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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2012年11月

2012年11月30日01:34
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初めて行った外タレのコンサートはジョージ・ハリソンだった。


初めてCDというものを手にしたのは「ジョージ・ハリソン帝国」だった。


初めてリアルタイムの洋楽に触れた1987年頃、ジョージ・ハリソンは時の人だった。



ということでジョージという人は俺にとっては第三の男とか、クワイエット・ビートルといった存在ではなく、とても重要で大好きなアーティストだった。



ビートルズ時代に作った楽曲は殆どが好きな曲で、個人的な好みによる打率はポールよりも高い。まあポールとは打席が違うので単純な比較はできないが。



ジョンやポールの作るきらびやかなヒット曲、ブラックミュージック/ブルース的スリーコード進行やポップス的な循環コードなどに基づいた土台のしっかりした楽曲と違って、そういった定形パターンからは意図的に距離をおいた、どこかひねくれた作曲センスが好きだった。



その資質と呼応してるのか、ジョージがビートルズに持ち込む新たなサウンドやアレンジのアイデアはことごとくブラック・ミュージック的な泥臭さの無い、不思議な浮遊感を感じさせるものだ。



初期の12弦ギターの倍音の響きや、シタールのドローン効果の導入は、ポップスに西洋的な響き以外の要素を混入させることによる違化作用を生んでいる。「ア・ハード・デイズ・ナイト」のエンディングの不可思議な響き、「ノルウェイの森」における全然抹香くさくないシタールのラインは、なかなか只者ではないセンスだ。



また、ジョージの弾くスライド・ギターには全くブルースの匂いがしないところもユニークだ。どちらかというとシンセのポルタメントのような不思議な浮遊感が漂うスライド。クラプトンも「スライドでロックンロールが弾けるのはジョージだけ」と絶賛している。



シタールにしてもスライドにしてもそうなのだが、12音階で区切られた音の、その間に漂う周波数に魅力を感じるような資質があったから、ブルースをベースにバリバリ弾きまくるギタリストが群雄割拠した60年代ブリティッシュ・ロック・シーンにあって、独自のスタイルとスタンスを築けたのかもしれないが、なんだか世界がちょっとくすぐられて捻れたような瞬間を音に変換したかったのかもしれない。


ジョージのスライドには黒人ブルースマンの弾く猥雑さや、白人ブルースギタリストの弾く雄々しさはないが、ひたすらキュートで不可思議だ。というかそういった猫も杓子も黒人ブルース追究ギタリストばかりの時代にベロを出してるかのようなスライドだしスタンスだ。
ビートルズ時代に作ったブルースナンバー「フォー・ユー・ブルー」にもスライドの音は入っているが、ジョージによるものではなく、ジョンが弾く下手くそなラップ・スティール(ハワイアンで使われるスライド)で弾かれており、ブルースにトロピカルな要素を持ち込むという、後のジョージの路線の萌芽がすでに出ている。つうかブルースをおちょくってるよなぁ...。



そういったジョージのヒネててユニークな資質はジョージの作る楽曲にもモロに反映されている。



なにせ処女作の「ドント・バザー・ミー」からしてヘンテコな曲だ。
イントロはよくハッキリしないリフらしきもので始まり、一体どこがトニックか分からないようなコード進行で曲が進み、タイトルのとこでやっと全容が掴めるが、サビになって盛り上るかと思えば尻つぼみで終わって最初に戻る、というつかみどころのない、要領の掴めない曲だ。よく意図のわからないコンガがスパイスに使われてたりするし。おまけにタイトルは「邪魔すんな」だし。いいねぇ。ヒネてて。



初期の習作時代は全てがこういう具合で、ジョンとポールとは違う作風を、というのが模索の指針だったようだ。
珍しくエレピを導入した「ユーライク・ミー・トゥー・マッチ」や、ベースにファズをかけた「嘘つき女」といった曲に顕著だが、メロディの起伏に乏しいところをアレンジでごまかす、みたいなやっつけ仕事をジョンとポールにやられてしまうという哀しさも、これはこれでジョージっぽくて好きだ。つうかこの二曲、どっちも好き。



中期以降、インド音楽を採り入れて以降のさらに王道ポップからは逸脱していく作風もこれはこれで好きだ。
もろにインド音楽なやつもさることながら、「タックスマン」「ブルー・ジェイ・ウェイ」「ロング・ロング・ロング」「オールド・ブラウン・シュー」など一癖ふた癖ある楽曲(メチャ好き)を経て、ついにグループ末期に「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」というポップな名曲をものにし、ここにきてジョージ流ポップがひとつの完成をみる。



