2012年07月
つい人から借りて、つい観てしまって、つい泣いてしまった映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」。
正直言って吉岡秀隆のベタついた演技は嫌いだし、妙に昭和の東京の下町を美化しすぎたような演出も違和感があるし、何より昔は良かったという前提に立って現代の日本に対してチクリとヤっているのもズルいと思う。
思うけどさ、こうも日本人の情緒の琴線をビビらしまくられては、そりゃ泣くわ(笑)。
おかしなもんで吉岡秀隆や堤真一の父性が発動されるシーンはどれも鉄板で泣いてしまった。親父でもねぇのに。特に堤真一はズルい。
やっぱ大ヒットしたもんにはナニかあるわ。あんまりひねくれた見方をしてもしょうがないし、所詮は俺も義理人情の人間なんだろう。
そう、ひねくれてもしょうがない。
海は広いし大きいし、渇いた喉にはビールは美味いし、サッカー勝って皆が浮かれてりゃそれはそれで楽しいし、快便が出りゃ気持ちいいし、足の小指を打ちゃ痛いし、日焼けはヒリつくし、串カツは美味いし、マイケル・ジャクソンはスゴいし、ジミヘンは狂ったような天才だし、バンドでスタジオ入りゃ滝のような汗は出るけど愉しい。
どうせまた反転してひねた事を言うようになるんだろうが、「暑い」としか形容のしようがない季節くらいは素直に暑さを堪能しよう。
8月は頭からいきなり忙しいよ。
明後日はリハ2つやって8/3はTwo Peas In A Pod 改めヒゲとボインのライブ。
ちなみに未だにミクシー上のつぶやきでしか改名を聞かされてないのでこれが恒久的な改名なのかどうかは不明。とりあえずアナルなんとかとか、なんとかハスキーにならんで良かったわ。
で8/4は海に行って思いっきり遊ぶ予定。
で翌日の8/5はこれこそ夏本番!俺のバンドのライブ。
★2012年8月5日(日)
「地下水族館Vol,2」
@大久保水族館
18:30 OPEN
19:00 START
1500円+1Drink
出演:
サグチャナ
HIROKI(a.k.a THE JEROKI)
埜本禅
山崎怠雅グループ(デュオ)
高瀬大介バンド
つうこと。今回は山崎怠雅クンのイベントに出演させてもらうわけです。
安く呑めるバーなので是非是非観に来てほしい。今うちらのバンド、アイドリングを脱してちゃんと動き出してるんでいいライブになるよ。新曲の音源製作も詰めてるしいい緊張が漂っとる。
で、翌日8/6、アメリカが広島に原爆を落としやがった日、真昼の月 夜の太陽で毎度おなじみのセッションがあるので顔を出すつもりです。
この日も気楽に遊びに来てほしい。楽器弾けなくてもバンドと交渉して奴等をカラオケ扱いして自分で唄っちまえばいいさ!!! 前例アリ。
あと8/21は六本木SONORAでなぜかデレク・アンド・ドミノスのカバーバンドをやるよ。
Walkin Down By Low のヨティやたけいくんらと禁断の「いとしのレイラ」なんかをやるのさ。クラプトンとデュアン・オールマンのギターバトルを再現して暑苦しい夏の夜をもっと暑くするよ。
ということでそこそこ外向的な2012年...夏なのでどっかで会ったら絡んでください。
正直言って吉岡秀隆のベタついた演技は嫌いだし、妙に昭和の東京の下町を美化しすぎたような演出も違和感があるし、何より昔は良かったという前提に立って現代の日本に対してチクリとヤっているのもズルいと思う。
思うけどさ、こうも日本人の情緒の琴線をビビらしまくられては、そりゃ泣くわ(笑)。
おかしなもんで吉岡秀隆や堤真一の父性が発動されるシーンはどれも鉄板で泣いてしまった。親父でもねぇのに。特に堤真一はズルい。
やっぱ大ヒットしたもんにはナニかあるわ。あんまりひねくれた見方をしてもしょうがないし、所詮は俺も義理人情の人間なんだろう。
そう、ひねくれてもしょうがない。
海は広いし大きいし、渇いた喉にはビールは美味いし、サッカー勝って皆が浮かれてりゃそれはそれで楽しいし、快便が出りゃ気持ちいいし、足の小指を打ちゃ痛いし、日焼けはヒリつくし、串カツは美味いし、マイケル・ジャクソンはスゴいし、ジミヘンは狂ったような天才だし、バンドでスタジオ入りゃ滝のような汗は出るけど愉しい。
