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koudansyou-古典と現代

主に平安文学・文化についてのつれづれ書き(画き)

「三年」の意味─『伊勢物語』「梓弓」から

緊急事態宣言、ついに全国へ広がりました。一般向けの講座は、次々と中止になり、大学の授業も6/17までオンライン授業で行なうことが決まりました(さらに変更になるかもしれませんが)。授業準備、というのは、正直、それほど先までできるものではないと考えています。通常の授業でも、学生の反応によって、毎回、軌道修正しながらやっているからです(リアクションペーパーで面白い意見や質問が出たらそれを取り上げて講義することも)。
授業を受ける側も、画面を視聴するだけの授業がいくつも増えれば、それは負担になるだろうなと感じています。通常の講義でも、「聞く」「書く」「触れる」「見る」というのをできるだけ取り入れて、100分の講義時間を有意義に感じてもらうよう努めているつもりです。

「オンライン授業で通常の学費と同じというのはいかがなものか」というテレビのコメンテーターの発言もあったようですが、一方で「急に対応に追われる教員の負担は三倍ではないか」という現場の声も目にしました。

私としては、「オンラインならではの良さ」というのも生かしながら、授業作りができたらいいと思っています。最初は試行錯誤するかもしれませんが、なるべく早く軌道にのせられるようがんばります。

さて、話は変わりますが、先日、このブログの「古典芸能」ランキング「5位」!でした。びっくり。

なぜ(!?)と思い、人気記事を確認すると、以前書いた「梓弓(あづさゆみ)と「はじ恋」にアクセスが集中していました。

おそらく理由は、「あづさゆみ」と「はじ恋」を検索すると、わたしのブログが上位に出るからでしょう。そしてなぜ最近、その語が検索されているかというと、「はじめて恋をした日に読む話」(「はじ恋」)というドラマが、コロナの影響で再放送されているからのようです。

このドラマの主軸は、塾講師と受験生の恋バナなのですが(詳しくは→前ブログ)、そこに「古典」の『伊勢物語』「梓弓」のエピソードが出てくるのです。

そこで思い出したのが、この「梓弓」の歌、「あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ」という歌の「三年」の根拠です。

女は男が出て行って「三年」たってから別の男と結婚しようとするのですが、その根拠は、おそらく下記にあります。

「已に成りたりといへども、其の夫、外蕃(都から遠く離れた地)に没落して、子有るは五年、子無きは三年までに帰らず、及び逃亡して、子有るは三年、子無きは二年まで出こずば、並に改嫁するをゆるせ」(「戸令」より)

古代の法律には上記のような記載があり、物語の女が三年後に再婚しようとしたのも、その法に大方則っていたことがうかがえます。ただ、なぜ「三年」なのか。この「三」という数字は、説話や物語における「聖数」とも言われていて、よく出てくる数です(たとえば『竹取物語』ではかぐや姫の背丈が「三寸」、成人するのに「三(ケ)月」、など「三」が多用されています)。

そういえば、大昔に流行ったデュエット曲「三年目の浮気」も、なぜか「三年」でした。

「三」のマジック、あやかるとすれば、今の状況。アメリカでは、「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離の確保)の対策は、再来年まで続ける必要があるかもしれないとの研究結果も出ているようです。でも、教育の一端を担っている者としては、せめて三ヶ月くらいにならないかと思ってしまいます。

ただ一方で、地球では、これまでにないほど二酸化炭素が削減され、人間にとっては厳しい状況でも、地球環境にとっては好ましくなっているという皮肉もあります。

三年後、わたしたちはどうなっているでしょうか。「V」字回復、ということではなく、いまこの現実から、もっと大きなものを学ぶ必要があるときに来ていると、思わずにはいられません。

(↓「戸令」にまつわる話は、昨年出版された『古典文学の常識を疑うII』「物語は離婚と財産分与をどう書いたのか」の項目で書かせていただきました。誤字があって、紹介をためらっていましたが、せっかくなのでご紹介します)
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