昨夜のワイセッツのライブに来てくれた方々、どうもありがといございました。
自分の意気込みが空回りして、納得いかない部分もあったけど、ステージから見えるお客さんの顔を見てるだけで幸せな気持ちになりました。良かった良かった。
キーボード土屋のビーム奏法とキーボード持ち上げプレイがツボにハマって俺もよく分かんないテンションになってしまったけど、やっぱそういう意表をついたもんのやり合いがバンドだよな。いかにお互いのテンションを上げてそれをお客さんに還元するか。間違ってるかな?
終わった後、いややってるときから「ホントに楽しそう」と言われた。俺、いつもそんなにつまらなそうにやってっかな(笑)?
まあでも、そりゃ楽しいよ。やりたいことやってそれでお客さんが喜んでくれりゃ。
またやりたい。奴らが何を考えてるかは分からないが、いいタイミングで出来ればいいな。
昨夜は近くの餃子屋でメンバーだけの打ち上げをした。酔っ払っててあんまり覚えてないんだけど、唐辛子餃子が死ぬほど辛かったことだけは覚えてる。知らない人連れてってドッキリに使えるレベル。「餃子市」をよろしく。
自分の意気込みが空回りして、納得いかない部分もあったけど、ステージから見えるお客さんの顔を見てるだけで幸せな気持ちになりました。良かった良かった。
キーボード土屋のビーム奏法とキーボード持ち上げプレイがツボにハマって俺もよく分かんないテンションになってしまったけど、やっぱそういう意表をついたもんのやり合いがバンドだよな。いかにお互いのテンションを上げてそれをお客さんに還元するか。間違ってるかな?
終わった後、いややってるときから「ホントに楽しそう」と言われた。俺、いつもそんなにつまらなそうにやってっかな(笑)?
まあでも、そりゃ楽しいよ。やりたいことやってそれでお客さんが喜んでくれりゃ。
またやりたい。奴らが何を考えてるかは分からないが、いいタイミングで出来ればいいな。
昨夜は近くの餃子屋でメンバーだけの打ち上げをした。酔っ払っててあんまり覚えてないんだけど、唐辛子餃子が死ぬほど辛かったことだけは覚えてる。知らない人連れてってドッキリに使えるレベル。「餃子市」をよろしく。
昨夜はお馴染みのイベント「恐るべき三名様」に行ってきた。
ガジュマルさんとも岡野やすこさんとも凄く親しいし敬意を払っているアーティストだし素晴らしいステージだったけど、渡部沙智子さんは桁外れに凄かった。
ライブを観るのは二回目だったけど、多分毎回ああいうふうに柔軟性(ライブ感)があって、毎回毎回別な表情を見せるライブをしてるんだろうなぁと思わせるくらい、実に音楽的だった。
一般的な初見の印象としてはコミカルな要素が目立つノベルティ・ソング的なもんなんだろうけど、それ以上に圧倒的な歌唱力、表現力、演奏力、作曲能力が凄くて、それがあってなおかつハイブリッドなユーモアやアイロニーと、表裏一体の絶望や哀しみがあるわけで、おまけに余裕のエンターテイメント性もあって、ミスすらも音楽的に変換できる、ホンマもう...音楽人としては理想のようなライブをやってて感動した。
日本だととかくノベルティタイプの音楽というのは、それがどれだけ現場では受けようと、いわゆるシリアスな表現をしている音楽に比べて低くみられがちだけど、それは単に学生ノリの中途半端な受けを狙ったインディー・バンドが多いからであって、本当のノベルティ・ソングってのは一級の演奏力と一流の表現力があって初めて「音楽」になるという、実にハードルが高くて崇高なものだと思う。単なる悪ふざけでは決して人を笑わせられないし、感動もさせられない。
かの大瀧詠一さんも
「エルヴィスも植木さんもそうだけど、ノベルティ・ソングってのは圧倒的に上手くてカッコ良くなきゃ決まらないんだよ。俺はそれがあの時期は分からなかった。企画性だけで行こうとしたんだ」
と言っている。これは大瀧詠一さんの世紀の快作「ナイアガラ・ムーン」に関する自己分析の中で出てきた言葉だ。
このアルバムには世間一般の印象にあるようないわゆる濡れた「大瀧節」は殆んど無く、全篇ドライな諧謔性と狂気のリズム探求に徹底したアルバムで、ある程度いった大瀧詠一ファンなら必ず傑作に挙げる名盤だ。その徹底度は個人的にはホントに「カッコ良い」と思うけど、その大瀧詠一さんをして上記のようなノベルティ・ソングの極意である。
なるほど。やっぱ笑えるもんてな不様じゃだめだ。こっかよくなきゃ三枚目は出来ない。逆に中途半端なナルシストはホントにカッコ悪い。
俺個人としてもクソ真面目でシリアスぶった音楽は嫌いで、カッコつけた世界観とか美意識で固められたような音楽はホントに身体に合わない。なにせトムとジェリーの音楽で目覚め、ビートルズで決まったような人間だから、音楽と笑いは不可分である。
俺には音楽によって人を笑わせるなんていうとてつもない才能なんてとても無いけれど、自分の作る音楽には必ずある種の「笑い」の要素というか、諧謔性は入れるようにしている。というかもうそれは生理的反射みたいなもんだ。
音楽に没入してるとつい周りが見えなくなってシリアスだったりナルシスティックになりそうになる。でもそんな自分に対して、俯瞰してツッコミを入れるような「もう一人の自分」がないと正気を保っていられなくなるのだ。つうか恥ずかしいのだ。
もちろんそんな「照れ」だけで音楽をやってると何が言いたいのか分からないし、開き直って何かを言い切らないといけない局面は必ずあるんだけど、でも「テメェがそんな偉そうなこと言えるヤツかよ」っていうもう一人の自分を常に飼い慣らしていないと落ち着けない性分なのだ。
だからワイセッツでライブやったり音源を作ってるときも、必ずシリアスに行き過ぎないように、訳の分からない部分というか真面目な自分を腰砕けにさせるような諧謔性を入れるようにしてきた。時にはメンバーに「こんな無駄なの入れても意味ないじゃん」と反対されても頑なに自分の意見を通して入れた。
ただ今振り返ると、それらはちゃんと凡百の学生ノリの悪ふざけ的な笑いと明確に差別化出来てたか?と言われたら「う〜ん、どうでしょう?」と長嶋茂雄の物まねをしなくてはならなくなる。内輪受け、自己満足レベルで終わっていて、表現として成立してなかったかもと思うところもある。
やはり渡部沙智子さんのように、あるいは大瀧詠一さんの言うようにそれには圧倒的な表現力、技術が無ければ駄目だ。もっともっと練習しなければ。今夜スタジオ入ろ。
つうわけでしつこく告知。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
うちらは鶏で20時50分から。楽しめるようなライブにするので、是非是非きてほしいッス!
ガジュマルさんとも岡野やすこさんとも凄く親しいし敬意を払っているアーティストだし素晴らしいステージだったけど、渡部沙智子さんは桁外れに凄かった。
ライブを観るのは二回目だったけど、多分毎回ああいうふうに柔軟性(ライブ感)があって、毎回毎回別な表情を見せるライブをしてるんだろうなぁと思わせるくらい、実に音楽的だった。
一般的な初見の印象としてはコミカルな要素が目立つノベルティ・ソング的なもんなんだろうけど、それ以上に圧倒的な歌唱力、表現力、演奏力、作曲能力が凄くて、それがあってなおかつハイブリッドなユーモアやアイロニーと、表裏一体の絶望や哀しみがあるわけで、おまけに余裕のエンターテイメント性もあって、ミスすらも音楽的に変換できる、ホンマもう...音楽人としては理想のようなライブをやってて感動した。
日本だととかくノベルティタイプの音楽というのは、それがどれだけ現場では受けようと、いわゆるシリアスな表現をしている音楽に比べて低くみられがちだけど、それは単に学生ノリの中途半端な受けを狙ったインディー・バンドが多いからであって、本当のノベルティ・ソングってのは一級の演奏力と一流の表現力があって初めて「音楽」になるという、実にハードルが高くて崇高なものだと思う。単なる悪ふざけでは決して人を笑わせられないし、感動もさせられない。
かの大瀧詠一さんも
「エルヴィスも植木さんもそうだけど、ノベルティ・ソングってのは圧倒的に上手くてカッコ良くなきゃ決まらないんだよ。俺はそれがあの時期は分からなかった。企画性だけで行こうとしたんだ」
と言っている。これは大瀧詠一さんの世紀の快作「ナイアガラ・ムーン」に関する自己分析の中で出てきた言葉だ。
このアルバムには世間一般の印象にあるようないわゆる濡れた「大瀧節」は殆んど無く、全篇ドライな諧謔性と狂気のリズム探求に徹底したアルバムで、ある程度いった大瀧詠一ファンなら必ず傑作に挙げる名盤だ。その徹底度は個人的にはホントに「カッコ良い」と思うけど、その大瀧詠一さんをして上記のようなノベルティ・ソングの極意である。
なるほど。やっぱ笑えるもんてな不様じゃだめだ。こっかよくなきゃ三枚目は出来ない。逆に中途半端なナルシストはホントにカッコ悪い。
俺個人としてもクソ真面目でシリアスぶった音楽は嫌いで、カッコつけた世界観とか美意識で固められたような音楽はホントに身体に合わない。なにせトムとジェリーの音楽で目覚め、ビートルズで決まったような人間だから、音楽と笑いは不可分である。
俺には音楽によって人を笑わせるなんていうとてつもない才能なんてとても無いけれど、自分の作る音楽には必ずある種の「笑い」の要素というか、諧謔性は入れるようにしている。というかもうそれは生理的反射みたいなもんだ。
音楽に没入してるとつい周りが見えなくなってシリアスだったりナルシスティックになりそうになる。でもそんな自分に対して、俯瞰してツッコミを入れるような「もう一人の自分」がないと正気を保っていられなくなるのだ。つうか恥ずかしいのだ。
もちろんそんな「照れ」だけで音楽をやってると何が言いたいのか分からないし、開き直って何かを言い切らないといけない局面は必ずあるんだけど、でも「テメェがそんな偉そうなこと言えるヤツかよ」っていうもう一人の自分を常に飼い慣らしていないと落ち着けない性分なのだ。
だからワイセッツでライブやったり音源を作ってるときも、必ずシリアスに行き過ぎないように、訳の分からない部分というか真面目な自分を腰砕けにさせるような諧謔性を入れるようにしてきた。時にはメンバーに「こんな無駄なの入れても意味ないじゃん」と反対されても頑なに自分の意見を通して入れた。
ただ今振り返ると、それらはちゃんと凡百の学生ノリの悪ふざけ的な笑いと明確に差別化出来てたか?と言われたら「う〜ん、どうでしょう?」と長嶋茂雄の物まねをしなくてはならなくなる。内輪受け、自己満足レベルで終わっていて、表現として成立してなかったかもと思うところもある。
やはり渡部沙智子さんのように、あるいは大瀧詠一さんの言うようにそれには圧倒的な表現力、技術が無ければ駄目だ。もっともっと練習しなければ。今夜スタジオ入ろ。
つうわけでしつこく告知。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
うちらは鶏で20時50分から。楽しめるようなライブにするので、是非是非きてほしいッス!
