2009年02月
さっきタモリ倶楽部で「崖めぐり」企画をやっていて、二子玉川近辺の多摩川土手や、等々力渓谷など俺の散歩コース圏内の見慣れた景色が映って少しテンションがあがった。俺も散歩しながら太古の地形を想像してみようか。しかしムチャクチャ趣味的な企画だなぁ...。
タモリ倶楽部を観出したのは俺が中学の頃だから、かれこれ20年近くになるが、この番組の基本的なノリはほぼ変わっていない。
非常にアカデミックな企画からオヤジ的下ネタまで、空耳アワーのような大ヒット企画からタモリの超趣味的な地味企画まで、その方向性は多岐に富んでいるが、そのどれにもこの番組独自のノリがあるし、安上がりでマニアック、趣味的で下らない、いにしえの深夜番組の「匂い」を今に残す唯一の番組だ。
個人的に好きだった昔の企画は、都内および近郊に点在する不思議で不可解な建造物や場所を尋ねて歩くというレギュラーコーナー「東京トワイライトゾーン」や、アホらしいHOW TOビデオやホストのプロモーションビデオ、フェチズムに特化したアダルトビデオなど、その年に発売された「下らない」ビデオを集めて、一番香ばしいビデオを選んでは勝手に表彰する年一回企画「ビデオ大賞」や、真冬に海辺などの吹きっさらしの中、すっ裸で麻雀をやる「寒中ダジャレ麻雀大会」など。
また今よりも規制が緩かったのかきわどい下ネタも平気でやってた。割と近年の企画ではあるが、「G-スポット」の発見から現在の普及に至るまでを学術的な観点から捉えた「知ってるつもり?」のパクリネタ企画も最高に笑えた。
この番組の製作陣はとても頭がいいと思う。
タモリという「稀代のリトマス紙」、あるいは「偉大なる空虚」を存分に生かす独自の笑いのセンスを持ちながら、かといってヘンな上昇志向は無く、ゴールデン化とかDVD化とかいったヤマっ気も出さず、ひたすらどうでもいいようなことを、淡々と26年間毎週やり続けるというのは相当頭クレバーじゃないと出来ないことだ。
こないだテレビ朝日50周年ということで、番組始まって以来初めて総集編なるものをやっていて驚いたが、これからも基本的には後ろを振り返らず、
かといって先を見据えず、
決して消費されず、
下らなさとマニアックさを堅持し、
「家にいればかなりの確立で観るが、見逃してもさして悔しくない」という絶妙のポジションを保持し続け、
ユル〜いノリを保持したまま、タモリが死ぬまで番組が続いてくれることを願っている。
タモリ倶楽部を観出したのは俺が中学の頃だから、かれこれ20年近くになるが、この番組の基本的なノリはほぼ変わっていない。
非常にアカデミックな企画からオヤジ的下ネタまで、空耳アワーのような大ヒット企画からタモリの超趣味的な地味企画まで、その方向性は多岐に富んでいるが、そのどれにもこの番組独自のノリがあるし、安上がりでマニアック、趣味的で下らない、いにしえの深夜番組の「匂い」を今に残す唯一の番組だ。
個人的に好きだった昔の企画は、都内および近郊に点在する不思議で不可解な建造物や場所を尋ねて歩くというレギュラーコーナー「東京トワイライトゾーン」や、アホらしいHOW TOビデオやホストのプロモーションビデオ、フェチズムに特化したアダルトビデオなど、その年に発売された「下らない」ビデオを集めて、一番香ばしいビデオを選んでは勝手に表彰する年一回企画「ビデオ大賞」や、真冬に海辺などの吹きっさらしの中、すっ裸で麻雀をやる「寒中ダジャレ麻雀大会」など。
また今よりも規制が緩かったのかきわどい下ネタも平気でやってた。割と近年の企画ではあるが、「G-スポット」の発見から現在の普及に至るまでを学術的な観点から捉えた「知ってるつもり?」のパクリネタ企画も最高に笑えた。
この番組の製作陣はとても頭がいいと思う。
タモリという「稀代のリトマス紙」、あるいは「偉大なる空虚」を存分に生かす独自の笑いのセンスを持ちながら、かといってヘンな上昇志向は無く、ゴールデン化とかDVD化とかいったヤマっ気も出さず、ひたすらどうでもいいようなことを、淡々と26年間毎週やり続けるというのは相当頭クレバーじゃないと出来ないことだ。
こないだテレビ朝日50周年ということで、番組始まって以来初めて総集編なるものをやっていて驚いたが、これからも基本的には後ろを振り返らず、
かといって先を見据えず、
決して消費されず、
下らなさとマニアックさを堅持し、
「家にいればかなりの確立で観るが、見逃してもさして悔しくない」という絶妙のポジションを保持し続け、
ユル〜いノリを保持したまま、タモリが死ぬまで番組が続いてくれることを願っている。
リクエストに答えてくれて、実家から母親の手料理の煮物の詰め合わせが届いた。さといもとか卯の花とかかぼちゃとか切り昆布とか......。
あまりこの言葉は好きではないが、いわゆる「おふくろの味」というやつを堪能した。
料理としての洗練度がどうとか言う以前に、自分が小さい頃から慣れ親しんだ味というのはやっぱりいろんな意味で「旨い」と思う。
炒め物みたいな大雑把な料理は俺のほうが上手いが、煮物とかみたいな微妙なさじ加減が必要な料理は、やっぱ母親が作るものの方が旨い。滋味深い味がする。
俺は一般的な意味でのマザコンではないけれど、好きになる女の人にどこか母親的なものを求めるのは、この「おふくろの味」によるところが大きいかもしれない。こういう味は女性にしか出せない味だという認識が刷り込まれているようだ。
コレ典型的な「日本の男」だな。フェミニストたちが攻撃するのはこういうところなのだ。「おふくろの味」なんて言ったら総攻撃だ。それこそが女を家庭に縛り付ける象徴的なものであるとか言って。
youtubeでTVタックル観ていて「田嶋陽子」の映像に辿り着いてしまったのでついそんなことを考えた。
わざわざ言うことも無いけど、大っ嫌いなんだよな、あのてのタイプ。よっぽど男にヒドイ目にあったのだろうか、徹底的に男を攻撃しやがる。まああのご面相じゃなぁ......。 蛇足か。
こないだのHNK特集じゃあないけど、人間として基本的な部分においては、男は女には到底かなわないんだから、これ以上男を責めるなよってつぶやいてしまった。
あまりこの言葉は好きではないが、いわゆる「おふくろの味」というやつを堪能した。
料理としての洗練度がどうとか言う以前に、自分が小さい頃から慣れ親しんだ味というのはやっぱりいろんな意味で「旨い」と思う。
炒め物みたいな大雑把な料理は俺のほうが上手いが、煮物とかみたいな微妙なさじ加減が必要な料理は、やっぱ母親が作るものの方が旨い。滋味深い味がする。
俺は一般的な意味でのマザコンではないけれど、好きになる女の人にどこか母親的なものを求めるのは、この「おふくろの味」によるところが大きいかもしれない。こういう味は女性にしか出せない味だという認識が刷り込まれているようだ。
コレ典型的な「日本の男」だな。フェミニストたちが攻撃するのはこういうところなのだ。「おふくろの味」なんて言ったら総攻撃だ。それこそが女を家庭に縛り付ける象徴的なものであるとか言って。
youtubeでTVタックル観ていて「田嶋陽子」の映像に辿り着いてしまったのでついそんなことを考えた。
わざわざ言うことも無いけど、大っ嫌いなんだよな、あのてのタイプ。よっぽど男にヒドイ目にあったのだろうか、徹底的に男を攻撃しやがる。まああのご面相じゃなぁ......。 蛇足か。
こないだのHNK特集じゃあないけど、人間として基本的な部分においては、男は女には到底かなわないんだから、これ以上男を責めるなよってつぶやいてしまった。
今度の3月に初お披露目をする新しく組んだバンド「ホセ」。
俺以外のメンバーは各自メインバンドがあるので、このバンドに裂くリハの回数は哀しいくらいエコな状態で本番に挑むというのに、この期に及んでさらに新たな変化が。
実質的には最後のリハであった昨日のリハで予期せぬ珍客参入、そのままバンドに参加してもらうことに決定。こう書くとイイカラカゲンな学園祭バンド的ノリに聞こえるけど、腕は確かな人達が揃ってるんでくだらないもんには絶対になりませんぜ。
とにかく音楽的にもメンツ的にもかなりヤヴァい事になると思われます。
まあ詳細は当日までの秘密だけど、とにかくシンプルで音のでかいロックバンドです。自分にとってのルーツに素直に向き合った音楽性なので。
鬼のように歌い演奏するんでゼヒゼヒ予定を空けておいて下せぇ。
以下主催バンドのギタリスト兼ウチのバンドのベーシストの日記からの転用。
2009年3月3日(火)
Club Edge 六本木
http://www.club-edge.net/index.html
18:30 OPEN
19:00 START
Charge2000円+1Drink
年二回開催のS.R.I.企画「耳乃日Vol,3」です!。前回のVol,2ではS.R.I.としての演奏は無かった為、実に1年ぶりの演奏です。楽しみにしてなかった皆様お待たせしました。してなかった方、近所迷惑ですみません。
今回は共演もくせ者ぞろい。失恋とリコンの神様、阿部拓巳君が満を持して結成した新バンド、「足踝果」、元ワイセッツの高瀬大介、井上順之介に僕がベースで参加するハードロックバンド「ホセ」、日本の誇れるジャズフリーなファンクパンクバンド、4管2打1弦の「vajuwaju」、ドラム+ベース+電気ラッパの悶絶即興涅槃トリオ「Ave Masada Trio」。最初から来なきゃ損よ。
さてこの「ホセ」、長期的展望など無いにもかかわらず生意気にも2回目のライブが決まっております。
4月23日、代々木boogalooです。こちらも対バンにはS.R.Iのメンバーのほんとの姿、捻転時計との胎盤になります。怠雅氏またしてもダブルヘッダー。
今後もしつこく告知するんで飽きずにチラ見しておくれ。
ちなみに「ホセ」ってバンド名、前回に同じようなコンセプトでやったバンドの名前は「ハリマオ」だった。昨日のリハではこの次に変化があるときは「カーロス」にしようかか、いや一気に「力石」まで行くか、と話していたんだけど、「あしたのジョー」は全人類必読の書なので是非読んでください。なんの宣伝だ...。
http://www.youtube.com/watch?v=bMa0C2Da_QE
俺以外のメンバーは各自メインバンドがあるので、このバンドに裂くリハの回数は哀しいくらいエコな状態で本番に挑むというのに、この期に及んでさらに新たな変化が。
実質的には最後のリハであった昨日のリハで予期せぬ珍客参入、そのままバンドに参加してもらうことに決定。こう書くとイイカラカゲンな学園祭バンド的ノリに聞こえるけど、腕は確かな人達が揃ってるんでくだらないもんには絶対になりませんぜ。
とにかく音楽的にもメンツ的にもかなりヤヴァい事になると思われます。
まあ詳細は当日までの秘密だけど、とにかくシンプルで音のでかいロックバンドです。自分にとってのルーツに素直に向き合った音楽性なので。
鬼のように歌い演奏するんでゼヒゼヒ予定を空けておいて下せぇ。
以下主催バンドのギタリスト兼ウチのバンドのベーシストの日記からの転用。
2009年3月3日(火)
Club Edge 六本木
http://www.club-edge.net/index.html
