「こんなことにこだわったって別に誰もわかっちゃくれない」
「こんなこと、有史以来の人類の歩みからしたらとるに足らない」
「こんなことしたところで世界は変わらない」
といった風にマクロな視点で物事を考えるというのはついやってしまいがちだけど、あんまりそこにハマり過ぎるとろくなことにならない。
その穴にはまりこんだらとたんに虚しくなって無気力になるか、あるいは焦燥感にかられてテロや無差別殺人をやりだす輩も現れるかもしれない。オウムってそういうやつらの集まりだったわけでしょ。
テロルを恐れる支配層はそうならないためのガス抜きとして大衆に「努力は必ず報われる」とか「願い続ければ夢はきっと叶う」といった麻薬的な思想を与えて、群衆の狂気をなだめている。
去年だか一昨年のAKBの総選挙で高橋みなみがまるで女子プロレスラーのマイクパフォーマンスのようなトーンで「努力は必ず報われるとー」と高らかに宣言していたが、そのVTRを観てニヤニヤが止まらない有吉なんかは早速ネタにしてラジオコーナーを作ってたりした。
恐らく有吉のような諦観と怒りで出来たタイプの芸人は、本能的にああいった麻薬性はあるが実態はまるでない空虚なアジテーションによって世の中の価値観が一元化されてしまうその窮屈さを嫌う。だから冷笑的にネタにすることによってバランスをとったんだろう。
歴代の世の中の虚を衝くタイプのお笑い芸人はビートたけしにしても松本人志にしても太田光にしても、必ずもっともらしい正義に対しては毒ずいて笑いにしてきた。晩年の談志だったらば笑いに転化するのもバカらしいとボヤいただろう。それくらい絶望していた。
別に努力することがカッコ悪い訳ではないし、夢を持つことが恥ずかしいとも思わない。とってもいいことだし美しいと思う。そうありたいとも思う。
ただ、それを唯一の正義と信じて疑わず、人に押し付けようとする行為がカッコ悪いし恥ずかしいのだ。そこらへんを全く疑わず、堂々と押し付けてくる表現者が山のようにいる。
こないだ問題になった女子柔道のパワハラや暴力の横行も根本は同じ。体育会系の縦社会のシステムによって延々と信じ続けさせられた根性主義、そんな非合理的な思想を全ての選手に押し付けることによって良しとする前時代的な管理体勢、それを世界のスポーツの情勢に照らし合わせてみる客観性の欠如、それらの無反省さが今回の訴えによって顕在化したわけだ。気合いでオリンピックで優勝出来りゃ世話ねぇよ。
話が逸れた。本題に戻す。去年自分が作った曲で「夢みたい(な)もんだ」というのがあるんだけど、そのなかに
夢見ないと何にも出来ないなんて
押し付けられるのはうんざりなんだよ
という一節があって、歌うときに一番感情が乗っかる部分なんだけど、とにかく「夢を持つ」ことの素晴らしさを謳うことが世の中に一方的に溢れすぎていることに対しての、自分の素直な気持ちだ。
とかく日本人は熱しやすい国民のせいか、一つの価値観を盲信してしまうと、それ以外の多様な価値観の存在を認めようとしなくなる。
当然自戒の念も込めて言うんだけど、自分が信じている考えを一度俯瞰で観てみるということが中々に苦手な国民だ。いや、それは日本人に限ったことではなく全ての人間の性(さが)だろう。
疑うことよりも信じる方が楽なのだ。酒でも呑んで自分の考えを滔々と語り、誰かを否定してる方が楽だし気持ちがいい。あんなんロックじゃねぇ、とか言ってる方が楽だ。そんな考えは認めないといってる方が楽だ。そういった自分の宗教を否定されれば、時として人間は平気で戦争を起こして人を殺す。ファシストはそこの弱味につけこんで大衆を操り戦場へ人を送り込む。やたらとナショナリズムを喚起する政治家が殖えていくのは危険な兆候だ。ナショナリズムとはもっとも強大な宗教だから。
「夢を見よう」「明日に向かって頑張ろう」というメッセージと同じくらい「叶わない夢だってある」「頑張ったってどうにもならないことはある」というメッセージも発せられるべきだと思う。
一歩方向の考えだけが正しいなんてあり得ない。光あれば影ができる。夢や希望もあれば現実や絶望だってある。陰と陽で世の中成り立っている。その中間のグレイだって様々なグラデーションを持って存在している。美しいものと同じくらい醜悪なものもある。そのどちらでもないものだっていっぱいある。
最近はことあるごとに新しい曲の歌詞の研磨バリ取りをしているんだけど、あまり一方方向の考えに凝り固まらず、自分のなかの矛盾を恐れないで、曲にあわせて好き勝手に放言していきたい、そうありたいと思いつつやってる。自分を疑い、自分を俯瞰で見て笑ってやる。冒頭に書いたような宇宙的なまでにマクロな視点を持ったら途方にくれるだけだが、せめてテメェのつむじくらいは見られるくらいには視座を高めてみよう。
肉食動物のように前方方向にしか視野を持てなかった十代や二十代の頃の、思い込みと初期衝動に任せたような作品作りはもう出来ないし、無理にそこにしがみつくもんでもない。それが出来る人はやりつづければいいけど、出来ないのに初期衝動を延命させようともがくことは「夢を見なければいけない」という考えに固執することとさも似たり。今の自分に生理に逆らわず物事を考えてみよう。
RCサクセションの1stアルバムに「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」という曲と「この世は金さ」という曲が並んで収められている。忌野清志郎18歳の時の作品。さすがだよな。