山下達郎さんが2002年に「レアリティーズ」という、シングルのみの新曲、既発シングルのカップリング曲、未発表セルフ・カヴァー、未発表洋楽カヴァーなどを集めたベスト・アルバムを発表したときに残したコメントを引用する。
「作り終えたものは過去のものだと、作り出した音楽を、まるで自己排泄のように語る、しかも得意気に言う人もいるじゃないですか。そういう人は、物を作るということに執着していなくて羨ましいですけど、だけど僕の場合はまったく逆で、自分の作品を買って聴いてくれる、第三者に対する表現行為だという意識を、強く持っているので、自分のカタログに対して、とても愛着と責任を感じているんです。自分の作品に執着するのは後ろ向きだ、などという人もいますが、大きなお世話でね。継続的に発売されているカタログというものは、経年変化が起こってしまい、どこかでリニューアルさせないと駄目なんですよね。それに今回の作品のように、シングル作品というのは廃盤になっていきますから、そのままにしてしまうと、世の中から消えてしまうことになる。そういったことへの問題提起と、皆さんに聴いていただくために、自分で必死に保全しているんですよ」
まったくもってその通りだと思う。達郎さんや大瀧詠一さんはリミックスやリマスターや蔵出し、それにともなう詳細な解説といった刷新作業をよくやっているけど、それは全然後ろ向きな印象ではなく、自分の音楽に対して、そしてそれを支持してくれるファンに対して誠実な姿勢だと常々思っていた。
考えてみりゃ俺の好きなアーティストは、そういった過去の自分の音源の更新や検証、あるいはブートレグなどでしか出回ってない未発表音源のアーカイヴ化に対して積極的な人が多い。
ジミー・ペイジは日本に来るたんびに西新宿に寄ってツェッペリンのブートレッグを(買わずに)ごっそりと持って帰って、それらを参考にツェッペリンの発掘音源の発表コンセプトに役立てている。
ロバート・フリップはゴマンと蔓延するクリムゾンのブートに怒りながらも、それを動機にアーカイブ・シリーズを沢山発表した。
フランク・ザッパはブートレッグで出回ってる自分のアルバムを、ジャケットまでまんまパクって正式リリースするというその名も「ビート・ザ・ブート(海賊盤をブチのめせ)」というシリーズをリリースしている。
「自分の過去の作品を分析するのは最も非生産的な行為だ」と豪語するプリンスも、折に触れて自分のアーカイブから掘り起こしてきてリリースしてるんだから、自分の音源に対する執着は相当なモノだろう。
なによりも!ブート業界最大の顧客であるビートルズの場合、ジョンは解散直後から自分たちのブートレッグ収集していたようだし、なんと親しい間柄のビートルズ・コレクターとビートルズの未発表テープを交換もしてたりする。ビートルズ未発表音源の蔓延の原因はお前か!
リンゴはビートルズのブートはもとよりビートルズ・グッズや本や写真なども集めていたという。
ポールはサザビーズのオークションでビートルズ関連の重要なものが出品されるたびに高額で競り落としていたし、なにより「僕は他人のコンサートは録音しちゃうんだ。でも、シー、誰にも言っちゃだめだよ」と発言していてブートレッガー気質も持っている。
ジョージはブートレッガーに対して嫌悪感を表しながらも、いくつかの秘蔵音源を持っていることをあかしたり、なによりビートルズの赤盤青盤の選曲をしたのはジョージだから、過去の音源の検証に関しては一家言ある。
で、それらを免罪符にするわけではあるんだけど、俺も自分の昔の音源を聴いたり纏めたりするのは結構好きだ。
それはノスタルジーとかでは全然なく、元々のブート好き、発掘音源好きに由来するフェチズムと言える。
納得して発表した過去の音源に関しては、その未熟さが気になって素直に聴くことが出来なかったりするけど、元より発表する気のない音源に関しては完成度は低い方が興味深いし、粗ければ粗いほどレア度は増す。俺のフェチ・メーターの針が激しく動く。
まあこれはバンドだからだろうけどね。俺個人のデモテープだとそこまでは思わないけど、他人の手が入った自分の作品だから、ある種客観的に、ある意味ではビートルズの海賊盤を聴くような感じで聴くことが出来るんだろうな。
というわけで色々音源をひっぱりだしてきて、メンバーに聴かせるためだけにワイセッツの「レアリティーズ」を編纂してみた。はは。
ワイセッツというのは割とレコーディングに積極的なバンドで、活動期間の割には発表した作品数は多い方だし、その裏にも自分達が聴くためだけのリハーサル音源や、新曲のアレンジの過程を記録した音源、プリプロ音源(正式レコーディングを目的とした仮録音)なんかは割と残っている。ましてやライヴ音源なんかはほぼ毎回録音してたんで膨大に残っている。
とにかく当時は新しい曲を作ってライブにかけて、それがいい感じに成長したらちゃんと録音するってのがバンドの生命維持活動だと思っていた。本当はそれだけではないんだけどさ。
まあ元々自分の資質としておんなじこと(曲)をずっと繰り返すのが苦手ってのもあったし、おまけに趣味は作曲と宅録っつうくらいのもんだったんで、とにかく曲をいっぱい作ってバンドに持って行ってた。
しかしワイセッツというのは作曲者にとってはなかなかプライドを挫かれるバンドで、10曲作っても2曲しか採用されないみたいな厳しい現場だったんで、報われることのないまま消えていく曲が死屍累々とあったわけで、それで落ち込んだり腹が立ったりもした。アルバム作るためにゃいったい何曲作りゃいいんだよ。
おまけに作った曲のうちのアッパーなやつやポップなやつばかりが採用されて、地味で暗い曲は排除されたり放置されることが多かった。
「そもそも人間てのは陰と陽が両方あってバランスがとれるわけで、一方だけをアピールするのは音楽に対して人間として誠実ではない」とかなんとかのたまってた俺は、そのアンバランスな状況が続くことによるストレスをためていた(今から考えれば彼らのポップ・フィルターがあったお陰で今でも再聴に耐えうる曲がたくさん残せたとも言える)。
まあそれでも周りには新曲が出来なくて動脈硬化を起こしてるようなバンドが結構いたので「それに比べりゃまだマシだろザマーミロ」と自分を奮い立たせながら曲を作っていた。あとまあホントのとこ言うと自分のヴォーカリストとしての技量の無さや、フロントマンとしての才能の欠如を、曲をいっぱい作ることによって補完していただけなんだが。
ま、そんな話は置いといて、とにかく今回の再編を期に、今となっては複雑な心境抜きにして聴ける香ばしい音源を選りすぐって編纂してみたので、メンバーの反応が知りたいもんだ。
たださ、それらは完成度の低いデモテープ状態のものだけでなく、過去のイベント用に作った無料配布用の音源だったり、一瞬で廃盤にしたシングルに入ってた音源だったり、プレゼン用に録音したものだったりと、一応人様が聴くことを前提とした音源も結構あるので、選曲し直して今度のライブの時に持って行ってみようかなぁ。単体で売るのもいいけど、アルバム買ってくれたらタダであげるとかね。まあそれは与太話として。
そんなワイセッツのライブ告知。しつこくやります。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
and more
うちらは鳥で、20:50からです。ブチカマースよ。
「作り終えたものは過去のものだと、作り出した音楽を、まるで自己排泄のように語る、しかも得意気に言う人もいるじゃないですか。そういう人は、物を作るということに執着していなくて羨ましいですけど、だけど僕の場合はまったく逆で、自分の作品を買って聴いてくれる、第三者に対する表現行為だという意識を、強く持っているので、自分のカタログに対して、とても愛着と責任を感じているんです。自分の作品に執着するのは後ろ向きだ、などという人もいますが、大きなお世話でね。継続的に発売されているカタログというものは、経年変化が起こってしまい、どこかでリニューアルさせないと駄目なんですよね。それに今回の作品のように、シングル作品というのは廃盤になっていきますから、そのままにしてしまうと、世の中から消えてしまうことになる。そういったことへの問題提起と、皆さんに聴いていただくために、自分で必死に保全しているんですよ」
まったくもってその通りだと思う。達郎さんや大瀧詠一さんはリミックスやリマスターや蔵出し、それにともなう詳細な解説といった刷新作業をよくやっているけど、それは全然後ろ向きな印象ではなく、自分の音楽に対して、そしてそれを支持してくれるファンに対して誠実な姿勢だと常々思っていた。
考えてみりゃ俺の好きなアーティストは、そういった過去の自分の音源の更新や検証、あるいはブートレグなどでしか出回ってない未発表音源のアーカイヴ化に対して積極的な人が多い。
ジミー・ペイジは日本に来るたんびに西新宿に寄ってツェッペリンのブートレッグを(買わずに)ごっそりと持って帰って、それらを参考にツェッペリンの発掘音源の発表コンセプトに役立てている。
ロバート・フリップはゴマンと蔓延するクリムゾンのブートに怒りながらも、それを動機にアーカイブ・シリーズを沢山発表した。
フランク・ザッパはブートレッグで出回ってる自分のアルバムを、ジャケットまでまんまパクって正式リリースするというその名も「ビート・ザ・ブート(海賊盤をブチのめせ)」というシリーズをリリースしている。
「自分の過去の作品を分析するのは最も非生産的な行為だ」と豪語するプリンスも、折に触れて自分のアーカイブから掘り起こしてきてリリースしてるんだから、自分の音源に対する執着は相当なモノだろう。
なによりも!ブート業界最大の顧客であるビートルズの場合、ジョンは解散直後から自分たちのブートレッグ収集していたようだし、なんと親しい間柄のビートルズ・コレクターとビートルズの未発表テープを交換もしてたりする。ビートルズ未発表音源の蔓延の原因はお前か!