18:30 OPEN
19:00 START
Charge2000円+1Drink
年二回開催のS.R.I.企画「耳乃日Vol,3」です!。前回のVol,2ではS.R.I.としての演奏は無かった為、実に1年ぶりの演奏です。楽しみにしてなかった皆様お待たせしました。してなかった方、近所迷惑ですみません。
今回は共演もくせ者ぞろい。失恋とリコンの神様、阿部拓巳君が満を持して結成した新バンド、「足踝果」、元ワイセッツの高瀬大介、井上順之介に僕がベースで参加するハードロックバンド「ホセ」、日本の誇れるジャズフリーなファンクパンクバンド、4管2打1弦の「vajuwaju」、ドラム+ベース+電気ラッパの悶絶即興涅槃トリオ「Ave Masada Trio」。最初から来なきゃ損よ。
さてこの「ホセ」、長期的展望など無いにもかかわらず生意気にも2回目のライブが決まっております。
4月23日、代々木boogalooです。こちらも対バンにはS.R.Iのメンバーのほんとの姿、捻転時計との胎盤になります。怠雅氏またしてもダブルヘッダー。
今後もしつこく告知するんで飽きずにチラ見しておくれ。
ちなみに「ホセ」ってバンド名、前回に同じようなコンセプトでやったバンドの名前は「ハリマオ」だった。昨日のリハではこの次に変化があるときは「カーロス」にしようかか、いや一気に「力石」まで行くか、と話していたんだけど、「あしたのジョー」は全人類必読の書なので是非読んでください。なんの宣伝だ...。
http://www.youtube.com/watch?v=bMa0C2Da_QE
ちょっと実験的な試みとしてVJ風な日記を書いてみる。
さて本日の特集は「追憶のリビドー」と題しまして、80年代後半から90年代前半、個人的に思春期にリアルタイムで接し、その後の人格形成に大きく影響したロックを集めてみました。
10歳の頃に聞いたビートルズでロックに目覚めて以来、60年代のロック、ポップスをあさるように聴いてきましたが、ちょうど思春期の頃、14歳くらいですか、その頃になると思春期特有の「過剰な暴力衝動」のはけ口、暴力的カタルシスを得るために極めてハードなロックに特化して音楽を聞くようになったんです。
で、まずはツェッペリンだのクラプトンだのジミヘンだのクリムゾンといったヴィンテージロックにドップリ漬かって行ったわけですが、なにもそんな自分が産まれる前のロックばかり聴いていたわけではなくて、一応その時点でのリアルタイムのヒット曲も聴いてはいました。洋楽しか聴きませんでしたが。
最初はあの有名なベストヒットUSAというチャート番組でリアルタイムのヒット曲を追いかけていまして、一応ちゃんとした普通のリスナー人生も歩んではいたんですよ。その頃のヒット曲を今聴いたら妙な気分になりますね。音楽的にどうのこうのとか分析的に聴くのとは別に、いわゆる「懐メロ」感覚で聞けてしまいます。今では聴くことなどありえないようなダンスものとかヘビメタもんとかも「ヒット曲」として楽しんで聴いていました。
しかし高校生にもなりますとそうしたヒット曲に対する興味は一気に失せました。
時は1990年1991年辺り、まさにグランジ・ムーブメントが吹き荒れようとしておりまして、ちょうどその辺りから音楽評論家の渋谷陽一氏がDJを勤めるラジオ番組のヘビーリスナーになりまして、その番組でリアルタイムのロックを摂取しておりました。
ではまずはそのグランジをある意味象徴するバンド、ニルバーナを一曲。
Nirvana Territorial Pissing
http://www.youtube.com/watch?v=d_UQWjx3HRo&feature=related
個人的にはこの曲がニルバーナとの出会いでありまして、これを夜中にヘッドフォンで大音量で聴きながら盛り上がってヘッドバンギングしておりましたら、ヘッドフォンが外れて爆音が漏れて親にどやされるというドリフのコントのようなエピソードが思い出されます。
この曲、今聴いても血が沸騰しますが、グランジと言うとひたすら歪んだギターをかき鳴らしガナリまくるというイメージがありましたがさすがはニルバーナ、コード進行なんかは結構ひねくれてますが、メロディーはしっかりとポップで覚えやすく、爆発的に売れたのもうなずけます。
では次はニルバーナよりもデビューは早く、ある意味グランジを先取りしていたようなバンド、ダイナソーJrを一曲。
Freak Scene-Dinosaur jr
http://www.youtube.com/watch?v=Q4yiujTyubI
このバンドはニルバーナよりもハマりまして、やる気の無い歌と轟音ギターソロが異様に破壊的でカッコいいですな。
このバンドは、デビューは80年代半ばで当初はもっとネオアコっぽい音だったんで、グランジ世代に出てきたバンドよりはやはり若干オールドウェイブな感覚がありました。
何せギターヴォーカルのJマスシスは二ールヤングがフェイバリットですからね。二ールヤング直径の情緒過剰なギターソロを延々弾きまくる所が最大の魅力だったんですけど、ギターも歌もオールドウェイブな「泣き」の感覚、というよりはもっと「投げやり」でして。そこが実にグランジな時代性とマッチしてましたね。根拠不明な暴力性を醸し出すたたずまいが俺好みでした。
続いては暴力パンダことブラック・フランシス率いるピクシーズの曲を一曲。
Pixies - Planet of Sound
http://www.youtube.com/watch?v=SvKCJDUBE2w&feature=related
これもカッコいいですね。ハゲでデブで地味なチェックのシャツを着てるっていう、いわゆるロックスターとは対極にあるようなヤツが轟音ギターをかき鳴らしてシャウトするっていうのが当時のトレンドだったんですね。
グランジってのはいわゆるLAメタルのような「いかにも」なスターを中心に、情緒過剰なメロドラマと優等生的水準の楽曲を武器にロックビジネスでしたたかに生き抜いていくっていう80年代的感覚の、まさに反動みたいなもんでしたね。
そう、LAメタルという言葉が出ましたが、80年代のロックといえばもうヘビメタ、といってもいいくらいヘビーメタルというジャンルが隆盛を誇ったわけですがその80年代が終わる頃、へビメタとは全く別の感覚で登場したハードロックバンドがおりました。
「黒いツェッペリン」というキャッチコピーを持って登場したリヴィング・カラーです。ではそのデビューシングルを。
Cult Of Personality-Living Colour
http://www.youtube.com/watch?v=tTjKWq9Gges
凄まじいバンドですね。このやたらと筋肉質なグルーヴを体験したら、白人のハードロックなんかヌルくて聴いてられませんよ。
まあ一応ハードロック的なギターの音はしてますが、やってることは殆どファンクですよね。ツェッペリンも黒いグルーヴを持ってましたが何せこっちは本物の黒人。アスリートの筋肉のような硬質な「しなり」はちょっと他に類を見ないもんです。93年には解散してしまいましたが21世紀になって再結成してますね。
さて、ファンキーなロックとして衝撃を受けたのが次のバンド、スクリーミング・ヘッドレス・トーソズ。へんてこなバンド名ですが音もかなり変です。
Screaming Headless Torsos - Vinnie
http://www.youtube.com/watch?v=PDjK_p64zdc&feature=related
リヴィング・カラーもそうでしたけどファンクなグルーヴの中にジャズ的な要素があるのが俺好みなんですよね。非常に肉体的なものの中に知的な感覚を捻りこむって言うのがツボなんです。クリムゾンもツェッペリンもその口です。
このスクリーミング・ヘッドレス・トーソズは確か80年代、ニューヨーク辺りでスタジオミュージシャンとして活躍していた連中が集まって作ったバンドだったと記憶してるんですが、いわゆる「グランジ」的な成り立ちとは対極にある、非常にプロフェッショナルな作りの音ですね。その辺が好きながらもどこかハマり切れなかったところですが、この曲は異様にカッコいいですし、初めて知った頃は聴きまくってました。
では次も80年代にシーンに登場してきたアーティストで、90年代手前に新たに結成したバンドの曲です。ロリンズ・バンドで一曲。
Rollins Band - Low Self Opinion (Live)
http://www.youtube.com/watch?v=JxHvnORVNw&feature=related
裸に筋肉ムキムキって感じでいかにも頭悪そうですが、実はこのヘンリー・ロリンズは正体はインテリで、後にはどっかの州の州知事にもなっておりました。
しかし俺はこの雄たけび系ヴォーカルってのが好きなんですね。ナルシスティックに声をひっくり返しながら歌うフェミニンな歌がどうも好きになれないんですわ。日本にはそういうバンド一杯いました。いや、今も脈々とそういう系譜がいますね。
当時は洋楽ファン特有のスノッブな感覚で、どこか日本のロックを馬鹿にしてたんですが、17歳の頃初めて本気でハマれる日本のロックバンドに出会いました。ヘンリー・ロリンズも真っ青の絶唱を聞かせます、エレファントカシマシの「男は行く」
エレファントカシマシ 男は行く
http://www.youtube.com/watch?v=BU8hh3XnLK0&feature=PlayList&p=244654FEEC2DDB7B&playnext=1&index=53
このバンドはホントにどっぷりつかりました。もちろん今でも好きですけどね。
とにかくこの曲を件の渋谷陽一の番組で聞いて以来、とりつかれたように聴きまくり、一時は自己同一化してこのバンドのヴォーカルの宮本の一挙手一投足に心を震わされ、一言一句を宗教の教義ように聴いておりました。
あと、このヴォーカルをなんとか自分でも体現してみたくて、それで喉に致命傷を与えるような発声法を発明してしまうんですよねぇ...。このころから自分の資質と自分の嗜好のどうしようもない「錯誤」というのが顕在化し始めるわけです。まあそれはどうでもいいんですけど。
さてまた洋楽のほうに戻りますが、ちょうどグランジ全盛の頃、デジタルロックも勃興してきます。そんな呼び方をしていたかどうかは記憶にありませんが、デジタルビートの上に歪んだギターやヴォーカルが乗るというスタイルです。そのスタイルの元祖としては80年代からミニストリーというバンドがおりましたし、90年代初頭にはイギリスにカーターUSMなんてバンドもおりましたが、やはりここはナイン・インチ・ネイルズでしょう。
Happiness In Slavery-Nine Inch Nails
http://www.youtube.com/watch?v=EONzIbe6RQo
この情念一発みたいなヴォーカルと自己完結型の音作りはハマりましたねぇ。
ライブはともかくスタジオ録音は全部このトレント・レズナー一人でやっているらしく、このぶちきれた歌を一人スタジオでやっているかと思ったら妙に元気付けられました。