その出来上がったポップセンスを全開にしてソロ初期の70年代前半はヒット曲を連発してジョージ・ハリソン・ブームとさえ言えるような時代を作る。
この時代にはヒット曲もあるが、それ以外にも素晴らしい曲がありいくつも思い浮かぶ。



変拍子と複雑なコード進行がなんの不自然さもなく美しいメロディに溶けている「アイド・ハヴ・ユー・エニイタイム」

有無を言わせぬ雄大さと美しさが調和した「イズント・イット・ア・ピティ」

うねるようなグルーヴと痒いところに手が届くコード進行の「ワー・ワー」

気だるさの美の極致「ビウェア・オブ・ダークネス」

キャッチー以外の言葉が見当たらない開放的な「ホワット・イズ・ライフ」

非常に批評的な解釈が入ったジョージ流ポップ・ブルース「スー・ミー・スー・ユー・ブルース」

泣きが入ったメロディが切なすぎる「フー・キャン・シー・イット」

どこにたどり着くかわからない黄昏た雰囲気が堪らない「ファー・イースト・マン」などなど、この時期のジョージはとにかく才気走ってる。



とは言え本当にジョージが正にジョージ節を完成させ、唯我独尊のジョージ・ワールドを作りすぎたがゆえ、チャート的にはフェイドアウト気味になる1975年の「ジョージ・ハリソン帝国」と、それ以降のダークホース・イヤーズのジョージこそがジョージ・ファンには美味しすぎる果実が詰まった時期なのだ。



個人的な思い入れが強すぎる「ジョージ・ハリソン帝国」は、アップルレーベル最期の作品ということもあって、陰鬱さと奇妙なユーモアが同居して、どっかイっちゃってるような名曲がゾロゾロ並んでいて、これについては過去に一度日記を書いたことがある。


http://blog.livedoor.jp/takasedaisuke/lite/archives/51643310.html


次のアルバム以降、自身のレーベルであるダーク・ホースに残した何枚かのアルバムはセールス的には地味だったが、なぜヒットしなかったか不思議なくらいキャッチーなナンバーが山ほどある。まあ時代と思い切りずれてたんだろうけど、純粋にポップソングとしてみたときにとても完成度の高い楽曲ばかりだ。



神経質な陽気さが変テコでカワイイ「クラッカーボックス・パレス」

ジョージ流AOR完成形「ラヴ・カムズ・トゥ・エヴリワン」や「ブロウ・アウェイ」

自身の名曲のアンサーソング的な曲ながらよりキャッチーな仕上がりの「ヒア・カムズ・ザ・ムーン」

内省的な雰囲気ながら暗くはならず仕上がった「ライフ・イットセルフ」
殺されたジョン・レノンへの鎮魂歌ながら、どこか陽気で親しみやすい大ヒット曲「過ぎ去りし日々」

浮世離れしたメロディーやアレンジが慈味深い「ライティング・オン・ザ・ウォール」

ダサいシンセがかえって愛せる超キャッチーナンバー「愛に気付いて」

このあと暫くリタイアすることを考えると中々感慨深いご陽気なトロピカルナンバー「ゴーン・トロッポ」(ちょっと狂っちゃう、という意味らしい)


などなどダークホースレーベル時代の曲は地味ながら慈味深い楽曲が多く、一番好きなジョージが聴ける時代だ。
こないだ公開されたジョージの映画ではこの辺りがバッサリとスルーされてたのが非常に哀しかった。ジョージにとっても哀しい時代だったんかなぁ...。レーベル運営は大変だったろうけど、再婚したり子供が生まれたりと、充実した時期だったはずだろうに。



1987年に復活して以降はナンバーワン・シングルは出るわ、アルバムは大ヒットするわ、トラヴェリング・ウィルベリーズなる超大御所連中による覆面バンドを組んでこれまた大ヒットアルバムを出すわ、91年末には来日してくれるはと大活躍。第二次ジョージ・ハリソン・ブームだったと言えるほど充実していた。俺も(八割がたクラプトン目当てだったとは言え)この時期のジョージを生で観ることが出来て本当に良かった。ダークホース時代の曲はあまりやらなかったが、ビートルズナンバー盛り沢山の贅沢なライブだった。



てなことをジョージを聴きながら書いてたら、命日過ぎてた。ジョージ・ハリソンよ永遠に。
2012年11月23日02:17
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昨夜のライブ、来てくれた方々、居てくれた方々、どぉもありがとうございました。