リンゴはビートルズのブートはもとよりビートルズ・グッズや本や写真なども集めていたという。
ポールはサザビーズのオークションでビートルズ関連の重要なものが出品されるたびに高額で競り落としていたし、なにより「僕は他人のコンサートは録音しちゃうんだ。でも、シー、誰にも言っちゃだめだよ」と発言していてブートレッガー気質も持っている。
ジョージはブートレッガーに対して嫌悪感を表しながらも、いくつかの秘蔵音源を持っていることをあかしたり、なによりビートルズの赤盤青盤の選曲をしたのはジョージだから、過去の音源の検証に関しては一家言ある。
で、それらを免罪符にするわけではあるんだけど、俺も自分の昔の音源を聴いたり纏めたりするのは結構好きだ。
それはノスタルジーとかでは全然なく、元々のブート好き、発掘音源好きに由来するフェチズムと言える。
納得して発表した過去の音源に関しては、その未熟さが気になって素直に聴くことが出来なかったりするけど、元より発表する気のない音源に関しては完成度は低い方が興味深いし、粗ければ粗いほどレア度は増す。俺のフェチ・メーターの針が激しく動く。
まあこれはバンドだからだろうけどね。俺個人のデモテープだとそこまでは思わないけど、他人の手が入った自分の作品だから、ある種客観的に、ある意味ではビートルズの海賊盤を聴くような感じで聴くことが出来るんだろうな。
というわけで色々音源をひっぱりだしてきて、メンバーに聴かせるためだけにワイセッツの「レアリティーズ」を編纂してみた。はは。
ワイセッツというのは割とレコーディングに積極的なバンドで、活動期間の割には発表した作品数は多い方だし、その裏にも自分達が聴くためだけのリハーサル音源や、新曲のアレンジの過程を記録した音源、プリプロ音源(正式レコーディングを目的とした仮録音)なんかは割と残っている。ましてやライヴ音源なんかはほぼ毎回録音してたんで膨大に残っている。
とにかく当時は新しい曲を作ってライブにかけて、それがいい感じに成長したらちゃんと録音するってのがバンドの生命維持活動だと思っていた。本当はそれだけではないんだけどさ。
まあ元々自分の資質としておんなじこと(曲)をずっと繰り返すのが苦手ってのもあったし、おまけに趣味は作曲と宅録っつうくらいのもんだったんで、とにかく曲をいっぱい作ってバンドに持って行ってた。
しかしワイセッツというのは作曲者にとってはなかなかプライドを挫かれるバンドで、10曲作っても2曲しか採用されないみたいな厳しい現場だったんで、報われることのないまま消えていく曲が死屍累々とあったわけで、それで落ち込んだり腹が立ったりもした。アルバム作るためにゃいったい何曲作りゃいいんだよ。
おまけに作った曲のうちのアッパーなやつやポップなやつばかりが採用されて、地味で暗い曲は排除されたり放置されることが多かった。
「そもそも人間てのは陰と陽が両方あってバランスがとれるわけで、一方だけをアピールするのは音楽に対して人間として誠実ではない」とかなんとかのたまってた俺は、そのアンバランスな状況が続くことによるストレスをためていた(今から考えれば彼らのポップ・フィルターがあったお陰で今でも再聴に耐えうる曲がたくさん残せたとも言える)。
まあそれでも周りには新曲が出来なくて動脈硬化を起こしてるようなバンドが結構いたので「それに比べりゃまだマシだろザマーミロ」と自分を奮い立たせながら曲を作っていた。あとまあホントのとこ言うと自分のヴォーカリストとしての技量の無さや、フロントマンとしての才能の欠如を、曲をいっぱい作ることによって補完していただけなんだが。
ま、そんな話は置いといて、とにかく今回の再編を期に、今となっては複雑な心境抜きにして聴ける香ばしい音源を選りすぐって編纂してみたので、メンバーの反応が知りたいもんだ。
たださ、それらは完成度の低いデモテープ状態のものだけでなく、過去のイベント用に作った無料配布用の音源だったり、一瞬で廃盤にしたシングルに入ってた音源だったり、プレゼン用に録音したものだったりと、一応人様が聴くことを前提とした音源も結構あるので、選曲し直して今度のライブの時に持って行ってみようかなぁ。単体で売るのもいいけど、アルバム買ってくれたらタダであげるとかね。まあそれは与太話として。
そんなワイセッツのライブ告知。しつこくやります。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
and more
うちらは鳥で、20:50からです。ブチカマースよ。
バンドのあり方は色々あって、それぞれがそれぞれに意義や思想があるんだろうけど、俺にとっては、かつてやっていたバンド、ワイセッツのように自分の生活や精神性を、メンバー共通の目的の為に捧げるくらいのことをしないと本当の意味でのバンドの充足感を味わえない。
特に曲作り、アレンジ、ライブパフォーマンス、レコーディングといったクリエイティブな面においては全員がそれぞれ自分のものとして取り組まないと最終的な達成感は生まれない。それぞれが自分の中で発展させたりそれらを持ち寄ってアイデア同士をぶつけあったり。シンガーソングライターの出来上がった楽曲をサポートをする、みたいなメンタルではなんかだめなのだ。
バンドの最初の頃はやっぱりそんな感じだった。俺はシンガーソングライターとして出発した人間なので歌詞、曲、ある程度のアレンジをしたデモテープを用意してバンドに持っていってそれをなぞるような感じで再現してた。
で、次第にそういう状態から脱皮していってそれ以上の工程、創作をメンバー全員の協力体制のもとで進めていくようになっていった。
まあ趣味が宅録っつうぐらいの俺なので一応設計図は書くけど別にその通りやらなくていいし、むしろ俺の描く設計図からは予想のつかないような完成形にたどり着く方がテンションが上がった。ワタシ人が思うほどワガママじゃないんです。
それはともかく、彼等の技量やアレンジ能力は高かったし、会話をしていても笑いの絶えない間柄だったし、その会話を音楽に変換する能力も持っていた。だからアレンジに関しては徐々に丸投げ体制になっていったし、むしろ曲がどの方向へ向かえばいいのか聞かせてくれよ、と聞くぐらい彼らの価値判断基準に信頼を置いていた。
勿論いろんなケースがあったさ。「ここのコードは俺が絶対正解!イジラせてなるもんか!」みたいなエゴ剥き出しの時もあったし、時には元々のデモテープからはリズムやBPMが俺の知らないうちに全然変わっていくこともあって途方に暮れたこともあって、ちったあ作曲者に敬意を払えよと思ったこともあるが、でもバンドってそういうもんだと思ってた。
つまりいくら自分が作詞作曲をしていようが、それは「自分の作品」ではなくて「ワイセッツ」の作品だと思っていたということだ。まあそれは長い期間を経て自然とそうなったんだが。
だからバンドが終わった後、ライブのためにいくつかバンド形態での活動もしたけど、それらはあくまで「シンガーソングライターとバックバンド」みたいな範疇を越えるものではなかった。
独善的になっていた訳でもないし、一緒にやるメンバーを技能的に信頼していなかったわけではないけど、共通のビジョンを描いて音楽をクリエイト出来てたか?といえば出来てなかったと言わざるをえない。まあそれは自分がそのビジョンを明確に提示出来てなかったからに他ならないし、共通のビジョンを描けるほど長くて濃密な時間を共有してなかったからしょうがないのだが。
そういう経験から「掛け持ちはいっぱいしてるけど実力のあるミュージシャン」を何人か集めてシンガーソングライターが持ってきた曲を譜面通り再現したところで「バンド」にも「ライブ」にもならないと実感するようになった。そういう形態で素晴らしい音楽を提示するバンド形態の人達も居るしそれはそれで全然良いのだけど、でもやっぱり、メンバー全員がそのバンドを一番大事だと思って、自分の引き出しの中から何かを提供するだけじゃなく、時には新しい引き出しを作る、くらいの取り組みをしている中から生まれるグルーヴは格別に強い。
こないだとある若いバンドの解散ライブを観たのだけど、技量的には荒いし音楽的にもまだまだ稚拙だし解散ということで幾分情緒的になっていたけど、そのバンドが持つ熱量は素晴らしくて、初めてみるバンドだったにもかかわらず身体が動いてしまった。
「情熱に技量が追い付かない」ていう状態のバンドを観たのは久しぶりだった。それぐらい熱量が高かった。そこではリズムがぶれようが曲が一方方向だろうが関係無い。そのバンドの熱に浮かされたのだ。
勿論その頭に血が上ったような状態を維持出来るミュージシャンは中々居ない。いつかは技量も上がって、足りない熱量の代わりを技術で埋めるようなやり方も身につけるかもしない。また技量が上がれば肩の力も抜けて音楽的な意味で間口の広い聞きやすいものになっていく。優れたミュージシャンはそうやって洗練されていくしそれは正しいと思う。
けれど、ぎこちなくて間違っていて聞きづらくても、熱量の高さ、メンバー同士の結束や摩擦、そういった音楽的成熟以前の得体の知れない磁場の塊、そんなものにやっぱいつになっても惹かれる。
一概に否定すべきものではないけれど、ステージで譜面を見ながら演奏している「お仕事」ミュージシャンを見てるとあまり愉快ではない。そのミュージシャンに対してよりもその状態でよしとしているそこの真ん中でヘラヘラしているシンガーソングライターに腹が立つ。もっと突き詰めていってそれぞれのプレイヤーが我がごとのように楽曲を扱ってくれるようになるまで頑張れよ!って思ってしまう。ま、色々状況やバジェットや家庭の事情(byトニー谷)もあるし、お仕事現場ばかりで音楽業界は回ってるからしょうがねぇっちゃあしょうがねぇもんな。
話は唐突に戻るけど元ワイセッツのメンバーも俺以外のメンバーは優秀なミュージシャンの方々なので色んな現場を踏んできている。素晴らしい場所を手にもしている。
けれどワイセッツの頃の音楽に向かう熱量、音楽のあり方、生んだ作品にはちょっと別格な感慨があるようだ。今の各人のレベルに比べれば全然稚拙なんだろうけど、そういう問題じゃない何か、そういうものが確かに存在した。そんな事を前、呑みながら話をした。
セールスだのお客さんの数だのオーバーグラウンドでの活動といった面では結局たいした結果は残せなかったけれど、あのストイックなまでに音楽に向き合って、神経を摩擦させながら生み出した作品やいくつかの異様に盛り上がったライブには、それなりに意義があったと思う。
というわけで毎度のことながら異様に長い前振りになってしまったけど、久しぶりにワイセッツとして集まってライブをやろうと思ってます。
実は2年半くらい前にもやっていて、あん時はワイセッツというバンドのコピーバンドを本人たちがやるっていうコンセプトがあったけど、今回は特にそういうモチベーションは無くて、なんだろうな...再結成でもなく活動再開でもなく...再確認ライブみたいなもんかな?各々の足場を確認するためのライブ。
もちろんそんなテメエ勝手の理由なんて別にお客さんにはどうでもよいわけで、とにかく楽しくて開放感に満ちたライブにする。よてい。
あんまりビッグマウスチックに宣伝するのは性格的にも状況的にも出来ないけど、でもワイセッツっていいバンドだよ。是非遊びにきてほしいです。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
