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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

カテゴリ: 伊勢物語

卒業式も入学式も中止になってしまいました。授業も4月末まで延期に。
皆さん不安な日々を過ごしていることと思います。

でも一歩立ち止まって、このような時だからこそ、できること、見えてくるものもあるかもしれません。

学校で皆と勉強できること、友人と会って話すこと、当たり前の日常の価値が、いまならよくわかります。
世界的に同じ試練を課せられていることも、これまでになかったことでしょう。どこかの戦争、どこかの震災、ではなく、地球規模で立ち向かっているわけですから。

日々、さまざま考えさせられます。

そのような中、先日、在原神社(在原寺)へ行って来ました。
奈良県天理市にあります。
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大阪へ向かう高速にのる前の道にあるのですが、
本当にひっそりとしています。お社は撮影しませんでしたが、
その手前にある井筒の井戸と看板が印象的です。

井筒は蓋をあけると大きな井戸になっていて、少し怖いです。

前回、書いた『伊勢物語』の井筒を実体化したものでしょう。江戸時代は、
源氏物語や伊勢物語が大変人気で、その聖地巡りもされていたようなので、
ここにもきっと訪れてるなと思いました(謡曲「井筒」でも有名ですが)。

皆さんも近くに行くことがありましたらぜひどうぞ。

このようなご時世ではありますが、免疫力を上げて(個人的な努力です)、
先日、映画「ヲタクに恋は難しい」https://wotakoi-movie.com/を見てきました。

漫画とアニメは知っていたので、実写化するとどうなるのか(どう表現されるのか)、
映画館で予告を見たこともあり、気になっていました。

原作は、主人公2人(宏嵩と成海)の恋を軸に、いくつかのカップルの有り様を示していて、
彼らの交錯が一つの見所とも言えるので、映画ではそれが最後の最後まで
引っ張られているところがやや残念、ではありましたが、ミュージカル要素やコメディ
要素満載で、なかなか楽しめました。

映画の場合、おそらく情報を削いでいかないといけないので、あまり深くは描かれ
なかったのですが、主人公2人が、実は「幼なじみ」であるということは重要な
設定です。よくあるパターンと言われればそれまでですが、この設定、平安時代から
あります(詳しくは後述)。

しかも「宏嵩」(ゲームおたく)にとっては、「成海」(後に腐女子となる)が「初恋」
であることを示すエピソードが原作にはあり、「初恋」ネタも千年前からありますよ〜、
と思ってしまいました。

有名なのは『伊勢物語』の「筒井筒」です。

むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、
男も女も恥ぢかはしてありけれど、男は「この女をこそ得め」と思ふ。女は「この男を」と思ひ
つつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、このとなりの男のもとより、かくなむ、

(男)筒井つの井筒にかけしまろが丈(たけ)過ぎにけらしな妹見ざるまに

女返し、
(女)くらべこし振りわけ髪も肩過ぎぬ君ならずして誰か上ぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとく、逢ひにけり。
筒井筒
二人の子どもは、幼い頃、井(水が湧き出る所を木で井筒に囲ったもの)のもとで遊んで
いましたが、大人になると意識し合って会わなくなってしまいます。
しかし男は「この女と結婚したい」と思っており、女も同じように思っていました。
そのため、親の用意した結婚もせずにいましたが、隣の男から「背比べしていた井筒も背が
伸びてとうに過ぎているでしょうよ(大人になりましたよ)。あなたと会わない間に」と
歌が詠み送られてきます。
女もそれに対して「あなたと比べていた髪も肩を過ぎるほど伸びました(大人になりました)。
あなたの為でなくて誰の為に髪上げ(成人の儀)をしましょうか」と熱烈な歌を返します。

二人は「両思い」であって、願い通り、結ばれるのです(ただし結婚後は生活が苦しくなり、
一波乱あります)。

『源氏物語』でも主人公・光源氏の息子である夕霧と雲居雁の「幼な恋」が描かれており、
互いに「初恋」であることは間違いないでしょう。昔から、そのような恋への憧れがあった
ことがわかります(そういえば、以前ブログに書いた『ナルト』では、ヒロインの「サクラ」
と「ヒナタ」、双方の初恋が成就したことになりますね)。

人気ある恋愛ストーリーの王道は、千年前から「幼なじみ」と「初恋」もの、と言える
かもしれません。


いま講義で『伊勢物語』の東下り章段を読んでいます。六歌仙の一人である在原業平をモデルとする主人公が、どういうわけか都に居づらくなり(高貴な女性・二条后との禁断の恋が理由とも)、東国の新天地を目指す物語。

