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高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

2013年03月08日15:54
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春眠暁を覚えず、ということでいい陽気になってくるとついうたたねをしたくなるので、そんなうたたねのうつらうつらとはほど遠いビートの曲「うたたね」をやろうかな、今夜。知らねえってか。昔の俺が作ったいい曲です。偉い、昔の俺。



そんなうたたねのもと、夜更かしのタネ、が家に一杯あるので昨夜もDVD「トム・ダウド〜いとしのレイラをミックスした男〜」を観た。



トム・ダウドはジャズやR&Bやロックをまともに聴いてたら必ず出くわす名エンジニア、サウンド・プロデューサーだ。
音楽制作をやりつつも科学者、技術者としてのキャリアもあり、なんと原爆の開発にも携わったという、ホンマに世界の歴史上の登場人物だったりもする。



ただビキニ環礁での原爆実験の後、自分のやっていることに恐ろしさを覚え科学者としてのキャリアを捨て、その後アトランティックレーベルを設立したアーメット・アーティガンやジェリー・ウェクスラーらと仕事をし、音楽史上に残る傑作名作問題作のエンジニアリングをする。



レコーディング・テクニック、ミキシング、マルチトラック・レコーディングなどなどの技術革新に重要な役割を果たし、常にパイオニアとして全ての音楽関係者から尊敬を集める。


しかしトム・ダウドが素晴らしいのはそういう技術革新が単に実験のための実験で行われた訳でなく、素晴らしい音楽を生み出すためのそれだからだ。


本人も優秀なミュージシャンであり、関わったミュージシャンの才能を最も尊重し、ミュージシャンが最もその才能を引き出せるような環境や雰囲気を作り出すことを第一にしている名プロデューサーとしての側面もある。たんなる技術屋ではない。


一見厳つい顔をしているけれどインタビューに答える時のハイテンションっぷり、レコーディング現場に居るときの威厳の凄さ、レイ・チャールズと話してるときのなんとも言えないナイスガイっぷり。こんな人が現場に携わってくれたらそりゃあ油の乗り切ったパフォーマンスが出来るよ!と思った。



DVDにはそのレイ・チャールズとのインタビューや60年代のアレサ・フランクリンのレコーディング現場の映像、ジョージ・マーティンよろしく卓の前に座ってあの「レイラ」のリミックスを実践してみたりと「ア!ア!アー!」とおもわず悶えてしまいそうなシーンも出てくる。一瞬だけど「レイラ」のデュアン・オールマンのスライド・ソロが単品でノーイコライジングで聴けたりもする。深夜だというのに声を上げてしまった。



というわけで今夜のライブはレイラをやります、とは絶対にならないけどそんなもんばっか観てると睡眠不足になるぞという警告を込めて「うたたね」をやろうと思うよ。



今夜、真昼の月 夜の太陽にて19時くらいから。待ってる。
こないだ新高円寺駅の近辺で山崎怠雅くんと偶然遭遇し、流れで家呑みへ。


彼と会って話すと下ネタも恋バナ(ハン!)にも殆どならず、音楽の話ばかりになる。
長い間つきあいがあるが、音楽の趣味的にはそれほど共通点は無い。
ツェッペリンやジミヘンとかの定番の話は合うけど、俺の大好きなクリムゾンやクラプトンなんかは彼の仕分けでは嫌い箱に入るし、ビートルズやストーンズについてガッツリ話したことはあまり無いように思う。
日本のロックも早川義夫やはっぴいえんどといったレジェンド級は必須科目として話が出来るし、あの浮わついた80年代後半のバンドブーム時代のバンドに対する嫌悪感は共通するものがあるけど、よりによって俺の血肉であるエレファント・カシマシがその一派に入ってるというアレ?な認識の差があったりもする。
が、彼がやっている音楽に敬意を払っているし、過去の偉人たちに対するスタンスの取り方や咀嚼のやり方は共感できるので、たとえ趣味的には合わない部分があってもそれはそれで構わないし、むしろ楽しい。そういえば彼とは言い争いをした記憶がない。



色々家にあるCDを聴きながら話したが、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの作品やギターの変則チューニングについて話せる相手はそうそういない。たまに合って話さないと精神衛生上良くない。



そういや最近エレファン・トカシマシの初期からの映像を見返しているんだけど、本当に初期の宮本のヴォーカルの異常なまでのテンションというか狂気っぷりは本当に凄い。勿論現在のエレカシも大好きだけれどやっぱ初期は別物なんだよ。


あのとんでもない声。矢鱈と絶叫してはいるけどパンクとかハードコアバンドみたいなただ叫んでるだけの雑音ではなく、ノイズとしての美しさがあるし、当時の日本のロックの常識を根底から覆すようなとんでもなくヤヴァいエネルギーに満ち満ち溢れている。



あのヴォーカルをデビュー前に体験した当時の音楽関係者がとんでもなく興奮して大騒ぎしたのも全くうなずけるし、あれに懸けてみようと思った人間が居たのも全然不思議じゃぁない。本当にそう思う。



あの伝説的な音楽番組ez、あれはepic系のアーティストがメインの番組だったが、元々は有名な映像作家である故坂西伊作氏とEPICのスタッフがエレカシに魅せられて制作された番組だったということをDVDのライナーノーツを読んで初めて知った。だから全く売れてなかった時代のエレカシの映像があんなにも残されていたのだし、まだ海のものとも山のものともしれなかった宮本の才能をちゃんと感知できるクリエイターが存在したという幸運をファンは感謝せねばならない。くどいけれど本っ当に初期のエレカシは、宮本は凄い。唯一無二。売れて以降のエレカシしか知らない人は一度観てほしいと思う。



