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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2005年12月

2005年12月31日14:05
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90ecedc1.jpg 昨日は今年最後のライブがあった。


正直に言うならあまりいい出来ではなかった。あんまり言いたくないけど。


メンバー感の気持ちのずれとか自分自身の気持ちの揺れが如実に反映されたライブだった。
後で録音したものを聞いてみるとメチャクチャ酷いというものではなかったけれど、メンバー全員の気持ちの落としどころが不確定なまま進んでいっているのが分かる演奏だった。

そして恐ろしい事にそんな雰囲気はすぐにお客さんに伝わってしまうもんだ。いわゆる波動というヤツだ。
たとえ歌や演奏に破綻がなくとも(昨日は破綻だらけだったけどね)気持ちにどこか迷いがあったらその迷いは一個人の単なる迷いとしてすぐ観ている人に伝わる。


迷ってる気持ちが迷ってる音として伝わるというのならば、もし迷いを伝えたい曲を歌い演奏する時は、本当に迷ったまま歌えばいいのかと思った事も昔あった。それこそがリアルだろうと。でも今考えるとそれは「迷走時期特有の自堕落な現実逃避」であって、迷いを迷いとして音で伝える為には、しっかりと覚醒したまま迷っている自分を客観視出来なければ、その気持ちは音楽として伝わらない。


迷いに限らず、哀しみも喜びも怒りも絶望もいやらしさも、それを伝えようとするとき、自分を俯瞰して突き放して見なければそれは単なる自分の中だけの感情だ。それを共有してもらう行為、例えば話をしたり曲を作ったり歌詞を書いたりするなら、最初のきっかけ、衝動を一度自分の中で対象化し、それを伝える為の加工、包装をすればメッセージ、あるいは音楽として機能する。


まず自分が何を考え、それをどう伝えようか考える。しかもいかにも考えたという形跡を残さず、まるで口をついて出てきたかのように思わせる技巧があればなおいい。

日常会話においてそれが出来てる人は凄くうらやましい。何に関してでも対象化され推敲を重ねた発言が即座に出来る人。人として位が高いとか思ってしまう。

でもそんなヤツはかわいげがなかったりもするよね。

そんな優等生的な返答マシーンみたいなヤツは大体においていやなヤツだったりする。高学歴のヤツに多かったりすんのかな?

だから考えてる過程がある程度露見してる奴の方が親しみ易いし、考え過ぎてショートして発言が支離滅裂になっているヤツは笑える分だけ救われるけど、一番タチ悪いのが何にも考えた形跡が見られない発言をする人。自分がどう人から見られていて、どういう発言をすれば説得力があるのかを全く考えないままコトダマ地雷を踏んでる人は厭だねえ(それはテメエだろ!って思う人、御免なさい、来年も宜しく)。

だから俺はよく口が臭い、じゃなかった口が悪いと言われるけどそれなりに考えてるつもりだ。少なくとも日常生活に於いては「毒舌」は他者を攻撃する為に行使するもんではなくて「笑い」のために使うもんだと思うから、その毒は自分に向けられる事もかなりあるしたとえ他人をモチーフに使ったとしても笑いになる事でフォローになってると(勝手に)思ってる。
だからキレイな言霊だけ発してキレイな人生を歩むよりは毒を常に保持して図太くしたたかで冗談みたいな人生を全うしたい。


で、締めなんだけれど、来年こそは「暴走アナログマシーン」になりたいね。

暴走=ブチ切れてる、
アナログ=ブレや揺れが分り易く出る、
マシーン=でもパワーとスピードはある。

そんな人間になっていけたらさぞかし面白いだろうなと思う。はた迷惑だろうけどねぇ。
まあ少なくともワイセッツの音では実現させたい。昨日のライブが大成功で浮かれたまま終わってたらこんな事書こうとは思わなかったろうなあ。まあある意味で良かったのかもしれないなあ。そう思う事にしよう。
「過去を悔やんでも未来は開けてこない」とはよく言うが、俺は「過去は悔やんだまま未来を開けるようになりたい」んでダメだったライブの事を敢えて枕話に持ってきました。

それでは来年も宜しく。
2005年12月28日12:00
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4be84a26.jpgキミかわいいね