今回のライブは、アルバムと同じように歌ものの曲と同じくようにインプロ曲のセクションもあえてもうけてみた。頭とケツにね。



いまのメンバーはそういうフリーのセッショッンにしっかり対応できるメンバーで、俺やキーボードの治美ちゃんはノイズもんが好きだし、おいちゃんと俺はマイルス繋がりでオン・ザ・コーナーに突入出来るし。



ということでキング・クリムゾンよろしくインプロをやってみた。が、予告もなしに最後の曲としてインプロに突入すんのはいささか不親切だったようで、終わってサヨナラ言ってもえ〜?!の声。いい意味でのアンコールというよりは、ちゃんと終わらせろという意味でのアンコールを喰らっちまった。



元々全くアンコールのことなんて考慮してなかったので、急遽楽屋でメンバーに伝えて、ツーコードで「ホゲェェェェェ」と雄叫ぶ「くじら」というこれまたジャム要素の強い曲を最後にやった。で、これ、知ってる人はわりと盛り上がる曲なので、それで一応ケツをぬぐった形となった。



インプロってちゃんとストーリーを描いて、徐々に爆発に導いて、燃焼して終えないと終わりって印象を残さないもんだねぇ。あだやおろそかにやるもんでもないわな。クリムゾンだってライブの最後にゃやらないもんな。



でもまた機会があったら挑戦するぞ。このままじゃくやしーもんね。



次のライブは12/12(水)、六本木SONORAでやるんだ。そんときはキーボード無しのトリオで、なおかつ40分ステージなので、このバンドの原点に戻ってジャム要素の強いライブで昨夜の落とし前をつけるよん。ま、別にダメなライブだったわけじゃないんだけどね。若干歌ものとインプロとの印象の落差が大きくて焦点が絞りきれてなかったのは否めないなぁ。



でもちゃんとした歌ものの精度ももっとあげて挑むぞ。是非とも予定を空けといて下さい。


近いうちにPV作るぞ。笑えるやつ。
2012年11月22日16:31
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今話題の「悪の教典」を観に行ってきた。



前評判でやたらと「怖すぎる」だの「あんなに残酷な伊藤英明初めて観た」だのとさんざんあおってたし、AKBの大島優子なんか「この映画嫌い」と言っていたのでさぞかしアレなんだろうどれどれと思っていたら、そっちの方の期待は思いっきり外れてしまった。



やたらと人は死ぬけど全然痛点を刺激するような演出じゃなくて、ただ記号的に散弾銃で撃たれて倒れて血が出て絶命、みたいな流れ、主演の伊藤英明も「涼やかな表情で飄々と人殺しをしてるとこがかえって狂気を感じる」てこともなく、いつもの爽やかで二枚目な伊藤英明が人を殺してくってな感じ。



殺人鬼になった経緯も、情念も、殺される側の生への執着も、実ににあっさりと描写されるばかりで、観ていて全然怖くもない。なんか殺人ミュージカルのようだった。



学校内での大量殺戮シーンでは「さあ開始だ!」とばかりにミュージカルっぽい音楽が流れ出す。
黒澤監督がやりだした「緊張感のあるシーンにのどかな音楽を流して、その異化作用によってより緊張感を」云々という例のアレではなく、ひたすらショータイムって感じ。



エンドロールでEXILEのクソみたいに能天気なダンスナンバーが流れるに至っては三池監督完全に開き直っとるな、という感じがした。そのへんの三池イズムはキライではない。



わけのわからない前評判を入れて先入観を持たなければ、これはこれで面白い映画だとは思うけど、煽り方が悪いよ。



これを観て「こんなに人が簡単に死んでいくなんて、ワタチこの映画キライ!」なんて言ってる大島優子さんは、それが炎上商法じゃなければ相当おぼこい感性をお持ちの御方のようだ。アウトレイジ1を観てみろってんだ。



でもまあ色んな意味で笑えるし、なんだかんだいって分かりやすいし、面白かった。緊張感と恐怖を期待しなければだが。



さて、そんな痛点鈍感男高瀬大介がお送りするジャンル姦ショーが今夜あるよ!
東新宿 真昼の月夜の太陽にて。うちらは21時から。遊びに来て〜なまにあ〜な。
2012年11月20日21:28
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家の近所にかなり広い陸上競技場と公園ができた。
以前からだだっ広いスペースで工事してるからなにか出来るんだろうとは思ってたが、まさか陸上のトラックが出来るとは。
公園の方は春先になれば花見だのピクニックだのなんだので賑わうんだろう。