情念系ヴォーカル繋がりって訳ではないんですが、業の深さを感じさせるヴォーカルスタイルと、キュートなルックスの落差で一時期凄まじい人気を博していたバンドがありました。デイジー・チェインソウです。
Love Your Money-Daisy Chainsaw
http://www.youtube.com/watch?v=K76ALpWrS_0&feature=related
90年代前半に一気に人気バンドになって、その後は消息知らずみたいな状態になったバンドなんですが、近年再結成されてちょっと驚きました。
まあそれはともかく、このヴォーカルのケイティという女の子、とにかくエキセントリックなイメージが先行してました。あるときのライブではいきなりスキンヘッドになってましたし、ひらひらの洋服を引きちぎりながら転げまわってましたね。
ルックスはかなり可愛いんですが、歌はかなりトリッキーというか錯乱状態で、イメージ的にはジョニー・ロットンにちょっと似ています。ジョニーから知性を抜いたような感じといえば怒られますが。
バンドサウンド自体も暗黒系パンクって感じで、この曲なんかはヒット曲なんでそうでもないけど、アルバムの曲はもっとへヴィーで強烈でした。
さてグランジの話に戻りますが、1994年にニルバーナのカート・コバーンが自殺してグランジはある意味終わります。
グランジ的なバンドはまだ一杯いましたし、ニルバーナ以後を引き受けるパール・ジャムなんてバンドもいますが、やはり時代の空気としてはポストグランジを求めるって感じで、それを最も象徴的に背負って登場したのがベックでした。
Beck - Loser
http://www.youtube.com/watch?v=TJN3PGqDRNg
ベック系列のアーティストって他には思い浮かばないくらいこの人って唯一無二なんですけど、結局グランジなんいう、その象徴が自ら自殺して封じ込めたような巨大なムーブメントの「次」を担うようなトレンドは誰も生み出せなかった。ちょっとしたトレンドはその後もありましたが、グランジやパンクのように世代病として植えつけられるほどの巨大なムーブメントというのはその後ありませんでした。
しかしベックは「サンプリング」と「コラージュ」という手法を駆使して革新的な音楽を一人でどんどん生み出し、ある意味その後のロックの延命法の指針を示したといってもいいかもしれません。レディオヘッドやホワイト・ストライプスもベックが敷いたロック文法を下地にしているといっても過言ではないと思います。
ちょうど同じ頃、カート・コバーン自殺より1年ほど前、一人の女性アーティストの登場に衝撃を覚えました。
最初にシーンに登場したのは80年代ですが、ソロとして全く新しい感覚を持って1993年に登場したのがビョーク。
Bjork - Hyper-Ballad
http://www.youtube.com/watch?v=zikYczQIyGs&feature=related
この人は出身がアイスランドということもありますが、ロック云々とはちょっと別の文脈から出てきた人です。
ただ当時の個人的な感覚としては、巨大な「虚無」を爆音で鳴らすという、ある意味先の見えないグランジという音楽になんだか途方にくれていた時、打ち込みのビートでハイパーかつポジティブに時代を体現していたビョークは非常に輝いて響きました。
それまではロック一穴主義的な思い込みで打ち込みのビートを毛嫌いしていましたが、ビョークの鳴らす生命力が脈打つようなデジタルビートに、凝り固まった自らの感性が自然にほぐれていくのが快感でした。
ニルヴァーナが「絶望」と「虚無」を爆音に乗せて時代の気分を体現していた時期、再び「怒り」という根源的な衝動を持ってロックシーンに登場したバンドがいました。その名をレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといいまして、1992年にデビューアルバムを発表して以後10年間、個人的には最も熱くなれるロックバンドとして常にその動向に注目していました。
ではそのレイジのデビュー当時の曲を一曲。
rage against the machine - freedom
http://www.youtube.com/watch?v=vqcM5lVoteQ&feature=related
簡単に言うとヒップホップの直接性をハードロックのサウンドでやるという、言葉にしてみればシンプルな方法論なんですが、とにかくこのスタイルは非常に斬新だったんです。
考えてみれば、ブラックミュージックの要素を白人が取り入れて新たなロックを創出するというロックのお家芸的なあり方だったんですが、単に方法論的に面白いからやってみようという動機ではなく、自分たちのメッセージを伝達する手段として、絶対にあのスタイルで無ければならないという必然が彼らにはあったから、その後雨後のタケノコのように発生した「ミクスチャー・ロック」とは全然桁外れの説得力を持ちえた訳です。
まあそんな理屈っぽいことをウダウダ言わなくても、十分に気持ちのいロックなんですけどね。
さて長々とやってきましたがそろそろおしまいです。この実験的で誰も喜ばないような試みにお付き合いしてくれた人がいるのならばありがとうといわせていただきます。
最後の曲は1990年にヒットした曲で、その年の気分を代表する曲として個人的に非常に心に残っている名曲です。
もともとはプリンスの手になる曲ですが、感動的な歌声とPVで完全に自分のものにしていますね。
個人的にはその時点(15歳)で既にヒットソングなんぞを聴いても何の感動もできなくなっておりましたが、その年唯一の奇跡的なまでに感動的なヒット曲として今でもよく覚えておりますで。
ということで最後はシンニード・オコナーで愛の哀しみ、ナッシング・コンペアー・トゥ・ユーです。それではさようなら。
Nothing Compares To You -Sinéad O'Connor
http://www.youtube.com/watch?v=rO8JWbG6bVw&feature=related
さて本日の特集は「追憶のリビドー」と題しまして、80年代後半から90年代前半、個人的に思春期にリアルタイムで接し、その後の人格形成に大きく影響したロックを集めてみました。
10歳の頃に聞いたビートルズでロックに目覚めて以来、60年代のロック、ポップスをあさるように聴いてきましたが、ちょうど思春期の頃、14歳くらいですか、その頃になると思春期特有の「過剰な暴力衝動」のはけ口、暴力的カタルシスを得るために極めてハードなロックに特化して音楽を聞くようになったんです。
で、まずはツェッペリンだのクラプトンだのジミヘンだのクリムゾンといったヴィンテージロックにドップリ漬かって行ったわけですが、なにもそんな自分が産まれる前のロックばかり聴いていたわけではなくて、一応その時点でのリアルタイムのヒット曲も聴いてはいました。洋楽しか聴きませんでしたが。
最初はあの有名なベストヒットUSAというチャート番組でリアルタイムのヒット曲を追いかけていまして、一応ちゃんとした普通のリスナー人生も歩んではいたんですよ。その頃のヒット曲を今聴いたら妙な気分になりますね。音楽的にどうのこうのとか分析的に聴くのとは別に、いわゆる「懐メロ」感覚で聞けてしまいます。今では聴くことなどありえないようなダンスものとかヘビメタもんとかも「ヒット曲」として楽しんで聴いていました。
しかし高校生にもなりますとそうしたヒット曲に対する興味は一気に失せました。
時は1990年1991年辺り、まさにグランジ・ムーブメントが吹き荒れようとしておりまして、ちょうどその辺りから音楽評論家の渋谷陽一氏がDJを勤めるラジオ番組のヘビーリスナーになりまして、その番組でリアルタイムのロックを摂取しておりました。
ではまずはそのグランジをある意味象徴するバンド、ニルバーナを一曲。
Nirvana Territorial Pissing
http://www.youtube.com/watch?v=d_UQWjx3HRo&feature=related
個人的にはこの曲がニルバーナとの出会いでありまして、これを夜中にヘッドフォンで大音量で聴きながら盛り上がってヘッドバンギングしておりましたら、ヘッドフォンが外れて爆音が漏れて親にどやされるというドリフのコントのようなエピソードが思い出されます。
この曲、今聴いても血が沸騰しますが、グランジと言うとひたすら歪んだギターをかき鳴らしガナリまくるというイメージがありましたがさすがはニルバーナ、コード進行なんかは結構ひねくれてますが、メロディーはしっかりとポップで覚えやすく、爆発的に売れたのもうなずけます。
では次はニルバーナよりもデビューは早く、ある意味グランジを先取りしていたようなバンド、ダイナソーJrを一曲。
Freak Scene-Dinosaur jr
http://www.youtube.com/watch?v=Q4yiujTyubI
このバンドはニルバーナよりもハマりまして、やる気の無い歌と轟音ギターソロが異様に破壊的でカッコいいですな。
このバンドは、デビューは80年代半ばで当初はもっとネオアコっぽい音だったんで、グランジ世代に出てきたバンドよりはやはり若干オールドウェイブな感覚がありました。
何せギターヴォーカルのJマスシスは二ールヤングがフェイバリットですからね。二ールヤング直径の情緒過剰なギターソロを延々弾きまくる所が最大の魅力だったんですけど、ギターも歌もオールドウェイブな「泣き」の感覚、というよりはもっと「投げやり」でして。そこが実にグランジな時代性とマッチしてましたね。根拠不明な暴力性を醸し出すたたずまいが俺好みでした。
続いては暴力パンダことブラック・フランシス率いるピクシーズの曲を一曲。
Pixies - Planet of Sound
http://www.youtube.com/watch?v=SvKCJDUBE2w&feature=related
これもカッコいいですね。ハゲでデブで地味なチェックのシャツを着てるっていう、いわゆるロックスターとは対極にあるようなヤツが轟音ギターをかき鳴らしてシャウトするっていうのが当時のトレンドだったんですね。
グランジってのはいわゆるLAメタルのような「いかにも」なスターを中心に、情緒過剰なメロドラマと優等生的水準の楽曲を武器にロックビジネスでしたたかに生き抜いていくっていう80年代的感覚の、まさに反動みたいなもんでしたね。
そう、LAメタルという言葉が出ましたが、80年代のロックといえばもうヘビメタ、といってもいいくらいヘビーメタルというジャンルが隆盛を誇ったわけですがその80年代が終わる頃、へビメタとは全く別の感覚で登場したハードロックバンドがおりました。
「黒いツェッペリン」というキャッチコピーを持って登場したリヴィング・カラーです。ではそのデビューシングルを。
Cult Of Personality-Living Colour
http://www.youtube.com/watch?v=tTjKWq9Gges
凄まじいバンドですね。このやたらと筋肉質なグルーヴを体験したら、白人のハードロックなんかヌルくて聴いてられませんよ。