「ワタシとエレカシ」については過去に濃厚な日記を書いたので繰り返さない。エレカシに狂いながらもエレカシとは全然違う音楽とヴォーカルスタイルになってしまった現在の俺、明日久々の弾き語りライブやります。


2013年3月8日(fri.)
a toy box Vol.16
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 17:50/18:20
Charge 2,000円
出演/
Lucy'sPainSoundtrack
ガジュマル
ネルマーレ
高瀬大介
阿部俊宏


俺は19時から。来てほしーの。
2013年03月02日02:07
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こないだ初めてAmazonで買い物をした。ありゃあ麻薬だな。携帯で選んで家に届けてもらってしかも新品だってのに20パーもオフだってんだから世の小売業者は泣くよ。良くないよ。便利すぎると人間腐っていくよ。ちゃんと店に出向いて目て観て確かめて買わねーと。でも楽だ。また利用するだろうな。


で、買ったのはオードリー若林と南海キャンディーズによるユニット「たりないふたり」によるライブDVD「たりふたSUMMER JAM '12」。
電話予約しようとしたら即完だったというあの伝説のライブ。ラジオではその時の話を散々聞いていたので期待が膨らんでいたが、その期待にたがわぬおもろさで一気に観てしまった。
場所がサンプラザ中野というでかい会場とあって、大きな動きのある漫才をしていた。テレビで見せてたような微妙な表情のニュアンスやワードセンスで笑いをとるような漫才もいいけど、アドリブも交えてステージを転げ回る漫才は中々新鮮だった。



ただ特典映像でライブを観た春日がキャラクター・オンで楽屋に入ってきてしばらくたりないふたりと喋ってるとこが出てきたんだが、やっぱオードリーの二人が揃ったときのあの殺伐としながらも暖かいやりとりはホッとする。あくまでもたりないふたりは番外編なんだよな。



あと、写真家アラーキーのドキュメンタリー映画「アラキメンタリー」を観た。


写真というものの微妙な善し悪しやテクニック的なことは全く分からないし、写真そのものにもそれほど興味は無いけど、この人の写真は異様に好きだ。というか一目でアラーキーと分かる色というか写真から立ちのぼる匂いは、この手のものに鈍感な俺でも分かる。いかにも文系なセンスの格好してカメラ抱えて下北沢あたりをウロウロしている女の子じゃあ撮れない類いの写真だ。ま、個人的にはそういう女の子キライじゃないけど。



それはともかくこの人の撮る女性は異様に卑猥。陰にこもった背徳を抱えてるかのような女の内面の表情を切り取る。女性器に対して見出だす「美」の感覚に凄く共振する。加納典明のような乱暴でがさつなエロスではなく、非常に繊細でゾクッとするほど官能的で儚いエロスだ。醜さの中に美を見いだし、美しさの中にいやらしさを立ちのぼらせる。だからアラーキーは花を撮っても異様に卑猥だ。カラーでもモノクロでも同じ匂いがする。



でも本人のインタビューや写真を撮ってるときの雰囲気は写真の感じとは違って、ガハハハーってなハイテンションで自画自賛の嵐、エロおやじ丸出しだけど女性を不愉快にさせるようなジメッとした感じは無い。古きよき昭和のセクハラおやじって感じ。それがなんかホッとするし可愛い。



被写体にズンズンと踏み込んでいく攻撃性と、ひたすら優しくエスコートしながら被写体の温度を上げていく繊細さが何の不自然さもなく同居している。このガハハハーおやじを評して「相っ当な照れ屋だよね」と言った北野武の慧眼は凄い。自分と同じ匂いをかいだんだろうな。お笑いとシリアス、沈黙と暴力を振り子のようにいったり来たりすることによってバランスがとれてるたけしだからこそ、アラーキーの両立する二面性をちゃんと理解できる。



だから単に女性器がバーンと出てるからといってすぐに規制規制というがさつな日本のセンサーシップには絶望しか感じられない。規制のやり方が物凄く偏差値低い。白か黒かという単純なニ言論にすぐ落としこむ。
最近でも男性器の写真を売った写真家が書類送検された事件があったが、それもさることながら公園に設置してあったダビデ像が「教育上良くない」からということでパンツを穿かせろという苦情がバカな近所のババアだか若奥さんだかからあったというニュースを聞いて、その文化的民度の低さというかアートに対する狭量な感性に死にたくなってくる。そういった連中にはアラーキーの写真にある根元的な生命力や儚い詩情なんぞを感じることは一生無いんだろうな。あんたらよりもアラーキーの方がよっぽど崇高な魂を持ってるよ。



アラーキーは最愛の妻が死んでからしばらくは空ばかり撮っていたらしい。いい話だ。



さてと、そうやってグダグダ言ってるばかりの俺、久々に弾き語りライブをやります。本当に久しぶりにアコースティックギターでの弾き語り。




2013年3月8日(fri.)
a toy box Vol.16
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 17:50/18:20
Charge 2,000円
出演/
Lucy'sPainSoundtrack
ガジュマル
ネルマーレ
高瀬大介
阿部俊宏


阿部とユーコさんが対バンだからなんか「来て来て」と言いやすい。来て来て。俺は19時からの出番です。

2013年02月21日01:13
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放送作家の鈴木おさむ氏による「芸人交換日記」が内村光良監督によって映画化されるということで文庫化され、またこの話題に悪乗っかりしてTwitterを炎上させたクソ芸人もいるなど何かと盛り上がっている。