最近は夜になるとそこを散歩してる。おんなじとこをずっとグルグル回ってるなんてバカな犬感丸出しだが、実際、物思いながら散歩するならひたすら真っ直ぐな道とかこういう陸上のトラックみたいなのが一番いい。普通の道路のように不用意な障害物が無いのでそっちの方に脳ミソを使わなくていいから、思考に集中出来る。



で、何を考えてるかと言うと、こないだ作った音源の改訂版のこと。つまりまたミックスやり直してCDに焼いて、歩きながら聴いて改良点を検討している。


出たよ、俺のお家芸、ライブのたびにリミックス盤出して、無駄にレアアイテムを増やしていくと言うアレ。まあ別にレアでもなんでもないっちゃあないんだが。



つうことで改訂版の新しいアルバム「夢みたい(な)もんだ」も売ってるライブ、明後日あるよ。



Better Days Vol.17
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 17:50/18:20
Charge 2,000円 (ドリンク別500円)
出演/
阿部俊宏
小浦貴史
ネルマーレ
sheepdom
高瀬大介



俺はトリの21時頃だけどノンアルコールでも酩酊状態のあべぇぇぇぇ〜がトップバッターだからオープニングからきてほしーなぁ。


2012年11月14日13:15
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今月唯一のライブの告知です。


Better Days Vol.17
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 17:50/18:20
Charge 2,000円 (ドリンク別500円)
出演/
阿部俊宏
小浦貴史
ネルマーレ
sheepdom
高瀬大介


あべが「対バンうれしぃぃぃすぅぅぅ」と酔っぱらって絡んでくるので、あべのためにも知ってる方々、是非とも時間を空けといてね。
2012年11月14日12:45
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僕は間違っていた

僕は間違っていた

僕は間違ってゆく



僕は間違っていた/パラダイス・ガラージ



パラダイス・ガラージの「実験の夜、発見の朝」を久し振りに聴いた。1998年の東京を切り取ったような作品だ。


1998年というのは上京した年で、従兄と同居生活をしてはいたものの、友人も恋人も居らず、ひたすらバイトと自宅録音と散歩で日々を過ごしていた。23歳の頃。


1998年というのはCDの売上がピークだったそうで、ミリオンセラーを記録した作品がシングル/アルバムともそれぞれ20枚以上もあったそうな。売り上げ枚数1000枚くらいでもオリコンチャートのトップテンに入ってくるような現代からすると隔世の感がある。


年間チャートに入った曲を眺めてたらどれもこれも覚えてる曲ばかり。GLAY、L'Arc〜en〜Ciel、ルナシー、エブリ・リトル・シング、SPEED、等々。どれもこれも死ぬほど嫌いだったけど、それでもタイトル聞いたらサビくらいは歌えるし、懐かしいと言えば懐かしい。一応ヒットチャートを意識した上で楽曲制作をしていたから、この頃の曲は頻繁に耳にしていたので残っている。


ただ、自分がやっていた音楽というのは、まあ本人としてはポップスをやっていたつもりだけど、客観的に聞けばオルタナとかローファイと呼ばれるジャンルに属すようなもんだったろう。広義の意味でのオルタナだが。



ミリオンセラーを連発し、レコード会社に資金が潤沢にあったからでもあろうが、ひと昔前だったら確実にアンダーグラウンドシーンを這いつくばっていたであろうタイプのアーティストでも、チラホラではあるがメジャーのレコードレーベルから作品を出している。それだけ音楽業界に余裕があったし、極端に商業主義的なものが蔓延っている世の中、それとは真逆のオルタネイティブなものが芽を出してくるのは世の必定だったんだろう。


翌年の1999年には俺もさるメジャーレーベルから声をかけてもらったが、ライブ活動もせず、インディーズでの実績も無く、単に山のように作ったキチガイみたいな宅録音源だけで俺のようなサイコ野郎がデビューまでこぎつけられたのも、この時代の音楽バブルのなせる技といくつかの奇跡があったからこそ。今だったら絶対に、絶対に無理だったろう。



それはさておき、パラダイス・ガラージや前年にデビューした中村一義もいわゆるオルタナ/ローファイと言えるようなアーティストだが、いわゆるメジャーから作品を出して、多くの雑誌媒体でも話題になり、俺みたいなベッドルーム・シンガーソングライターに夢を見させてくれた。