まあ一応ハードロック的なギターの音はしてますが、やってることは殆どファンクですよね。ツェッペリンも黒いグルーヴを持ってましたが何せこっちは本物の黒人。アスリートの筋肉のような硬質な「しなり」はちょっと他に類を見ないもんです。93年には解散してしまいましたが21世紀になって再結成してますね。
さて、ファンキーなロックとして衝撃を受けたのが次のバンド、スクリーミング・ヘッドレス・トーソズ。へんてこなバンド名ですが音もかなり変です。
Screaming Headless Torsos - Vinnie
http://www.youtube.com/watch?v=PDjK_p64zdc&feature=related
リヴィング・カラーもそうでしたけどファンクなグルーヴの中にジャズ的な要素があるのが俺好みなんですよね。非常に肉体的なものの中に知的な感覚を捻りこむって言うのがツボなんです。クリムゾンもツェッペリンもその口です。
このスクリーミング・ヘッドレス・トーソズは確か80年代、ニューヨーク辺りでスタジオミュージシャンとして活躍していた連中が集まって作ったバンドだったと記憶してるんですが、いわゆる「グランジ」的な成り立ちとは対極にある、非常にプロフェッショナルな作りの音ですね。その辺が好きながらもどこかハマり切れなかったところですが、この曲は異様にカッコいいですし、初めて知った頃は聴きまくってました。
では次も80年代にシーンに登場してきたアーティストで、90年代手前に新たに結成したバンドの曲です。ロリンズ・バンドで一曲。
Rollins Band - Low Self Opinion (Live)
http://www.youtube.com/watch?v=JxHvnORVNw&feature=related
裸に筋肉ムキムキって感じでいかにも頭悪そうですが、実はこのヘンリー・ロリンズは正体はインテリで、後にはどっかの州の州知事にもなっておりました。
しかし俺はこの雄たけび系ヴォーカルってのが好きなんですね。ナルシスティックに声をひっくり返しながら歌うフェミニンな歌がどうも好きになれないんですわ。日本にはそういうバンド一杯いました。いや、今も脈々とそういう系譜がいますね。
当時は洋楽ファン特有のスノッブな感覚で、どこか日本のロックを馬鹿にしてたんですが、17歳の頃初めて本気でハマれる日本のロックバンドに出会いました。ヘンリー・ロリンズも真っ青の絶唱を聞かせます、エレファントカシマシの「男は行く」
エレファントカシマシ 男は行く
http://www.youtube.com/watch?v=BU8hh3XnLK0&feature=PlayList&p=244654FEEC2DDB7B&playnext=1&index=53
このバンドはホントにどっぷりつかりました。もちろん今でも好きですけどね。
とにかくこの曲を件の渋谷陽一の番組で聞いて以来、とりつかれたように聴きまくり、一時は自己同一化してこのバンドのヴォーカルの宮本の一挙手一投足に心を震わされ、一言一句を宗教の教義ように聴いておりました。
あと、このヴォーカルをなんとか自分でも体現してみたくて、それで喉に致命傷を与えるような発声法を発明してしまうんですよねぇ...。このころから自分の資質と自分の嗜好のどうしようもない「錯誤」というのが顕在化し始めるわけです。まあそれはどうでもいいんですけど。
さてまた洋楽のほうに戻りますが、ちょうどグランジ全盛の頃、デジタルロックも勃興してきます。そんな呼び方をしていたかどうかは記憶にありませんが、デジタルビートの上に歪んだギターやヴォーカルが乗るというスタイルです。そのスタイルの元祖としては80年代からミニストリーというバンドがおりましたし、90年代初頭にはイギリスにカーターUSMなんてバンドもおりましたが、やはりここはナイン・インチ・ネイルズでしょう。
Happiness In Slavery-Nine Inch Nails
http://www.youtube.com/watch?v=EONzIbe6RQo
この情念一発みたいなヴォーカルと自己完結型の音作りはハマりましたねぇ。
ライブはともかくスタジオ録音は全部このトレント・レズナー一人でやっているらしく、このぶちきれた歌を一人スタジオでやっているかと思ったら妙に元気付けられました。
情念系ヴォーカル繋がりって訳ではないんですが、業の深さを感じさせるヴォーカルスタイルと、キュートなルックスの落差で一時期凄まじい人気を博していたバンドがありました。デイジー・チェインソウです。
Love Your Money-Daisy Chainsaw
http://www.youtube.com/watch?v=K76ALpWrS_0&feature=related
90年代前半に一気に人気バンドになって、その後は消息知らずみたいな状態になったバンドなんですが、近年再結成されてちょっと驚きました。
まあそれはともかく、このヴォーカルのケイティという女の子、とにかくエキセントリックなイメージが先行してました。あるときのライブではいきなりスキンヘッドになってましたし、ひらひらの洋服を引きちぎりながら転げまわってましたね。
ルックスはかなり可愛いんですが、歌はかなりトリッキーというか錯乱状態で、イメージ的にはジョニー・ロットンにちょっと似ています。ジョニーから知性を抜いたような感じといえば怒られますが。
バンドサウンド自体も暗黒系パンクって感じで、この曲なんかはヒット曲なんでそうでもないけど、アルバムの曲はもっとへヴィーで強烈でした。
さてグランジの話に戻りますが、1994年にニルバーナのカート・コバーンが自殺してグランジはある意味終わります。
グランジ的なバンドはまだ一杯いましたし、ニルバーナ以後を引き受けるパール・ジャムなんてバンドもいますが、やはり時代の空気としてはポストグランジを求めるって感じで、それを最も象徴的に背負って登場したのがベックでした。
Beck - Loser
http://www.youtube.com/watch?v=TJN3PGqDRNg
ベック系列のアーティストって他には思い浮かばないくらいこの人って唯一無二なんですけど、結局グランジなんいう、その象徴が自ら自殺して封じ込めたような巨大なムーブメントの「次」を担うようなトレンドは誰も生み出せなかった。ちょっとしたトレンドはその後もありましたが、グランジやパンクのように世代病として植えつけられるほどの巨大なムーブメントというのはその後ありませんでした。
しかしベックは「サンプリング」と「コラージュ」という手法を駆使して革新的な音楽を一人でどんどん生み出し、ある意味その後のロックの延命法の指針を示したといってもいいかもしれません。レディオヘッドやホワイト・ストライプスもベックが敷いたロック文法を下地にしているといっても過言ではないと思います。
ちょうど同じ頃、カート・コバーン自殺より1年ほど前、一人の女性アーティストの登場に衝撃を覚えました。
最初にシーンに登場したのは80年代ですが、ソロとして全く新しい感覚を持って1993年に登場したのがビョーク。
Bjork - Hyper-Ballad
http://www.youtube.com/watch?v=zikYczQIyGs&feature=related
この人は出身がアイスランドということもありますが、ロック云々とはちょっと別の文脈から出てきた人です。
ただ当時の個人的な感覚としては、巨大な「虚無」を爆音で鳴らすという、ある意味先の見えないグランジという音楽になんだか途方にくれていた時、打ち込みのビートでハイパーかつポジティブに時代を体現していたビョークは非常に輝いて響きました。
それまではロック一穴主義的な思い込みで打ち込みのビートを毛嫌いしていましたが、ビョークの鳴らす生命力が脈打つようなデジタルビートに、凝り固まった自らの感性が自然にほぐれていくのが快感でした。
ニルヴァーナが「絶望」と「虚無」を爆音に乗せて時代の気分を体現していた時期、再び「怒り」という根源的な衝動を持ってロックシーンに登場したバンドがいました。その名をレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといいまして、1992年にデビューアルバムを発表して以後10年間、個人的には最も熱くなれるロックバンドとして常にその動向に注目していました。
ではそのレイジのデビュー当時の曲を一曲。
rage against the machine - freedom
http://www.youtube.com/watch?v=vqcM5lVoteQ&feature=related
簡単に言うとヒップホップの直接性をハードロックのサウンドでやるという、言葉にしてみればシンプルな方法論なんですが、とにかくこのスタイルは非常に斬新だったんです。
考えてみれば、ブラックミュージックの要素を白人が取り入れて新たなロックを創出するというロックのお家芸的なあり方だったんですが、単に方法論的に面白いからやってみようという動機ではなく、自分たちのメッセージを伝達する手段として、絶対にあのスタイルで無ければならないという必然が彼らにはあったから、その後雨後のタケノコのように発生した「ミクスチャー・ロック」とは全然桁外れの説得力を持ちえた訳です。
まあそんな理屈っぽいことをウダウダ言わなくても、十分に気持ちのいロックなんですけどね。
さて長々とやってきましたがそろそろおしまいです。この実験的で誰も喜ばないような試みにお付き合いしてくれた人がいるのならばありがとうといわせていただきます。
最後の曲は1990年にヒットした曲で、その年の気分を代表する曲として個人的に非常に心に残っている名曲です。
もともとはプリンスの手になる曲ですが、感動的な歌声とPVで完全に自分のものにしていますね。
個人的にはその時点(15歳)で既にヒットソングなんぞを聴いても何の感動もできなくなっておりましたが、その年唯一の奇跡的なまでに感動的なヒット曲として今でもよく覚えておりますで。
ということで最後はシンニード・オコナーで愛の哀しみ、ナッシング・コンペアー・トゥ・ユーです。それではさようなら。
Nothing Compares To You -Sinéad O'Connor
http://www.youtube.com/watch?v=rO8JWbG6bVw&feature=related
はっぴいえんど元メンバー鈴木茂氏が大麻所持で逮捕されたそうな。
あちゃ〜。鈴木茂さん。久しぶりに名前聞いたかと思ったら。
まあ、別にいいんでないかい?とは思うのだけれど。
大麻所持で検挙ってニュースがよく出てくるけど、どうも大麻で逮捕される人って最近仕事無くて暇って人ばかりなんで哀しいな。
加瀬大周とか小向ナントカさんとか。
あ、相撲取りとか大学生とかはまた別な話だけど。
でも覚せい剤で錯乱状態になって事件を起こしたってニュースはよく聞くけど、大麻で酩酊状態になて犯罪犯したってニュースは無いし、よく言われているように依存性や毒性なんかはタバコよりも低いってんならどうだろう、この辺で合法にした方がよくないかね?