キミかわいいね でも それだけだね

キミかわいいね でも それだけだよ

それだけさ

キミと話してたら ボクこんなにつかれたよ

キミかわいいね でも それだけだね

キミかわいいね お人形さんみたい

それだけさ

キミといっしょにいたら ボクこんなにつかれたよ


酒でも飲まなきゃ キミとはいられない

シラフじゃとっても いっしょにいられない

キミかわいいね でも それだけだね

それだけさ



水の無い川 エンジンのない車

絃の切れたギター ヤニのないタバコ


キミかわいいね テレビにでも出たら

キミかわいいよ モデルにでもなれよ

キミかわいいよ お人形さんみたい

それだけさ

ぼくは さよならするよ 男には困らないだろう


キミかわいいねだけだね ただそれだけだね




これはRCサクセションの最初期、フォークの仲間と勘違いされていた頃の作品だ。

忌野清志郎二十歳の頃の作品。

僕は数ある清志郎作品の中でも五指にはいるくらいこの曲が好きだ。

初期の頃はこのように女性差別としか言いようのない辛辣な作品が結構ある。一体何をされたんだ?と言いたくなるぐらいストレートに女性を攻撃している。

この曲はアコースティックギターとウッドベースという、当時のフォークバンドにありがちな編成で演奏されている。

しかし演奏、そして歌はまぎれもなくロックそそれとしか言いようがない。この曲に於ける歌唱は本当に凄まじい。

キミかわいいね〜のところは人を馬鹿にしたような猫なで声。

酒でも飲まなきゃ〜のところは絶唱。

水のない川〜のところは絶叫。

再びキミかわいいね〜に戻って猫なで声でフェイドアウト

人を馬鹿にするという意味ではこれ以上ないくらい効果的な演出のもとこの歌は展開される。


忌野清志郎がこのような歌を作る背景にはどんな思いがあるのだろうか?

それは恐らく「少年性」と「強迫観念」からくるんではなかろうか?

本人はめちゃくちゃ女好きなので若いうちからかなりの女性と付き合っているはずだ。そしてその局面その局面で「おんな」というモノを武器にして責められたりしたはずだ。

清志郎の持っている「少年性」はそれらをほとんど理解出来ないものとして認識したのでは。要するに「理不尽」だと。

小学生の頃は男子と女子がよく敵対していたもんだがそれによく似ている。

忌野清志郎の初期の知られざる名曲に「あそび」という歌がある。
要約するとあそびで引っ掛けた女が後からごちゃごちゃ言ってきてめんどくさいという歌だ。キミは僕に大切なものをくれたというけど、そんなに大切なら捨てなきゃよかったのにというミもフタも無い言葉が吐かれる時、男である我々は思わず溜飲が下がると言うか、痛快な気持ちになる。

しかしこれほど明快な理屈を突きつけるのに女はそんなの関係ないとばかりに自分の要求を通そうとする。
そこのところを「女なんてそんなもん」という諦観で生きる人と「訳解らん、怖い、鬱陶しい」で攻撃に出る人と色々あるが、忌野清志郎は後者の思いを「少年性」にくるんで作品化する。

そういう歌を女性はどう受け止めるのだろうか?

男からすると「忌野清志郎」という類稀なる愛らしいキャラクターというオブラートによってこれらの歌はドン引きせず笑って聴けるのだが、女性には女性の言い分があってこういう歌の不当性を理路整然と論破できるのだろうか?というか男が笑って納得出来るような女性なりの言い分を通す事は出来るのだろうか?

その辺のことは興味はあるが結局平行線の話になりそうなので女性に深く追求した事はない。

最後にもう一つ清志郎の歌。



国王ワノン1世の歌



あの娘がだめな時は この娘と寝よう

この娘がだめな時は あの娘と寝よう

一人じゃ足りないのさ 二種類欲しい

女なんてどうせ どれでも同じさ

女なんてどうせ くだらない奴等さ



ここまで歌われるとごめんなさいって感じで謝るしかないのだが。
2005年12月27日23:20
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49dea2e8.jpg ここのところライブの本数を多くしているのでいろんなバンドの音を直に聴く頻度が高い。いいイベントに出してもらう事が多いのでどのバンドを聴いても、たとえ趣味性は違えど勉強になる事、考えさせられる事は多い。
しかし反面イライラムカつく事も多い。対人的にムカつくとかじゃなくて音楽に向かう姿勢、前提に関してあまりにもいい加減、あるいは幼稚だと思えるバンドがいるからだ。俺らもまだまだまだまだ甘いが、それにしたってもうちょっとよ〜って言う事が結構ある。だからちょっと思う事を書いてみる。



