、井上が部屋を眺めながら「バカか?」と言いやがったが、まあそれくらい荷物で溢れかえった状態だったのさ。居住スペースが無いくらい。
でもな、俺のレイアウトマジックをなめんじゃねぇよ、フフフ。実家で自分の部屋をもらって以来、部屋のレイアウトチェンジは俺の趣味よ。...まあ今気付いたんだけどさ。
昨日の夜、ヘロヘロの身体にムチ打ちながらも、ある程度の目算をたてて物を仮置きしたら、前の家よりもスッキリしたいい部屋になりそうだと俺のぶっ壊れたカンピューター(古いねどうも)がはじき出してるなう。土屋の風水アドバイス(笑)通り、窓際から入り口の方へ向かって背の高い順に本棚を並べたしな。
ということで断捨利を全然実践できない男の報告でした。でも捨てられるもんは捨てよう...。じゃねぇとなんも始まらないし。
ライブ観戦が趣味という人に比べたら圧倒的に少ないけれど、それなりにライブというものは観てきた。
それこそクラプトンやポールマッカートニー、ジョージハリスン、クリムゾン、といったロック・レジェンドや、清志郎さんや矢野顕子さんといった天才、エレカシや奥田民生、ミッシェル・ガン・エレファントといったロックのお手本、あるいは巻上公一さんのヴォイスパフォーマンス(精神に栄養を注ぎ込まれるようなパフォーマンスだった)のような前衛的なもの、はたまた伝説の第一回第二回フジロック(ビョークのステージはあまりにも濃厚すぎるエモーションの放出で、感動のあまり虚脱してしまった)も死線をさ迷いながら観たし、知り合いのバンドのライブは無数に見ている。
しかしそのなかで最も「ライブ」というものをリアルに実感し、自分のライブに対する考え方を強烈に決定付けたのは「opus」、オーパスというユニットだ。
これはヤマサキテツヤさんという、俺が生まれて初めて叩き上げのミュージシャンの恐ろしさを思い知らされ、トラウマにさえなった(笑)ドラマー、プロデューサーの彼が一時期やっていたユニットで、日本のジミー・スミス(というと本人はどう思うのか分からんけど)こと河合代介さんが自分のハモンドB3を持ち込んで参加した超豪華ユニット。
で、このユニットのファーストライヴと二回目のライブを観たんだが、なんとどちらもライブハウスという至近距離で見るという実に贅沢なライブを体験してしまったのだ。確かそんときはワイセッツ全員で行ったな。
で、ファーストライヴを観たときは、本当に凄い音楽、凄いグルーヴというのはここまで人の体を揺さぶり、脳ミソをシェイクし、思考停止させてしまうもんかと、驚きおののいた(笑)。どんなロックレジェンドのライブでも味わえなかった本物のグルーヴの凄みを感じたなぁ。
で、そんなもんを味わったら次も絶対!と思ってセカンドライヴに行ったら、これが全然気持ちよくなかったのだ。
演奏にミスがあったわけでも、ステージトラブルがあったわけでもなく、相変わらず凄まじい演奏をしてたし、勿論自分の心のバイオリズムが不調だったわけではなく、むしろ純粋に魔法のグルーヴに体を委ねようと(俺としては極めて珍しく)シンプルな気持ちでライブに挑んだはずにも関わらず、全く魔法が感じられなかったのだ。
で、なんでだろう~なんでだろう~(古いねどうも)と不思議がってたんだが、MCの時にハタと気付いた。どうもメンバー同士のトークセッションがぎこちないのだ。普段は関西出身のヤマサキテツヤさんを筆頭に皆さんほんとにショーマンシップに溢れる爆笑トークを繰り広げるのだが、その日は妙にギクシャクしていて、シラケた空気がステージに漂っており、会場にもモロに伝わってきた。で、とっととMCを切り上げて曲をやり始めるんだが、やっぱりテンションが上がりきらない。
問題なく凄い演奏で、耳ではそれを認識できるのに身体は反応しない。