オードリーの若林がこの芸人交換日記の舞台版に出演したということもあって、オードリーのオールナイトニッポンでも話題に上がっていたし、原作の連載もとであるクイックジャパンでも盛り上がっていたので、かなり前から気になっていたし常に読まなきゃ観なきゃと思っていたのだけど、どういうわけかタイミングを逸していた。



で、ここ最近で一気に原作を読み、舞台のDVDを観た。
その両方ともで嗚咽といえるくらい泣いて泣いて、目から鼻から体液を流しまくった。感動したとかいう安直な言葉で形容したくないてくらい、心がのたうちまわった。



ちゃんとした離別、解散などを体験したことのある人間は必ず大きく心を動かされる作品だと思う。本当にグッと熱い思いが込み上げまくって吐き出してしまう作品だと思う。



「これ泣けるよ〜」という言い方で自分がいいと思う作品を紹介するのは好きではない。好きではないけどこれは何をどう抗っても泣いてしまうよ。この本、電車とかで読んだら本当にヤヴァイことになる。人目をはばからず泣いてしまってへんな目で見られる。


特に舞台における田中圭、若林正恭両人の演技を越えたような魂の芝居、いやあれは若林にとっては芝居じゃなく若林のドキュメントじゃないかと思えるくらい何かが憑いていた。



文庫本の方のあとがきで若林が書いてるんだが、演者が揃っての初めて本読みの時、若林が号泣して稽古が止まってしまったという。共演者もあまりの泣きっぷりに驚いたようだ。若林にとっては他人事ではなかったんだろう。なにせあまりにも売れないもんだから、車に轢かれでもすれば新聞に出られるだろうということで道路に寝転んでたという逸話がある人だ。



本当に泣ける脚本であれば芝居初心者だろうがなんだろうが泣けるのだ。昔、黒澤明監督がインタビューで役者が泣かないときはどうやって演出するんですか?という質問に「脚本をね、本当にしっかりとしっかりと作ってればね、泣くとこはおのずと泣けるし、怒るとこは本当に怒れるんだよ」と返していた。さすが巨匠としか言いようがない。確かに今ドラマ観てても単なる泣き芝居をしてるだけで、涙も出てなきゃ身体も震えてないってのがたくさんある。役者の力量の問題ではなく、脚本、演出、製作システム全てが問題だからだろう。順撮りじゃなくバラ撮りでぶつ切りぶつ切りでやらざるを得ない現場じゃあそら役者だって魂じゃなく技術で泣かなきゃしょうがないもんな。



芝居初心者の若林の演技は本当に、本当に素晴らしかった。芸人仲間からは「あれは演技じゃなくて若林まんまじゃねーか」と突っ込まれたらしいが、だからこそ伝わるのだ。若林をキャスティングした鈴木おさむの慧眼はどんだけ讃えても讃えきれない。



俺、芸人の別れ話ってグッとくるんよねぇ。俺のツボだ。バンドの解散だってドロドロしてて心と心の削りあいだったりするけど、でもそれってどっかで音楽に還元できるっていうナルシスティックな甘さがあるように思える。映画だってなんだってそういった側面はあるだろう。もちろんそれっていいことなんだが。けれどお笑いはそうはいかない。当然辛さ哀しさが芸の深みにはなるけど、ネタに直接反映させることは中々出来ない。魂と魂のぶつかりをそのまんまネタにしたって笑えない。それを歯を食いしばって乗り越えて、しういった経験を俯瞰して見られるようになって初めて笑えるネタになる。だからお笑いってとても、とっても切ない。ピエロのメイクが泣き顔であるのはそういうことだろう。。



昔ビートたけしがテレビでツービートが解散するときの話をしていて、お互いがもうこれ以上続けて行くのは無理って分かってたので、最後の漫才の舞台に上がる前、意を決して二人だけで楽屋に籠ってボロボロ泣きながらビールを酌み交わし「俺もひでぇこと散々言ったけどよぅ、売れるために必死だったんだよ、悪かったなぁ」とか言い合いながらベロベロに酔っぱらったらしい。それを語るときのたけしも珍しく声を震わせていたし、見ている俺はもう大号泣だよ。やっぱツボなんだな。ある意味男女の別れより男同士の離別の方が込み上げてくるものが大きいかもしれない。ホモじゃないよ。それにしてもそれほどベロベロになって泣きまくった挙げ句の最後の漫才ってどんなんだったんだろう?芸人交換日記でも泣きまくって泣きまくったあげく最期に天国で漫才をするってことで本当に若林と田中圭が漫才をするのだが、とてもいい漫才だった。さすがにこちらも大泣きしたあとだから身体が付いていかないところもあったけど、でも声をあげて笑ってしまうとこもあった。若林は芝居は素人だけどこの漫才のとこだけは自分の本分だから絶対にスベる訳にはいかないということで猛練習したらしい。いい話だ。漫才師若林の矜持だ。





さてそれに比べてといっちゃ若林に失礼だけど、最近キングコングの西野がツイッターで「芸人交換日記なんてちっとも面白くないし、それに都合よく乗っかる芸人ももっとつまらないですね」という本当に意味のわからないツイートをしていて、それに対して鈴木は「僕の作品が悪く言われるのは構わないけど、都合よく乗っかる芸人て誰のことを言ってるんですかね?正直悲しいです」と返していた。すぐに西野は謝罪したらしいけど鈴木の嫁である森三中の大島はテレビでブチキレて「西野以外は観に来てください」とちゃっかり映画の宣伝をしていた笑ってしまったが、にしてもこの西野絡みのニュースを読んだときはやっぱり腹がたった。