でも合法になってみんなハッピー酩酊になったら、日本人の美徳である勤勉さとか真面目さとかが失われるかな?
薄い知識で書いてます。
まあフォローの意味も含めて、ジミヘンばりに歪んで大麻erな鈴木茂氏のファズギターが聴けるテイクの映像貼っときます。
http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA
あちゃ〜。鈴木茂さん。久しぶりに名前聞いたかと思ったら。
まあ、別にいいんでないかい?とは思うのだけれど。
大麻所持で検挙ってニュースがよく出てくるけど、どうも大麻で逮捕される人って最近仕事無くて暇って人ばかりなんで哀しいな。
加瀬大周とか小向ナントカさんとか。
あ、相撲取りとか大学生とかはまた別な話だけど。
でも覚せい剤で錯乱状態になって事件を起こしたってニュースはよく聞くけど、大麻で酩酊状態になて犯罪犯したってニュースは無いし、よく言われているように依存性や毒性なんかはタバコよりも低いってんならどうだろう、この辺で合法にした方がよくないかね?
でも合法になってみんなハッピー酩酊になったら、日本人の美徳である勤勉さとか真面目さとかが失われるかな?
薄い知識で書いてます。
まあフォローの意味も含めて、ジミヘンばりに歪んで大麻erな鈴木茂氏のファズギターが聴けるテイクの映像貼っときます。
http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA
a6f32adc.JPG 「日高屋」ってチェーン店の中華屋があって、リーズナブルが売りみたいな店なんだけど、そこのニラキムチはかなりヤヴァい。辛さも匂いも相当キツくて、それだけを食うと毛穴が開きそうになる。でも酒か飯と一緒に食うと旨いんだこれが。ちょっとやみつきになっている。辛いもん好きの人にお勧め。
幼い頃、本当に小さい頃、このアニメを観て心臓が止まりそうになるくらい笑い転げた。
へんてこなオペラ
http://www.youtube.com/watch?v=o_H5JYXlDSs&feature=related
途中から後半にかけて、たたみかけるように出てくる雑多な音楽ギャグの展開は今観ても笑えるし、その後聴くことになるビートルズやクレイジー・キャッツ、ツェッペリンやジミヘンやクリムゾン、はたまたフランク・ザッパやジョーン・ゾーンといったアヴァンギャルドな音楽から快感を感じ取る感性の礎になったといっても過言ではない。
このような音楽ギャグの作品だけでなく、もっと単純な笑いのツボを刺激した作品もある。
よべどさけべど
http://www.youtube.com/watch?v=_YlmcqmDjvs&feature=related
間抜けなボケを繰り返し、その度にひたすら奇声を発するというものだが、この「奇声」「ストレンジヴォイス」というものの気持ち良さを知ったおかげで、数年後にビートルズに思いっきりハマることになったのだ。
ビートルズ及びプロデューサーのジョージ・マーティンのチームは、通常のロックバンドのレコーディングならカットするであろう「ミス」や「笑い声」あるいは「電気的ノイズ」といった雑音的な要素を、あえて面白がって積極的に音源に残しておいた。
元々ビートルズはシリアスなロックンロールに対する切実な表現欲求と同じくらい「笑い」の要素も大事にしていたバンドであり、更にジョージ・マーティンはビートルズ以前にはコメディー音楽のアルバムを多くプロデュースしていたという経歴があったくらい「面白い音」に対しては人一倍興味があった。だからスタジオで偶発的に生まれたノイズの中にさえ音楽的要素を嗅ぎ取ることに敏感だったチームだったのだ。
物心つかない頃の俺にとってビートルズの最大の魅力はそういうところにあった。
本編の演奏以外の部分、妙なカウントの入れかた、間奏前のシャウトやボソボソ入る私語、歌詞を間違えて吹き出したところ、かすれて出てない声、ギターの強烈なディストーションやフィードバック、はては犬の鳴き真似やカモメの鳴き声から、ライブ盤で聴けるビートルマニアの絶叫まで。
歌詞とかメロディといったものよりも、もっと分子レベルの「音」の不思議な気持ち良さを求めて聴いていたように思う。
そういったフェチ的な聞き方というのは、間違いなく前述したアニメを観たことで育成された感性だろう。
これらのアニメは「トムとジェリー」シリーズの中で放送されたものだ。
一回放送分30分の中に3本の作品があり、頭と最後がトムとジェリー、真ん中がドルーピーとかスパイクとかいったトムとジェリーとは違うキャラクターもの。その真ん中の作品には数々の名作シリーズがあるのだが、トムとジェリーシリーズの方にも傑作は多い。個人的に好きなもののひとつを挙げてみる。
土曜の夜は
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=3Ng78MisXjM&feature=related
この作品ではスウィングジャズをモチーフにしていて、よく観るとちゃんと音楽的に理にかなったギャグを展開していて驚かされる。
それにしてもつくづく思うのだが、これらの作品が作られた頃、恐らく1945年前後と思われるがその頃のアメリカのアニメーションの完成度、殊に音楽と動きのミクスチャー度合いというのは本当にとんでもない。
上に挙げたような敢えて音楽的な作品を取り上げなくても、ちゃんとオリジナルスコアでフルオケが使ってあり、アニメーション中で展開される微妙な動きから擬音から環境音まで全部表現しきっている。
その頃日本では竹やりで戦闘機を落とす訓練をしたり、飛行機を作る鉄が不足してるとか言って国民の持っている鍋や釜を徴収したり、フィルムに含まれる磁気を採るために多くの名作映画のマスターテープが溶かされたりしていた。そりゃ戦争に負けるわな。
よく出来た音楽ギャグというのは古くならない。
昔のいわゆるドタバタコントものを観ると、その感性の古さ、時代的落差はどうしても感じてしまうが、例えばクレイジー・キャッツの音楽ギャグは今観ても笑える。昭和30年代のネタ、今から50年位前のネタである。
十二番街のラグ/ハナ肇とクレイジー・キャッツ
http://www.youtube.com/watch?v=RKT43xG3Blk
映画やテレビ用のコントではなく、生のステージがどんなもんだったのかの一端を知ることができる映像だが、クレイジーの本当のライブ映像が残っていないのは文化的損失だと本気で思う。
さて、笑いと音楽は非常に近いと思う。というか快感のメカニズムは同じじゃないかとさえ思う。
要するに音楽を聴く時と笑いを楽しんでいる時は同じ感性を刺激しているように思うのだ。
非常に個人的な感性の話だし、ひょっとしたら特殊な接し方かもしれないんで軽く聞き流してもらっても結構なんだけど、例えばビートたけしが昔たけし軍団を使って作ったコントなど今から観ると退屈極まりないが、たけしがラジオで一人喋りまくってるのを聴くと笑える。笑えるというか何度も聴き返したくなるような中毒性がある。
それはネタそのものの完成度よりも、たけし独特の喋りのBPMや間合いといった生理的時間感覚、声の上げ下げや強弱のセンス、そして何より声自体に含まれる快感的成分の多さ。それがいわゆる「話芸」というやつではないか。
タモリの「四ヵ国語麻雀」など声のトーン、強弱上下、間とタイミング、スピード調整を全部駆使して爆笑させてくれる非常に音楽的な笑いだ。
http://www.youtube.com/watch?v=OzVOJybloOA
明石家さんまがあまり好きではないのは、その芸風よりもなによりも声に魅力を感じないからだ。
同じようなしわがれ声でも、島田紳助や横山やすし、ちょっと違うが立川談志や松本人志の声は心地よい周波数が出ていると思う。間とタイミングに関しても天性としか言いようのないセンスを持っている。
木村祐一のまったりとした話の構成力や板尾創路の跳躍力のあるボケは非常に魅力的だか、声に魅力を感じたことはない。
去年のM-1で優勝したNON STYLEの二人の声には面白い事を言いそうな気配が全くしない。
オードリーの二人、特にツッコミの若林の声のトーンには爆発的な笑いの誘発力は無いが、的確なタイム感でツボにハマるタイミングを突いていきそうな「気配」がする。
南海キャンディースの山里の声のトーンには、その的確な言葉選びのセンスに見合った爆発的な笑いの誘発力を感じるが、同じような声のスピードワゴンの小沢にはそれを感じない。
落語なんてのは音楽そのものだと思う。それについては依然書いたんで繰り返さないが、天賦の才としか言いようのない声の心地よさと、非常に緻密に計算されつくした間とタイミング、古典に対するアレンジ能力、言葉の取捨選択のセンス、名人と呼ばれる噺家の落語の名演は、どれも繰り返し聴くに耐えうる音楽的な魅力にあふれている。
ネタの善し悪しや斬新さは重要だが、それを人に伝えるための話芸、取捨選択のセンス、タイム感が無ければ笑えない。
同じようにどれだけ歌詞と曲が良くても、それを伝える表現力、アレンジやリズム感が無ければ台無しになる。
などなど独断と偏見で偉そうなことを書いてしまったが、笑いについて書くとつい音楽を批評するときの言語に近しくなって行く。
「トムとジェリー」で開拓したフェチ的な享受の仕方に始まって、紆余曲折した挙句、落語に行き着いてしまったのはある意味必定だったんだなあと一人納得している。勝手にしやがれ。
へんてこなオペラ
http://www.youtube.com/watch?v=o_H5JYXlDSs&feature=related
途中から後半にかけて、たたみかけるように出てくる雑多な音楽ギャグの展開は今観ても笑えるし、その後聴くことになるビートルズやクレイジー・キャッツ、ツェッペリンやジミヘンやクリムゾン、はたまたフランク・ザッパやジョーン・ゾーンといったアヴァンギャルドな音楽から快感を感じ取る感性の礎になったといっても過言ではない。