「こんなこと、有史以来の人類の歩みからしたらとるに足らない」
「こんなことしたところで世界は変わらない」
といった風にマクロな視点で物事を考えるというのはついやってしまいがちだけど、あんまりそこにハマり過ぎるとろくなことにならない。
その穴にはまりこんだらとたんに虚しくなって無気力になるか、あるいは焦燥感にかられてテロや無差別殺人をやりだす輩も現れるかもしれない。オウムってそういうやつらの集まりだったわけでしょ。
テロルを恐れる支配層はそうならないためのガス抜きとして大衆に「努力は必ず報われる」とか「願い続ければ夢はきっと叶う」といった麻薬的な思想を与えて、群衆の狂気をなだめている。
去年だか一昨年のAKBの総選挙で高橋みなみがまるで女子プロレスラーのマイクパフォーマンスのようなトーンで「努力は必ず報われるとー」と高らかに宣言していたが、そのVTRを観てニヤニヤが止まらない有吉なんかは早速ネタにしてラジオコーナーを作ってたりした。
恐らく有吉のような諦観と怒りで出来たタイプの芸人は、本能的にああいった麻薬性はあるが実態はまるでない空虚なアジテーションによって世の中の価値観が一元化されてしまうその窮屈さを嫌う。だから冷笑的にネタにすることによってバランスをとったんだろう。
歴代の世の中の虚を衝くタイプのお笑い芸人はビートたけしにしても松本人志にしても太田光にしても、必ずもっともらしい正義に対しては毒ずいて笑いにしてきた。晩年の談志だったらば笑いに転化するのもバカらしいとボヤいただろう。それくらい絶望していた。
別に努力することがカッコ悪い訳ではないし、夢を持つことが恥ずかしいとも思わない。とってもいいことだし美しいと思う。そうありたいとも思う。
ただ、それを唯一の正義と信じて疑わず、人に押し付けようとする行為がカッコ悪いし恥ずかしいのだ。そこらへんを全く疑わず、堂々と押し付けてくる表現者が山のようにいる。
こないだ問題になった女子柔道のパワハラや暴力の横行も根本は同じ。体育会系の縦社会のシステムによって延々と信じ続けさせられた根性主義、そんな非合理的な思想を全ての選手に押し付けることによって良しとする前時代的な管理体勢、それを世界のスポーツの情勢に照らし合わせてみる客観性の欠如、それらの無反省さが今回の訴えによって顕在化したわけだ。気合いでオリンピックで優勝出来りゃ世話ねぇよ。
話が逸れた。本題に戻す。去年自分が作った曲で「夢みたい(な)もんだ」というのがあるんだけど、そのなかに
夢見ないと何にも出来ないなんて
押し付けられるのはうんざりなんだよ
という一節があって、歌うときに一番感情が乗っかる部分なんだけど、とにかく「夢を持つ」ことの素晴らしさを謳うことが世の中に一方的に溢れすぎていることに対しての、自分の素直な気持ちだ。
とかく日本人は熱しやすい国民のせいか、一つの価値観を盲信してしまうと、それ以外の多様な価値観の存在を認めようとしなくなる。
当然自戒の念も込めて言うんだけど、自分が信じている考えを一度俯瞰で観てみるということが中々に苦手な国民だ。いや、それは日本人に限ったことではなく全ての人間の性(さが)だろう。
疑うことよりも信じる方が楽なのだ。酒でも呑んで自分の考えを滔々と語り、誰かを否定してる方が楽だし気持ちがいい。あんなんロックじゃねぇ、とか言ってる方が楽だ。そんな考えは認めないといってる方が楽だ。そういった自分の宗教を否定されれば、時として人間は平気で戦争を起こして人を殺す。ファシストはそこの弱味につけこんで大衆を操り戦場へ人を送り込む。やたらとナショナリズムを喚起する政治家が殖えていくのは危険な兆候だ。ナショナリズムとはもっとも強大な宗教だから。
「夢を見よう」「明日に向かって頑張ろう」というメッセージと同じくらい「叶わない夢だってある」「頑張ったってどうにもならないことはある」というメッセージも発せられるべきだと思う。
一歩方向の考えだけが正しいなんてあり得ない。光あれば影ができる。夢や希望もあれば現実や絶望だってある。陰と陽で世の中成り立っている。その中間のグレイだって様々なグラデーションを持って存在している。美しいものと同じくらい醜悪なものもある。そのどちらでもないものだっていっぱいある。
最近はことあるごとに新しい曲の歌詞の研磨バリ取りをしているんだけど、あまり一方方向の考えに凝り固まらず、自分のなかの矛盾を恐れないで、曲にあわせて好き勝手に放言していきたい、そうありたいと思いつつやってる。自分を疑い、自分を俯瞰で見て笑ってやる。冒頭に書いたような宇宙的なまでにマクロな視点を持ったら途方にくれるだけだが、せめてテメェのつむじくらいは見られるくらいには視座を高めてみよう。
肉食動物のように前方方向にしか視野を持てなかった十代や二十代の頃の、思い込みと初期衝動に任せたような作品作りはもう出来ないし、無理にそこにしがみつくもんでもない。それが出来る人はやりつづければいいけど、出来ないのに初期衝動を延命させようともがくことは「夢を見なければいけない」という考えに固執することとさも似たり。今の自分に生理に逆らわず物事を考えてみよう。
RCサクセションの1stアルバムに「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」という曲と「この世は金さ」という曲が並んで収められている。忌野清志郎18歳の時の作品。さすがだよな。
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