元々個人的にはキングコングは大嫌いなコンビだった。漫才は達者は達者なんだろうけど、やたら五月蝿いしスピードだけで乗りきるようながさつな漫才だと思ってた。まあなにより笑えない。正に有吉のいう通り「元気な大学生」レベルの笑いだと思った。
でもそういった好みはともかく、西野だって相方の精神がプッツンいったり、賞レースでなんとか優勝しようと死に物狂いで漫才に取り組んできた芸人のはず。だのに芸人交換日記がつまらんって、もし自身の作った絵本の宣伝のために炎上商法的に利用したんだったらクズだし、本当につまらないと思ってるんだったらもう芸人やめちまえ!!!って本当に思う。



これまたソースはオールナイトニッポンなんだが、関西の番組で若林は西野と酒を飲みながらただひたすら喋りあうという番組をやったことがあるらしく、かなり盛り上がったようだ。若林は漫才コンビとしての苦労話などで西野と共通の思いがあったと嬉々として語っていた。正に西野が言うところの芸人交換日記に都合よく乗っかった芸人の一人である若林と、最近また様々な芸人のパターンで舞台で再演されている芸人交換日記に都合よく乗っかれなかった西野が。
要するにひがみか?西野というかキングコングの漫才ってテクニックのみで人となりが全く感じられない漫才ロボットコンビって感じ。人となり全開のオードリーの漫才と比較すりゃ明らか。どう考えたって西野が鈴木おさむのアンテナに引っ掛かるわけがない。最近跳ねるのとびらも終わったしそれ以外テレビでは見ることないし焦ってたのかね?で、大御所に噛みつけばなんかきっかけになるかなとか思ってやってみたはいいけど結局失敗したってパターン?そこら辺のセンスは本当に無い人なんだね。



まあそんなことはいいや。とにかく芸人交換日記は素晴らしい。長い間タイミングを逸してきたけど、今この時期に観て良かった。色々動き出す契機になるインプットを摂取してるけど、これは決定的だ。



あ、まさに今放送が始まったTBSラジオ水曜JUNK山里亮太の不毛な議論に西野がゲストで出るのだ(笑)。若林とはこの騒ぎをネタにニヤニヤしながら酒を飲んだらしい山ちゃん(笑)。今夜はどんな話をするんでしょうね。同期ながら西野と自分を星とゴキブリと表現する山ちゃん。妬み嫉みが笑いの源泉になってる山ちゃん。ああ楽しみだ、楽しみだ。若林もゲストに来てくんねぇかな。なんだかんだ言って俺もこの騒ぎに乗って楽しんでんなぁ。
2013年02月20日00:26
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鬼の右腕のレコ発ライブに行ってきた。物凄くいいライブだった。


一年半くらい前にこのバンドと対バンして以来大好きになって、折に触れてライブに通ってきたけど、あんまりお客さんが居なかった最初の頃からこのバンドは絶対に多くのお客さんの気持ちをつかむはずだと思ってた。こういうちょっとマニアックで実験的な音楽性を持ったバンドにありがちな排他的なスノッビズムが音楽からは感じられ無かったし、ハイテクではない人懐っこいグルーヴがあったから、自然と身体が動くだろうし、なんか送り手と受け手という関係性がハッキリした「ショウ」じゃあなく、バンドとお客が互いにエネルギー交換をしあうような「ライブ」が出来るバンドだと思った。



で、今夜のライヴはまさにそんなライブだった。大勢のお客さんが集まり思い思いに身体を揺らし、声援を贈っていた。ある曲が終わった瞬間、グラスを落としてガシャーンいわせた客がいて、そのあまりにも良すぎるタイミングに仕込みかと思ったわ。それはともかく声援が飛んでくるたびメンバーの表情はちょっと照れたようだったけど、堂々と誇らしげに自分達の音楽を響かせていて良い顔をしていた。このバンドの後見人でもマネージャーでも何でもないけど、音に任せて身体を揺らしながら一人とっても感慨深くなってた。



この鬼の右腕の何が良いって、常に音楽的に変化、進化していること。見るたんびに新曲が増えているし、既存の曲もアレンジがどんどん変わっていく。
同じアレンジを貫いて楽曲を深化させるのも良いけど、現状に満足せず衝動の赴くままに変形させていって進化へと至る方が若いバンドらしくて好きだ。自分もこうありたいもんだつくづく思う。定番の曲ばっかやってるとお客さんも「お馴染みのあれが来た〜やった〜」ばっかりになって緊張感が無くなる。「次はなんだ?この先どうなる?」というある種のストレスとワクワクが無かったら馴れ合いのライブ空間になる。これ、言うのは簡単だけど中々出来ることではない。鬼の右腕はこれをナチュラルにか、四苦八苦しながらかは分からないけど実現できてる。凄いことだと思う。



今夜観たライブで驚いたのは今までの鬼の右腕ではあんまり目立たなかったロック的な要素、歪んだギターやハードなドラムフィルとビートがあったこと。あとヴォーカルうてなさんの歌唱力とドープ具合がよりヤヴァイことになってたし、ベースの音圧と存在感が今までと全然違ったし、とにかく全員がプレイヤーとして進化してた。別に上から目線でも何様でもないけど、こういう進化ってグッとくるんだわ。若いっていいなぁ。



あともうひとついいところは、変化する音楽性とは反対に、相変わらずステージにおける朴突とした佇まいの変わらなさ。ライブを重ねてるとそこら辺が擦れっ枯らしになってお約束のショウっぽくなってくることがあるけど、彼女らはある意味で不器用で飾り気がないまんま。別に昨今のアイドルのようなカマトトぶったそれではなくて、音楽至上主義であるがゆえの当然の所作って感じで好感が持てる。でも肩叩き券を配ったりCD購入者にはうなぎパイが付いてきたりと、いい意味での学芸会イズムが健在なのも嬉しい。


