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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2007年03月

2007年03月31日04:47
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久々のワイセッツの一時間ライブが終わった。来てくれた方々、どうもありがとうございました。
やっぱ一時間くらいないと表現出来ないことがある。ていうかもっとあってもいい。そしたら腰の落ちついた曲ももっと出来る。元々はそういう深く沈んでいくような歌は好きだし向いてると思う。 って思いました。もっと長い時間出来るように実力と状況を作らないとね。
これからも応援よろしくお願いします。まだ迷ってる途中かもしれないけど俺達にしか出来ないことで、なおかつ広く広がって行くようなポップで激しいロックをやっていきます。それしか出来んし。


ライブ中にも話したけど、ライブの前々日に植木等さんが亡くなられた。だから個人的には植木さんの追悼ライブの気持ちだった。
クレイジーキャッツ及び植木等には幼い頃から楽しませてもらった。特にあの強烈な音楽ギャグは影響を受けたと思う。幼い頃はゲラゲラ笑ってただけだったけど、改めて聴き直した時のショックは凄いもんだった。
作曲家萩原哲晶による人をなめきったような凄まじいアレンジ、青島幸男によるこれまた暴力的なまでに能天気な歌詞、そして何より植木等の天賦の才としかいいようのない陽性の存在感。この三要素が合体した時の起爆力たるやもう、馬鹿馬鹿しいくらい凄まじいもんだ。
「そのうちなんとかなるだろう」「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイそれまでョ」「馬鹿は死んでも直らない」「まことに遺憾に存じます」なる数々の名フレーズが植木等によって歌われた時の痛快感はそりゃもうたまらないわけですよ。俺の感覚で言うと正にロックなわけですよ。
うちらの曲に「カッQE」という曲があるが、その曲の馬鹿馬鹿しいアレンジや一見下らないが馬鹿馬鹿しさを高邁に肯定する歌詞は紛れもなくクレイジーサウンドからヒントを得たものだ。
その曲がこのタイミングでライブで出来、植木さんに哀悼の意を示せたのは幸運だった。
改めて合掌。


次回のライブは4月6日の渋谷ラママです。是非お越しを。
2007年03月26日06:44
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久しぶりに早川義夫の「花のような一瞬」というアルバムを聴いた。
早川さんのこのときの恋愛と別れがテーマのアルバムだ。無防備で剥き出しの言葉が並ぶ。



なぜに僕らは求め合い なぜに僕らは憎み合う
心の底では 信じているよ
純愛の花が咲く
純愛の鐘がなる
ふたりはひとつになる

「純愛」


少年のような恥じらいと 老人のようないやらしさで
優しく翼広げて 心の中をなめあう
しかたないさ 好きだもの 涙がこぼれてゆく
しかたないさ 好きだもの 僕らは恋人

「パパ」


好きでたまらない思いが 君を僕だけのものにしたくて
空を飛び回る羽まで むしり取ろうとしていたね

「嫉妬」

全力で愛さなかったから 君を見失ってしまった
生きていくのが 恥ずかしくなるほど
思いっきりふられて 打ちのめされる
どうしても馴染めないものがあって
好きなところだけ愛した


「グッバイ」



このとき早川義夫はもうおじさんである。カッコウつけて当然の大人な男の年代だ。
でもここにはカッコウつけも気取った言い回しも青臭さもなく、大人のいやらしさと子供の純粋さがあるだけ。



そして一番大事なところだが、この言葉が早川義夫の声とピアノに乗って歌われているのだ。
あの唯一無二の切迫感のある早川の声、たたき付ける様なピアノ、哀しいメロディー。



涙が出てきてしまう。



ここには嘘がないからキレイだ。醜さや弱さがストレートに表現されているからキレイだ。
キレイだから伝わってくる。




最近自分の家にある活字を整理している。活字に囲まれた生活から抜け出したいと思っている。
活字に囲まれているからといって、それが知識になっているわけではないのだから、要らないものは捨てたい。捨てて馬鹿みたいにシンプルになりたい。
小学生のように短絡的な発想だがとりあえずそこからはじめてみる。




言葉は無力だ。実に合理的で便利なツールだが、言葉それだけでは力を持たない。


「永遠」という言葉だけでは永遠を感じさせることは出来ない。
「喪失感」という言葉だけでは喪失感を味わえない。
「あなた」という言葉だけではあなたを指し示すことは出来ない。



言葉の裏にある気持ち、心を伝えるためには、それを伝えるための表現方法を行使しなければならない。伝える人の人間性をさらけ出さねばならない。
それは声やしぐさ、かもし出す空気であるかもしれないし、「音楽」「小説」「映画」「詩」といった表現活動につながってくることもある。