and more
ウチらの出演時間は20:50で酉だそうです。
特に曲作り、アレンジ、ライブパフォーマンス、レコーディングといったクリエイティブな面においては全員がそれぞれ自分のものとして取り組まないと最終的な達成感は生まれない。それぞれが自分の中で発展させたりそれらを持ち寄ってアイデア同士をぶつけあったり。シンガーソングライターの出来上がった楽曲をサポートをする、みたいなメンタルではなんかだめなのだ。
バンドの最初の頃はやっぱりそんな感じだった。俺はシンガーソングライターとして出発した人間なので歌詞、曲、ある程度のアレンジをしたデモテープを用意してバンドに持っていってそれをなぞるような感じで再現してた。
で、次第にそういう状態から脱皮していってそれ以上の工程、創作をメンバー全員の協力体制のもとで進めていくようになっていった。
まあ趣味が宅録っつうぐらいの俺なので一応設計図は書くけど別にその通りやらなくていいし、むしろ俺の描く設計図からは予想のつかないような完成形にたどり着く方がテンションが上がった。ワタシ人が思うほどワガママじゃないんです。
それはともかく、彼等の技量やアレンジ能力は高かったし、会話をしていても笑いの絶えない間柄だったし、その会話を音楽に変換する能力も持っていた。だからアレンジに関しては徐々に丸投げ体制になっていったし、むしろ曲がどの方向へ向かえばいいのか聞かせてくれよ、と聞くぐらい彼らの価値判断基準に信頼を置いていた。
勿論いろんなケースがあったさ。「ここのコードは俺が絶対正解!イジラせてなるもんか!」みたいなエゴ剥き出しの時もあったし、時には元々のデモテープからはリズムやBPMが俺の知らないうちに全然変わっていくこともあって途方に暮れたこともあって、ちったあ作曲者に敬意を払えよと思ったこともあるが、でもバンドってそういうもんだと思ってた。
つまりいくら自分が作詞作曲をしていようが、それは「自分の作品」ではなくて「ワイセッツ」の作品だと思っていたということだ。まあそれは長い期間を経て自然とそうなったんだが。
だからバンドが終わった後、ライブのためにいくつかバンド形態での活動もしたけど、それらはあくまで「シンガーソングライターとバックバンド」みたいな範疇を越えるものではなかった。
独善的になっていた訳でもないし、一緒にやるメンバーを技能的に信頼していなかったわけではないけど、共通のビジョンを描いて音楽をクリエイト出来てたか?といえば出来てなかったと言わざるをえない。まあそれは自分がそのビジョンを明確に提示出来てなかったからに他ならないし、共通のビジョンを描けるほど長くて濃密な時間を共有してなかったからしょうがないのだが。
そういう経験から「掛け持ちはいっぱいしてるけど実力のあるミュージシャン」を何人か集めてシンガーソングライターが持ってきた曲を譜面通り再現したところで「バンド」にも「ライブ」にもならないと実感するようになった。そういう形態で素晴らしい音楽を提示するバンド形態の人達も居るしそれはそれで全然良いのだけど、でもやっぱり、メンバー全員がそのバンドを一番大事だと思って、自分の引き出しの中から何かを提供するだけじゃなく、時には新しい引き出しを作る、くらいの取り組みをしている中から生まれるグルーヴは格別に強い。
こないだとある若いバンドの解散ライブを観たのだけど、技量的には荒いし音楽的にもまだまだ稚拙だし解散ということで幾分情緒的になっていたけど、そのバンドが持つ熱量は素晴らしくて、初めてみるバンドだったにもかかわらず身体が動いてしまった。
「情熱に技量が追い付かない」ていう状態のバンドを観たのは久しぶりだった。それぐらい熱量が高かった。そこではリズムがぶれようが曲が一方方向だろうが関係無い。そのバンドの熱に浮かされたのだ。
勿論その頭に血が上ったような状態を維持出来るミュージシャンは中々居ない。いつかは技量も上がって、足りない熱量の代わりを技術で埋めるようなやり方も身につけるかもしない。また技量が上がれば肩の力も抜けて音楽的な意味で間口の広い聞きやすいものになっていく。優れたミュージシャンはそうやって洗練されていくしそれは正しいと思う。
けれど、ぎこちなくて間違っていて聞きづらくても、熱量の高さ、メンバー同士の結束や摩擦、そういった音楽的成熟以前の得体の知れない磁場の塊、そんなものにやっぱいつになっても惹かれる。
一概に否定すべきものではないけれど、ステージで譜面を見ながら演奏している「お仕事」ミュージシャンを見てるとあまり愉快ではない。そのミュージシャンに対してよりもその状態でよしとしているそこの真ん中でヘラヘラしているシンガーソングライターに腹が立つ。もっと突き詰めていってそれぞれのプレイヤーが我がごとのように楽曲を扱ってくれるようになるまで頑張れよ!って思ってしまう。ま、色々状況やバジェットや家庭の事情(byトニー谷)もあるし、お仕事現場ばかりで音楽業界は回ってるからしょうがねぇっちゃあしょうがねぇもんな。
話は唐突に戻るけど元ワイセッツのメンバーも俺以外のメンバーは優秀なミュージシャンの方々なので色んな現場を踏んできている。素晴らしい場所を手にもしている。
けれどワイセッツの頃の音楽に向かう熱量、音楽のあり方、生んだ作品にはちょっと別格な感慨があるようだ。今の各人のレベルに比べれば全然稚拙なんだろうけど、そういう問題じゃない何か、そういうものが確かに存在した。そんな事を前、呑みながら話をした。
セールスだのお客さんの数だのオーバーグラウンドでの活動といった面では結局たいした結果は残せなかったけれど、あのストイックなまでに音楽に向き合って、神経を摩擦させながら生み出した作品やいくつかの異様に盛り上がったライブには、それなりに意義があったと思う。
というわけで毎度のことながら異様に長い前振りになってしまったけど、久しぶりにワイセッツとして集まってライブをやろうと思ってます。
実は2年半くらい前にもやっていて、あん時はワイセッツというバンドのコピーバンドを本人たちがやるっていうコンセプトがあったけど、今回は特にそういうモチベーションは無くて、なんだろうな...再結成でもなく活動再開でもなく...再確認ライブみたいなもんかな?各々の足場を確認するためのライブ。
もちろんそんなテメエ勝手の理由なんて別にお客さんにはどうでもよいわけで、とにかく楽しくて開放感に満ちたライブにする。よてい。
あんまりビッグマウスチックに宣伝するのは性格的にも状況的にも出来ないけど、でもワイセッツっていいバンドだよ。是非遊びにきてほしいです。
2013年9月13日 fri.
イベント名:Rhythm and Business
@LIVEHOUSE 真昼の月夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/
Open/Start 未定
Charge 2,000円
出演
ワイセッツ
コロバ・ミルク・バー
ヒゲとボイン
qusco
and more
ウチらの出演時間は20:50で酉だそうです。
高校生の頃、ザ・バンドのラストワルツを観ていて、まもなく解散しようかっていうバンドがこうも祝祭のごとく終わりを騒げるもんかね?と不可解な気持ちになった。というか嫌だった。
が、ある程度の年齢になってそれをだんだん理解出来るようにはなった。終わることの寂しさよりも、重荷を下ろすことの安堵の方がでかいってことも、ひとつのことが終わるということは同時に次のことの始まりでもあるってこともなんとなくは分かった。それをラストワルツと洒落のめして騒ごうってのが「大人の粋な別れ」ってことなんだなと理解も出来る。
でも、人間的にグチャグチャになってみっともなく終わっていくバンドの方がお話的には面白いし、時間がたてば笑い話にもなるし、そういう方がなんか好きだ。ロックンロールだなと思う。大人のカッコつけたけじめなんて嫌だな思うこともある。
でもそれは若人の浅はかで観念的な思い込みであって、バンドとか人間関係とかってのは色んな事情が絡み合っていて、単純ないがみ合いでもないし単なる綺麗事でもない。勿論ザ・バンドだって別に粋な別れって気取ってた訳じゃなくて、あくまで自分達とお客さんへの落とし前として、そして仕事としてあれをやったんだろうし、内部では末期は人間関係的に結構ドロドロしてたわけで、そんなに綺麗事で済ませられるもんじゃなかったんだろうな、とも思う。
でもだからこそ面白い。往々にして「散り際の美しさ」なんてものの裏には打算や醜さがドロドロと渦巻いてるもんだ。ビートルズの「アビーロード」だってバラバラだった四人が「どうせラストアルバムを作るんなら傑作にしねぇとな、俺らビートルズだし」という動機で作って本当に世紀の名作を作っちゃうんだからな。凄い。
物事の最期ってなぁ色んな意味で大事だしその人となりをあらわすもんのう。
今週土曜日22日、去年俺がギターを弾いていたヒゲとボインで久しぶりに弾きます。これを最期にしばらくライブをやらないのでもしよかったら来てください。うちらは21時の出番です。
春夏秋冬Vol.36(2013年6月22日sat.)
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/index.html
Open/Start 18:30/19:00
Adv./Door 2,000円/2,300円
出演/
瑠愛
めーな
Augment
ヒゲとボイン
が、ある程度の年齢になってそれをだんだん理解出来るようにはなった。終わることの寂しさよりも、重荷を下ろすことの安堵の方がでかいってことも、ひとつのことが終わるということは同時に次のことの始まりでもあるってこともなんとなくは分かった。それをラストワルツと洒落のめして騒ごうってのが「大人の粋な別れ」ってことなんだなと理解も出来る。
でも、人間的にグチャグチャになってみっともなく終わっていくバンドの方がお話的には面白いし、時間がたてば笑い話にもなるし、そういう方がなんか好きだ。ロックンロールだなと思う。大人のカッコつけたけじめなんて嫌だな思うこともある。
でもそれは若人の浅はかで観念的な思い込みであって、バンドとか人間関係とかってのは色んな事情が絡み合っていて、単純ないがみ合いでもないし単なる綺麗事でもない。勿論ザ・バンドだって別に粋な別れって気取ってた訳じゃなくて、あくまで自分達とお客さんへの落とし前として、そして仕事としてあれをやったんだろうし、内部では末期は人間関係的に結構ドロドロしてたわけで、そんなに綺麗事で済ませられるもんじゃなかったんだろうな、とも思う。
でもだからこそ面白い。往々にして「散り際の美しさ」なんてものの裏には打算や醜さがドロドロと渦巻いてるもんだ。ビートルズの「アビーロード」だってバラバラだった四人が「どうせラストアルバムを作るんなら傑作にしねぇとな、俺らビートルズだし」という動機で作って本当に世紀の名作を作っちゃうんだからな。凄い。
物事の最期ってなぁ色んな意味で大事だしその人となりをあらわすもんのう。
今週土曜日22日、去年俺がギターを弾いていたヒゲとボインで久しぶりに弾きます。これを最期にしばらくライブをやらないのでもしよかったら来てください。うちらは21時の出番です。
春夏秋冬Vol.36(2013年6月22日sat.)