身体は実に正直なもんで、たとえ俺が大嫌いなジャンル、ヘヴィーメタルとかブラコンとかだとしても、本当にいいグルーヴがあれば「口ではイヤだイヤだと言っても身体は正直だなぁグヘヘ」と自分を辱しめられるのに、オーパスは自分が大好きなジャズファンク系にもかかわらずまるっきりコない。
終わったあと「なんでなの?」と本人に言質は取りたかったが、恐ろしいので(笑)出来なかったけど、多分あの日はメンバー内になんらかの不和があったに違いないと、そうふんでるんよワシは。
で、思った。「ライブ」を「ライブ」足らしめるもの、「グルーヴ」を「グルーヴ」足らしめるものは、実際に出ている音そのものよりも、その場に存在する「空気」そのものに他ならないと。
勿論いい演奏がそれを誘発するから音は大事であることに違いないんだけど、たとえミストーンがあろうとも、たとえハプニングがあろうとも、それが音楽的にグッとくるミスであったり、憎めない人間性が誘発したハプニングであるなら、むしろいいグルーヴを爆発させるための燃焼材になりうる。
逆にどんなに完璧で高度な演奏をしようとも、そこに音楽やライブに対して肯定的な気持ち、正直な人間性が滲んでこなけりゃなにも伝わらないし気持ちよくない。シンガーソングライターのバックでいかにも「お仕事」っぽいヌルイ演奏しているバンドを見るたびにその認識を強くする。まあそれはそのシンガーソングライターの責任だけど。
図らずも俺が観た二回目のオーパスは、どれだけ百戦錬磨で精神のコントロールなどできて当然のプロ中のプロでも、音楽に対しては真摯なユニットであるからこそ、微妙なバイオリズムの食い違いが「正直」に伝わってしまうというライブ、生ものの残酷さを顕在化したライヴであったんだと勝手に理解している。一回目のライブが奇跡的なライブであっただけにより強くそう思う。
で、こんな発見を自分の音楽に反映させない俺ではない。ワイセッツ会議というか飲み会でもさんざっぱらこの二回のライブの比較検証をやった記憶がある。
で、俺の短絡的な所は、ハプニングやアドリブを敢えてやれば、それに誘発されて緊張感が生まれテンションが上がり、スリルのあるグルーヴが現出し、お客さんに突き刺さるんではないかと図式化して捉えてしまったところだ。
楽曲の構造としてそういったハプニング要素を盛り込みやすかった「またぞろ一人」や「ハカマハケ」にはそれが顕著に現れ始めて、さぞかしメンバーはめんどくさかったろうと今は想像出来るのだが、そんときは頭に血が上ってるからしょうがない。
次第にほとんどの楽曲においても歌い回しやリズムを変えたり、ギターソロなんざ全部アドリブで、という元々あった癖がさらに加速をつけて暴走してしまった。
今だにそういう実験意欲を否定する気は更々無いが、ハプニングは本当に予期しないところで起こるからハプニングなのであって、誘発してどうのこうのではなく、むしろそれを毎回やってるとそれこそ予定調和になる。という観念地獄になってしまった。俺みたいなタイプの人間の類型的な例だ。
後々になって気付くのだが、たとえアドリブやハプニングがなく、既存の音源を丸っきり再現してるだけだとしても、そこに真摯な気持ち、高い熱量があれば同じように音楽の魔法は生まれえるということ。まあそれはまた別の話だが。
そういえば音楽マジックを芯から体感したライブがもうひとつあった。シンガーソングライターのハシケンさんのライブだ。
これまたドラムにヤマサキテツヤさん、ベースに岩井エイキチさん、河合代介さんのオルガンという最強のリズムセクションを従えてのライブで、勿論文句なしにカッコいいグルーヴだったんだが、本当に音楽の魔法を体感したのはそのバンド隊の前半が終わり、ダブ専門(かどうかは分からないが)のリズム隊を迎えた後半のダブセッションだった。
このときのダブのグルーヴがどれだけ凄かったかを表現する言葉はこの世に存在しないが、音楽によってここまで空気って変わるもんか、ここまで身体に悦びをもたらすグルーヴってあるもんかと、自分の全細胞が反応していたことだけは確かだ。