途方に暮れているという感覚。


これが俺を貫く感覚だ。今までも、そして恐らくこれからも変わ
らないだろう。

まあいつも途方に暮れている訳でなく、仕事に集中して無我夢中になっている時も生きてりゃ当然あるがやっぱりふとした時に、なんか広大な場所に放り出されて「ヒュウウ」と風に吹かれているような感覚になる。

それは、(関係者各位には申し訳ないが)「まあどうでもいいや」って言う諦めが常にどっかにあるからかもしれない。

でもこれは決してネガティブな事ではない。むしろやたらと元気でハキハキしていて周りの人間を疲れさせる奴、あるいは物欲しげな態度で自分の事しか考えてない奴のほうこそネガティブでニヒルなかんじがする。生産的な感じがしない(まあ必ずしも全ての人が生産的である必要はないが)。あくまで途方に暮れたように淡々と、淡々と雑事をこなしている奴の方が信頼出来る。

「まあどうでもいいや」という諦めが全ての前提になっているからこそ「だから何をやってもいいんだ」という気持ちになる。勿論現実社会においては何をやってもいいということはないんだが、すくなくとも自分から発信する音楽、ロックぐらいは「何でもあり」でいたい。そして「途方に暮れている感覚」が「何でもあり」の発想のゼロ地点になっている。


自分の音楽に対する考えに即して言う。


例えばビートルズやレッドツェッペリン、ジミヘンや、クリムゾン、あるいはレディオヘッド、エイフェックスツインなんかを聴いてると時に途方に暮れてしまう。
勿論最初の生態反応はワケも分らず気分が昂揚して来てのめり込む。そして何度も何度も摂取し咀嚼し理解しようとする。そして全体像が朧げながらでも見えてくるとその時初めて対象の巨大さを前に途方に暮れる。

その辺りのロックに関しては俺は中毒患者であって決して愛好家ではない。だから崇め奉って近づこうと思って真似する事はない。
影響は充分受けてるけどそれらを再現して喜んでいても仕方ないのだ。
思う事は、「ロックはもうこんなところに来てんのか。こんなのを越えなければいかんのか」。だからそれらを前にした時まず途方に暮れる。しかしため息ばかりついていても何にも始まらないしどうせ音楽をやるんならそこをゼロ地点にしてやりたいので、とにかく手探りしながらでも始める。


もう一度言おう。途方に暮れるという事は俺にとって何事かを始めるときのゼロ地点、前提になる。


しろまるしろまるしろまる風」とか「まんましろまるしろまるしろまる」といった印象しか残さないバンドがたまにある。ていうか結構ある。しかも意外と完成度が高かったりする。ムカつく。「お前がしろまるしろまるしろまるを好きなのは分ったよ。で?」という感想持つときほどイライラするもんはない。どんな音楽をやったって別に自由だけどでもとにかくイライラするんだよ。

ぎこちなくてもまず自分の感覚をゼロ地点にして音楽に向かっている側とっては、ほかのバンドのスタイルに乗っ取って安直に音を構築しているバンドは犯罪的ですらある。お客が盛り上がりゃいいじゃんとは言って欲しくない。お客さんはよくなじんだ感覚にはすぐにいい反応をするがでもその熱はその場で消費されて消えてしまう。
そんなもののためにお客の時間と金を奪って、少々取っ付きにくいけどオリジナルなもの、自分の感覚が産んだ異物を投げかけようとしているバンドを聴く機会を奪っている。そんな程度で折れるバンドならいずれにせよ駆逐されるよというなら、うちはオリジナルの異物を叩き付ける。お客さんにブチ当てる。
お客さんに楽しんでもらうことは基本として絶対忘れてはならないところだが、単に現実逃避の道具に音楽をおとしめるような事をする様な事はしたくない。

オリジナリティー、メッセージ。お客さんが求めていないうちは単なるキチガイの遠吠えだけど、ぎこちなくとも自分の感覚、自分のやり方でやっていかなければロックが人の感性を覚醒することは
ない。