@LIVEHOUSE 真昼の月、夜の太陽
http://mahiru-yoru.com/index.html
Open/Start 18:30/19:00
Adv./Door 2,000円/2,300円
出演/
瑠愛
めーな
Augment
ヒゲとボイン
「相棒シリーズX-DAY」を観てきた。とにかく観応えがあった。
「相棒」は前回の劇場版もそうだったし、テレビの長尺判もそうだが、必ず観る側に何らかの問題提起や、ちょっと深読みすれば「民衆よ決起せよ」ぐらいの強いメッセージと現実の苦味が作品に込められている。
今回の作品もすっごく苦い、苦い後味を残す。べつにそれがダメだという訳じゃない。というかその苦味が無ければ相棒じゃない。
でもその苦味がちゃんとエンターテイメントとして帰結してるのは、メッセージを伝えるための全ての要素がちゃんと充実しているから。
役者陣では今回は伊丹と角田係長がスッゴク良い味だしてた。勿論田中圭はかっこよかったし、いつものレギュラーメンバーはどの人も良かったけど、やっぱ輝いてたのは伊丹と角田係長だな。相棒は脇役に良い役者が揃いすぎてるから、こういったスピンオフ気味の作品でも本線と同じように魅力的だ。
にしてもつい最近の韓国での銀行のATMのシステムエラー、北朝鮮によるサイバーテロと言われているが、その実際あった事件のお陰と言ってはなんだが、この作品で起きる事件と奇妙に符号していて現実が物語を後押しいしてくれているなぁと感じた。よりこの物語に説得力を増す方向に現実が傾いているという意味で、この作品の製作者や脚本家は奇跡の引きがあるなぁと思った。流石だな。
この作品のクライマックスと言えるような場面で、権力側は国民を思いっきり愚弄するようなアジテーションをするのだが、その一つ「民衆というの難しい真実よりも、簡単なウソを信じたいものだ」という言葉は、あの震災を経験し、いろんなものが露見し、それでも情報操作には相変わらず無頓着で、根本的な部分では変わることが今のところ出来てない日本人にとっては物凄く鈍く響く。身をもって実感したことを改めて突きつけられることの痛さは結構応えるもんだ。なんか製作者の「権力の側ってのはこれだけ民衆というのをナメて操作してるんだぞ、おい!いいのか?」って焚き付けられてるような気になった。
なんか「疑うことよりも、信じることの方が好きな国民だ」的な事も言っていた様な気がしたが、あれ以降ずうっと多くのひとが抱えていた問題意識を、マスに向けたエンターテイメントメディアで改めてメッセージ化されたカタルシスはあるものの、やはりそれ事態は凄く苦い。だから観終わったあとも、凄く良かったけどこれも権力側の「ここまでは言ってもいいよ〜、それでガス抜きしてちょーだい」という風な大衆操作の一環としての映画だったら嫌だなぁとか考えてしまった。この世の全ては仕組まれたもので、どんなに散発的に蜂起が起ころうとも、大きな現実は揺るがないみたいなじつに暗胆たる気持ちになった。
それでも、いやそれだからこそかな、面白かった。もう一回観たくなるくらい。
俺の隣にいた中学生くらいの女の子はどんな感想を持ったんだろうなぁ。
「相棒」は前回の劇場版もそうだったし、テレビの長尺判もそうだが、必ず観る側に何らかの問題提起や、ちょっと深読みすれば「民衆よ決起せよ」ぐらいの強いメッセージと現実の苦味が作品に込められている。
今回の作品もすっごく苦い、苦い後味を残す。べつにそれがダメだという訳じゃない。というかその苦味が無ければ相棒じゃない。
でもその苦味がちゃんとエンターテイメントとして帰結してるのは、メッセージを伝えるための全ての要素がちゃんと充実しているから。
役者陣では今回は伊丹と角田係長がスッゴク良い味だしてた。勿論田中圭はかっこよかったし、いつものレギュラーメンバーはどの人も良かったけど、やっぱ輝いてたのは伊丹と角田係長だな。相棒は脇役に良い役者が揃いすぎてるから、こういったスピンオフ気味の作品でも本線と同じように魅力的だ。
にしてもつい最近の韓国での銀行のATMのシステムエラー、北朝鮮によるサイバーテロと言われているが、その実際あった事件のお陰と言ってはなんだが、この作品で起きる事件と奇妙に符号していて現実が物語を後押しいしてくれているなぁと感じた。よりこの物語に説得力を増す方向に現実が傾いているという意味で、この作品の製作者や脚本家は奇跡の引きがあるなぁと思った。流石だな。
この作品のクライマックスと言えるような場面で、権力側は国民を思いっきり愚弄するようなアジテーションをするのだが、その一つ「民衆というの難しい真実よりも、簡単なウソを信じたいものだ」という言葉は、あの震災を経験し、いろんなものが露見し、それでも情報操作には相変わらず無頓着で、根本的な部分では変わることが今のところ出来てない日本人にとっては物凄く鈍く響く。身をもって実感したことを改めて突きつけられることの痛さは結構応えるもんだ。なんか製作者の「権力の側ってのはこれだけ民衆というのをナメて操作してるんだぞ、おい!いいのか?」って焚き付けられてるような気になった。
なんか「疑うことよりも、信じることの方が好きな国民だ」的な事も言っていた様な気がしたが、あれ以降ずうっと多くのひとが抱えていた問題意識を、マスに向けたエンターテイメントメディアで改めてメッセージ化されたカタルシスはあるものの、やはりそれ事態は凄く苦い。だから観終わったあとも、凄く良かったけどこれも権力側の「ここまでは言ってもいいよ〜、それでガス抜きしてちょーだい」という風な大衆操作の一環としての映画だったら嫌だなぁとか考えてしまった。この世の全ては仕組まれたもので、どんなに散発的に蜂起が起ころうとも、大きな現実は揺るがないみたいなじつに暗胆たる気持ちになった。
それでも、いやそれだからこそかな、面白かった。もう一回観たくなるくらい。
俺の隣にいた中学生くらいの女の子はどんな感想を持ったんだろうなぁ。
自分のミクシィのトップページに載っていたがミクシィが9周年らしい。
9年前といえば2004年。俺がミクシィをやりだしたのが2005年。当時の彼女から勧められてやりだしたときは「だいぶ遅ればせながら」って感じだったが、考えてみりゃ始まってまだそれほどたってない時期に始めてたんだなぁ。
ミクシィ始めて最初にビックリしたのが、世間の人の「日記」のあり方。まだつぶやき、ツイッターなるものが無かった時代なので、今のツイッターのどうでもいいようなつぶやきに相当するような内容の日記がバンバン上がってた。
元来頭の固い俺は、本来「日記」なんてものは自分だけが見ることの出来る場所に書くもんであって、それを不特定多数の人間が閲覧できる場に書く以上、個人的につける「日記」とは違う種類の、ちゃんと人に伝える努力や工夫が為された「メディア」でなければいけないのに、本人にしか分からないような独白を一行ニ行書いて人に見せつけるなど地獄の鬼すら反吐はく所業!(最近ハマカーンの漫才ばっか観てます)と思っていた。なので自分は意地でもそれなりに読む価値のある文章、なにか伝える意思を持った文章を書くんだと決めて、更新頻度はともかくもそれなりに熱量の高い日記を書くようになった。
おかげでそれまでは生まれてから一切日記なるものを個人的にも公的にも書く習慣の無かった俺に、文章を書いて人様に読んでもらうという新たなコミュニケーションのあり方がひとつ増えた。
十代二十代の頃のその時々の自分が何を考えてたかなんて記憶の彼方を手繰り寄せなければならないが、三十代の自分がその時々で何を考えてたかは、断片的ながらも残るようになった。勿論音楽活動の脚注という位置付けで始めたブログである以上、人様に向けたパフォーマンス的な意味もあるわけで、ホントにホントの心情だの事情だの情事だのは書いてない(当たり前だろ)が、少なくとも何に昂り、何に落ち込み、何に向けてどうあろうとしたのか?ぐらいの心意気は書いてある。
あと、ちゃんとした文章にするという作業はその都度その都度自分の考えや思いを整理し推敲もするわけで、それによって自分がどういう人間なのか?みたいなものに対して、以前よりはだいぶん自覚的になった。その意味でもこの「日記をつける」「文章を書く」という作業は自分にとってはかなり大きな変化をもたらしたと言えよう。
時代と共にコミュニケーションのあり方、メディアの役割というのは変わる。例えば電話の発明によってコミュニケーションの性質とスピードに革命的な変化が起きたし、それと同じようにネットやSNSの普及もコミュニケーションのあり方にとてつもない革命をもたらした。なにせ元来なら実際にそばで接して居なければ聞くことの出来ない「疲れた」とか「腹へったから飯食う」といった独り言を、どんな離れた場所にいても文字情報で聞くことが出来るんだから人間もえらく進化したもんだ。...まあそれはどうでもいいがなんせ一国の政権を変えてしまえるほどの力をSNSは持ってしまったし、そこまではいかなくても普段の生活習慣を変化させたし、ネット以前から存在した既存のメディアに対する接し方にすら変化が現れた。
昨夜NHKで「放送記念日特集 どうなる!?テレビ60年目の問いかけ」という番組があった。NHK特有のお堅い感じではなく、ニコニコ動画の生番組のような緩い雰囲気で、あの鈴木おさむ氏も出てたこともあったりしてとても面白かったんだけど、そのなかでもテレビに対する接し方の世代間の落差。三十代四十代以上はテレビに対し、「ながら」な部分はありつつもコンテンツそのものに対して集中して観ているのに対し、十代二十代の子はネットやSNSをやりながらその合間にテレビを観るという接し方。つまりドラマなりバラエティなりといったコンテンツに対して「作品」とか「娯楽」として接するのではなく、情報の一つとして観ているという感じ。確かに齢37歳の俺ですらよっぽど面白い番組や好きな番組、あるいは興味のある話題や情報じゃない限りは携帯でネットを見ながらテレビをぼんやり観ているような感じで、だいぶ前からそれが常態となっている。まあそういった接し方はミクシィに手を出す以前からしていて、それまでは本を読みながらとか音楽を聴きながらとかギター弾きながらとか観てた。ミクシィやりだして以降ネットが身近になってからは、テレビから気を散らすアイテムが一つ増えただけともいえるか。
なんにせよテレビって映画と違って観る側の自由度が半端なく保証されたメディアなわけで、まあコンテンツを作る側としては何としてもかじりついて観させるようなものを作りたいだろうが、本来がそういう「作品」を提示するために適したメディアとは言えない。
以前上岡龍太郎がテレビ論として言っていたが、テレビ創世記はコンテンツが不足していたため寄席で行われている落語や演芸場での漫才などをそのまま放送していたらしいが、そこで番組製作者側が気付いたのは「情報としての芸は伝えられるが、そういった芸を生で体験したときの空気感はテレビというメディアでは伝えられない」ということ。テレビというメディアに適したコンテンツというのはいわゆる「本芸」ではなく、芸人の楽屋話か素人の本気な様、つまりハプニングやドキュメントだということ。それが如実に顕在化したのがあさま山荘立て籠り事件の中継だったという。膠着常態でのなんの変化もない画面をテレビは映しているだけでとんでもない視聴率を叩き出したという。そのテレビの特性を意識的に利用してテレビの視聴率を飛躍的に稼いだ人というのが萩本欽一、欽ちゃんだ。いわゆる素人をテレビの遡上に上げ、プロの芸人がそれをいじることによって人為的にハプニングを誘発し、同じく素人である視聴者側にバーチャルではあるがそこで起きている事の当事者や観察者であるかのように錯覚させ、そのドキュメント性を武器にテレビ界を席巻した。
ネットはこちらがわが能動的な意識をもって接するメディアだ。取捨選択や派生する情報を追ったり戻ったりしながら、あるいは重要な部分を抜き出したり転用したりして、まさに当事者や観察者としてなんらかの形でそこ情報に「参加」しているのだからそりゃあ集中度は違う。単に選択された情報を一方的に発信するテレビとそれを受けとる受信者という単純な関係性ではない。つまり機能が違う。
いつ頃からだろうか、ネット中心に生活をし、テレビを観てないことを誇らしげに誇示したがる人間が増えたが、別にテレビを卒業してネットに移行する事が偉いわけでもなく、元々テレビもネットも機能が違うメディアなんだから、相反するものでもないし、流行ったり廃れたり駆逐したりされたりするもんでもなく、共存しながら新たな可能性を模索すりゃいいこと。