このような音楽ギャグの作品だけでなく、もっと単純な笑いのツボを刺激した作品もある。
よべどさけべど
http://www.youtube.com/watch?v=_YlmcqmDjvs&feature=related
間抜けなボケを繰り返し、その度にひたすら奇声を発するというものだが、この「奇声」「ストレンジヴォイス」というものの気持ち良さを知ったおかげで、数年後にビートルズに思いっきりハマることになったのだ。
ビートルズ及びプロデューサーのジョージ・マーティンのチームは、通常のロックバンドのレコーディングならカットするであろう「ミス」や「笑い声」あるいは「電気的ノイズ」といった雑音的な要素を、あえて面白がって積極的に音源に残しておいた。
元々ビートルズはシリアスなロックンロールに対する切実な表現欲求と同じくらい「笑い」の要素も大事にしていたバンドであり、更にジョージ・マーティンはビートルズ以前にはコメディー音楽のアルバムを多くプロデュースしていたという経歴があったくらい「面白い音」に対しては人一倍興味があった。だからスタジオで偶発的に生まれたノイズの中にさえ音楽的要素を嗅ぎ取ることに敏感だったチームだったのだ。
物心つかない頃の俺にとってビートルズの最大の魅力はそういうところにあった。
本編の演奏以外の部分、妙なカウントの入れかた、間奏前のシャウトやボソボソ入る私語、歌詞を間違えて吹き出したところ、かすれて出てない声、ギターの強烈なディストーションやフィードバック、はては犬の鳴き真似やカモメの鳴き声から、ライブ盤で聴けるビートルマニアの絶叫まで。
歌詞とかメロディといったものよりも、もっと分子レベルの「音」の不思議な気持ち良さを求めて聴いていたように思う。
そういったフェチ的な聞き方というのは、間違いなく前述したアニメを観たことで育成された感性だろう。
これらのアニメは「トムとジェリー」シリーズの中で放送されたものだ。
一回放送分30分の中に3本の作品があり、頭と最後がトムとジェリー、真ん中がドルーピーとかスパイクとかいったトムとジェリーとは違うキャラクターもの。その真ん中の作品には数々の名作シリーズがあるのだが、トムとジェリーシリーズの方にも傑作は多い。個人的に好きなもののひとつを挙げてみる。
土曜の夜は
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=3Ng78MisXjM&feature=related
この作品ではスウィングジャズをモチーフにしていて、よく観るとちゃんと音楽的に理にかなったギャグを展開していて驚かされる。
それにしてもつくづく思うのだが、これらの作品が作られた頃、恐らく1945年前後と思われるがその頃のアメリカのアニメーションの完成度、殊に音楽と動きのミクスチャー度合いというのは本当にとんでもない。
上に挙げたような敢えて音楽的な作品を取り上げなくても、ちゃんとオリジナルスコアでフルオケが使ってあり、アニメーション中で展開される微妙な動きから擬音から環境音まで全部表現しきっている。
その頃日本では竹やりで戦闘機を落とす訓練をしたり、飛行機を作る鉄が不足してるとか言って国民の持っている鍋や釜を徴収したり、フィルムに含まれる磁気を採るために多くの名作映画のマスターテープが溶かされたりしていた。そりゃ戦争に負けるわな。
よく出来た音楽ギャグというのは古くならない。
昔のいわゆるドタバタコントものを観ると、その感性の古さ、時代的落差はどうしても感じてしまうが、例えばクレイジー・キャッツの音楽ギャグは今観ても笑える。昭和30年代のネタ、今から50年位前のネタである。
十二番街のラグ/ハナ肇とクレイジー・キャッツ
http://www.youtube.com/watch?v=RKT43xG3Blk
映画やテレビ用のコントではなく、生のステージがどんなもんだったのかの一端を知ることができる映像だが、クレイジーの本当のライブ映像が残っていないのは文化的損失だと本気で思う。
さて、笑いと音楽は非常に近いと思う。というか快感のメカニズムは同じじゃないかとさえ思う。
要するに音楽を聴く時と笑いを楽しんでいる時は同じ感性を刺激しているように思うのだ。
非常に個人的な感性の話だし、ひょっとしたら特殊な接し方かもしれないんで軽く聞き流してもらっても結構なんだけど、例えばビートたけしが昔たけし軍団を使って作ったコントなど今から観ると退屈極まりないが、たけしがラジオで一人喋りまくってるのを聴くと笑える。笑えるというか何度も聴き返したくなるような中毒性がある。
それはネタそのものの完成度よりも、たけし独特の喋りのBPMや間合いといった生理的時間感覚、声の上げ下げや強弱のセンス、そして何より声自体に含まれる快感的成分の多さ。それがいわゆる「話芸」というやつではないか。
タモリの「四ヵ国語麻雀」など声のトーン、強弱上下、間とタイミング、スピード調整を全部駆使して爆笑させてくれる非常に音楽的な笑いだ。
http://www.youtube.com/watch?v=OzVOJybloOA
明石家さんまがあまり好きではないのは、その芸風よりもなによりも声に魅力を感じないからだ。
同じようなしわがれ声でも、島田紳助や横山やすし、ちょっと違うが立川談志や松本人志の声は心地よい周波数が出ていると思う。間とタイミングに関しても天性としか言いようのないセンスを持っている。
木村祐一のまったりとした話の構成力や板尾創路の跳躍力のあるボケは非常に魅力的だか、声に魅力を感じたことはない。
去年のM-1で優勝したNON STYLEの二人の声には面白い事を言いそうな気配が全くしない。
オードリーの二人、特にツッコミの若林の声のトーンには爆発的な笑いの誘発力は無いが、的確なタイム感でツボにハマるタイミングを突いていきそうな「気配」がする。
南海キャンディースの山里の声のトーンには、その的確な言葉選びのセンスに見合った爆発的な笑いの誘発力を感じるが、同じような声のスピードワゴンの小沢にはそれを感じない。
落語なんてのは音楽そのものだと思う。それについては依然書いたんで繰り返さないが、天賦の才としか言いようのない声の心地よさと、非常に緻密に計算されつくした間とタイミング、古典に対するアレンジ能力、言葉の取捨選択のセンス、名人と呼ばれる噺家の落語の名演は、どれも繰り返し聴くに耐えうる音楽的な魅力にあふれている。
ネタの善し悪しや斬新さは重要だが、それを人に伝えるための話芸、取捨選択のセンス、タイム感が無ければ笑えない。
同じようにどれだけ歌詞と曲が良くても、それを伝える表現力、アレンジやリズム感が無ければ台無しになる。
などなど独断と偏見で偉そうなことを書いてしまったが、笑いについて書くとつい音楽を批評するときの言語に近しくなって行く。
「トムとジェリー」で開拓したフェチ的な享受の仕方に始まって、紆余曲折した挙句、落語に行き着いてしまったのはある意味必定だったんだなあと一人納得している。勝手にしやがれ。
最近Lampというバンドの「ランプ幻想」というアルバムをよく聴いている。
このバンドは三人組で、男女ヴォーカルのハーモニーが心地よく、特に女の子の声がとても気持ちいい。またヴォサノヴァマナーのギターや生楽器中心のオーガニックなサウンド、はっぴいえんど、シュガーベイブ、ティン・パン・アレイといったルーツが漂う雰囲気も個人的に好みだ。
しかし、それだけのバンドならば「オシャレアイテム」としてよくあるし、それほど魅かれなかっただろう。
じゃあ何に引っかかったかというと、その楽曲の尋常じゃないマニアックさだ。
キリンジにも通ずるポップ職人的な拘り、というかポップスの純度を極めようとしているかのようなメロディーとコードの複雑さと異様な美しさ。
インタビューを読むと彼らは楽譜の上でなく感覚でこの複雑なメロディーとコードを作り上げているらしい。なるほど。だから複雑ながらもえもいわれぬ官能性があるのか。このLampの「ランプ幻想」は個人的な心象風景をえぐられるというか、とにかく絶妙に俺的ポップスのツボを押してくる。
とくにアルバムの冒頭の三曲はビーチボーイズの(というか実質的にブライアン・ウィルソンのソロなのだが)不朽の名作「Surfs Up」、あの曲に通ずる危うさがあると思う。
Surfs Up/The Beach Boys
http://www.youtube.com/watch?v=LKo7euwjhDQ&feature=related
まあLampの方はブライアンほど病んではいないのだけれど「どこに辿り着けばいいのか分からぬまま風に吹かれて彷徨っているような心」を投射するようなメロディーとコードにはとにかくやられた。
彼らのマイスペースではその冒頭の一曲目が聴ける。
Lampのマイスペース
http://www.myspace.com/lampjapan
それは「儚き春の一幕」という曲だが、本当はアルバムの二曲目三曲目のほうがもっと危なくて素敵だ。
彼らのプロフィールのフェイバリットにはブライアン・ウィルソンの名前は出てきてないのだけど、聴いてないはずは無いし意識したんじゃないかと思うのだが。
このマイスペースには過去の楽曲も聴けるのだが、過去の曲は意外とアッパーだったり通常のオシャレなポップスの範疇に入るような楽曲もある。どれもこれもいい曲だし独特のものも感じる。
しかし今作のアルバムの雰囲気を漂わせているのは、そこで観れるPVの「冷たい夜の光」という曲にだ。これにはまたしてもやられた。8ミリの荒い画像による質感もさることながら、楽曲の持つ壮大な「哀しさ」は無茶苦茶心の琴線に触れる。
まあとにかくこの「ランプ幻想」というアルバムは素晴らしいアルバムだと思う。今まで書いてきたことを総合すると随分と息苦しいような印象を与えてしまうが、全然そんなことは無く、特にアルバムは後半は聴きやすく美しい曲が並んでいて、とても高級なポップアルバムだと思う。久々に一枚通して聴けるアルバムだ。
ところで前述したブライアン・ウィルソンの「Surfs Up」。俺はこの曲ほど美しく哀しい曲を他に知らない。