しかしそうやって歩んで来たロックを全て御破算にするような反動的なロックと称する「ゴミ」があまりにも溢れている。

いまだにいる生き残るビジュアル系、どれ聴いても同じなミクスチャー系、パンク、エモコア系、黒人ファッションを並行輸入しただけのHIP HOP系、閉鎖的で鼻持ちならないテクノ系。

俺は全部嫌いだ。いや、それぞれのジャンルそのものには罪はない。その中に安住しているヤツが嫌いだ。
どのジャンルも素晴らしいアーティストはいるが、そういう人達は自らのルーツとするそのカテゴリー、村社会から飛び出して全体性を獲得しようとして来た。
そしてそこには一個人の切実な思いをなんとか伝えようとする過程での揺れ、ブレみたいなものがそれぞれのジャンルのフォルムの奇形化として表れている。そうやって変体しながらロックは進んで来た。少なくとも俺はそう感じ取れるロックに突き動かされて来た。だから反動的なロックもどきを聴くと、自分が今まで研磨して来た感覚が汚染されているような気がして堪らない。まあそういうむかつきは自分を突き動かす原動力に変えりゃいいんだけどね。

とにかく自分が何を前提とし、どこに向かうかを考えないままただ漫然と気持ち良さそうにのんきな音を出しているバンドなど駆逐してやる。お前らがいる事は罪だ。

「途方に暮れている感覚」によって突き動かされている音楽なんてなんだか暗そうだが、そうはならないんだな。ロックとはいろんな思い、ネガティビティ、ポジティビティ、躁鬱、コンプレックス、独善、何でもいいけどそれらを一時的に忘れさせる音楽ではない。それらを抱えたまんま踊らせる音楽だからだ。

俺たちが俺たちの音楽によって人を立ち上がらせいろんなものを抱えたまま踊らせるまでは終われない。





という事で今年最後のライブが30日四谷フォーバレーであります。俺らは19時過ぎから出ます。ぜひ来てちょうだいな。


以上、長〜いライブ告知でした。



2005年12月22日01:25
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598fd0b3.jpg「七人の侍」


個人的には黒澤明の作品の中で、とか映画の中で、とかじゃなく人間が創り出した全ての創造物の中でも最高峰に位置する作品だと思う。

この作品に込められたエネルギーの総量は半端ではない。観れば分るが3時間27分間、一瞬たりともダレたところがなく観る者を作品の世界に引きずり込む。
またここまで観る者にエネルギーを要求する作品も珍しい。観た後ぐったりと疲れる。しかしあまりにも面白くて引き込まれるので疲れるのを覚悟で最後まで観きってしまう。


映画には強力なキャラクターが作品を引っ張っていくタイプと、強力なシナリオ、演出が引っ張っていくタイプがあるが「七人の侍」はその両方がとんでもなく濃い質と量で備わってる作品である。

そう、七人が七人とも魅力的なキャラクターになっているのも、単に役者に魅力があるからだけでなく、完璧なシナリオによって人物造形がなされているからこそ見る側がそれぞれに自己投影できるようになっていて入り込めるのだ。

とにかく黒澤明という監督はシナリオにこだわった。黒澤明、橋本忍、小国英雄という強者が何ヶ月もかけて推敲に推敲を重ね、書いてはやり直し書いては やり直しで徹底的に穴をなくしていった結果出来たシナリオである。おかげでどのキャラクターもその性格がハッキリとしていてそれぞれが魅力的である。そしてその侍達が完璧で隙がなく良くできたストーリーの中を動いていくのだから面白くない訳がない。


簡単にあらすじを言うなら。


毎年のように野武士に襲われる寒村がある。困り果てた村人たちが考えた対策は「食い詰めた浪人を飯でつって集めて用心棒にする」。結果7人の侍が揃い野武士と戦う。様々な戦法で野武士を駆逐していくがその中で何人かの侍が命を落としていく。大きな痛手を負った侍たちは一気にの武士を殲滅せんと最後の合戦に挑む......。