伊勢・尾張の海づら(伊勢湾沿い)を歩いて三河国(愛知)・駿河国(静岡)に至るのですが、その間、浜に打ち寄せる波、浅間嶽の噴煙(実景ではないかも)、八つ橋のかきつばた、宇津谷峠、富士山などを目にし、それぞれ歌を詠んでいきます。都の人たちはおそらく目にしたことのない珍しい風景の数々。都の読者は、主人公とともに旅をしている気持ちで、その風景を想像したことでしょう。

そのなかでも有名なのは、九段「かきつばた」の歌。古今和歌集(羈旅・410)にも入集しています。

らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ

「か・き・つ・ば・た」の五文字を句頭に据える「折句」という修辞技法が使われていますが、その他にも様々な技法が用いられています(調べてみましょう)。その中の一つ「序詞」(からころもきつつ)はよく「訳さなくていい(無視していい)」と高校では教えられるようですね。しかし、この序詞には、長年親しんできた妻を、着古していい具合にやわらかくなった「唐衣」のイメージで表現し、「そのような妻を置いてはるばる遠くまできている旅が悲しく思われる」という主人公の心情への理解を助ける役目を果たしています。
かきつばた
ちなみに古今集の詞書(歌が詠まれた状況を説明する文章)にはなく、『伊勢物語』にはあるのが次のエピソードです。

その沢(八つの橋がかけられた)のほとりの木の陰におりゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。(上記の「からころも」の歌)とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙落としてほとびにけり

和歌(雅語)では、基本的に「たべもの」は詠まれず、詞書にもそのような事は書かれていません。ところが『伊勢物語』の方では、旅の途中、食事をしようと一休みしたときの話であると語られます。しかも、その「乾飯」(携行用に乾燥させた飯。水で戻せる)が「涙でふやけてちょうどよく食べ頃になった」なんて、悲しみの中のおかしさがなんとも言えない風情を醸しています。

この千年以上前の「乾飯」、防災食の「アルファ米」の元祖とも言えますね。最近、近くの町会や家族の学校の防災訓練などでもよく聞きます。わたしも先日、水でもどしたアルファ米をいただきましたが、とても美味しかったです(炊き込みご飯でした)。

みなさんも防災のための常備品にぜひ「アルファ米」をおいてみてください。『伊勢物語』を思いながら試食するのもまた一興です。

一昨日、昨日と卒業記念の式典が続きました。私は武道館には行ってませんが、サプライズで山P(商学部OB)が登場したよう。私は午前の部に出た学生からビデオメッセージの話を聞きましたが、午後の部では本人が来て直接祝辞を言ってくれたみたいです。やるね!山P。

さて、大学生と大学院生の卒業式とは別に、課程博士の学位授与式なるものが日を改めて大学で行われました。
隔世の感
(このあと金屏風の前で取得者全員に学位記が授与されました)

私はこのたび初めて学位取得者の指導教員ということで、この授与式と祝賀会に参加しました。自分が院生だったときは、このような催しはなく、教室で修士を取得した学生とともに学位をいただいて終わりでしたので、隔世の感がありました(十数年前)。

この華やかな式典とは裏腹に、課程博士を取り巻く環境は日に日に厳しくなっています。特に人文系は、国公立の大学で改組・解体が進んでおり、私立が最後の砦のようにも感じています。「文学」は、それほど社会に不要な学問なのでしょうか。

「クールジャパン」政策も見直しを迫られているようですが、アニメ文化にしても、日本文学・文化の大きな下支えや蓄積あってのものです。世界ではその素晴らしさが注目され、評価されても、当の日本人がその大切さや重要性を理解できていないとすれば、悲しいことです。

経済・政治・科学・医療......どれも確かに人を富ませ、社会に役立ち、これらこそしあわせへの近道となる学問のように見えます。でも想像をはるかに超えて進歩を続けていく技術や力をどのように使うのか、役立てるのか、については、これまで以上に使う人の倫理的、情緒的「心」のあり方が問われることでしょう。いわば「心」の学びや成長が伴っていなければ、それらは人類に不幸をもたらす「毒」にもなりえます。過去に学び、隣人を知り、過ちを繰り返さないためには、歴史や文学、文化をおろそかにしてはいけないと、わたしは思います。