途中突然メンバー全員が笛を持って四重奏していて凄くいいチェンジ・オブ・ペースになってた。うてなさんは「ここ笑うとこですよ」って言ってたけど、笛が音色が重なって生まれる倍音が凄く気持ちいい周波数が出していて、皆マジで聴き入ってたんだよ。



今、購入したCDを聴きながらこれを書いてるんだけど、凄く良い音源だ。
最初に見た頃からライブも素晴らしいけど、これはヘッドフォンでも聴きたくなる音楽だと思って音源制作を懇願してたくらいだから、個人的には正に「待望の」ってやつだ。



凄く聴きやすくて何度もリピートしている。ミニマルでエクスペメンタル(ハハッ)な音楽なのに凄くキャッチー。グルーヴがキュートだからだろうな。あと何語で歌ってるのかは分からんけど声が凄くキレイでドープ。ライブだともっとサイケでトんじゃうんだ。
とにかくまあプログレ好きが抱くこっ恥ずかしさも、民族音楽しか聴けませんってな「ぶってる」感も呑み込んで踊らせてしまうような抜けのいいグルーヴがある。




最近はずーとインプットする一方で、創作はしてるも外に向けてアウトプットしてなかった。けど、今夜のライブに大いに触発された。アクチブに行こう。
2013年02月16日07:41
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「こんなことにこだわったって別に誰もわかっちゃくれない」


「こんなこと、有史以来の人類の歩みからしたらとるに足らない」


「こんなことしたところで世界は変わらない」


といった風にマクロな視点で物事を考えるというのはついやってしまいがちだけど、あんまりそこにハマり過ぎるとろくなことにならない。
その穴にはまりこんだらとたんに虚しくなって無気力になるか、あるいは焦燥感にかられてテロや無差別殺人をやりだす輩も現れるかもしれない。オウムってそういうやつらの集まりだったわけでしょ。



テロルを恐れる支配層はそうならないためのガス抜きとして大衆に「努力は必ず報われる」とか「願い続ければ夢はきっと叶う」といった麻薬的な思想を与えて、群衆の狂気をなだめている。



去年だか一昨年のAKBの総選挙で高橋みなみがまるで女子プロレスラーのマイクパフォーマンスのようなトーンで「努力は必ず報われるとー」と高らかに宣言していたが、そのVTRを観てニヤニヤが止まらない有吉なんかは早速ネタにしてラジオコーナーを作ってたりした。



恐らく有吉のような諦観と怒りで出来たタイプの芸人は、本能的にああいった麻薬性はあるが実態はまるでない空虚なアジテーションによって世の中の価値観が一元化されてしまうその窮屈さを嫌う。だから冷笑的にネタにすることによってバランスをとったんだろう。
歴代の世の中の虚を衝くタイプのお笑い芸人はビートたけしにしても松本人志にしても太田光にしても、必ずもっともらしい正義に対しては毒ずいて笑いにしてきた。晩年の談志だったらば笑いに転化するのもバカらしいとボヤいただろう。それくらい絶望していた。



別に努力することがカッコ悪い訳ではないし、夢を持つことが恥ずかしいとも思わない。とってもいいことだし美しいと思う。そうありたいとも思う。
ただ、それを唯一の正義と信じて疑わず、人に押し付けようとする行為がカッコ悪いし恥ずかしいのだ。そこらへんを全く疑わず、堂々と押し付けてくる表現者が山のようにいる。


こないだ問題になった女子柔道のパワハラや暴力の横行も根本は同じ。体育会系の縦社会のシステムによって延々と信じ続けさせられた根性主義、そんな非合理的な思想を全ての選手に押し付けることによって良しとする前時代的な管理体勢、それを世界のスポーツの情勢に照らし合わせてみる客観性の欠如、それらの無反省さが今回の訴えによって顕在化したわけだ。気合いでオリンピックで優勝出来りゃ世話ねぇよ。




話が逸れた。本題に戻す。去年自分が作った曲で「夢みたい(な)もんだ」というのがあるんだけど、そのなかに


夢見ないと何にも出来ないなんて

押し付けられるのはうんざりなんだよ


という一節があって、歌うときに一番感情が乗っかる部分なんだけど、とにかく「夢を持つ」ことの素晴らしさを謳うことが世の中に一方的に溢れすぎていることに対しての、自分の素直な気持ちだ。



とかく日本人は熱しやすい国民のせいか、一つの価値観を盲信してしまうと、それ以外の多様な価値観の存在を認めようとしなくなる。



当然自戒の念も込めて言うんだけど、自分が信じている考えを一度俯瞰で観てみるということが中々に苦手な国民だ。いや、それは日本人に限ったことではなく全ての人間の性(さが)だろう。


疑うことよりも信じる方が楽なのだ。酒でも呑んで自分の考えを滔々と語り、誰かを否定してる方が楽だし気持ちがいい。あんなんロックじゃねぇ、とか言ってる方が楽だ。そんな考えは認めないといってる方が楽だ。そういった自分の宗教を否定されれば、時として人間は平気で戦争を起こして人を殺す。ファシストはそこの弱味につけこんで大衆を操り戦場へ人を送り込む。やたらとナショナリズムを喚起する政治家が殖えていくのは危険な兆候だ。ナショナリズムとはもっとも強大な宗教だから。