どうせまた反転してひねた事を言うようになるんだろうが、「暑い」としか形容のしようがない季節くらいは素直に暑さを堪能しよう。
8月は頭からいきなり忙しいよ。
明後日はリハ2つやって8/3はTwo Peas In A Pod 改めヒゲとボインのライブ。
ちなみに未だにミクシー上のつぶやきでしか改名を聞かされてないのでこれが恒久的な改名なのかどうかは不明。とりあえずアナルなんとかとか、なんとかハスキーにならんで良かったわ。
で8/4は海に行って思いっきり遊ぶ予定。
で翌日の8/5はこれこそ夏本番!俺のバンドのライブ。
★2012年8月5日(日)
「地下水族館Vol,2」
@大久保水族館
18:30 OPEN
19:00 START
1500円+1Drink
出演:
サグチャナ
HIROKI(a.k.a THE JEROKI)
埜本禅
山崎怠雅グループ(デュオ)
高瀬大介バンド
つうこと。今回は山崎怠雅クンのイベントに出演させてもらうわけです。
安く呑めるバーなので是非是非観に来てほしい。今うちらのバンド、アイドリングを脱してちゃんと動き出してるんでいいライブになるよ。新曲の音源製作も詰めてるしいい緊張が漂っとる。
で、翌日8/6、アメリカが広島に原爆を落としやがった日、真昼の月 夜の太陽で毎度おなじみのセッションがあるので顔を出すつもりです。
この日も気楽に遊びに来てほしい。楽器弾けなくてもバンドと交渉して奴等をカラオケ扱いして自分で唄っちまえばいいさ!!! 前例アリ。
あと8/21は六本木SONORAでなぜかデレク・アンド・ドミノスのカバーバンドをやるよ。
Walkin Down By Low のヨティやたけいくんらと禁断の「いとしのレイラ」なんかをやるのさ。クラプトンとデュアン・オールマンのギターバトルを再現して暑苦しい夏の夜をもっと暑くするよ。
ということでそこそこ外向的な2012年...夏なのでどっかで会ったら絡んでください。
最近、手塚治虫のブラックジャックを読み返していて、ビートルズを大音量で流してオペする名医の話があった。
手塚はかつてのインタビューでビートルズについて
「最初はあんなもんはどこがいいんだか分からなかったけど、ヘイジュードをラジオで耳にして、これは何かあると思って、レコードを買い込んで聴いてみたら一気にファンになった」と言っていた。
そこで、手塚がビートルズに関して言及した文献は他にもないかと「手塚治虫 ビートルズ」で検索してみた。
するとある人のblogがあったので読んでみた。
曰く
『好きな映画は?と聞かれて「ロッキー」とか「ハリーポッター」といった商業的で通俗的なヒット作を挙げるのではなく、例えばチャップリンやアラビアのロレンスのような古典的名作を挙げて得意がっている人は、大抵はわかりもしないのに「それらを挙げとけば映画が分かっている」と周りにアピール出来る、という自己顕示欲からそれらを挙げており、そういうのはそのジャンルにおける権威主義者というものである。
音楽で言えばビートルズ、マンガで言えば手塚治虫がその際たるもんである。現役時代にビートルズを聴いていた人間や手塚治虫を読んでいた人間ならともかく、若い世代で手塚治虫が好きだビートルズが好きだという奴はまず権威主義者とみて間違いない』
とまで断言している。
普段ならこういう文章を読んでも「世の中には狭量で偏見に満ちた人もいるのだなぁ」で済むのだが、そのblogの最後に「この日記に関して意見がありましたら是非コメントしてください」と御丁寧にあったので、遠慮なく幾つかコメントをした。興味がある人は「手塚治虫 ビートルズ」で検索したら出てくるので読んでみたらいいよ。
思うのだが、例えば政治の世界や学者の世界、あるいは花道や茶道、ファインアートといったような、あまり一般的な民意というのが反映されにくいジャンルにおいては、盲目的な権威崇拝というのは確かにあるのかもしれない。