この二組はいわゆる宅録アーティストであり、かなりマニアックな嗜好性ながら「ポップ」な音楽を標榜しているということもあって、非常に親近感を覚えて当時はヘビロテで聴きまくっていた。グニャグニャした下手くそなヴォーカルに喉越しの悪さを感じながらも、時代のオルタネイティブな感性と自分を符合させようと無理して摂取していたところも実はある。なにせロッキンオン・ジャパンが愛読書だったもんで。


このパラダイス・ガラージの「実験の夜、発見の朝」はなんと2000万円近くのレコーディング費用がかけられたそうだ。一日30万するレコーディングスタジオを使用しながら、ボーカルブースにテープレコーダーを持ち込んで録音したりと宅録アーティストならではのバチ当たりなエピソードもある。


俺もレコーディング費用云々になると随分無駄遣いをさせたんだろうと思う。
詳しいことは聞いてないけど、100万くらいするコンデンサーマイクをハンドマイクとして使って壊したとか、いいボーカルテイクが録れなくて結局マキシシングル一枚ぶんの制作費をムダにさせたとか、たいしてオンエアもされないであろうPV撮影のために台湾まで行ったり、とバンバンとカネを使っていたようだ。俺が決定したって訳じゃないにせよ、ムダ金はかなり使わせてしまったんだよなぁ。高瀬大介ってやつぁとんでもない不良債権だった。あの期間は中島みゆきさんの稼いだカネで食わせてもらってたようもんだ。足向けて寝られんよ、まったく。




そんな時代も遠くなりにけり。今はそんな不良債権を抱える余裕もレーベルになく、音楽の市場規模なんて1930年代の頃くらいまでになったと言われ、売れてるCDなんてのは「音楽」としての商品じゃなくアイドルの関連商品としてのCDというようになったこの時代、「音楽」でカネを稼ぐという発想は15年前とは比べ物にならないくらい薄くなったと思う。なりたい職業のトップランクに入ってくるような類いのものじゃ無くなってるはずだ。



それでもライブハウスなどで出会う若い世代のバンドには、真摯に「音楽」に向き合い、必死でもがいて今の時代のグルーヴを鳴らそうとしているバンドはいる。共鳴出来るものや鼓舞されるようなものもたまに出くわす。



こないだ対バンした若手のバンドのアフリカヨガリの疾走感は気持ち良かったし、たまたま観た、相変わらず旧態然として、お客さんとの共有を求めることに必死な、能天気で緩い、前世代の価値観を引きずったバンドは一分と聴いてられなかった。俺の中のオルタナ精神(笑)が耐えられなかった。なにもそこまで言うことないよな。にしてもこんなクソッタレた時代にハッピーサウンドを鳴らせるほど無頓着じゃない。キチガイじみたエネルギーをもってしてポップで開放的なロックを鳴らしたいもんだ。若くて時代の音を鳴らしているバンドに出くわすと、いつも自分の喉元に刃物を突きつけられているような気持ちになる。おっさんだと思われてもいいけど、古くせーとか思われんのやだもんな。「世代は違うけどいつの世も変人はいるんだな」ぐらいに思われりゃ御の字だ。




かつてオルタナ/ローファイと呼ばれていた音楽は、その音楽そのものの素晴らさよりも、その実験精神やメインのラインから外れているという立ち位置や姿勢において支持されるという構造がどこかにあったと思う。



実際そのシーンに属していたアーティストが残した作品で、今でも聴かれ続けている名作なんてのは極めて少ない。
まあ15年くらい前だからまだ歴史的評価が定まらず、再評価もされにくいという面もあるが、当時俺が忌み嫌ってたミリオンセラーを記録したヒットソングの方が懐メロとして機能しているぶん、よりしたたかな生命力を持っていたということは言えるだろう。


やっぱり多くの人に支持されたもんてのは、こっちがどんなにクソだミソだなんだと思っていようと関係無く残る。



オルタナなんてのぁ悪く言えば独りよがりで閉じちゃってる世界を遠慮がちにつぶやくか、相手の迷惑省みず叫んでるようなもんだ。



しかしオルタナという時代の徒花のようなシーンで撒かれた種は、確実に後の世代によってよりしたたかな生命力をともなって芽を出しているように思う。



チャート的に大成功するような楽曲でも、そのサウンドの質感にはローファイな感覚がすりこんであったり実験的なサウンドを模索した痕が残ってたりもするし、逆に宅録でもメジャー感のある音質で作品が作れ、流通までも自らで出来てしまう時代になった。