破綻する寸前で踏みとどまっているような、イノセントと狂気がギリギリで拮抗しているような、それでいて恐ろしく美しいメロディとコードとヴォーカル。
この曲は1966年に作られた曲で、色々なプレッシャーやドラッグの影響とかでブライアン・ウィルソンが精神のバランスを失いかけて行く頃の作品なのだけれど、彼の当時の心象風景がものの見事に反映されたような楽曲だ。
個人的な話だが、一時期この曲にとり憑かれてしまて、モロに影響を受けたボツ曲をたくさん作っていた事がある。そう、全部ボツだ。あの「Surfs Up」に相当するような自作曲は結局作れなかった。似たようなものは作れても全然違う。あの境地には達しないのだ。当たり前だ。本当にぶっ壊れなきゃあれほど儚くも美しい曲は書けないのだ。それを強く実感した。
そこから逆に自分の資質というものに自覚的になっていったと思う。どこにも辿り着けない心象風景をメロディーとコードでそのまま表現するよりも、自覚的にメロディーやコードを簡素にしていって自分の心を望むべき方向へ向かわせるような楽曲を作るようになった。ちょっと抽象的な話だが、要するに自分自身の救済を自分の楽曲に求めたというか、人に向けて歌っているようで実は自分を鼓舞しているということだ。
とある人に「人を救うような歌を作ったら?」と言われた事があるが、「自分さえ救えない俺に人が救えるもんか」と言下に否定した記憶がある。 言葉を額面通りに受け取ったならそんなこと出来るはずはないと思う。しかしその人が言ったのはもっと違う次元の事だったのだろうと今は解釈している。
「人を救う」とまでは行かないまでも、自分のことばかり歌にしてないで、他人に向けて語りかけることによってそれが自分自身を表現することになり、それが結果的に自分自身を鼓舞することになるという構造。とそう解釈している。
まあ本当のところそこまで観念的に考えず、もっと快楽的に音楽に向かってはいるのだけれど、大きく俯瞰してみるとそういうことになるだろうか。
「Surfs Up」みたいな楽曲に心底沈みこんでしまうような人間にとって、そうそう簡単に人生応援歌は作れないけれど、でも「Surfs Up」みたいな曲を作れる資質が自分にあるわけではない。そこまで諦観して波を見つめているわけではない。
だから自閉した世界観にこもらず、自分をなんとか懸命に鼓舞して、その様を通じて人と繋がるしかないんだな、とついつい考え込んでしまった。
で、その鼓舞の仕方が爆音でギターをかき鳴らし絶唱するってのが実に俺だよなあ(笑)。
今度の耳の日、3月3日に六本木エッジでロックバンドとしてライブするんで、もし興味があったら覚えといてくださいな。バンド名は「ホセ」。前回は「ハリマオ」だったからね。
このバンドは三人組で、男女ヴォーカルのハーモニーが心地よく、特に女の子の声がとても気持ちいい。またヴォサノヴァマナーのギターや生楽器中心のオーガニックなサウンド、はっぴいえんど、シュガーベイブ、ティン・パン・アレイといったルーツが漂う雰囲気も個人的に好みだ。
しかし、それだけのバンドならば「オシャレアイテム」としてよくあるし、それほど魅かれなかっただろう。
じゃあ何に引っかかったかというと、その楽曲の尋常じゃないマニアックさだ。
キリンジにも通ずるポップ職人的な拘り、というかポップスの純度を極めようとしているかのようなメロディーとコードの複雑さと異様な美しさ。
インタビューを読むと彼らは楽譜の上でなく感覚でこの複雑なメロディーとコードを作り上げているらしい。なるほど。だから複雑ながらもえもいわれぬ官能性があるのか。このLampの「ランプ幻想」は個人的な心象風景をえぐられるというか、とにかく絶妙に俺的ポップスのツボを押してくる。
とくにアルバムの冒頭の三曲はビーチボーイズの(というか実質的にブライアン・ウィルソンのソロなのだが)不朽の名作「Surfs Up」、あの曲に通ずる危うさがあると思う。
Surfs Up/The Beach Boys
http://www.youtube.com/watch?v=LKo7euwjhDQ&feature=related
まあLampの方はブライアンほど病んではいないのだけれど「どこに辿り着けばいいのか分からぬまま風に吹かれて彷徨っているような心」を投射するようなメロディーとコードにはとにかくやられた。
彼らのマイスペースではその冒頭の一曲目が聴ける。
Lampのマイスペース
http://www.myspace.com/lampjapan
それは「儚き春の一幕」という曲だが、本当はアルバムの二曲目三曲目のほうがもっと危なくて素敵だ。
彼らのプロフィールのフェイバリットにはブライアン・ウィルソンの名前は出てきてないのだけど、聴いてないはずは無いし意識したんじゃないかと思うのだが。
このマイスペースには過去の楽曲も聴けるのだが、過去の曲は意外とアッパーだったり通常のオシャレなポップスの範疇に入るような楽曲もある。どれもこれもいい曲だし独特のものも感じる。
しかし今作のアルバムの雰囲気を漂わせているのは、そこで観れるPVの「冷たい夜の光」という曲にだ。これにはまたしてもやられた。8ミリの荒い画像による質感もさることながら、楽曲の持つ壮大な「哀しさ」は無茶苦茶心の琴線に触れる。
まあとにかくこの「ランプ幻想」というアルバムは素晴らしいアルバムだと思う。今まで書いてきたことを総合すると随分と息苦しいような印象を与えてしまうが、全然そんなことは無く、特にアルバムは後半は聴きやすく美しい曲が並んでいて、とても高級なポップアルバムだと思う。久々に一枚通して聴けるアルバムだ。
ところで前述したブライアン・ウィルソンの「Surfs Up」。俺はこの曲ほど美しく哀しい曲を他に知らない。
破綻する寸前で踏みとどまっているような、イノセントと狂気がギリギリで拮抗しているような、それでいて恐ろしく美しいメロディとコードとヴォーカル。
この曲は1966年に作られた曲で、色々なプレッシャーやドラッグの影響とかでブライアン・ウィルソンが精神のバランスを失いかけて行く頃の作品なのだけれど、彼の当時の心象風景がものの見事に反映されたような楽曲だ。
個人的な話だが、一時期この曲にとり憑かれてしまて、モロに影響を受けたボツ曲をたくさん作っていた事がある。そう、全部ボツだ。あの「Surfs Up」に相当するような自作曲は結局作れなかった。似たようなものは作れても全然違う。あの境地には達しないのだ。当たり前だ。本当にぶっ壊れなきゃあれほど儚くも美しい曲は書けないのだ。それを強く実感した。
そこから逆に自分の資質というものに自覚的になっていったと思う。どこにも辿り着けない心象風景をメロディーとコードでそのまま表現するよりも、自覚的にメロディーやコードを簡素にしていって自分の心を望むべき方向へ向かわせるような楽曲を作るようになった。ちょっと抽象的な話だが、要するに自分自身の救済を自分の楽曲に求めたというか、人に向けて歌っているようで実は自分を鼓舞しているということだ。
とある人に「人を救うような歌を作ったら?」と言われた事があるが、「自分さえ救えない俺に人が救えるもんか」と言下に否定した記憶がある。 言葉を額面通りに受け取ったならそんなこと出来るはずはないと思う。しかしその人が言ったのはもっと違う次元の事だったのだろうと今は解釈している。
「人を救う」とまでは行かないまでも、自分のことばかり歌にしてないで、他人に向けて語りかけることによってそれが自分自身を表現することになり、それが結果的に自分自身を鼓舞することになるという構造。とそう解釈している。
まあ本当のところそこまで観念的に考えず、もっと快楽的に音楽に向かってはいるのだけれど、大きく俯瞰してみるとそういうことになるだろうか。
「Surfs Up」みたいな楽曲に心底沈みこんでしまうような人間にとって、そうそう簡単に人生応援歌は作れないけれど、でも「Surfs Up」みたいな曲を作れる資質が自分にあるわけではない。そこまで諦観して波を見つめているわけではない。
だから自閉した世界観にこもらず、自分をなんとか懸命に鼓舞して、その様を通じて人と繋がるしかないんだな、とついつい考え込んでしまった。
で、その鼓舞の仕方が爆音でギターをかき鳴らし絶唱するってのが実に俺だよなあ(笑)。
今度の耳の日、3月3日に六本木エッジでロックバンドとしてライブするんで、もし興味があったら覚えといてくださいな。バンド名は「ホセ」。前回は「ハリマオ」だったからね。
a749b139.JPG 最近はジョージ秋山の銭ゲバがドラマ化されたり、手塚治虫の「MW -ムウ」が映画化されたりと、個人的に重要な意味を持つ作品がリメイクされている。
どちらもそれぞれの作家にとっての問題作でもある作品だから、単に有名な古典作品を今旬の俳優を使って安直に仕上げました、というもんではないと思う。
「MW」はまだ観てない(公開されてないんだっけ?)けど、銭ゲバは観ている。松山ケンイチという一癖ありそうな俳優が中々いい感じで主人公を演じているし、原作には無いシーンや現代の状況も考慮した環境設定になっていて、原作の単純なトレースや焼き直しではないみたいだから少し安心した。
まだ本格的に面白くなってはいないので何ともいえないのだけれど、多少なりとも引っかかりのあるドラマになったらいいなと思う。原作の衝撃が半端じゃないから、ドラマを見て興味を持った人が原作を読んで座り小便したらさぞかしいい教育効果があるのではと思う。ところがどうも視聴率は良くないらしい...ままならない世の中だ。
ただまあ、過去の作品に脚光があたってその作品の先見性が証明されたり、その作家に対する再評価がなされたりすることは素晴らしいことだと思うけれど、あくまで現代的な視点でリメイクされた方の高評価があってのことだと思う。それこそがオリジナルに対する最大のリスペクトだし、単にオリジナルの骨子が如何に優れていたかを再認識させるようなだけのリメイクではあまり有益ではない。
さて、古典に対する解釈と言う分野においてこれほど洗練されてる物は無いって言うのが落語だろう。