また話しはかわって、先日の卒業式では、卒業旅行第二弾かしら。伊豆へ旅行に行ったというゼミ生から、このようなお土産をいただきました。
桜えびの舞
(富士山と駿河湾の絵が印象的です。おせんべいもたいへん美味でした)

このパッケージを見て思い出されるのはやはり『伊勢物語』九段「東下り」。昔男が詠んだ歌は次のようなものでした。

富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺(ね)いつとてか鹿の子(かのこ)まだらに雪の降るらむ


鹿の子の毛模様のように、茶色い山肌に雪がまばらに残っている富士山の様子を詠んでいます。「今いつと思ってるの」と問いかける様子が、山に親しみを持っているようで面白いです。

和泉校舎メディア棟の高層階の窓から、私はたまに富士山を見ます。新入生も、ぜひ見つけてみてください。

そして、卒業生、おめでとう! みなさんの傍らに「日本文学」がありますように。

今朝、急にあたたかさを感じて目が覚めました。4月上旬の天気なのだとか。つい最近まで恐ろしく冷たい風が吹いていたのがウソのような陽気です。

論文審査(卒論・修論・博論)は落ち着きましたが、まだ一部成績つけが残っています。入試が始まる前に片付けねば!

とはいえ、昨日はその前夜の修了者祝賀会の余韻でぼんやり過ごしてしまいました。何気なくテレビをつけたら、深キョンが出ているドラマを放映(再放送?)していました。「初めて恋をした日に読む話」。

深キョンは、一応、さえない塾講師役。東大に落ちてから、母親にうとまれ、自分にも自信が持てず、なんとなく「恋」を知らないまま30代を迎えてしまったという設定です。それが、突然、生徒(ピンク頭)・幼なじみ(いとこ/東大出身)・高校時代の同級生(生徒の担任の先生)、と三人のステキな男性にモテ出す、という、ちょっと乙女ゲーム的なドラマ。この三人の王子様のうち一人が、かつて家族が見ていた戦隊もの「トッキュウジャー」の「トッキュウグリーン」なのが気になって、たまにちらちら見ていました。
テレビをつけた時は、ちょうど終盤だったのですが、なぜかいきなり『伊勢物語』二十四段「梓弓」の和歌が出てきました。

「あづさ弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを」
(あなたが私の心を引こうが引くまいが、昔から私の心はあなたに寄っているのに)

この和歌、ドラマでは、深キョン(深田恭子)が生徒に「訳してみて」と出題し、それにすぐに答える塾生徒(トッキュウグリーン/横浜流星)、「あってるでしょ?」と後ろにいるいとこ(永山 絢斗 )に確認を求める、という展開だったと思います(たしか)。

この和歌、物語では、女性が自分を置いて去って行く元夫に詠みかけた歌なのですが、むしろ有名なのは、同じ章段のこちらの和歌でしょうか。

「あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ」
(私は三年あなたの帰りを待ちくたびれて、ちょうど今夜他の男と結婚するのです)
あづさ弓
(「この戸あけたまへ」と男は戸をたたきますが、女は開けずに歌を詠みます)

同章段中にある最初の和歌で、男が宮仕えに出て行ったまま三年もの間帰らず、女もあきらめて他の男と再婚しようとしたまさにその時、男が帰ってきた、という時に詠まれた和歌です。この後、男は「では私があなたを愛したようにその新しい男と仲良くなさい」といったような和歌「あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ」を返してその場を立ち去るのですが、このあとの返歌こそ深キョンが訳を問うた歌、ということになります。結局、女も元夫が好きだったわけです(最初から戸を開ければよかったのに......でも三年放っておかれた恨みがあったのでしょう)

「あづさ弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを」は、物語では女が詠んでおり、ドラマでも深キョンに言わせていますが、むしろこの歌に触発されるのは、その場で聞いていた幼なじみ、なのです。このあと、しばらくして、深キョンに「好きだ!」と告白します。

これって、もう『源氏物語』(匂宮→女一の宮)や『狭衣物語』(狭衣中将→源氏の宮)にある恋の場面とまったく同じなんですよ。「『伊勢』に触発されて、男性が好きな相手に告白!」というパターン。もちろん、受験シーズンですし、それもあっての場面なんでしょうけど、高校古文が選択制になったら、こんなドラマの場面もなくなるのかなあと思うと、ちょっとさみしいですね。

来年度も、4月から、昔も今も「恋のバイブル」──『伊勢物語』を講義します。お楽しみに!

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