商業的な構造の違いはあれど、音楽的な部分においては「メジャーに対するオルタナ」という対立構造自体が曖昧になってる気がする。



さして必要じゃないけどとりあえず買っとくか、が当たり前だった音楽バブル時代は遠くなり、よっぽど好きにならないと音楽にカネを払わなくなった現在。
もはや音楽は莫大な利潤を生むようなものではなくなったから、そのぶんダイナミックで時代を反映するような作品は生まれにくくなるとは思うが、厳しい時代には厳しい時代なりの新しい音楽が生まれてくる。音楽は音楽を必要としている人に届けられ生き残っていくようになる。




どんなことにも 驚かないよ

世界は全て 呑み込むだけ

ひとりの僕は ひとり立ち上がり

ひとりの君を 抱きしめるため



パラダイス・ガラージの「実験の夜、発見の朝」の中で最も好きな曲「City Lights 2001」の言葉。あの当時の空気を的確に表現していると思ってたけど、今でも響く。
5年前に行われたレッド・ツェッペリンの再結成のライブのDVDがいよいよ発売されるのだそうな。


それにともないメンバー三人揃ってのインタビュー受けていたのだが、その質問の中に「今回もライブテイクには修正なり手直しは入ってるんでしょうか?」という、バカな、それでいて誰もが知りたい質問がされ、ロバート・プラントは


「そんな質問に答えるわけないだろ!しかしお前、すげえ図々しいヤツだな(苦笑)。まあ正直に言うとカシミールの後半のヴォーカルは少し手直ししたかな」とバカ正直に答え、ジミー・ペイジは


「多少は手直ししたけど、他のライブ作品に比べりゃ微々たるもんさ」


と謎を残した答えで煙に巻いている。正直インタビューでここが最も面白かった。この事に関して少し思うところがあったので書いてみる。


あの再結成ライブ当時は、Youtubeにあがった素人撮影による動画を観まくったし、そういう動画のベストなやつを繋いででっち上げたエセ完全版ライブDVDも海賊盤で手に入れて、大掴みではあの再結成ライブがどういう質のものだったか(劣悪な音像と画像の向こうにある質感を、逞しい想像力で補充して)、バーチャルには理解したつもりだ。



しかしあのライブがちゃんと作品化されるとあれば、自分がバーチャルに把握しているあのライブの印象が大幅に覆されるのは必至だろう。



ツェッペリンのライブ盤というのは、その現役時代から今に至るまで、単なる記録、ツアーの記念品としてのライブアルバムではなく、スタジオ録音の新作と同一線上にある「作品」として発表されてきた。
ディープ・パープルやキング・クリムゾンのようにアーカイブ・シリーズとして乱発されることもなく、またクラプトンのように本人が認知してるかどうかあやういような海賊盤もどきのものが出されることも殆ど無かった。



「作品」だから編集も加工もする。しかし現役当時はその作為があまりいい方には評価されなかった。なにせ当時はいかに楽器を上手く弾くか、いかにテクニカルなライブをするか、ライブアルバムを出すならノー編集こそが正義で、修正や加工は音楽の純粋性、ライブの一回性の美学を汚す行為という考えが、想像以上に強かった(らしい)。



ツェッペリンはその現役時代から「ライブになるとミスだらけで下手なバンドだ」と浅薄なジャーナリストから揶揄されてきたし、無修整至上主義の偏向したブートレグ・コレクターからも「解散後出されたライブ・アルバムは、ジミーが自分のギターやボンゾのドラムの音を今風に加工していて不快だ。嘘っぱちだ。やっぱブートの方がホンモノだからいい」という笑ってしまうような意見が出ることもしばしば。ツェッペリンのブートにいくらつぎ込んだか分からない俺のようなバカでもそんな意見は笑止だ。



修整無しの御立派だけど臨場感に乏しいアイテムよりも、編集し加工もし、迫力ある音に刷新して「現代の音」となったツェッペリンのライブが味わえるならそっちの方が良いだろう。なんせそれをジミー・ペイジ総裁本人がやってんだから何の文句があるというんだ?ビートルズにもスライにもその手の「現代的な感覚で原典にメスを入れた」作品はある。たとえライブ音源であっても素材は素材。やってることは同じだ。



二枚組ライブDVDの冒頭の「ウィア・ゴナ・グルーヴ」のボンゾの初っぱなのフィルとバンドインしたときのとてつもない暴力性、ライブアルバム「ハウ・ザ・ウェスト・ワズ・ウォン」における「胸いっぱいの愛」のど頭のギターリフのとんでもない迫力と臨場感は、絶対に海賊盤からは聴こえてこないものだ。恐らく生ではこういう風に鳴ってたんだろうな、と思わせてくれる。