「夢を見よう」「明日に向かって頑張ろう」というメッセージと同じくらい「叶わない夢だってある」「頑張ったってどうにもならないことはある」というメッセージも発せられるべきだと思う。
一歩方向の考えだけが正しいなんてあり得ない。光あれば影ができる。夢や希望もあれば現実や絶望だってある。陰と陽で世の中成り立っている。その中間のグレイだって様々なグラデーションを持って存在している。美しいものと同じくらい醜悪なものもある。そのどちらでもないものだっていっぱいある。



最近はことあるごとに新しい曲の歌詞の研磨バリ取りをしているんだけど、あまり一方方向の考えに凝り固まらず、自分のなかの矛盾を恐れないで、曲にあわせて好き勝手に放言していきたい、そうありたいと思いつつやってる。自分を疑い、自分を俯瞰で見て笑ってやる。冒頭に書いたような宇宙的なまでにマクロな視点を持ったら途方にくれるだけだが、せめてテメェのつむじくらいは見られるくらいには視座を高めてみよう。



肉食動物のように前方方向にしか視野を持てなかった十代や二十代の頃の、思い込みと初期衝動に任せたような作品作りはもう出来ないし、無理にそこにしがみつくもんでもない。それが出来る人はやりつづければいいけど、出来ないのに初期衝動を延命させようともがくことは「夢を見なければいけない」という考えに固執することとさも似たり。今の自分に生理に逆らわず物事を考えてみよう。



RCサクセションの1stアルバムに「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」という曲と「この世は金さ」という曲が並んで収められている。忌野清志郎18歳の時の作品。さすがだよな。
2013年01月13日12:12
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オナニーを覚えた猿の如く、寝ても覚めてもギター弾きまくりだった中学の頃、いや猿の方も寝ても覚めてもだったが、とにかくギターが楽しくて仕方なかった頃、クリームやツェッペリンとセッションをするばかりでなく、ラジオを付けてランダムに流れてくるありとあらゆる曲に合わせてアドリブでギターを弾きまくるということをよくやっていた。


別に練習のつもりだったわけではなく、ただ好きでやってただけなんだけど、今から考えるとあれは楽曲のコード進行や構造を即座に把握したり、それに相応しいギタースケールを探るスキルを上げるのに相当役に立った。


おかげで今、ジャムセッションでどんな曲を無茶ぶりをされても大抵は乗っかれる。ジャズのとんでもなく複雑なコード進行のやつなんかに出くわしても、「分かんね」というスタンスで「スケール無視」的な乗っかり方が出来る。それもその頃から培われた悪い癖だろう。



これは趣味なんだろうな。断じて練習ではない。楽器って「練習」っていう意識を持ったら楽しくないし上達しない。練習ってなある程度その楽器を分かってから初めて、心理的にも物理的にも出来る物だと思っている。だからスケールもなにも分かってないうちから楽譜を見て特定の楽曲をコピーするってな、楽器をわかる上で遠回りなんだと思う。まあ人にはそれぞれやり方があるから断言は出来ないけど、コピーと自分の曲しか出来ない奴ってジャムセッション出来ないからつまんないんだよ。



まとにかく、そんな趣味を持ってるもんだから、いまだにラジオをつけてボーッと聴いてても「弾きたい欲そそる曲」が流れるととっさにギターを手にしてしまう。
そそる曲って大抵がファンクやソウルやブルースみたいに「呼吸する隙間」がちゃんとある楽曲ばかり。多くのロックはそれが無くてガチガチに決まってしまっていて息苦しい。だからヘヴィメタに代表されるような様式美とか若手の勢いまかせのロックってキライよ。自分達だけで固めてこっちが参加する隙間がない。
まそれはともかく、そういったソウルとかファンクものをやるのに絶対必要なのがグルーヴとかリズムに対する反応速度。



俺はツェッペリンとかジミヘンとかいった本当に素晴らしいんだけど身勝手なリズム感を持ったロックばかりで育ったもんだからとにかくリズム感が悪い。絶対リズム感(という言葉があるのかどうか知らないけど)が無い。どれだけ速弾きが出来てもリズム感が悪ければ全て台無しになる。それをはっきりと認識してから初めて「グルーヴってなんぞや?」と思うようになった。



で、そう思いだすとそれまでその保守性から毛嫌いしてたいいわゆる「ブラック・ミュージック」と言われるものには凄まじく正確で、かつ安心して踊れるグルーヴを持ったもんが死ぬほどあるなぁと思うようになった。特に70年代以降のハコバン的なソウルバンドや無名ながらとぐろを巻くようなグルーヴのファンクに出くわすとたまらなく一緒に合わせたくなってくる。やっぱリズムがシャッキリしてる音って人を能動的にさせる。踊るもよし、手を叩くもよし、歌うもよし、セッションに参加するもよし。自分でもそんなグルーヴを生み出したい。今年はもう一回そこを意識してやろ。



さて、そんな趣味と実益を兼ねたようなライブが近々あるよ。
今度の木曜17日、六本木SONORAにて、店長の雅己さんがミックスしたトラックに乗せてアドリブでギターを弾きまくるというなんとも珍妙なというか「家でやれよそんなこと」的なギタリスト・ナイトに出るのさ。勿論家でやるときのような駄々羅なものには絶対しないし、ギタリスト脳をギンギンに効かせてやるんでクオリティは大丈夫だけど、まあ趣旨が趣旨だけに果たしてお客さんが来るのかどうか。不安です!
なので俺のギターに多少なりとも興味があって観たいという奇特な方が居られましたら連絡なりコメントなり下さいな。まあ損はさせないようにするんで観に来てください。



最初の方で「ギターを弾くのが楽しくてしょうがなかった頃」と昔はなぁ...みたいな書き方を照れでしたけど、今でも楽しくてしょうがねぇよ!!!
2012年12月26日10:58
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昨夜はご近所さん家でのクリスマスパーティーが終わったあと、昨日買ってきてたリヴィング・カラーの2007年のライブDVDを観ながら寝落ちしてしまった。