一緒に行ったワイセッツの面々も同じことを思ったはずで、ライブ終わりに渋谷のお好み焼き屋で酒を呑みながら、広角泡を飛ばしながら「如何に凄い体験をしたか」を話したことをよく覚えている。
やっぱりこういう体験って生じゃなきゃ味わえない。
俺なんかはどちらかというとヘッドフォンで音の隅々を味わい尽くす方が好きという典型的なインドア派のリスナーで、よっぽどのことじゃなきゃライブにいきたいと思わない不義理な奴なんだけど、こんな俺でも最終的には音楽は生に限るっていう結論に至る。
オンエアーって言葉があるが、その場の空気に放たれ、そして消えていく儚い「生もの」の音の方にこそ、心の中に永久保存されるかもしれない魔法がある。まあそうならなず一瞬にして心と体を通りすぎていく音楽の方が圧倒的に多いけどね(笑)。
でも、たとえこの世の九割九分の音楽がクソで、一分しか本物のグルーヴが存在しないとしても、音楽の魔法を信じる気持ちは消え失せない。
困ったもんだ。
それこそクラプトンやポールマッカートニー、ジョージハリスン、クリムゾン、といったロック・レジェンドや、清志郎さんや矢野顕子さんといった天才、エレカシや奥田民生、ミッシェル・ガン・エレファントといったロックのお手本、あるいは巻上公一さんのヴォイスパフォーマンス(精神に栄養を注ぎ込まれるようなパフォーマンスだった)のような前衛的なもの、はたまた伝説の第一回第二回フジロック(ビョークのステージはあまりにも濃厚すぎるエモーションの放出で、感動のあまり虚脱してしまった)も死線をさ迷いながら観たし、知り合いのバンドのライブは無数に見ている。
しかしそのなかで最も「ライブ」というものをリアルに実感し、自分のライブに対する考え方を強烈に決定付けたのは「opus」、オーパスというユニットだ。
これはヤマサキテツヤさんという、俺が生まれて初めて叩き上げのミュージシャンの恐ろしさを思い知らされ、トラウマにさえなった(笑)ドラマー、プロデューサーの彼が一時期やっていたユニットで、日本のジミー・スミス(というと本人はどう思うのか分からんけど)こと河合代介さんが自分のハモンドB3を持ち込んで参加した超豪華ユニット。
で、このユニットのファーストライヴと二回目のライブを観たんだが、なんとどちらもライブハウスという至近距離で見るという実に贅沢なライブを体験してしまったのだ。確かそんときはワイセッツ全員で行ったな。
で、ファーストライヴを観たときは、本当に凄い音楽、凄いグルーヴというのはここまで人の体を揺さぶり、脳ミソをシェイクし、思考停止させてしまうもんかと、驚きおののいた(笑)。どんなロックレジェンドのライブでも味わえなかった本物のグルーヴの凄みを感じたなぁ。
で、そんなもんを味わったら次も絶対!と思ってセカンドライヴに行ったら、これが全然気持ちよくなかったのだ。
演奏にミスがあったわけでも、ステージトラブルがあったわけでもなく、相変わらず凄まじい演奏をしてたし、勿論自分の心のバイオリズムが不調だったわけではなく、むしろ純粋に魔法のグルーヴに体を委ねようと(俺としては極めて珍しく)シンプルな気持ちでライブに挑んだはずにも関わらず、全く魔法が感じられなかったのだ。
で、なんでだろう~なんでだろう~(古いねどうも)と不思議がってたんだが、MCの時にハタと気付いた。どうもメンバー同士のトークセッションがぎこちないのだ。普段は関西出身のヤマサキテツヤさんを筆頭に皆さんほんとにショーマンシップに溢れる爆笑トークを繰り広げるのだが、その日は妙にギクシャクしていて、シラケた空気がステージに漂っており、会場にもモロに伝わってきた。で、とっととMCを切り上げて曲をやり始めるんだが、やっぱりテンションが上がりきらない。
問題なく凄い演奏で、耳ではそれを認識できるのに身体は反応しない。