最近の家電としてのテレビには過去2週間以内に放送された番組を全録画出来るものがあって徐々に売り上げを延ばしてるらしい。これなんかはもうテレビのネット化みたいなもんで、視聴者は自分が目当ての番組をオンタイムで観るとか、あらかじめ予約して録画するとかいった概念はもう無くなって、ネットでアーカイブを検索するかのごとく全てのコンテンツを閲覧出来るし、普段は観る気のない番組でも試しに観てみたら好きになる、なんて可能性もある。検索ワードを入れればそのワードに関する番組だけ全部観ることが出来るとか、もうネットと一緒じゃないか。あとはもう地上波という規制による表現の不自由度さえ無くなればネットとテレビは融合する。そうなるとテレビ用のCMというものが意味をなさなくなり企業からの広告収入が無くなるだろうが、そうなりゃ制作費捻出のためには課金システムになるだろう。そうすると番組作りももっともっと視聴者側に寄り、よりシビアになって優良なコンテンツが増えるだろう。でもそうなると企業はどうやって商品を宣伝すりゃいいんだろう?まあそうなったらそうなったで宣伝媒体というのは別に生まれるだろう。そうするとガラガラポンで新たなビジネスチャンスも生まれるかもしれない。などなど妄想も含め色々と考えてしまった。なにやってんだ。
それでも今日映画館に行って「相棒X-DAY」を観てきたが、やっぱり一つの席に座らされて、極力静かにして、暗闇のなかで観ることによって真価を発揮する映画というメディアじゃなきゃ味わえない面白さがあった。ネットやテレビでは絶対にこの種の高揚はない。わざわざ金を払って観に行ってこちら側には耳のいたい苦味のある問題提起をされて満足してんだからわしゃマゾか?こういう作品に出会えるから映画館に足を運びたいと思うのだ。
昭和40年代、テレビが普及して映画産業が斜陽になったときに「テレビによって映画は駆逐された」と言われたが、ラジオと本と映画しか娯楽メディアが無かった時代、映画の黄金時代に比べると産業としての規模は幾分小さくなったのかもしれないが、映画というメディアも文化もいまだにちゃんと(かどうかは分からんが)残ってる。時代と共に役割が変わっただけだ。一度隆盛を極めたメディアはそう易々とは消滅しない。いまだにアナログレコードは残っている。
話がワケわからんとこにとっちらかったが、まあこういう世迷い言というか好き勝手な思いを文章化するためにも9年目を迎えたミクシィだのなんだのをこれからも利用していくだろう。
9年前といえば2004年。俺がミクシィをやりだしたのが2005年。当時の彼女から勧められてやりだしたときは「だいぶ遅ればせながら」って感じだったが、考えてみりゃ始まってまだそれほどたってない時期に始めてたんだなぁ。
ミクシィ始めて最初にビックリしたのが、世間の人の「日記」のあり方。まだつぶやき、ツイッターなるものが無かった時代なので、今のツイッターのどうでもいいようなつぶやきに相当するような内容の日記がバンバン上がってた。
元来頭の固い俺は、本来「日記」なんてものは自分だけが見ることの出来る場所に書くもんであって、それを不特定多数の人間が閲覧できる場に書く以上、個人的につける「日記」とは違う種類の、ちゃんと人に伝える努力や工夫が為された「メディア」でなければいけないのに、本人にしか分からないような独白を一行ニ行書いて人に見せつけるなど地獄の鬼すら反吐はく所業!(最近ハマカーンの漫才ばっか観てます)と思っていた。なので自分は意地でもそれなりに読む価値のある文章、なにか伝える意思を持った文章を書くんだと決めて、更新頻度はともかくもそれなりに熱量の高い日記を書くようになった。
おかげでそれまでは生まれてから一切日記なるものを個人的にも公的にも書く習慣の無かった俺に、文章を書いて人様に読んでもらうという新たなコミュニケーションのあり方がひとつ増えた。
十代二十代の頃のその時々の自分が何を考えてたかなんて記憶の彼方を手繰り寄せなければならないが、三十代の自分がその時々で何を考えてたかは、断片的ながらも残るようになった。勿論音楽活動の脚注という位置付けで始めたブログである以上、人様に向けたパフォーマンス的な意味もあるわけで、ホントにホントの心情だの事情だの情事だのは書いてない(当たり前だろ)が、少なくとも何に昂り、何に落ち込み、何に向けてどうあろうとしたのか?ぐらいの心意気は書いてある。
あと、ちゃんとした文章にするという作業はその都度その都度自分の考えや思いを整理し推敲もするわけで、それによって自分がどういう人間なのか?みたいなものに対して、以前よりはだいぶん自覚的になった。その意味でもこの「日記をつける」「文章を書く」という作業は自分にとってはかなり大きな変化をもたらしたと言えよう。
時代と共にコミュニケーションのあり方、メディアの役割というのは変わる。例えば電話の発明によってコミュニケーションの性質とスピードに革命的な変化が起きたし、それと同じようにネットやSNSの普及もコミュニケーションのあり方にとてつもない革命をもたらした。なにせ元来なら実際にそばで接して居なければ聞くことの出来ない「疲れた」とか「腹へったから飯食う」といった独り言を、どんな離れた場所にいても文字情報で聞くことが出来るんだから人間もえらく進化したもんだ。...まあそれはどうでもいいがなんせ一国の政権を変えてしまえるほどの力をSNSは持ってしまったし、そこまではいかなくても普段の生活習慣を変化させたし、ネット以前から存在した既存のメディアに対する接し方にすら変化が現れた。
昨夜NHKで「放送記念日特集 どうなる!?テレビ60年目の問いかけ」という番組があった。NHK特有のお堅い感じではなく、ニコニコ動画の生番組のような緩い雰囲気で、あの鈴木おさむ氏も出てたこともあったりしてとても面白かったんだけど、そのなかでもテレビに対する接し方の世代間の落差。三十代四十代以上はテレビに対し、「ながら」な部分はありつつもコンテンツそのものに対して集中して観ているのに対し、十代二十代の子はネットやSNSをやりながらその合間にテレビを観るという接し方。つまりドラマなりバラエティなりといったコンテンツに対して「作品」とか「娯楽」として接するのではなく、情報の一つとして観ているという感じ。確かに齢37歳の俺ですらよっぽど面白い番組や好きな番組、あるいは興味のある話題や情報じゃない限りは携帯でネットを見ながらテレビをぼんやり観ているような感じで、だいぶ前からそれが常態となっている。まあそういった接し方はミクシィに手を出す以前からしていて、それまでは本を読みながらとか音楽を聴きながらとかギター弾きながらとか観てた。ミクシィやりだして以降ネットが身近になってからは、テレビから気を散らすアイテムが一つ増えただけともいえるか。
なんにせよテレビって映画と違って観る側の自由度が半端なく保証されたメディアなわけで、まあコンテンツを作る側としては何としてもかじりついて観させるようなものを作りたいだろうが、本来がそういう「作品」を提示するために適したメディアとは言えない。
以前上岡龍太郎がテレビ論として言っていたが、テレビ創世記はコンテンツが不足していたため寄席で行われている落語や演芸場での漫才などをそのまま放送していたらしいが、そこで番組製作者側が気付いたのは「情報としての芸は伝えられるが、そういった芸を生で体験したときの空気感はテレビというメディアでは伝えられない」ということ。テレビというメディアに適したコンテンツというのはいわゆる「本芸」ではなく、芸人の楽屋話か素人の本気な様、つまりハプニングやドキュメントだということ。それが如実に顕在化したのがあさま山荘立て籠り事件の中継だったという。膠着常態でのなんの変化もない画面をテレビは映しているだけでとんでもない視聴率を叩き出したという。そのテレビの特性を意識的に利用してテレビの視聴率を飛躍的に稼いだ人というのが萩本欽一、欽ちゃんだ。いわゆる素人をテレビの遡上に上げ、プロの芸人がそれをいじることによって人為的にハプニングを誘発し、同じく素人である視聴者側にバーチャルではあるがそこで起きている事の当事者や観察者であるかのように錯覚させ、そのドキュメント性を武器にテレビ界を席巻した。
ネットはこちらがわが能動的な意識をもって接するメディアだ。取捨選択や派生する情報を追ったり戻ったりしながら、あるいは重要な部分を抜き出したり転用したりして、まさに当事者や観察者としてなんらかの形でそこ情報に「参加」しているのだからそりゃあ集中度は違う。単に選択された情報を一方的に発信するテレビとそれを受けとる受信者という単純な関係性ではない。つまり機能が違う。
いつ頃からだろうか、ネット中心に生活をし、テレビを観てないことを誇らしげに誇示したがる人間が増えたが、別にテレビを卒業してネットに移行する事が偉いわけでもなく、元々テレビもネットも機能が違うメディアなんだから、相反するものでもないし、流行ったり廃れたり駆逐したりされたりするもんでもなく、共存しながら新たな可能性を模索すりゃいいこと。
最近の家電としてのテレビには過去2週間以内に放送された番組を全録画出来るものがあって徐々に売り上げを延ばしてるらしい。これなんかはもうテレビのネット化みたいなもんで、視聴者は自分が目当ての番組をオンタイムで観るとか、あらかじめ予約して録画するとかいった概念はもう無くなって、ネットでアーカイブを検索するかのごとく全てのコンテンツを閲覧出来るし、普段は観る気のない番組でも試しに観てみたら好きになる、なんて可能性もある。検索ワードを入れればそのワードに関する番組だけ全部観ることが出来るとか、もうネットと一緒じゃないか。あとはもう地上波という規制による表現の不自由度さえ無くなればネットとテレビは融合する。そうなるとテレビ用のCMというものが意味をなさなくなり企業からの広告収入が無くなるだろうが、そうなりゃ制作費捻出のためには課金システムになるだろう。そうすると番組作りももっともっと視聴者側に寄り、よりシビアになって優良なコンテンツが増えるだろう。でもそうなると企業はどうやって商品を宣伝すりゃいいんだろう?まあそうなったらそうなったで宣伝媒体というのは別に生まれるだろう。そうするとガラガラポンで新たなビジネスチャンスも生まれるかもしれない。などなど妄想も含め色々と考えてしまった。なにやってんだ。
それでも今日映画館に行って「相棒X-DAY」を観てきたが、やっぱり一つの席に座らされて、極力静かにして、暗闇のなかで観ることによって真価を発揮する映画というメディアじゃなきゃ味わえない面白さがあった。ネットやテレビでは絶対にこの種の高揚はない。わざわざ金を払って観に行ってこちら側には耳のいたい苦味のある問題提起をされて満足してんだからわしゃマゾか?こういう作品に出会えるから映画館に足を運びたいと思うのだ。
昭和40年代、テレビが普及して映画産業が斜陽になったときに「テレビによって映画は駆逐された」と言われたが、ラジオと本と映画しか娯楽メディアが無かった時代、映画の黄金時代に比べると産業としての規模は幾分小さくなったのかもしれないが、映画というメディアも文化もいまだにちゃんと(かどうかは分からんが)残ってる。時代と共に役割が変わっただけだ。一度隆盛を極めたメディアはそう易々とは消滅しない。いまだにアナログレコードは残っている。
話がワケわからんとこにとっちらかったが、まあこういう世迷い言というか好き勝手な思いを文章化するためにも9年目を迎えたミクシィだのなんだのをこれからも利用していくだろう。
「べしゃり暮らし」の最新刊を読む。
「べしゃり暮らし」はプロのお笑い芸人を目指すもの達の物語を、日本のお笑いの現状に則してとてもリアルに描いた漫画だ。この漫画は以前から大好きでいつも最新刊が楽しみにしてるんだけど、今は「お笑いゴッデス」という、現実に則して言うならあの「エンタの神様」に相当する番組に対する芸人達の悲喜こもごもが流れの中心にあってとても面白い。
心あるお笑いファンなら誰もが馬鹿にするあの逆伝説高視聴率一発屋製造番組と言われたあの「エンタの神様」。
ご多分に漏れず俺もあの番組は、観る機会があると必ず何かと腹がたったので今でも記憶に残ってる。
本当に面白い芸人に対するガサツなパッケージングと、力無いと見なされた芸人の不様なまでの番組からの操られっぷりに常にイライラさせられ、しかもそれがかなりの視聴率を叩き出しているという哀しい現実に落胆したりもしたという、実に思い出深い番組だ。まあ殆ど観てなかったけど。