特に政治の世界でそういう盲目的な権威崇拝は独裁に繋がる危険性もあるし、権威ある学者が間違った情報を流布したら人命を奪うことだってある。原発事故の時「プルトニウムは飲んでも大丈夫です」とか「放射能は人体に影響を与えません」といった発言をあのドサクサに紛れてした原発御用学者も居たらしい。放射能に汚染されてない安全地区をなんの根拠もなく設定し、住民を避難させた東電も政府も同じく犯罪的な権威である。そういう連中はただちに放射能汚染水の中で泳いでもらいたい。
まあそれはともかく、それに比べて音楽や漫画や映画といったサブカルチャーにおける権威主義なんてのにはそこまで罪があるとは思えないのだが、その人は強硬なまでに権威主義者を糾弾し、「そんな人が周りにいたら心のなかで笑ってやりましょう」と呼び掛けている。
で、それでもまだ「考えは人それぞれ」とギリギリ納得しようと思えば出来る。
しかしそこに手塚治虫とビートルズを持ち出されるのは我慢がならない。
手塚治虫にしろビートルズにしろ確かに権威と言えば権威だろうが、それぞれのジャンルにおいて「最も敷居が低くて間口の広い」アーティストでもある。わざわざ「分かったふり」をせずとも充分伝わるし、多くの作品は現代においても充分通用するクオリティを誇っている。
実際ビートルズも手塚治虫も、その現役世代ではない、新たな世代の支持を集めるという特性が非常に高いアーティストである。
今だに彼等の作品が売れるというののは、彼等の作品が時代を越えた普遍性があるからだという何よりの証である。単に「名作だから買っとけ」という薄い動機だけでこれだけ長きにわたって売れ続けるはずなどない。
漫画にせよロックにせよ基本はユースカルチャーである。まあさすがに長い歴史を持ったジャンルだからそれを享受する世代は幅広いが、とにかく若い世代がまず通るものだ。
だからたとえどれほど権威的なネームバリューがあろうとも、つまらないもんには若者は見向きもしない。自分の欲求に対してはストレートだし貪欲だ。
確かに若者特有の「大人ぶりっこ」的な自己顕示欲から古典的名作に手を出すこともあるだろうが、それが本当に感動出来るものでなければ長続きはしない。それは体験的に知っている。
手塚やビートルズを宣伝の道具として使う広告代理店の発想ならば、手塚にせよビートルズにせよ彼等の権威の威光を借りて企画を通し易かったりもするだろうが、実質的なユーザーである若い世代にはそんな目眩ましは通用しない。面白くなけりゃ淘汰されるのだ。
手塚は本質的な部分で面白いから、度々換骨奪胎して映画化されたりアニメ化されるし、原作は売れる。
ビートルズは本当の意味で普遍性があるから再発される度に記録を塗り替え、BOX SETまでが爆発的に売れる。
どうしてこんな単純な原則論がその人は理解できないのか?それこそ理解に苦しむ。
確かに録音技術や演奏技術や音楽製作のフォーマットの現代との落差からくる風化、作風や画力や構成における現代との感覚の落差が、若い世代にとって壁になることもあるだろう。ビートルズは平気でミストーンをレコード上に残しているし、当時でさえ古いと言われた手塚のギャグセンスはもはや古いを通り越している。
後の世代の表現者の方が手塚ら先人の作品を参考に、より深い表現技法を追求できるのだから、そういった細かいところでの落差が生じるのは当たり前だ。
けれども優れた創作物というのはそういう表面的な意匠や時代の経過によっては左右されない、もっと大きな「核」の部分で世代を越えて人の心を掴むのだ。
主人公の心理をより深く表現するために生み出した表現技法の改革というのは、そりゃそれが他者に模倣されればされるほど新鮮味や革新性は感じられなくなる。しかしそのオリジネーターがそれを伝えたいと思った熱意、そのために行った試行錯誤のあとと表現の凄みはその作品に刻印され、生命力が宿るのだ。それはどこら辺がどう宿っているのか?なんて言葉には出来るようなものではない。
百年以上前に作られたクラシックの名曲のメロディーが未だに人の心を射つのは、単純に高度な音楽技法を駆使してるからではなく、作曲家が作品に封じ込めた思いや、ギラギラとした創造性がその作品に表れてるからだろう?