身体は実に正直なもんで、たとえ俺が大嫌いなジャンル、ヘヴィーメタルとかブラコンとかだとしても、本当にいいグルーヴがあれば「口ではイヤだイヤだと言っても身体は正直だなぁグヘヘ」と自分を辱しめられるのに、オーパスは自分が大好きなジャズファンク系にもかかわらずまるっきりコない。
終わったあと「なんでなの?」と本人に言質は取りたかったが、恐ろしいので(笑)出来なかったけど、多分あの日はメンバー内になんらかの不和があったに違いないと、そうふんでるんよワシは。
で、思った。「ライブ」を「ライブ」足らしめるもの、「グルーヴ」を「グルーヴ」足らしめるものは、実際に出ている音そのものよりも、その場に存在する「空気」そのものに他ならないと。
勿論いい演奏がそれを誘発するから音は大事であることに違いないんだけど、たとえミストーンがあろうとも、たとえハプニングがあろうとも、それが音楽的にグッとくるミスであったり、憎めない人間性が誘発したハプニングであるなら、むしろいいグルーヴを爆発させるための燃焼材になりうる。
逆にどんなに完璧で高度な演奏をしようとも、そこに音楽やライブに対して肯定的な気持ち、正直な人間性が滲んでこなけりゃなにも伝わらないし気持ちよくない。シンガーソングライターのバックでいかにも「お仕事」っぽいヌルイ演奏しているバンドを見るたびにその認識を強くする。まあそれはそのシンガーソングライターの責任だけど。
図らずも俺が観た二回目のオーパスは、どれだけ百戦錬磨で精神のコントロールなどできて当然のプロ中のプロでも、音楽に対しては真摯なユニットであるからこそ、微妙なバイオリズムの食い違いが「正直」に伝わってしまうというライブ、生ものの残酷さを顕在化したライヴであったんだと勝手に理解している。一回目のライブが奇跡的なライブであっただけにより強くそう思う。
で、こんな発見を自分の音楽に反映させない俺ではない。ワイセッツ会議というか飲み会でもさんざっぱらこの二回のライブの比較検証をやった記憶がある。
で、俺の短絡的な所は、ハプニングやアドリブを敢えてやれば、それに誘発されて緊張感が生まれテンションが上がり、スリルのあるグルーヴが現出し、お客さんに突き刺さるんではないかと図式化して捉えてしまったところだ。
楽曲の構造としてそういったハプニング要素を盛り込みやすかった「またぞろ一人」や「ハカマハケ」にはそれが顕著に現れ始めて、さぞかしメンバーはめんどくさかったろうと今は想像出来るのだが、そんときは頭に血が上ってるからしょうがない。
次第にほとんどの楽曲においても歌い回しやリズムを変えたり、ギターソロなんざ全部アドリブで、という元々あった癖がさらに加速をつけて暴走してしまった。
今だにそういう実験意欲を否定する気は更々無いが、ハプニングは本当に予期しないところで起こるからハプニングなのであって、誘発してどうのこうのではなく、むしろそれを毎回やってるとそれこそ予定調和になる。という観念地獄になってしまった。俺みたいなタイプの人間の類型的な例だ。
後々になって気付くのだが、たとえアドリブやハプニングがなく、既存の音源を丸っきり再現してるだけだとしても、そこに真摯な気持ち、高い熱量があれば同じように音楽の魔法は生まれえるということ。まあそれはまた別の話だが。
そういえば音楽マジックを芯から体感したライブがもうひとつあった。シンガーソングライターのハシケンさんのライブだ。
これまたドラムにヤマサキテツヤさん、ベースに岩井エイキチさん、河合代介さんのオルガンという最強のリズムセクションを従えてのライブで、勿論文句なしにカッコいいグルーヴだったんだが、本当に音楽の魔法を体感したのはそのバンド隊の前半が終わり、ダブ専門(かどうかは分からないが)のリズム隊を迎えた後半のダブセッションだった。