リヴィング・カラーは1988年にデビューして、1995年に一度解散しているが、2003年に再結成して以来いまだに活動しているアメリカの黒人ハードロックバンドだ。


と、簡単にハードロックと形容してはいけないくらい多用な方向性を持ったバンドだったけど、1988年当時全盛を誇っていたヘヴィーメタル、ヘアーメタルを軽く一蹴して暴走する黒い弾丸の如きバンドで、凄まじいエネルギーとグルーヴを放出していたという意味では、本当の意味でハードネスを求めていた層には、圧倒的に歓迎されたハードロックバンドだった。



本当に当時のヘヴィーメタルシーンというのはクソみたいなバンドばかりで、ヒットソングとして耳に残っているものもあるし全てが嫌いだったというわけではないけれど、ツェッペリンやジミヘンによって覚醒させられた「狂暴なグルーヴ」を希求する感性に応えてくれるバンドは皆無だった。せいぜいガンズ・アンド・ローゼズくらいがまともに聴けるハードロックで、まだニルヴァーナもいなければレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンもいなかったのですよ。



初めてリヴィング・カラーを聴いたのは恐らく13才か14才くらい。
毎週観てたベストヒットUSAで小林克也が「黒いツェッペリンという触れ込みで今アメリカのロックシーンを騒然とさせてます」と紹介して流れたPV「カルト・オブ・パーソナリティ」だった。



当時中学生だった俺は、そのあまりのけたたましさと鋼のようなグルーヴと他のハードロックとは一線を隔す知的な楽曲構成に驚き興奮した。いや、そんな理知的な批評をしてたわけじゃないな。もっと動物的に反応して興奮してテレビの前で暴れてたかもしれない。



特に驚いたのはヴァーノン・リードのギターの弾き方だ。
所謂メタルギタリストどものチンケな美意識では思いっきり「邪道」の烙印を捺される「肘弾き」でスケール無視に近いような無謀な速弾きをしまくってたところ。これがエラくかっこよかった。カッコいいというかこちらの原始的なエネルギーを喚起させられるようなグルーヴを持ったギタープレイだった。なんかギターを弾いてるというよりも素手で木材を削ってるみたいな感じで、ギターを弾くことに全く陶酔してないとこが凄く共感出来た。必要以上にギターに自分を投影せずに、しょせんギターなんて表現のためのツールでしかないじゃんか、みたいなクールなスタンス。それでいて出てくる音は物凄い熱量。



このヴァーノン・リードのギタースタイルに思いっきり影響受けて何枚ピックを削ったかわからないくらい肘弾き速弾きしまくったワタシの高校時代。マゾヒスティックな暴力衝動に満ち溢れてました。まあ削ったピックの半分くらいはダイナソーJRのJ・マシキスのメチャ弾きに影響受けてたからってのもあるんだが。



いまだに興奮すると肘速弾きするもんなぁ。ジェフ・ベックジミー・ペイジも多少はやってたけど、間違いなくヴァーノン・リードのせいだな。自分の中の暴発するエネルギーをギターにおとしこむには流麗なフレーズを弾いてる場合じゃなくなる時があるんです。



で、久しぶりにリヴィング・カラーの、しかも近年のライブを観て思ったのは、全くパワーが落ちてない。というか全然変化が無い、ということ。



いいんだか悪いんだか分からないけれど、リヴィング・カラーは楽曲を発表したときからもう完成品を提示してたんだなぁと感じた。結構イノベイティヴなバンドだったんで、昔の楽曲なんかどえらいアレンジがしてあるんだろうし、楽器の音色なんかも時代に合わせてメタル色が多少は薄まってんだろうなと予想してたけど、リヴィング・カラーはそんなヌルいバンドではなかった。



昔より多少アクションは控えめになってパフォーマンス全体から放出されるエネルギーは少しだけ少なくなったような気がしないでもないが(そりゃまあ皆45オーバーだろうからねぇ)、音から受ける圧力というか熱量は全く衰えてなく、相変わらず圧倒的だった。



俺も45を越えても変わらず大人げない肘弾きをしていたいもんだ。



さて、そんな肘弾き野郎高瀬大介の今年最後のライブ、いよいよ明後日でっせ。今回もキーボードに治美さんを迎えた4人編成によるバンドスタイル。
12/28(金)東新宿の真昼の月夜の太陽にて。うちらは19:40くらいから。サトウリュースケやwalkin down by lowも出るよ。個人的にも楽しみだ。来ておくれよ。


2012年12月21日20:48
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昨日CD屋に行ったら、つい最近エレファント・カシマシの近年のベスト盤が出てた。


収録曲自体は全て持ってるんで別に買わなくてもいいんだが、こういったものの定番になってる特典DVDに惹かれたので買った。



宮本浩次が急性難聴になって活動休止して以来、初めておこなったライブの映像が丸々収められている。10月14日のライブというからつい最近のことだ。



まだ完全復調というわけではないので、一曲をのぞいてアコースティックギターによる弾き語り。自身も「今日はフォークだから」と言いながら、新旧の曲を凄く凄く丁寧に歌っていた。


しかも入院中の孤独な心境が影響したのか、23年も前の作品、宮本が最も悟り澄まして、俗世を捨て去ったかのような歌ばかり作ってた頃に生まれた孤高の名作である3枚目からの選曲が多くて驚いた。