音楽は「メロディー」や「リズム」や「アンサンブル」「音質」などといった抽象的なものを使って、「言葉」という直接的だが平面的なものを補完する。(言葉のない音楽もあるがまあそれはそれで別の話)



伝えたい思いが強ければ強いほど、その表現方法は力強くなる。
言葉が回りくどかったりして伝わらなければもっと直接的になろうとするし、メロディーはもっと心のひだに入り込んでくるような切なさや激しさを帯びてくるし、リズムは変化に富んだり、あるいは単調で力強くなったりしてくる。



そうじゃない音楽もあるし、心の平静を保つような音楽もあるだろう。俗に言う癒しの音楽ってやつ。
でも俺には何も感じない。そんなもん求めるほどまだシニカルになってない。まだ激しく心を動かしていたい。



生きていればどうしたって哀しくなるし、うれしくもなる。虚しくもなるし、血湧き肉踊ることもある。



そんな心と感情を伝えたいと思うから、言葉や音楽を追い詰めていこうとする。追い詰めていくから激しくなったり哀しくなったりする。




そういう音楽にしか感動出来なかったのだから仕方がない。そんなものに感動してしまったのだからそれを誰かに伝えるしかない。伝えるのならもっと直接的に伝わるように自分の心をのせて表現しなければならない。



まずは言葉から追い込まなくては。歌詞を書いては消し書いては消しの日々だ。

2007年03月17日22:07
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酒の勢いを借りて夜中に空に向かって絶叫してはいけない。


商売道具の喉に著しくダメージを与えちまう。




でも気持ちはいいもんだ。多摩川の河川敷で東京都民と神奈川県民に挟まれたグランドで、濁った空に向かって訳も分からずキチガイみたいに叫ぶ。
俺は一体いくつになったんだ?青春か(笑)?


最近酒を飲むとなったら朝までコースになっちまう。話をしたいからつい終電を越えてしまう。
いかんなぁ。いや思ってないけど一応言ってみる。



さしたる内容もないまま終わっていく。
2007年03月11日18:43
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ワイセッツのライブと弾き語りライブが終わった。


ワイセッツのほうは初めてメイクをして出た。殴りたくなるようなオカマみたいな自分の顔を見て、とりあえずビジュアル系みたいにはならんで良かったと思ったがそれにしても気持ち悪い。やっぱあんまり慣れない事をしたもんでどっかに違和感がある。
歌も演奏もそんな違和感に引きずられてどっかで吹っ切れないもんだった。ていうか俺が暴走した。
お客さんに「迷ってるの?」っていわれたけど、迷ってます。
どういう方向に行こうか?っていう迷いじゃなくてもっと根本的な「何をモチベーションにして、何に向けて歌うのか?」という部分でのぐらつきがあった。
まあ根が単純だからひょんなきっかけからあの意味もなく自信満々の自分を取り戻せるかもしれないけど、今は迷ったまんまです。


で土曜の弾き語りライブ。これまたお客さんには悪いけど、自分で自分を鼓舞するようなライブにならざるを得なかった。
とにかく歌いたい歌を、好きなスタイルで、気持ちがぐらついたまんま、感情の赴くまま歌いたかった。
人の曲を歌いたかった。自分の作った歌でも、今まで人前でやったことのない曲。


「サン・トワ・マミー・」をブルースっぽく、「ジュリーメドレー」なんて趣味丸出しのもの、早川義夫の「朝顔」をオリジナル通り暗く深く沈むように、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」をまんまひねりなく堂々と歌いたかった。
自作曲も「目」という卑猥な歌、「何でこんなに哀しいんだろう」というそりゃぶっちゃけすぎだろうという身も蓋もない曲、「残り香」という今の状況まんまの歌を歌った。


迷いはある。けどそれを打破するのは自分の発信する音楽であるとも思う。俺の場合だけど。
今はもがく事しかできない。じたばたする。けどいい曲、いい歌が自分の中から聴こえてきているいじょう止めることは出来ない。

2007年03月06日23:23
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明後日ですが、ワイセッツのライブがあります。


3月8日、渋谷エッグマンにて。うちらは二番手、19時過ぎくらいに出ます。久方ぶりのライブだけあって恐ろしくテンションはあがっていることでしょう。ド派手にかますつもりです。


で、その週の土曜日3月10日、今度は俺個人、高瀬大介一人で弾き語りライブをやります。場所は江古田フライングティーポット。西武池袋線江古田駅の近くらしいです。今回はカバーを多めにやろうかなと思っております。なにせ二日前にテンションバリバリのワイセッツライブを終えたばかりなので、弾き語りの場合は少しリラックスしてやろうかなと。でも単に暗いだけかもしれませんが。


どちらも興味のある方はどうぞ。

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