このときのダブのグルーヴがどれだけ凄かったかを表現する言葉はこの世に存在しないが、音楽によってここまで空気って変わるもんか、ここまで身体に悦びをもたらすグルーヴってあるもんかと、自分の全細胞が反応していたことだけは確かだ。
一緒に行ったワイセッツの面々も同じことを思ったはずで、ライブ終わりに渋谷のお好み焼き屋で酒を呑みながら、広角泡を飛ばしながら「如何に凄い体験をしたか」を話したことをよく覚えている。
やっぱりこういう体験って生じゃなきゃ味わえない。
俺なんかはどちらかというとヘッドフォンで音の隅々を味わい尽くす方が好きという典型的なインドア派のリスナーで、よっぽどのことじゃなきゃライブにいきたいと思わない不義理な奴なんだけど、こんな俺でも最終的には音楽は生に限るっていう結論に至る。
オンエアーって言葉があるが、その場の空気に放たれ、そして消えていく儚い「生もの」の音の方にこそ、心の中に永久保存されるかもしれない魔法がある。まあそうならなず一瞬にして心と体を通りすぎていく音楽の方が圧倒的に多いけどね(笑)。
でも、たとえこの世の九割九分の音楽がクソで、一分しか本物のグルーヴが存在しないとしても、音楽の魔法を信じる気持ちは消え失せない。
困ったもんだ。
最近発行された対談本、「沈む日本を愛せますか?」が異様に面白かった。
これは内田樹氏と高橋源一郎氏の対談に司会が渋谷陽一氏という組み合わせで、雑誌SIGHTに連載されていたものだ。
連載時から楽しみに読んでいたが、こうやってまとめて読むと、いかにここで交わされている言論が独特でしかもポップなのかがよく伝わってくる。
というのも徹底して口語体でまとめられていて、本当に分かりやすく、しかも極論や暴論も交えて政治や外交問題について、こちらにしっかりと揺さぶりをかけながらも、基本は気楽なスタンスで楽しく語られているからだ。
単に目線を下げた初心者向けの内容という読者をナメたような打ち出しではなく、むしろ口語体で日常的な言語をもってしか、今の政治状況を的確に語るすべがない、という確信がこの三人の共通認識としてあるので、曖昧模糊とした表現が無いのだ。
いわゆる言論誌で見受けられるようなもっともらしげな政治的言語を駆使して、結局論旨がどこにあるのかわからないみたいな文章が本当にアホらしくなってくる。
池上彰氏の分かりやすいニュースじゃないけど、政治的言語や官僚的言い回し、霞ヶ関文学のような、わざわざ伝達スピードを劣化させてるような物言いがいかにバカバカしいものであるかは、最早国民が目に見える形で示しているわけで、だからこそその分かりにくさの塊のような新聞や言論誌といったメディアにどんどん需要がなくなっているのもむべなるかなだ。
勿論この本の内容をまんま盲信することは危険だし、そんなことがいかに本末転倒かはこの本自体が訴えているが、この本くらい分かりやすくしかも目から鱗な媒体が今ほとんど無いから、相対的にこの本の中で語られていることが強い説得力を持ってしまっている事は事実だ。
同じような温度とスタンスのメディアがもっともっと出てくると、意見の選択肢の幅が出てくるし、自分の意見というのも形成しやすくなるのになって思う。
これは内田樹氏と高橋源一郎氏の対談に司会が渋谷陽一氏という組み合わせで、雑誌SIGHTに連載されていたものだ。
連載時から楽しみに読んでいたが、こうやってまとめて読むと、いかにここで交わされている言論が独特でしかもポップなのかがよく伝わってくる。
というのも徹底して口語体でまとめられていて、本当に分かりやすく、しかも極論や暴論も交えて政治や外交問題について、こちらにしっかりと揺さぶりをかけながらも、基本は気楽なスタンスで楽しく語られているからだ。
単に目線を下げた初心者向けの内容という読者をナメたような打ち出しではなく、むしろ口語体で日常的な言語をもってしか、今の政治状況を的確に語るすべがない、という確信がこの三人の共通認識としてあるので、曖昧模糊とした表現が無いのだ。