そのblogの人は自分の文章の中で
「例えば手塚の作品を、無名な作家の作品として現代のマンガと並べたとき、それでも手塚の作品は優れていると評価されるだろうか?いやそうはならないだろう」
と述べていて、故に手塚の作品は現代の漫画よりは劣るものであり、若い世代で手塚治虫が優れているとか好きだというものはすべからくウソつきで権威主義者である、という論法なのだ。
まずその仮定の設問自体がナンセンスである。
手塚の死後にその作品に触れたものは、年端もいかない子供の場合は別としても、大抵の人間はそれが「過去に描かれた作品である」という前提のもとに読んでいるので、表面上の漫画技法の古さといったものは既に折り込みずみなのだ。
だから単純に現代の漫画と並べて、テクニックや表現様式やテーマ性、などを度外視した、純粋な比較などはなから出来るわけないのだ。
そもそも現代の漫画といったところでそれは何を指すのだろう?
おやすみプンプンとかアイアムヒーローといった十代二十代に圧倒的な支持を得ている繊細な筆致の漫画もあれば、子供の落書きのような不条理漫画もある。
手塚だって初期の牧歌的な児童漫画もあれば、アナーキーでお先真っ暗な青年漫画もあるし、メジャー雑誌に載ったいささか粗製乱造気味ながら、大衆の欲求とまともにぶつかったヒット作もあれば、貸本漫画に書いた実験的意欲作もある。
要するに漫画というは、非常に多面的であり、あらゆる方向に触手を伸ばしているもので、ましてやその最たるものが手塚だったりする。
それらを並べて一体どんな判断基準を持ってきて優劣を比べられるというのだろう?
緻密な心理描写が必要される漫画だってあれば、要点だけをパパッと並べてスピーディーな展開が必要とされた漫画だってある。
ブラックジャックなんか、あれだけの濃密な内容のものを20ページ前後にまとめて毎週発表していたのだ。しかも毎回毎回3〜4話分のアイデアを編集者に提示しどれがいいか選ばせてたってんだから「一体手塚治虫の頭のなかはどうなってるんだ?!」と編集者でなくとも言いたくなるだろう。それだけの膨大な量のアイデアと濃密な物語を週刊誌のペースに合わせて生み出してたんだから、そりゃあ今の漫画とはコマとコマの間に流れる時間の速さや濃密さは違うっての。
そういった背景があるからこそブラックジャックはいまだに面白いわけだ。
あの1970年代当時、同じように週刊連載してたマンガで今の鑑賞に耐えるものがどれだけあると思ってるんだ?それらを鑑みることが出来なきゃそらぁブラックジャックは要点だけをパパッとかいつまんだ粗雑な漫画に見えるわな。
俺も含めてだが手塚の死後にその作品に触れた人間にとってはそういった前提条件込みで、それでもなお伝わってくる作品の生々しさ、濃密な物語、エネルギー、圧倒的な表現力に驚嘆しのめり込んでいった。そこには他の作家にはないギラギラとした創造性や生みの苦しみ、天才であるが故の苦悩すらも内包されていて、とても「マンガの神様」という口当たりのいいイメージとは似ても似つかない苦味と重さがあった。
むしろ俺なんかは最初は「マンガの神様」という権威的なネームバリュー故に手塚を敬遠してたほどである。
しかしその先入観を180度引っくり返された「手塚体験」を持つ人間にとってみれば
「手塚の現役世代ではない、若い世代で手塚治虫が好きだというものはすべからく権威主義者である」
という乱暴な断定は、俺自身の感動に唾を吐かれたような気持ちになるのだ。