で、この漫画の主人公も当初はあんな番組に出るくらい恥ずかしいことはないみたいなスタンスをとるが、相方や芸人仲間、実際に番組に携わってる人間と絡むうちに考えが変わってきて、よりしたたかにその手の下らない番組すらもチャンスにしようという方向で今行っている。
この漫画はいろんなお笑いのありよう、キャラ芸人にはキャラ芸人の、一発屋芸人には一発屋芸人なりの、センス芸人にはセンス芸人なりの、若林言うところの「尖りスベり」してる芸人には尖りスベり芸人なりのスタンスが当事者目線で描かれており、決して一歩方向の価値観だけで閉じてない。勿論作者の森田まさのり氏なりの美意識や価値観もちゃんとあるけれど、それが絶対正義みたいな描かれ方はしてない。なんにせよとても意義深い漫画だし破格に面白い。
人や物をはじめ、すべての物にはそれぞれの事情と存在理由があり、必要とされる理由、論議され否定される意義がある、というのを強く考えさせられる。
つい自分の価値観を盲信し、たいした熟慮もせず安直に物事を否定したりしがちな俺みたいな人間にとってはいい薬になる。まあこのブログ自体が熟慮が足りてねぇよ、と言われたら返す言葉もないが。
ナイツのツッコミの土屋は、たまに来る弟子志願者を断るときに、色々アドバイスしつつ必ずこの「べしゃり暮らし」を読みな、と勧めるらしい。いい話だ。
さて、お笑いというとこないだyoutubeを検索して観たのが、1990年頃放送された大阪EXテレビの「漫才ブームは再び来るか?」という討論会だ。これは面白かった。大阪EXは上岡龍太郎が司会ということもあってか、「笑い」についてシリアスに語り合うというコンテンツがたくさんあってとっても面白い。以前もこの番組で放送された桂枝雀のお笑い論に感銘して、それに関してのブログを書いたことがある。
まあそれはともかく、この討論会。お笑いの当事者である芸人、放送作家、プロデューサーの他に、作家や映画監督といった言わば門外漢の文化人枠も交えつつ進む。
で、前半からいきなり口角泡を飛ばして語り出すのが文化人連中。
大島渚は「視聴者は皆、漫才コンビの仲のいい関係性を観るために漫才を観てるんですよ。そのぬくもりを人は必要としてるんですよ」の一点張り。
左翼系作家の小田実は「今のお笑いには権力に対する反抗精神が無い。弱者を笑うような漫才を捨て、強者を笑うような漫才をせよ。天皇やロシアやイラクをネタにしろ!テレビで出来ないなら原点に戻って路上でやれ!」という自らのスタンスから一歩も出ることなく、作家>芸人というヒエラルキーを信じて疑わない昔の硬質な文化人っぷりを思う存分撒き散らしながら、最後まで言い張り続けていた。
こいつらがケンケンガクガク怒声を張りながらコンフュージョンしていく様は実に懐かしいあの雰囲気。初期の「朝まで生テレビ」のような単なるアジテーションの出しあいに終始して、建設的な論議には全くならないというあの空気だ。まあ20年以上前の番組だからね。バブル真っ盛り。
その様子を静観していた芸人連中が中盤から徐々に口を開くのだが、さすがお笑いの当事者だけあって、文化人どもが言う絵空事の観念論と違い、実感と当事者意識に基づいた、今聞いても納得させられるような意見や、その後のお笑いのあり方を予見するような意見も出てくる。
歴史を経た現在の視点から過去のこういった論議の内容を否定的に語るのも卑怯だが、高みからしか意見を言えない門外漢の文化人てなぇいつの時代もバカ野郎だなという思いをさらに強くする。
勿論そういう連中だって自らのフィールドにおいては当事者としてのシビアで真を突いた哲学を開陳するんだろうし、特に大島渚監督なんて問題意識でその全てが出来てるような人だ。そもそもこの番組はあくまでもそういった連中なりのそれぞれのスタンスで忌憚なく意見を出せっていうコンセプトのもと出演してるんだろうからしょうがないっちゃあしょうがない。それに当事者による動脈硬化気味の常識ではなく、門外漢の無責任だが常識はずれの意見が風穴を開けるってこともある。
しかしやっぱり当事者である芸人、島田洋七や西川のりお、せんだみつおらの意見は、単なる理想論や観念論からは出てこない、リアルな言葉があった。
漫才に対する愛憎あわせもった深い思い、妥協という処世術を身に付けざるを得ない現状に対する複雑な心境、素人に席巻されることを命題付けられたテレビというメディアの本質そのものに対する芸人ならではのスタンスなどなど。
小田実の「(島田と西川を指して)君ら二人で組んでやったら面白いことになるよ」という文化人ならではのフィジカルな実感を伴わない、概念と単純な足し算だけでお笑いなんて出来上がるだろうという浅はかな思い込みの意見など、島田洋七の「どんな仕事に手を出しても、やっぱり俺は漫才がしたい。もういっぺんあの感覚を味わいたい」や上岡龍太郎や西川のりおの「あんっっっなしんどいこと、もう二度としたくない」というリアルな言葉の前にはどうでもいい雑音だ。
「べしゃり暮らし」にはそういうリアルな言葉というか、心のおもらしみたいなもんがいっぱい出てくる。読みごたえある物語だ。
「べしゃり暮らし」はプロのお笑い芸人を目指すもの達の物語を、日本のお笑いの現状に則してとてもリアルに描いた漫画だ。この漫画は以前から大好きでいつも最新刊が楽しみにしてるんだけど、今は「お笑いゴッデス」という、現実に則して言うならあの「エンタの神様」に相当する番組に対する芸人達の悲喜こもごもが流れの中心にあってとても面白い。
心あるお笑いファンなら誰もが馬鹿にするあの逆伝説高視聴率一発屋製造番組と言われたあの「エンタの神様」。
ご多分に漏れず俺もあの番組は、観る機会があると必ず何かと腹がたったので今でも記憶に残ってる。
本当に面白い芸人に対するガサツなパッケージングと、力無いと見なされた芸人の不様なまでの番組からの操られっぷりに常にイライラさせられ、しかもそれがかなりの視聴率を叩き出しているという哀しい現実に落胆したりもしたという、実に思い出深い番組だ。まあ殆ど観てなかったけど。
で、この漫画の主人公も当初はあんな番組に出るくらい恥ずかしいことはないみたいなスタンスをとるが、相方や芸人仲間、実際に番組に携わってる人間と絡むうちに考えが変わってきて、よりしたたかにその手の下らない番組すらもチャンスにしようという方向で今行っている。
この漫画はいろんなお笑いのありよう、キャラ芸人にはキャラ芸人の、一発屋芸人には一発屋芸人なりの、センス芸人にはセンス芸人なりの、若林言うところの「尖りスベり」してる芸人には尖りスベり芸人なりのスタンスが当事者目線で描かれており、決して一歩方向の価値観だけで閉じてない。勿論作者の森田まさのり氏なりの美意識や価値観もちゃんとあるけれど、それが絶対正義みたいな描かれ方はしてない。なんにせよとても意義深い漫画だし破格に面白い。
人や物をはじめ、すべての物にはそれぞれの事情と存在理由があり、必要とされる理由、論議され否定される意義がある、というのを強く考えさせられる。
つい自分の価値観を盲信し、たいした熟慮もせず安直に物事を否定したりしがちな俺みたいな人間にとってはいい薬になる。まあこのブログ自体が熟慮が足りてねぇよ、と言われたら返す言葉もないが。
ナイツのツッコミの土屋は、たまに来る弟子志願者を断るときに、色々アドバイスしつつ必ずこの「べしゃり暮らし」を読みな、と勧めるらしい。いい話だ。
さて、お笑いというとこないだyoutubeを検索して観たのが、1990年頃放送された大阪EXテレビの「漫才ブームは再び来るか?」という討論会だ。これは面白かった。大阪EXは上岡龍太郎が司会ということもあってか、「笑い」についてシリアスに語り合うというコンテンツがたくさんあってとっても面白い。以前もこの番組で放送された桂枝雀のお笑い論に感銘して、それに関してのブログを書いたことがある。
まあそれはともかく、この討論会。お笑いの当事者である芸人、放送作家、プロデューサーの他に、作家や映画監督といった言わば門外漢の文化人枠も交えつつ進む。
で、前半からいきなり口角泡を飛ばして語り出すのが文化人連中。
大島渚は「視聴者は皆、漫才コンビの仲のいい関係性を観るために漫才を観てるんですよ。そのぬくもりを人は必要としてるんですよ」の一点張り。
左翼系作家の小田実は「今のお笑いには権力に対する反抗精神が無い。弱者を笑うような漫才を捨て、強者を笑うような漫才をせよ。天皇やロシアやイラクをネタにしろ!テレビで出来ないなら原点に戻って路上でやれ!」という自らのスタンスから一歩も出ることなく、作家>芸人というヒエラルキーを信じて疑わない昔の硬質な文化人っぷりを思う存分撒き散らしながら、最後まで言い張り続けていた。
こいつらがケンケンガクガク怒声を張りながらコンフュージョンしていく様は実に懐かしいあの雰囲気。初期の「朝まで生テレビ」のような単なるアジテーションの出しあいに終始して、建設的な論議には全くならないというあの空気だ。まあ20年以上前の番組だからね。バブル真っ盛り。
その様子を静観していた芸人連中が中盤から徐々に口を開くのだが、さすがお笑いの当事者だけあって、文化人どもが言う絵空事の観念論と違い、実感と当事者意識に基づいた、今聞いても納得させられるような意見や、その後のお笑いのあり方を予見するような意見も出てくる。
歴史を経た現在の視点から過去のこういった論議の内容を否定的に語るのも卑怯だが、高みからしか意見を言えない門外漢の文化人てなぇいつの時代もバカ野郎だなという思いをさらに強くする。
勿論そういう連中だって自らのフィールドにおいては当事者としてのシビアで真を突いた哲学を開陳するんだろうし、特に大島渚監督なんて問題意識でその全てが出来てるような人だ。そもそもこの番組はあくまでもそういった連中なりのそれぞれのスタンスで忌憚なく意見を出せっていうコンセプトのもと出演してるんだろうからしょうがないっちゃあしょうがない。それに当事者による動脈硬化気味の常識ではなく、門外漢の無責任だが常識はずれの意見が風穴を開けるってこともある。
しかしやっぱり当事者である芸人、島田洋七や西川のりお、せんだみつおらの意見は、単なる理想論や観念論からは出てこない、リアルな言葉があった。
漫才に対する愛憎あわせもった深い思い、妥協という処世術を身に付けざるを得ない現状に対する複雑な心境、素人に席巻されることを命題付けられたテレビというメディアの本質そのものに対する芸人ならではのスタンスなどなど。
小田実の「(島田と西川を指して)君ら二人で組んでやったら面白いことになるよ」という文化人ならではのフィジカルな実感を伴わない、概念と単純な足し算だけでお笑いなんて出来上がるだろうという浅はかな思い込みの意見など、島田洋七の「どんな仕事に手を出しても、やっぱり俺は漫才がしたい。もういっぺんあの感覚を味わいたい」や上岡龍太郎や西川のりおの「あんっっっなしんどいこと、もう二度としたくない」というリアルな言葉の前にはどうでもいい雑音だ。
「べしゃり暮らし」にはそういうリアルな言葉というか、心のおもらしみたいなもんがいっぱい出てくる。読みごたえある物語だ。
ジミヘンのヘンドリックスレーベルからの未発表音源集第三弾である「ピープル、ヘル&エンジェルズ」が物凄く濃厚な内容でいい。
スタジオでジャムってるうちに新しい曲のアイデアやアレンジの着想を得ることの多いジミの事なので、この手の音源はまだまだ埋蔵されているのかと思ったが、エンジニアのエディ・クレイマーによるとどうやらボチボチ打ち止めのようだ。
なので最後の花火の如く今回は前二作比較してもジミのギターリストとしての凄さが際立つようなテイクが目立つ。まあ前二作も相当なもんではあったんだが。それにしてもR&Bギタリスト、インプロヴァイザーとしてのジミがいかに凄まじい腕を持っていたかを改めて証明するような作品だ。
ジミの死後、この手の未発表音源集はいくつも粗製乱造されてきたが、音源の権利関係でゴタゴタしていた70年代はとにかくジミの名前さえ掲げておけばある程度のセールスは期待できるということで、なんのコンセプトも持たない、単にかごの中をさらっただけのようなものや、ジミとは縁も所縁の無いミュージシャンの演奏をあとから被せたような噴飯モノも出されてきた。
しかし90年代の中頃に音源の権利が遺族に戻ってきて以降はジミの作品の正式なアーカイブ化や未発表音源の発掘もキチンと系統立てて行われ、架空とはいえ生前のジミの構想していたものに限り無く近いと言われるニューアルバム「ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン」なんていう名作も生まれた。