新作落語しかやらないって噺家もいるけれど、基本は古典をキッチリできる人というのがちゃんと評価される分野だ。
まだ聴き始めて日が相当浅いんで何も分かっちゃいないが、いわゆる名人と呼ばれる人の落語というのは、その人の人格というものがモロに出る。同じ噺でもやる人によってこれほど印象が違うもんかと驚くことが多い。音楽で言うところのアレンジってやつか。アレンジのサジ加減ひとつで面白いもんもツマラなくなる。あとセンスとテクニック、間とタイミングによっても左右されるという点では楽器演奏に近いもんもある。
自分にとって当てはめやすいジャンルだとギターということになって来るが、最初に聴いた印象だと人間国宝の桂米朝はなんかエリック・クラプトンっぽいなあと思った。心地よいスピード感とく矢鱈滅多羅なくすぐりよりも、必要なフレーズを丁寧にかっちりと決めていくという点でクラプトンっぽい。
それに対し米朝の弟子で自殺してしまった桂枝雀は、スピード、テクニック、トリッキーなフレーズ(ギャグ)の多さ、派手なアクションの多さから言ってエディー・ヴァン・へイレンかなと。
真打ちになる以前の枝雀は、師匠のスタイルを四角四面に真似してはその及びのつかなさに神経質に悩んだというが、真逆の方法論を探り当てて以降のはじけ方は、若き日にクリームのライブ盤におけるクラプトンの流麗なフレーズをレコードの回転数を落として丁寧にコピーしていたエディとかぶる。クラプトンは絶対思いつきそうも無い「ライトハンド奏法」をあみ出したとこなんかもなんか似ている。
笑福亭松鶴はジミー・ペイジか。少し雑ながらも、無謀なスピード感を感じさせる部分や、おいしいリフ(ツボにくる言い回し)が多いところも似ている。
立川談誌はフランク・ザッパか。妙なところから導入したり、下げ(オチ)を先に言っておいて最終的には自分なりの解釈でオチを変えたりと、非常にロジカルに落語(音楽)の構造にメスを入れているとこなんざ談誌とザッパはよく似ている。あと枕(ライブのMCに相当するかな?)の部分が異様に面白くアジテーターとしての能力が半端ではないとこ、異常にテクニカルでありながら既存の「巧い」という評価に反旗をひるがえし、変人性が滲みまくってるようなフレーズで勝負してくるところ、などなど共通点が多い。
古今亭志ん生はチャック・ベリーか。乱暴だろうがロレツが回ってなかろうが妙に間が開こうが、一向にお構いなしで俺節でやり通すことなんかそっくりだ。よく「人間が形式」を超えるというけれど、アイツがやれば落語(ロックンロール)だ言われる域に達しているという意味では同じぐらい位の高い人同士ではなかろうか。
チャックベリーのドキュメンタリー映画で、キース・リチャードが「リハーサルもまじめにやらねぇし、訳の分からないことで怒るし、自分勝手でムカつくジジイだけど、やっぱり俺のヒーローだからね」と言っていたが60になろうが70になろうがその無手勝流な生き方は実にロックンローラーだ。
同じく二日酔いで高座に上がり噺途中で眠ってしまったが、お客のほうも「寝かせといてやれ」といって誰も起こさなかったという伝説や、関東大震災の時や東京大空襲の時も「酒が地面に呑まれちまうのがもったいない」ってんで一人酒屋で酒を呑んでたという伝説のある志ん生は、生きてること自体が「芸」になってしまった稀有な人だ。
今のとこ上に挙げた人の落語を主に聴いているが、皆さん何よりその「声」がとても聴いてて心地いい周波数を出している。同じ噺でも何度聴いても気持ちいいのはその声に拠るところが大きい。それは落語に限らず漫才でも俳優でも歌手でも同じだ。人間の声の心地よさというのは他に変えがたいものがある。
だから最近は寝るときやちょっと出かける時は志ん生ばかり聴いている。なんだろうね、あの声の気持ちよさ。特に夫婦ものだとそのトーンの素晴らしさは引き立つね。
勢いあまってデスクトップの画像も志ん生なんだけど、なんか遺影みたいでちょっと怖い。
http://jp.youtube.com/watch?v=xzKOnRTXqb0&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=J0mef-xgKXc
http://jp.youtube.com/watch?v=_tJqNeb_E8Q&feature=related
どちらもそれぞれの作家にとっての問題作でもある作品だから、単に有名な古典作品を今旬の俳優を使って安直に仕上げました、というもんではないと思う。
「MW」はまだ観てない(公開されてないんだっけ?)けど、銭ゲバは観ている。松山ケンイチという一癖ありそうな俳優が中々いい感じで主人公を演じているし、原作には無いシーンや現代の状況も考慮した環境設定になっていて、原作の単純なトレースや焼き直しではないみたいだから少し安心した。
まだ本格的に面白くなってはいないので何ともいえないのだけれど、多少なりとも引っかかりのあるドラマになったらいいなと思う。原作の衝撃が半端じゃないから、ドラマを見て興味を持った人が原作を読んで座り小便したらさぞかしいい教育効果があるのではと思う。ところがどうも視聴率は良くないらしい...ままならない世の中だ。
ただまあ、過去の作品に脚光があたってその作品の先見性が証明されたり、その作家に対する再評価がなされたりすることは素晴らしいことだと思うけれど、あくまで現代的な視点でリメイクされた方の高評価があってのことだと思う。それこそがオリジナルに対する最大のリスペクトだし、単にオリジナルの骨子が如何に優れていたかを再認識させるようなだけのリメイクではあまり有益ではない。
さて、古典に対する解釈と言う分野においてこれほど洗練されてる物は無いって言うのが落語だろう。
新作落語しかやらないって噺家もいるけれど、基本は古典をキッチリできる人というのがちゃんと評価される分野だ。
まだ聴き始めて日が相当浅いんで何も分かっちゃいないが、いわゆる名人と呼ばれる人の落語というのは、その人の人格というものがモロに出る。同じ噺でもやる人によってこれほど印象が違うもんかと驚くことが多い。音楽で言うところのアレンジってやつか。アレンジのサジ加減ひとつで面白いもんもツマラなくなる。あとセンスとテクニック、間とタイミングによっても左右されるという点では楽器演奏に近いもんもある。
自分にとって当てはめやすいジャンルだとギターということになって来るが、最初に聴いた印象だと人間国宝の桂米朝はなんかエリック・クラプトンっぽいなあと思った。心地よいスピード感とく矢鱈滅多羅なくすぐりよりも、必要なフレーズを丁寧にかっちりと決めていくという点でクラプトンっぽい。
それに対し米朝の弟子で自殺してしまった桂枝雀は、スピード、テクニック、トリッキーなフレーズ(ギャグ)の多さ、派手なアクションの多さから言ってエディー・ヴァン・へイレンかなと。
真打ちになる以前の枝雀は、師匠のスタイルを四角四面に真似してはその及びのつかなさに神経質に悩んだというが、真逆の方法論を探り当てて以降のはじけ方は、若き日にクリームのライブ盤におけるクラプトンの流麗なフレーズをレコードの回転数を落として丁寧にコピーしていたエディとかぶる。クラプトンは絶対思いつきそうも無い「ライトハンド奏法」をあみ出したとこなんかもなんか似ている。
笑福亭松鶴はジミー・ペイジか。少し雑ながらも、無謀なスピード感を感じさせる部分や、おいしいリフ(ツボにくる言い回し)が多いところも似ている。
立川談誌はフランク・ザッパか。妙なところから導入したり、下げ(オチ)を先に言っておいて最終的には自分なりの解釈でオチを変えたりと、非常にロジカルに落語(音楽)の構造にメスを入れているとこなんざ談誌とザッパはよく似ている。あと枕(ライブのMCに相当するかな?)の部分が異様に面白くアジテーターとしての能力が半端ではないとこ、異常にテクニカルでありながら既存の「巧い」という評価に反旗をひるがえし、変人性が滲みまくってるようなフレーズで勝負してくるところ、などなど共通点が多い。
古今亭志ん生はチャック・ベリーか。乱暴だろうがロレツが回ってなかろうが妙に間が開こうが、一向にお構いなしで俺節でやり通すことなんかそっくりだ。よく「人間が形式」を超えるというけれど、アイツがやれば落語(ロックンロール)だ言われる域に達しているという意味では同じぐらい位の高い人同士ではなかろうか。
チャックベリーのドキュメンタリー映画で、キース・リチャードが「リハーサルもまじめにやらねぇし、訳の分からないことで怒るし、自分勝手でムカつくジジイだけど、やっぱり俺のヒーローだからね」と言っていたが60になろうが70になろうがその無手勝流な生き方は実にロックンローラーだ。
同じく二日酔いで高座に上がり噺途中で眠ってしまったが、お客のほうも「寝かせといてやれ」といって誰も起こさなかったという伝説や、関東大震災の時や東京大空襲の時も「酒が地面に呑まれちまうのがもったいない」ってんで一人酒屋で酒を呑んでたという伝説のある志ん生は、生きてること自体が「芸」になってしまった稀有な人だ。
今のとこ上に挙げた人の落語を主に聴いているが、皆さん何よりその「声」がとても聴いてて心地いい周波数を出している。同じ噺でも何度聴いても気持ちいいのはその声に拠るところが大きい。それは落語に限らず漫才でも俳優でも歌手でも同じだ。人間の声の心地よさというのは他に変えがたいものがある。
だから最近は寝るときやちょっと出かける時は志ん生ばかり聴いている。なんだろうね、あの声の気持ちよさ。特に夫婦ものだとそのトーンの素晴らしさは引き立つね。
勢いあまってデスクトップの画像も志ん生なんだけど、なんか遺影みたいでちょっと怖い。
http://jp.youtube.com/watch?v=xzKOnRTXqb0&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=J0mef-xgKXc
http://jp.youtube.com/watch?v=_tJqNeb_E8Q&feature=related