そもそも手塚は最初に出てきた頃は「俗悪マンガ」だと言われ、PTAのバカどもが起こした「悪書追放運動」の矢面に立たされた人である。
ビートルズだって最初は騒音扱いされ、若者の不良化を促進させる存在であり、一過性のアイドルとしてしか見られず、まともにその音楽性を評価されるまでには時間がかかったのだ。
そんな戦いを経て「権威」扱いされるようになったんだからたいしたもんじゃないか。というか「騒音」だ「俗悪」だと頭でっかちに決めつけた当時の大人たちと、安直に「権威」と決めつけるblogの主は、本質を見てないという意味においては同じことだ。
手塚の「マンガの神様」にせよ、ビートルズの「現代のクラシック」でもジョン・レノンの「愛と平和の殉教者」でもなんでもいいが、その一元的な権威的扱い、口当たりのいいキャッチコピーというのは、彼らの創作物に真摯に向き合い、強く心を動かされた者にとっては非常に不愉快きわまりない野蛮な決めつけと感じる。
人間はそんな簡単なものじゃないし、神様は苦悩しないし、聖人君子にはドラッグとセックスとロックンロールは向かない。
いつまでたっても若い漫画家に嫉妬し、悪口を言い、自分が現役ランナーで居ることに死ぬまでこだわりまくった手塚の業の深さは、ベレー帽をかぶってニコニコしている「マンガの神様」といった世間的に流布するイメージよりももっと重要なもうひとつの顔だし、そのドロドロと人間くさいところがあるから、手塚の作品にはいつの時代の若者を捉える青年性があるのだ。
とうとう最後まで老境にせまった大家の「いち抜けた」をすることなく、焦り、イライラし、死の床にまで原稿を持ち込み、殆ど家族と面会せずネームを書き続けて死んだのだ。こんなの神様でも権威でもない。マンガの創造神に業を背負わされてしまった不幸なキチガイだろう。だからこそ凄いのだ。
一部の企業の論理というか広告代理店的発想で、彼らの多面的でドロドロした才能を、薄っぺらいキャッチコピーでラッピングしてしまうのはもはや犯罪的ですらある。
同じように手塚治虫やビートルズを単なる「権威」と乱暴に決めつけ、それらを好きだと表明するものを妄信的な原理主義者と決めつめ、冷笑しましょうと促すのは犯罪である。
それがたとえ、さして影響力のない個人のblogにおいてだとしても、手塚やビートルズの創作物にこれから接しようとする若い世代の自発性を阻害する方向に機能する文章は犯罪的なのだ。
ただまあ言論の自由だし、何をいったって個人の意見だから別に構わないんだけどね結局。
そのblogの主がちゃんとまともにこちらの意見を読んで論議を交わしてくれる人なので、俺もこういう日記を書く気になったわけだし、多面的な意見が出るというのは何より健全なことだと思う。
それに実際俺が真っ先にフェイバリットにあげるアーティストは、ビートルズにせよツェッペリンにせよ手塚にせよ黒澤にせよ小津にせよ談志にせよたけしにせよ松本人志にせよ、思いっきり「権威」扱いされる人ばっかだ。
彼等は本質的には「異端児」であり「反逆者」であり「改革者」であるけれど、そこに巨大な才能が内在していたからポップな存在となり「権威」となったわけだ。だから言いたい。
権威主義者のどこがワリィ?!
少なくともユースカルチャー、サブカルチャーにおける「権威」ってな、ちゃんと実態のある支持に支えられた権威なわけで、ハリボテの権威ではない。もう一度言いたい。
権威主義者のなにがワリィ?!