それらの発掘音源は90年代後半から断続的にリリースされてきたが、リリースされる年代なりの最新のマスタリング技術をもってして音圧やサウンドの質感がちゃんとアップデイトされつつも、内容においては余計な手を加えることはせずなるべく、ほぼ当時のスタジオで行われた通りのままパッケージングされているので、やっと当時のジミが音楽的に何処に向かおうとしていた、あるいはそれまでの作品群をどう総括しようとしていたかが伝わってくるものとなってきた。
ジミヘンのこの手の音源を聴くたびに思うのだけど、やっぱり天才と呼ばれる人は実に多作だということ。天才と呼ばれる人で寡作というのはあまりいない思う。
メモやアイデア段階のものも含めてとは言え、わずか3年程の活動期間によくぞこれだけの量の音源を残したもんだと思う。単にテイク違いにものが幾つも存在するというだけでなく、アレンジの方向性やリズムアプローチを抜本的に変えてのリメイクが相当量ある。しかもツアーやテレビ出演の合間を縫っての作業の中で行われている。ワーカホリック以外の何者でもない。
あまり宗教がかった言い方をするのは好きではないけど、音楽の神がジミの身体を借りてこの世に斬新で革命的な音楽をアウトプットさせてたのではないか?とすら思ってしまう。いわゆるイタコ状態。こういう「全ては神の仕業」みたいなことを思うのは他にはビートルズと美空ひばりだけだ。
前回の未発表音源集の「ヴァリーズ・オブ・ネプチューン」は解散間際のエクスペリエンスのセッションが多かったのでリズムの面で荒い部分が目立ったが、今回はバンド・オブ・ジプシーのメンバーとのセッションが中心となっているので比較的安定したグルーヴの中でジミがのびのびとギターを弾いていたのがよく伝わってくる。
分解しそうなくらいの破天荒さでスリリングなグルーヴを放出しまくってたブルース・ハードロック・トリオであるエクスペリエンスの演奏を長年愛し、安定はしているがスリルに欠けるバンド・オブ・ジプシーのグルーヴには否定的だったけれど、それはバンド・オブ・ジプシー名義の唯一の作品が、契約の関係上作らざるを得なかった間に合わせのライブ盤のみだったからであって、こうやってスタジオでのこの三人の演奏がまとめて聴けるとその印象がだいぶ違ってくる。こういったセッションを結実させて発表されるはずだったのが、ジミの死後27年たって編み上げられた「ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン」だったわけだ。
アメリカ産ブラック・インディアンの末裔であるジミが、イギリス人で元々ギタリストであった急造ベーシストと、ジャズ志向の強い性急なドラマーの両白人と組んだデビュー時のエクスペリエンスは、その勢いまかせのような成り立ちからしても異種格闘技的な乱暴さと、ハードで革新的なサウンドを誇り、それがサイケでトリップした時代の空気を暴力的に切り裂いた。その破天荒でアヴァンギャルドでかつポップであるというかなり無茶苦茶で諸刃の剣のような存在であったこのバンドが、激動する時代の変遷に次第に揉まれていき分裂するのは必定であり、ジミが次に組んだバンド・オブ・ジプシーのメンバーが全員ブラック・アメリカンで、叩き上げのR&Bプレイヤーであり、当時の最先端の黒人音楽であるファンクにも対応しうるメンバーであったのもこれまた必定であった。
ロックやブラック・ミュージック全体が、より巨大な産業と化してしまった70年代にジミがもし生きていたらどんな音楽を生み出していただろうか?というのはいつの時代も興味がつきないが、音楽による革命や自由や解放が本気で信じられたギリギリ最期の時代にジミが絶命してしまったのも、これまた神の配剤としか思えない。
確かにビジネス上のゴタゴタで精神を磨耗させ、そこからの逃避のためのドラッグがその死の要因であったとしても、少なくとも存命中生み出した音楽には商業的な要請による妥協が入り込んだ形跡は無く、その状態のままこの世を去ったからこそ、いまだにジミの音楽に真の自由とある種のスピリチュアルささえも感じとり、それが神格化に繋がってるという面もあるのかもしれない。
この「ピープル、ヘル&エンジェルズ」で聴ける無邪気なジャムセッションの模様ですら一級の芸術作品のように今のこの耳に響くのも、あの時代の神通力が為せる業というか、あのロックの真の黄金期の時代の熱気みたいなものがちゃんとパッケージングされているからだ。余計な編集はせず、現代的なリミックスなども最小限にとどめたエディ・クレイマーに感謝せねば。
この手の未発表音源集ならいくらでも出してほしいんだが、ここらでボチボチ打ち止めとは寂しい限りだ。
スタジオでジャムってるうちに新しい曲のアイデアやアレンジの着想を得ることの多いジミの事なので、この手の音源はまだまだ埋蔵されているのかと思ったが、エンジニアのエディ・クレイマーによるとどうやらボチボチ打ち止めのようだ。
なので最後の花火の如く今回は前二作比較してもジミのギターリストとしての凄さが際立つようなテイクが目立つ。まあ前二作も相当なもんではあったんだが。それにしてもR&Bギタリスト、インプロヴァイザーとしてのジミがいかに凄まじい腕を持っていたかを改めて証明するような作品だ。
ジミの死後、この手の未発表音源集はいくつも粗製乱造されてきたが、音源の権利関係でゴタゴタしていた70年代はとにかくジミの名前さえ掲げておけばある程度のセールスは期待できるということで、なんのコンセプトも持たない、単にかごの中をさらっただけのようなものや、ジミとは縁も所縁の無いミュージシャンの演奏をあとから被せたような噴飯モノも出されてきた。
しかし90年代の中頃に音源の権利が遺族に戻ってきて以降はジミの作品の正式なアーカイブ化や未発表音源の発掘もキチンと系統立てて行われ、架空とはいえ生前のジミの構想していたものに限り無く近いと言われるニューアルバム「ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン」なんていう名作も生まれた。
それらの発掘音源は90年代後半から断続的にリリースされてきたが、リリースされる年代なりの最新のマスタリング技術をもってして音圧やサウンドの質感がちゃんとアップデイトされつつも、内容においては余計な手を加えることはせずなるべく、ほぼ当時のスタジオで行われた通りのままパッケージングされているので、やっと当時のジミが音楽的に何処に向かおうとしていた、あるいはそれまでの作品群をどう総括しようとしていたかが伝わってくるものとなってきた。
ジミヘンのこの手の音源を聴くたびに思うのだけど、やっぱり天才と呼ばれる人は実に多作だということ。天才と呼ばれる人で寡作というのはあまりいない思う。
メモやアイデア段階のものも含めてとは言え、わずか3年程の活動期間によくぞこれだけの量の音源を残したもんだと思う。単にテイク違いにものが幾つも存在するというだけでなく、アレンジの方向性やリズムアプローチを抜本的に変えてのリメイクが相当量ある。しかもツアーやテレビ出演の合間を縫っての作業の中で行われている。ワーカホリック以外の何者でもない。
あまり宗教がかった言い方をするのは好きではないけど、音楽の神がジミの身体を借りてこの世に斬新で革命的な音楽をアウトプットさせてたのではないか?とすら思ってしまう。いわゆるイタコ状態。こういう「全ては神の仕業」みたいなことを思うのは他にはビートルズと美空ひばりだけだ。
前回の未発表音源集の「ヴァリーズ・オブ・ネプチューン」は解散間際のエクスペリエンスのセッションが多かったのでリズムの面で荒い部分が目立ったが、今回はバンド・オブ・ジプシーのメンバーとのセッションが中心となっているので比較的安定したグルーヴの中でジミがのびのびとギターを弾いていたのがよく伝わってくる。
分解しそうなくらいの破天荒さでスリリングなグルーヴを放出しまくってたブルース・ハードロック・トリオであるエクスペリエンスの演奏を長年愛し、安定はしているがスリルに欠けるバンド・オブ・ジプシーのグルーヴには否定的だったけれど、それはバンド・オブ・ジプシー名義の唯一の作品が、契約の関係上作らざるを得なかった間に合わせのライブ盤のみだったからであって、こうやってスタジオでのこの三人の演奏がまとめて聴けるとその印象がだいぶ違ってくる。こういったセッションを結実させて発表されるはずだったのが、ジミの死後27年たって編み上げられた「ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン」だったわけだ。
アメリカ産ブラック・インディアンの末裔であるジミが、イギリス人で元々ギタリストであった急造ベーシストと、ジャズ志向の強い性急なドラマーの両白人と組んだデビュー時のエクスペリエンスは、その勢いまかせのような成り立ちからしても異種格闘技的な乱暴さと、ハードで革新的なサウンドを誇り、それがサイケでトリップした時代の空気を暴力的に切り裂いた。その破天荒でアヴァンギャルドでかつポップであるというかなり無茶苦茶で諸刃の剣のような存在であったこのバンドが、激動する時代の変遷に次第に揉まれていき分裂するのは必定であり、ジミが次に組んだバンド・オブ・ジプシーのメンバーが全員ブラック・アメリカンで、叩き上げのR&Bプレイヤーであり、当時の最先端の黒人音楽であるファンクにも対応しうるメンバーであったのもこれまた必定であった。
ロックやブラック・ミュージック全体が、より巨大な産業と化してしまった70年代にジミがもし生きていたらどんな音楽を生み出していただろうか?というのはいつの時代も興味がつきないが、音楽による革命や自由や解放が本気で信じられたギリギリ最期の時代にジミが絶命してしまったのも、これまた神の配剤としか思えない。
確かにビジネス上のゴタゴタで精神を磨耗させ、そこからの逃避のためのドラッグがその死の要因であったとしても、少なくとも存命中生み出した音楽には商業的な要請による妥協が入り込んだ形跡は無く、その状態のままこの世を去ったからこそ、いまだにジミの音楽に真の自由とある種のスピリチュアルささえも感じとり、それが神格化に繋がってるという面もあるのかもしれない。
この「ピープル、ヘル&エンジェルズ」で聴ける無邪気なジャムセッションの模様ですら一級の芸術作品のように今のこの耳に響くのも、あの時代の神通力が為せる業というか、あのロックの真の黄金期の時代の熱気みたいなものがちゃんとパッケージングされているからだ。余計な編集はせず、現代的なリミックスなども最小限にとどめたエディ・クレイマーに感謝せねば。
この手の未発表音源集ならいくらでも出してほしいんだが、ここらでボチボチ打ち止めとは寂しい限りだ。
遅々として進まない復興。
なされない原発事故の総括。
縦割り行政による柔軟性のなさ。
国、電力会社、メディアの隠蔽体質。
復興の名を借りた不正な利権行使。
この国がダメなのは自分達、国民がダメだから。自分達がダメだから政治家がダメになり、企業もダメになり、メディアもダメになる。
絆とか祈りとかいう美しい言葉もそりゃぁまあいいけど、同じように怒りも抗議も言わなければいけない。国にたいしても企業にたいしてもメディアにたいしても自分にたいしても。
あれから二年。全く進んでないし変わってもない。国も自分も。
自分のことを棚にあげて偉そうなこととか批判するようなことを言うのは流石に心苦しい。
自分のことを棚に上げずに、振り上げた拳は自分にも下ろされる覚悟で、偉そうなことや、批判なり、抗議なり、建設的な意見なりを言っていかなきゃ。
なされない原発事故の総括。
縦割り行政による柔軟性のなさ。
国、電力会社、メディアの隠蔽体質。
復興の名を借りた不正な利権行使。
この国がダメなのは自分達、国民がダメだから。自分達がダメだから政治家がダメになり、企業もダメになり、メディアもダメになる。
絆とか祈りとかいう美しい言葉もそりゃぁまあいいけど、同じように怒りも抗議も言わなければいけない。国にたいしても企業にたいしてもメディアにたいしても自分にたいしても。
あれから二年。全く進んでないし変わってもない。国も自分も。
自分のことを棚にあげて偉そうなこととか批判するようなことを言うのは流石に心苦しい。
自分のことを棚に上げずに、振り上げた拳は自分にも下ろされる覚悟で、偉そうなことや、批判なり、抗議なり、建設的な意見なりを言っていかなきゃ。