見所はやはり最後の土砂降り、泥沼の合戦のシーン。これは壮絶としか言いようがない。


当初8月に撮影される予定だったが遅れに遅れて年を越し2月という日本が最も寒い時期にもつれこむ。放水車で滝のような雨を降らせ、役者は薄手の着物だけで雨の中走り回り、水でぬかるんだ地面は人間と馬の足場の自由を奪い、まさに戦場さながら、気を抜いたら死んでしまうかもしれないという極限状態で撮影は行われた。
だから役者は殆どトランス状態、演技である事を忘れ本当に戦っているかのようだ。最後の方で鉄砲で撃たれて九蔵(宮口 精二)と菊千代(三船敏郎)は死んでしまうのだが勘兵衛(志村喬)の「菊千代!菊千代!」という叫び声は余りにも切迫感があるし勝四郎(木村功)にいたってはほんとうに号泣している。俺はこの合戦のシーンを観ていると本当に堪らなくなってくる。込み上げてくる。
よくぞこんなに人間が本気になって我を忘れて一つのものを作り上げようとしているシーンを撮影しておいてくれたと。たとえ50年以上も前の映画だろうと、音や映像が少々劣化していようと作品に封じ込められた生命力が本当に濃ければ全然古びないんだと。感動して泣ける数少ない作品の一つだ。


最後にこの「七人の侍」にまつわる驚異的な記録、エピソードを述べてみる。


・撮影期間11ヶ月。(映画全盛のこの時代には異例の長さ)

・制作費2億1300万円(当時の東宝時代劇の製作費の10倍)

・配給収入はこの年だけで2億9000万円(年間興行成績2位)

・三船敏郎撮影後、あまりの激務に一週間入院

・あまりにも制作費がかさんだので東宝側から「製作を中止、撮影したところまでで編集して作れ」とのお達しがあった。そこで黒澤は重役連中に見せる試写 会用に、最後の合戦の手前のところで終わるように編集し「その先は撮ってない」ということにしたところ、さすがに続きが観たくなった重役連中はそのまま 制作続行を許可せざるを得なかった。(格好良過ぎる!)

・撮り直しの聴かない泥沼の合戦の場面の為、1カットで同時に数台のカメラをまわして後でおいしいところを使って編集するという、今では当たり前になった撮影方法を考案する。


しかしまあ実に凄過ぎる。が、これはほんの一部にしか過ぎないし他にも面白いエピソードや記録は枚挙に暇が無い。特に撮影技法に関する新たな試みの多さは特筆すべきである。黒澤が要求する画を撮る為に次々と新しい試みをスタッフが考案し、それが映画自体のイノベーションに繋がっていったと言う実に意義深い映画でもある。
優れた芸術においては、新しい技術が新しい発想を生むのではなく、新しい発想が新しい技術の発達を促すのだ。


これだけの作品が日本で生まれたことは誇りに思うべきことだ。しかも娯楽大作として日本中、世界中で愛された作品であると言うことが俺をとても力づける。
ぜひ観てほしい作品だ。
2005年12月15日11:05
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[画像:23b334ae.jpg]数日過ぎたが12月12日は小津安二郎の誕生日であり命日でもある。60歳の誕生日に彼は現世から引退した。


小津安二郎監督の「東京物語」と黒澤明監督の「七人の侍」は俺にとって映画の中でとか言う枠組みを超えて、全ての創作物の中で最高峰に位置する作品だ。


キネマ旬報オールタイムベストの1位2位を争うような2作品である。ベタと言えばこれほどベタなものはないが、本当にこの2作品は観るたびにえも言われぬ感動に満たされるのだ。映画館で観た時などは泣いて泣いてしばらく席を立てなかったほどだ。
言っておくが決してお涙頂戴の映画ではないし、主人公に感情移入したりとかストーリーにとかで泣けたんではない。何が何だかよく分からないのだがとにかく心のどこかから涙が湧き出て来たんだろう。


小津作品の場合ストーリー性がどうとか、時代性がどうとかで語る事は無意味だ。小津作品がもたらす感動の要因はそんなところにないからだ。
俺が考えるところの要因はその独自の「タイム感」だ。小津の作り出す「時間の流れ」がこちら側の意識を支配し小津の術中にはめられる。