もう一度言いたい、って...朝まで生テレビの田原総一郎の「もうちょっと言いたい、もうちょっと言いたい」じゃねぇんだから...。あれってちょっと面白い。なんだかアホみたいで。
手塚はかつてのインタビューでビートルズについて
「最初はあんなもんはどこがいいんだか分からなかったけど、ヘイジュードをラジオで耳にして、これは何かあると思って、レコードを買い込んで聴いてみたら一気にファンになった」と言っていた。
そこで、手塚がビートルズに関して言及した文献は他にもないかと「手塚治虫 ビートルズ」で検索してみた。
するとある人のblogがあったので読んでみた。
曰く
『好きな映画は?と聞かれて「ロッキー」とか「ハリーポッター」といった商業的で通俗的なヒット作を挙げるのではなく、例えばチャップリンやアラビアのロレンスのような古典的名作を挙げて得意がっている人は、大抵はわかりもしないのに「それらを挙げとけば映画が分かっている」と周りにアピール出来る、という自己顕示欲からそれらを挙げており、そういうのはそのジャンルにおける権威主義者というものである。
音楽で言えばビートルズ、マンガで言えば手塚治虫がその際たるもんである。現役時代にビートルズを聴いていた人間や手塚治虫を読んでいた人間ならともかく、若い世代で手塚治虫が好きだビートルズが好きだという奴はまず権威主義者とみて間違いない』
とまで断言している。
普段ならこういう文章を読んでも「世の中には狭量で偏見に満ちた人もいるのだなぁ」で済むのだが、そのblogの最後に「この日記に関して意見がありましたら是非コメントしてください」と御丁寧にあったので、遠慮なく幾つかコメントをした。興味がある人は「手塚治虫 ビートルズ」で検索したら出てくるので読んでみたらいいよ。
思うのだが、例えば政治の世界や学者の世界、あるいは花道や茶道、ファインアートといったような、あまり一般的な民意というのが反映されにくいジャンルにおいては、盲目的な権威崇拝というのは確かにあるのかもしれない。
特に政治の世界でそういう盲目的な権威崇拝は独裁に繋がる危険性もあるし、権威ある学者が間違った情報を流布したら人命を奪うことだってある。原発事故の時「プルトニウムは飲んでも大丈夫です」とか「放射能は人体に影響を与えません」といった発言をあのドサクサに紛れてした原発御用学者も居たらしい。放射能に汚染されてない安全地区をなんの根拠もなく設定し、住民を避難させた東電も政府も同じく犯罪的な権威である。そういう連中はただちに放射能汚染水の中で泳いでもらいたい。
まあそれはともかく、それに比べて音楽や漫画や映画といったサブカルチャーにおける権威主義なんてのにはそこまで罪があるとは思えないのだが、その人は強硬なまでに権威主義者を糾弾し、「そんな人が周りにいたら心のなかで笑ってやりましょう」と呼び掛けている。
で、それでもまだ「考えは人それぞれ」とギリギリ納得しようと思えば出来る。
しかしそこに手塚治虫とビートルズを持ち出されるのは我慢がならない。
手塚治虫にしろビートルズにしろ確かに権威と言えば権威だろうが、それぞれのジャンルにおいて「最も敷居が低くて間口の広い」アーティストでもある。わざわざ「分かったふり」をせずとも充分伝わるし、多くの作品は現代においても充分通用するクオリティを誇っている。
実際ビートルズも手塚治虫も、その現役世代ではない、新たな世代の支持を集めるという特性が非常に高いアーティストである。
今だに彼等の作品が売れるというののは、彼等の作品が時代を越えた普遍性があるからだという何よりの証である。単に「名作だから買っとけ」という薄い動機だけでこれだけ長きにわたって売れ続けるはずなどない。
漫画にせよロックにせよ基本はユースカルチャーである。まあさすがに長い歴史を持ったジャンルだからそれを享受する世代は幅広いが、とにかく若い世代がまず通るものだ。
だからたとえどれほど権威的なネームバリューがあろうとも、つまらないもんには若者は見向きもしない。自分の欲求に対してはストレートだし貪欲だ。
確かに若者特有の「大人ぶりっこ」的な自己顕示欲から古典的名作に手を出すこともあるだろうが、それが本当に感動出来るものでなければ長続きはしない。それは体験的に知っている。
手塚やビートルズを宣伝の道具として使う広告代理店の発想ならば、手塚にせよビートルズにせよ彼等の権威の威光を借りて企画を通し易かったりもするだろうが、実質的なユーザーである若い世代にはそんな目眩ましは通用しない。面白くなけりゃ淘汰されるのだ。
手塚は本質的な部分で面白いから、度々換骨奪胎して映画化されたりアニメ化されるし、原作は売れる。
ビートルズは本当の意味で普遍性があるから再発される度に記録を塗り替え、BOX SETまでが爆発的に売れる。
どうしてこんな単純な原則論がその人は理解できないのか?それこそ理解に苦しむ。
確かに録音技術や演奏技術や音楽製作のフォーマットの現代との落差からくる風化、作風や画力や構成における現代との感覚の落差が、若い世代にとって壁になることもあるだろう。ビートルズは平気でミストーンをレコード上に残しているし、当時でさえ古いと言われた手塚のギャグセンスはもはや古いを通り越している。
後の世代の表現者の方が手塚ら先人の作品を参考に、より深い表現技法を追求できるのだから、そういった細かいところでの落差が生じるのは当たり前だ。
けれども優れた創作物というのはそういう表面的な意匠や時代の経過によっては左右されない、もっと大きな「核」の部分で世代を越えて人の心を掴むのだ。
主人公の心理をより深く表現するために生み出した表現技法の改革というのは、そりゃそれが他者に模倣されればされるほど新鮮味や革新性は感じられなくなる。しかしそのオリジネーターがそれを伝えたいと思った熱意、そのために行った試行錯誤のあとと表現の凄みはその作品に刻印され、生命力が宿るのだ。それはどこら辺がどう宿っているのか?なんて言葉には出来るようなものではない。
百年以上前に作られたクラシックの名曲のメロディーが未だに人の心を射つのは、単純に高度な音楽技法を駆使してるからではなく、作曲家が作品に封じ込めた思いや、ギラギラとした創造性がその作品に表れてるからだろう?