いわゆる言論誌で見受けられるようなもっともらしげな政治的言語を駆使して、結局論旨がどこにあるのかわからないみたいな文章が本当にアホらしくなってくる。
池上彰氏の分かりやすいニュースじゃないけど、政治的言語や官僚的言い回し、霞ヶ関文学のような、わざわざ伝達スピードを劣化させてるような物言いがいかにバカバカしいものであるかは、最早国民が目に見える形で示しているわけで、だからこそその分かりにくさの塊のような新聞や言論誌といったメディアにどんどん需要がなくなっているのもむべなるかなだ。
勿論この本の内容をまんま盲信することは危険だし、そんなことがいかに本末転倒かはこの本自体が訴えているが、この本くらい分かりやすくしかも目から鱗な媒体が今ほとんど無いから、相対的にこの本の中で語られていることが強い説得力を持ってしまっている事は事実だ。
同じような温度とスタンスのメディアがもっともっと出てくると、意見の選択肢の幅が出てくるし、自分の意見というのも形成しやすくなるのになって思う。
「人生ノリとタイミング」の奇才、RYOZO氏とワイセッツで昔作った珍妙な映像作品を、先日遂に彼があげてくれた。確かワンマンライブやったときのBGVとして作ったんだったかな。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/5rhgMQN9tSc&feature=youtube_gdata_player]
さすが奇才RYOZ、今見ても笑える。ひょっとして身内受けの笑いかもしれないけれど、やっぱ楽しい。
ワイセッツのライブが終わってから色んな人から「是非またやってよ」って声をかけられる。
元々俺としては「一夜限り」ともったいつけるつもりもないし、今回の再結成、いや再終結をセンチメンタルにとらえてもいない。なんたってコピーバンドだからね(笑)。
俺としてはワイセッツというものを、もういっぺん再始動して、2年半前に終わったところからの続きをやるとか、今後も定期的にライブをやっていくとか、あるいは一夜限りで復活をするとかいった、諸々のものから解放したいだけだ。
単純に、やりたくなったりやってよって声がかかればやりゃあいいじゃんってスタンスにしたいだけ。シンプルにシンプルに。
当然「もっと聴きたい。またやって欲しい」というお客さんの声があるなら、そこにやらない理由はない。お客さんがエネルギーを放ってくれったらばやる方はもっと強力なエネルギーを返したくなるのは、これ芸人の本能。
ただバンドというものはメンバー全員のスタンスやメンタリティのバランスがとれなければ絶対いいグルーヴが生まれない。これは鈍感な俺でも分かる。
今回はコピーバンドとしてストレートにかつてのワイセッツを再現したら面白いことになるだろう、というメンバー全員の興味が一致したからあんだけいいライブになったわけで、そこには新たなものを生み出そうとする創造性は一切無かったし、だからこそスッキリ整理出来た。
それにメンバー各人は「ワイセッツその後」をこの2年半積み上げてきたわけで、今更ワイセッツの続きをやるつもりもないだろうと思う。
ワイセッツは重要な修行場だったし通過点であったけれど、もう終わったことなわけで、だからこそコピーバンドとして遊べるようにまでなったんだろう。
ならばワイセッツのフォーマットを使って遊びたくなったらもっと気楽に、身軽に集まればいいだけの話だと、俺は思うんだがね。実際、ワイセッツが作ったフォーマット自体は今でも有効だったし、充分やり甲斐があるくらいには難しいことやってたし(笑)、飽きることはしばらくは無いだろう。
ただもし、そんな気楽なもんにしたくないとか、過去に引きずられたくないといった拘りがどっかであるんなら、無理にやってもいいもんにはならないだろう。
だから難しいね。簡単なことなのに。簡単だからこそ難しいのかな?