ジミー・ペイジは古びた自分達の音楽を何とかアップデイトするために最新のテクノロジーを駆使してバージョンアップしているのではない。
ましてや自分のギターのミスを誤魔化すために編集や加工をしてるのではない。実際ミストーンは残ってるし、もとよりロックが楽器の巧拙を競うスポーツでは無いことは、余程屈折した日本の音楽教育を受けたミュージシャンじゃない限り誰でも分かってる。



ジミー・ペイジは、自分達で実際に演奏しておきながら、本人たちでさえも完全には理解できない謎めいたツェッペリンの魔法を、バーチャルでも再現するために編集や加工をするのだ。



ライブの現場で起こっているマジックは、それこそ本当にライブを観なければ体験できない。それをライブ盤の上で再現するには、音素材をそのままリリースしたって不可能。元の音素材には収音されてない「音圧」や「空気」や「磁場」や「グルーヴ」、どれも異音同義だが、それをバーチャルながらも体感させるための「作為」を施さなければいけない。



ジミー・ペイジは40年くらい前からその事に対して意識的だった。あのツェッペリンの1stアルバムの立体的な音像と音圧、臨場感は、同時代のロックの名盤と比較しても桁違いに「違う」。まあ間近でボンゾのあの驚異のドラムを体感しちゃったら、そらぁなんとか音盤でそれを再現したいと思うだろうし、マイキングやミックスにも凝るわな。



繰り返すがただ鳴ってる音をマイクで収音して録音しても、それが鳴ってる音通りに再生されることは無い。だからイコライジングやコンプやリバーブ等を足したり引いたりしながら自分の感覚と擦り合わせていく。



今ではそんなこと当たり前だけど、ツェッペリンがデビューした当時はそういった感覚を持ったミュージシャンやエンジニアは稀であった。スタジオミュージシャン時代のジミーが経験したレコーディングについて「せっかくドラマーが迫力あるプレイをしてるのに、録音してみたら段ボール箱を叩いてるような音になっている。それは狭いドラムブースでマイクをギリギリに近づけて録音してるからさ。だからマイクにも呼吸をさせることを考えた。つまりドラムとマイクの距離を研究したんだ」と語っている。



そんなジミーだから1977年に初めてツェッペリンがライブアルバムをリリースする段になっても、躊躇なく加工/修正したんだろう。元音に忠実であるとか、ライブにおける一回性の純粋さなんかハナからどうでもいいのだ。ジミーは完璧なギターソロを弾くことに命をかけているギターバカではなく、ツェッペリンのプロデューサーであり、ツェッペリンの摩訶不思議で驚異的なエネルギーを多くの人間に体感させたいと思い続けている狂信的なツェッペリン信者でもある。



いかにライブの現場で起こっているマジックを、バーチャルながらも音盤に定着出来るか、現場では確かに体感出来る「グルーヴ」をいかに磁気テープの上で再現出来るか。そのためだったら邪魔な部分はカットするし、必要ならばミスった所も残す。音色も音響も変える。



現役時代に発表された唯一のライブ盤「永遠の詩」のもとになった1973年のマジソン・スクェア・ガーデンにおける完全版のライブが海賊盤で出ているが、ものの見事に別な質感を持っている。同一テイクであるにも関わらずだ。実際に収音されている音源に多少の化粧をして体裁を整えました以上の加工/編集がなされていて非常に興味深い。



確かに実際の現場ではどのような音が鳴っていたのか?どのようなフレーズを弾いていたのか?という考古学的な興味はそれによって削がれてしまうけれど、そんなものはどうでもいいのだ。ジミーペイジが何を現場で感じ、それをどうやって再現するか、という音楽に対する思想の方が大事なのだ。



優れたミュージシャンは大昔から、音楽を演奏しているうちに盛り上がってきて生まれる「磁場」や「グルーヴ」の不思議な気持ちよさ/麻薬性に気付いていた。ジャズミュージシャンのように歌唱力、演奏力が熟達すればするほどそれがリアルに感じ取れるようになってくるし、ロックンロールやブルースのようにシンプルなビートやフレージングをループしているだけで気持ちよくなってハイになってくることもある。



しかしそんな得体の知れない「グルーヴ」とやらを商品化することは殆ど不可能だった。レコードを聴く人間の殆どはメロディーを聴き、歌詞を口ずさみことによって音楽に接する。せいぜいが音楽に合わせて踊ることで無意識のうちにそのグルーヴを体感しているくらいで、ライブの現場で起こっているマジックに対して自覚的になることは殆ど無かったのではないか。