個人的にはこの3枚目や4枚目の頃にエレカシにハマったので未だに思い入れが尋常ではない。



孤高の佇まいを決め込んでいながら、内在するコミニュケーション欲求の濃度が半端ではなく、その混沌としたエネルギーが異常なフォルムで爆発していた頃のあの作品群に、ワタクシの思春期特有の過剰な暴力衝動を捧げた。


ただ、その時期やたらと宮本のヴォーカルが狂っていたのに反して、メロディー自体はメチャクチャ美しいものばかりなので、アコースティックの弾き語りには適した楽曲ばかりだ。



なのでこの特典DVDで聴ける宮本のヴォーカルは、全く絶唱することなく裏声を交えて、丁寧に丁寧に、メロディーと歌詞の孤高の美しさを大事にしながら歌っていた。



これがいい。とってもいい。こういう宮本は久しぶりに聴いた。
美しい楽曲を破壊的なヴォーカルで表現することによって「異端の美」を黒光らせていた頃の「宮本節」が懐かしくないわけではないけど、今の宮本は異端であることによって「ロック」の証明をせずとも、楽曲に素直に向き合うだけで充分に唯我独尊で孤高のロックだし、元々の楽曲に対して素直な向き合ってる分、ある意味昔よりもピュアだ。



「序曲」夢のちまた

うつらうつら

見果てぬ夢

月の夜


これらの楽曲が昔からのファンだけでなく、宮本にとってもいまだにかけがえのないものであることが充分伝わってくる、素晴らしいライブだ。



ワンカメで撮影され、編集も敢えて乱暴にしてあるが、そこらへんもドキュメントっぽくていい。まるで日本のロックやフォークの黎明期に記録として撮影されたフィルムみたいだ。





今更ながらバンドでエレキギターを弾きまくることに興奮を覚えているここ最近、若干歌うことに対する熱意が足りてないかもしれないと感じている。


もう一度、歌うことに真摯に向き合ってみよう。シンガーソングライターなどとのたまってるんだから。



さて、そんな高瀬大介の今年最後のライブがあるよ。


12月28日(金)「満月の夜に〜真昼の月・夜の太陽 countdown party!〜 」
出演:近田崇仁(はいからさん)、 佐古勇気(snap)、高瀬大介バンド、サトウリュースケ、walking down by low
open/start 17:50/18:20 前売/当日 2000円(ドリンク別)



場所はいつもの真昼の月 夜の太陽。師走のバカみたいに忙しいこの時期、しかも世間的には仕事納めと重なりそうな日のライブだけど、時間があえば是非とも来て欲しいっす。


俺は19:40から。胎盤のサトウリュースケやWalking Down By Low ともども見て欲しいや。
投票日当日に放映されてる朝の報道番組だってぇのに、選挙のセの字も無く「超高齢化社会」特集ということでキャスターが老人と徒競走をしている。



昔TVタックルに田嶋陽子が出ていた頃、収録済みの回があったのにアイツが突如立候補したため、収録済みの映像に不自然過ぎる画像処理をして田嶋を消して放送していた。その時初めて公職選挙法なるものがあるのを知った。



テレビやラジオなどのメディアには選挙期間中は候補者が出られない。全党の党首が揃う場合や、誰が見るのか不思議なくらい面白味の無いNHKの政見放送を除いては、候補者の公平性を考慮して特定の候補者がメディアに出ることは出来ない。



よく聞いてる上杉隆のFM東京のタイムラインというラジオ番組でも、全部の党の党名を読み上げてからでないと選挙について喋ってはいけないという民法連による不可解な自主規制にならって「今から数十秒ほど無駄な時間が流れます」と上杉は皮肉って読み上げていた。




総務省のお役人が押し付ける公職選挙法の「選挙期間中の候補者による文書、図画による政策の配布の禁止」という、法的拘束力の無い、単なる一省庁の提唱する勝手なルールに政治家もメディアも従って、テレビもラジオも自分達独自の視点で選挙を取り上げることも出来ないし、政治家もメディア利用が出来ず街頭演説くらいしか選挙活動できない。



ましてやネットを活用することすら出来ないのだ。自分のホームページを更新して政策を述べることも出来なければ、普段やってるSNSですら政策に関することは言えない。



メディア側はそれがいかにおかしなことかということは追及せず、誰々が公職選挙法を侵したということしか追いかけない。臆病な自主規制しか出来ない民法連。



ネットを利用しまくって大統領選挙を行っているアメリカを例に出すまでもなく、世界的に見ればネット選挙はもはや当たり前のことになっているというのに、日本だけいまだにネットを利用した選挙が出来ないでいる。



そもそも公職選挙法なるものが出されたのはテレビもネットも無かった90年前のことらしい。金持ち候補者が金に任せてポスターやビラをばらまきまくって選挙を有利に進めることの不公平性を考慮して出されたルールらしいが、そんな大昔のルールを、タダでネットでバンバン選挙活動出来るようになったこの時代にまで適用しているのだ。



若者は選挙に行け!行かなければ国は変わらない!とか偉そうに言うくせに、若者が政治に関心を持つ契機になりうるネットでの選挙活動も出来ず、テレビなどの大メディアでの選挙に関する報道も封じているのだ。バカらしいというのを通り越して嘆かわしくなってくる。



しょせん官僚の既得権益を守るためだけで90年前のルールを金科玉条のごとく持ち出してる総務省と、それに荷担する記者クラブ。
小泉政権の頃から議題に上がりつつもいまだにネット選挙解禁を法案化出来ないでいる政治家に何が期待できるのか分からないが、まあそんなことを思いながら今から投票所に行ってくる。


アホらしいからマック赤坂にしろまるをつけようかな。
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高瀬大介

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