曲を作った俺としちゃ、あの曲たちに一番効果的に息吹を吹き込む装置はワイセッツしか無いと思ってるから、我が子の笑顔を見るためにもたまにゃかまってやりたいんだがな。2年半放置してたし。
等々、ナニかと考えてしまうここ数日。ま、成り行きを他人事のように見ていようと思う気持ちと、いや積極的に声かけて再終結のタイミングを頻繁に作っていこうという気持ちが錯綜してるね、今。
そんな俺だけど、昨夜、またしても「真昼の月 夜の太陽」にて酔った。あそこの会場にて行われたセッション大会でヘヴィーブルースをかましてきて、ホンマ楽しかったわ。土屋も来てジャクソン5の曲でキーボード弾いてたわ。
うん、いつか色んなミュージシャンが自由に出入りできる、二時間ぐらい続くワンコードジャムセッションをやりたいな。
楽器出来る人も、歌を歌える人も、パーカッションで参加出来る人も、会場で踊ってる人も、全員がひとつのグルーヴの中に混じって融けていくような、ノンドラッグでもトリップ出来るような空間を「人力」で創出したいな、なんてことを妄想した夜だった。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/5rhgMQN9tSc&feature=youtube_gdata_player]
さすが奇才RYOZ、今見ても笑える。ひょっとして身内受けの笑いかもしれないけれど、やっぱ楽しい。
ワイセッツのライブが終わってから色んな人から「是非またやってよ」って声をかけられる。
元々俺としては「一夜限り」ともったいつけるつもりもないし、今回の再結成、いや再終結をセンチメンタルにとらえてもいない。なんたってコピーバンドだからね(笑)。
俺としてはワイセッツというものを、もういっぺん再始動して、2年半前に終わったところからの続きをやるとか、今後も定期的にライブをやっていくとか、あるいは一夜限りで復活をするとかいった、諸々のものから解放したいだけだ。
単純に、やりたくなったりやってよって声がかかればやりゃあいいじゃんってスタンスにしたいだけ。シンプルにシンプルに。
当然「もっと聴きたい。またやって欲しい」というお客さんの声があるなら、そこにやらない理由はない。お客さんがエネルギーを放ってくれったらばやる方はもっと強力なエネルギーを返したくなるのは、これ芸人の本能。
ただバンドというものはメンバー全員のスタンスやメンタリティのバランスがとれなければ絶対いいグルーヴが生まれない。これは鈍感な俺でも分かる。
今回はコピーバンドとしてストレートにかつてのワイセッツを再現したら面白いことになるだろう、というメンバー全員の興味が一致したからあんだけいいライブになったわけで、そこには新たなものを生み出そうとする創造性は一切無かったし、だからこそスッキリ整理出来た。
それにメンバー各人は「ワイセッツその後」をこの2年半積み上げてきたわけで、今更ワイセッツの続きをやるつもりもないだろうと思う。
ワイセッツは重要な修行場だったし通過点であったけれど、もう終わったことなわけで、だからこそコピーバンドとして遊べるようにまでなったんだろう。
ならばワイセッツのフォーマットを使って遊びたくなったらもっと気楽に、身軽に集まればいいだけの話だと、俺は思うんだがね。実際、ワイセッツが作ったフォーマット自体は今でも有効だったし、充分やり甲斐があるくらいには難しいことやってたし(笑)、飽きることはしばらくは無いだろう。
ただもし、そんな気楽なもんにしたくないとか、過去に引きずられたくないといった拘りがどっかであるんなら、無理にやってもいいもんにはならないだろう。
だから難しいね。簡単なことなのに。簡単だからこそ難しいのかな?
曲を作った俺としちゃ、あの曲たちに一番効果的に息吹を吹き込む装置はワイセッツしか無いと思ってるから、我が子の笑顔を見るためにもたまにゃかまってやりたいんだがな。2年半放置してたし。
等々、ナニかと考えてしまうここ数日。ま、成り行きを他人事のように見ていようと思う気持ちと、いや積極的に声かけて再終結のタイミングを頻繁に作っていこうという気持ちが錯綜してるね、今。
そんな俺だけど、昨夜、またしても「真昼の月 夜の太陽」にて酔った。あそこの会場にて行われたセッション大会でヘヴィーブルースをかましてきて、ホンマ楽しかったわ。土屋も来てジャクソン5の曲でキーボード弾いてたわ。
うん、いつか色んなミュージシャンが自由に出入りできる、二時間ぐらい続くワンコードジャムセッションをやりたいな。
楽器出来る人も、歌を歌える人も、パーカッションで参加出来る人も、会場で踊ってる人も、全員がひとつのグルーヴの中に混じって融けていくような、ノンドラッグでもトリップ出来るような空間を「人力」で創出したいな、なんてことを妄想した夜だった。