ツェッペリンは初期の段階から楽器的なバンドだった。親しみやすいメロディーやキャッチコピー的にポップな言葉を持った楽曲もあることはあるが、どちらかというとその記名性は「ハードでヘヴィーで立体的な音像」と「器楽的な楽曲構成」が合わさって生まれる「グルーヴ」にあったのではないか。本人たちが意識的だったかどうかは分からないが「グルーヴ」がその音楽を最も特長付ける要素となった史上初のバンドではなかろうか。



「レッド・ツェッペリン」と聞いて最初にイメージするのはメロディーでも歌詞でも無く、プラントの雄叫びと重低音のギターリフとボンゾのドラムのサウンドとグルーヴだろう。簡易的にツェッペリンを紹介するときに使われるBGMで「移民の歌」のイントロがよく使われるのは偶然ではない。あの音楽以前の音の塊のような部分、あれこそがツェッペリンの記名性の最たるものじゃぁなかろうか



だからツェッペリンのライブにおいては、ヒット曲が演奏されたか、レコード通り再現されたかはさしたる問題ではない。あくまでも楽曲はあのツェッペリン特有のグルーヴを再現するための叩き台でしかなく、あのグルーヴの現出を促しやすい楽曲に高い人気が集まるのは至極当然のことなのだ。



あの再結成ライブでは演奏されたものの、これまで疑似再結成される度にはぐらかされる楽曲に「天国の階段」というもがある。恐らく一般的な知名度は最も高い曲だろうが、ファンとしてはライブで演奏されることに関しては結構どーでもいい曲だ。



例えばストーンズが「サティスファクション」や「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」をやらなかったり、ポール・マッカートニーが「レット・イット・ビー」だの「ヘイ・ジュード」だのをやらなかったら結構不満の声が上がるだろうが、ツェッペリンのライブにおいては、少なくともファンにとっては「アキレス・ラスト・スタンド」や「死にかけて」や「俺の罪」が演奏されたかどうかのほうが大事であって「天国の階段」はそれほど重要な楽曲ではない。いや、ツェッペリン史においては重要な楽曲だがことライブにおいてはそれほど強大なツェッペリングルーヴが現出する楽曲ではないので割りとどーでもいいのだ。



2007年の再結成ライブのセットリストを観ると、さすがツェッペリン研究家(?)ジミー・ペイジ、代表曲かつツェッペリン・グルーヴが現出しやすい楽曲をちゃんとセレクトしてある。ライブ直後、Youtubeで検索しまくったあの興奮が甦ってきた。



究極のツェッペリン・ナンバーである「アキレス・ラスト・スタンド」や、個人的に聴きたかった「ロイヤル・オルアレン」や「ウェアリング・アンド・ティアリング」、あるいはDVDのタイトルになっている「祭典の日」が演奏されてないのはかえすがえすも残念だけど、現役時代には殆ど演奏されたことの無い代表曲である「グッド・タイムス・バッド・タイムス」やライブでやるのは初めての「フォー・ユア・ライフ」などは嬉しいし、ツェッペリンのそれぞれのアルバムからちょうど2〜3曲づつセレクトしてありバランスもいい。ラストアルバムの「イン・スルー・ジ・アウトドア」からは一曲もやってないのも正しい判断(笑)だと思う。おまけに値段もべらぼうに高いわけではなく6千円と程よい価格設定。いいね。



今月のロッキンオンの表紙はツェッペリンで、当然渋谷社長もはしゃいでいる。



ただ少し意外だったのが、現役ツェッペリンに関しては絶対神のように喧伝しつつも、解散後のプチ再結成やペイジ・プラントに対しては冷静に評価している渋谷さんが、今回の再結成ライブやDVDに関しては、






「ツェッペリンという神が降りてきている瞬間がドキュメントされている」



と、まるでモーリス・ホワイトのような事を言っていることだ。ただ、




「こういう話をね、ロッキンオンで読んでさあ、こいつ何を言ってんだろうなって思う人も、映像を観たらなんとなくわかると思うんだよね。だからこれは、きっちりとした解説なんだよ。ほんとそう思うよ。ほんとに、スゴいものを観たんだけど、でもそれをね、何がすごかったかって人に伝えるのがなかなか難しくてね」


とも言っている。



ウン、信用できる。久々に渋谷さんに乗せられよう。買おう!
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高瀬大介

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