そのblogの人は自分の文章の中で
「例えば手塚の作品を、無名な作家の作品として現代のマンガと並べたとき、それでも手塚の作品は優れていると評価されるだろうか?いやそうはならないだろう」
と述べていて、故に手塚の作品は現代の漫画よりは劣るものであり、若い世代で手塚治虫が優れているとか好きだというものはすべからくウソつきで権威主義者である、という論法なのだ。
まずその仮定の設問自体がナンセンスである。
手塚の死後にその作品に触れたものは、年端もいかない子供の場合は別としても、大抵の人間はそれが「過去に描かれた作品である」という前提のもとに読んでいるので、表面上の漫画技法の古さといったものは既に折り込みずみなのだ。
だから単純に現代の漫画と並べて、テクニックや表現様式やテーマ性、などを度外視した、純粋な比較などはなから出来るわけないのだ。
そもそも現代の漫画といったところでそれは何を指すのだろう?
おやすみプンプンとかアイアムヒーローといった十代二十代に圧倒的な支持を得ている繊細な筆致の漫画もあれば、子供の落書きのような不条理漫画もある。
手塚だって初期の牧歌的な児童漫画もあれば、アナーキーでお先真っ暗な青年漫画もあるし、メジャー雑誌に載ったいささか粗製乱造気味ながら、大衆の欲求とまともにぶつかったヒット作もあれば、貸本漫画に書いた実験的意欲作もある。
要するに漫画というは、非常に多面的であり、あらゆる方向に触手を伸ばしているもので、ましてやその最たるものが手塚だったりする。
それらを並べて一体どんな判断基準を持ってきて優劣を比べられるというのだろう?
緻密な心理描写が必要される漫画だってあれば、要点だけをパパッと並べてスピーディーな展開が必要とされた漫画だってある。
ブラックジャックなんか、あれだけの濃密な内容のものを20ページ前後にまとめて毎週発表していたのだ。しかも毎回毎回3〜4話分のアイデアを編集者に提示しどれがいいか選ばせてたってんだから「一体手塚治虫の頭のなかはどうなってるんだ?!」と編集者でなくとも言いたくなるだろう。それだけの膨大な量のアイデアと濃密な物語を週刊誌のペースに合わせて生み出してたんだから、そりゃあ今の漫画とはコマとコマの間に流れる時間の速さや濃密さは違うっての。
そういった背景があるからこそブラックジャックはいまだに面白いわけだ。
あの1970年代当時、同じように週刊連載してたマンガで今の鑑賞に耐えるものがどれだけあると思ってるんだ?それらを鑑みることが出来なきゃそらぁブラックジャックは要点だけをパパッとかいつまんだ粗雑な漫画に見えるわな。
俺も含めてだが手塚の死後にその作品に触れた人間にとってはそういった前提条件込みで、それでもなお伝わってくる作品の生々しさ、濃密な物語、エネルギー、圧倒的な表現力に驚嘆しのめり込んでいった。そこには他の作家にはないギラギラとした創造性や生みの苦しみ、天才であるが故の苦悩すらも内包されていて、とても「マンガの神様」という口当たりのいいイメージとは似ても似つかない苦味と重さがあった。
むしろ俺なんかは最初は「マンガの神様」という権威的なネームバリュー故に手塚を敬遠してたほどである。
しかしその先入観を180度引っくり返された「手塚体験」を持つ人間にとってみれば
「手塚の現役世代ではない、若い世代で手塚治虫が好きだというものはすべからく権威主義者である」
という乱暴な断定は、俺自身の感動に唾を吐かれたような気持ちになるのだ。
そもそも手塚は最初に出てきた頃は「俗悪マンガ」だと言われ、PTAのバカどもが起こした「悪書追放運動」の矢面に立たされた人である。