優れた映画監督には必ず独自のリズム、タイム感がある。どんな映画的技法よりも如実にその監督の生理を表すのが編集であり、すなわちタイム感である。


黒澤明は比較的オーソドックスな映画的時間感覚を持った監督で、それ故にハリウッド映画にも匹敵する非常に優れたエンターテイメント性を持った作品を創作出来たのだが、対して小津安二郎のそれは非常に独特だ。本当に他に類を見ない独自の境地に達していてそれが欧米人が思うところのオリエンタリズムになっている。


小津のタイム感は映画的時間感覚というよりは現実的時間感覚といえるのではなかろうか。


小津映画を最初見たときはナントかったるいんだろうと思った。他の映画やテレビで慣らされた映画的時間感覚の所為だ。


映画的時間感覚とは「実際にはあり得ないが見る側のフォーカスによって延びたり縮んだりする時間の流れ」のことである。


小津映画にはこれがない。そういうある種デフォルメされた時間の流れはなく、日常と同じ速度で時間は流れていく。

例えばだ。家の中で一階から二階に行くシーンがあるとする。するとそこにはその間の階段を上がるまでの時間がきっちりと「ある」のだ。その時間にこちら側は興味はないから、その間は非常に間延びした画面に感じられる。


そういった現実的時間感覚は映画の中においてはむしろ非日常に感じられる。映画であるという約束事の中に現出したリアルな時間の流れ。これは異質である。


そこに登場人物のおおよそリアルとは言えないぎこちない会話と演技が入ってくる。笠智衆の間延びした言い回し、原節子の少々クサい演技、あるいは演者のセリフとセリフの妙な「間」、殆ど感情が入ってないんじゃないかと思わせるようなセリフのトーン。
(小津は自分が求めるトーンとリズムで役者がセリフを言えるまで何回も何回もテストを重ね、しまいには演者がセリフ自体の意味を忘れ殆どゲシュタルト崩壊を起こすくらいまでくり返させたと言う)。


考えてみれば非常に高度でアバンギャルドな映画技法が駆使された作風である。

「映画的快楽」に基づいた「タイム感」、「映画の原則」を踏襲するかたちでこちら側の気持ちを逸らさないようにする作品は数あれど、自らの生理に基づいた「時間感覚」でこちら側の意識を支配するなんて並大抵の監督には出来るもんではない。

しかも作品はそんな技巧は感じさせず、人間の心の琴線に触れる滋味深い作品になっているのが何とも不思議である。何でこんなに地味で、ドラマチックな展開もなく、感情があらわになる事もない作品がこれほどまでに心を捉えるのか?その手がかりの一つがが独自の「タイム感」にあるのではないだろうかと思う。あの「タイム感」が観るものを「作品の世界」に誘うかもしれない。


その頂点にいる作品が「東京物語」である。


敢えてストーリーや見所は書かないが、とにかく笠智衆の丸まった背中を観ていると何だか堪らなくなってくる。不思議な事にあの背中にはこちらの理性のたがを外す「何か」 がある。そこには映画が終わったあとも映画と同じ早さで淋しく流れていく時間が感じられる。そしてそれは小津安二郎の「虚無」かもしれない。




次は黒澤明監督の「七人の侍」について書いてみたい。
2005年12月14日01:25
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今日からブログというものを始めるんだが、今までも自分のホームページやらなんやらでかなりの文章を書き散らしてきたんでそこからの引用もあるとは思うんだが、なるべくそのときそのときの新しい雑感を書いていこうと思う。

さて、私は「ザ・ワイセッツ」なるロックバンドを率いて活動しているのだが、ここに書く文章、あるいは違う場所で書いてる文章もすべてはこの「ザ・ワイセッツ」の音楽の注釈の役割を果たすものである。 個人的な思い、伝えたいことは「ザ・ワイセッツ」の中にぶち込んでいるんだが、そこからこぼれてしまうものを文章で、ということになる。

もしここで書かれる文章を気に入ってくれた人は是非とも「ザ・ワイセッツ」の音楽に触れていただきたい。それが一番いい。私は売文屋ではない。

まあそうはいってもそんなに堅苦しいもんではない。根はクソ真面目ではないんでね。ただの日常雑記を書くほど暇ではないが、論文ほど偉そうなモンは書けないし(今この時点での文体は堅苦しいかもしれんが)。とにかくそれなりに読めるもんを書くんでよろしく。
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