ビートルズだって最初は騒音扱いされ、若者の不良化を促進させる存在であり、一過性のアイドルとしてしか見られず、まともにその音楽性を評価されるまでには時間がかかったのだ。
そんな戦いを経て「権威」扱いされるようになったんだからたいしたもんじゃないか。というか「騒音」だ「俗悪」だと頭でっかちに決めつけた当時の大人たちと、安直に「権威」と決めつけるblogの主は、本質を見てないという意味においては同じことだ。
手塚の「マンガの神様」にせよ、ビートルズの「現代のクラシック」でもジョン・レノンの「愛と平和の殉教者」でもなんでもいいが、その一元的な権威的扱い、口当たりのいいキャッチコピーというのは、彼らの創作物に真摯に向き合い、強く心を動かされた者にとっては非常に不愉快きわまりない野蛮な決めつけと感じる。
人間はそんな簡単なものじゃないし、神様は苦悩しないし、聖人君子にはドラッグとセックスとロックンロールは向かない。
いつまでたっても若い漫画家に嫉妬し、悪口を言い、自分が現役ランナーで居ることに死ぬまでこだわりまくった手塚の業の深さは、ベレー帽をかぶってニコニコしている「マンガの神様」といった世間的に流布するイメージよりももっと重要なもうひとつの顔だし、そのドロドロと人間くさいところがあるから、手塚の作品にはいつの時代の若者を捉える青年性があるのだ。
とうとう最後まで老境にせまった大家の「いち抜けた」をすることなく、焦り、イライラし、死の床にまで原稿を持ち込み、殆ど家族と面会せずネームを書き続けて死んだのだ。こんなの神様でも権威でもない。マンガの創造神に業を背負わされてしまった不幸なキチガイだろう。だからこそ凄いのだ。
一部の企業の論理というか広告代理店的発想で、彼らの多面的でドロドロした才能を、薄っぺらいキャッチコピーでラッピングしてしまうのはもはや犯罪的ですらある。
同じように手塚治虫やビートルズを単なる「権威」と乱暴に決めつけ、それらを好きだと表明するものを妄信的な原理主義者と決めつめ、冷笑しましょうと促すのは犯罪である。
それがたとえ、さして影響力のない個人のblogにおいてだとしても、手塚やビートルズの創作物にこれから接しようとする若い世代の自発性を阻害する方向に機能する文章は犯罪的なのだ。
ただまあ言論の自由だし、何をいったって個人の意見だから別に構わないんだけどね結局。
そのblogの主がちゃんとまともにこちらの意見を読んで論議を交わしてくれる人なので、俺もこういう日記を書く気になったわけだし、多面的な意見が出るというのは何より健全なことだと思う。
それに実際俺が真っ先にフェイバリットにあげるアーティストは、ビートルズにせよツェッペリンにせよ手塚にせよ黒澤にせよ小津にせよ談志にせよたけしにせよ松本人志にせよ、思いっきり「権威」扱いされる人ばっかだ。
彼等は本質的には「異端児」であり「反逆者」であり「改革者」であるけれど、そこに巨大な才能が内在していたからポップな存在となり「権威」となったわけだ。だから言いたい。
権威主義者のどこがワリィ?!
少なくともユースカルチャー、サブカルチャーにおける「権威」ってな、ちゃんと実態のある支持に支えられた権威なわけで、ハリボテの権威ではない。もう一度言いたい。
権威主義者のなにがワリィ?!
もう一度言いたい、って...朝まで生テレビの田原総一郎の「もうちょっと言いたい、もうちょっと言いたい」じゃねぇんだから...。あれってちょっと面白い。なんだかアホみたいで。