「純粋とは」 「奔馬」 (豊饒の海・第2巻) 三島由紀夫
「純粋とは」 「奔馬」 (豊饒の海・第2巻) 三島由紀夫 サムネイル画像
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。 「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。 純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである...全文を表示
純粋とは、
奔馬
花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、
ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。
純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである。 ( 三島由紀夫 「奔馬」 より)
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高校の頃に三島由紀夫に熱中したのは紛れもない事実で、そのことに言い訳はできません。三島という感受性の化け物と、その感受性が生み出した「純粋の病」としての作品に惹かれたんだと思います。
その後、三島の虚構(偽物性)に辟易としました。反動だったのでしょう。
「どうして精神科医を選んだのか」と良く訊かれます。その都度、答えをはぐらかせていたのですが、「純粋という虚構を体現している存在」への興味だったのではないかと思います。
詩が雑誌や新聞などに掲載される方がこれまでに何人もいました。彼らは、身を切るような純粋さで言葉を紡いでいます。そんな純粋な人がやっぱり好きなんだと思います。
<小学校の頃、理科の実験と図工が好きでした。中学で小説と英語が好きになりました。当時なりたかったのは建築家と小説家でした。数学と体育の才能はありませんでした。医者になることはある種の妥協だと感じていましたが、精神科医にはなるべくしてなったと最近思うようになりました>
奔馬
花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、
ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。
純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである。 ( 三島由紀夫 「奔馬」 より)
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高校の頃に三島由紀夫に熱中したのは紛れもない事実で、そのことに言い訳はできません。三島という感受性の化け物と、その感受性が生み出した「純粋の病」としての作品に惹かれたんだと思います。
その後、三島の虚構(偽物性)に辟易としました。反動だったのでしょう。
「どうして精神科医を選んだのか」と良く訊かれます。その都度、答えをはぐらかせていたのですが、「純粋という虚構を体現している存在」への興味だったのではないかと思います。
詩が雑誌や新聞などに掲載される方がこれまでに何人もいました。彼らは、身を切るような純粋さで言葉を紡いでいます。そんな純粋な人がやっぱり好きなんだと思います。
<小学校の頃、理科の実験と図工が好きでした。中学で小説と英語が好きになりました。当時なりたかったのは建築家と小説家でした。数学と体育の才能はありませんでした。医者になることはある種の妥協だと感じていましたが、精神科医にはなるべくしてなったと最近思うようになりました>
純粋とは、
奔馬
花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、
ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。
純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである。 ( 三島由紀夫 「奔馬」 より)
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高校の頃に三島由紀夫に熱中したのは紛れもない事実で、そのことに言い訳はできません。三島という感受性の化け物と、その感受性が生み出した「純粋の病」としての作品に惹かれたんだと思います。
その後、三島の虚構(偽物性)に辟易としました。反動だったのでしょう。
「どうして精神科医を選んだのか」と良く訊かれます。その都度、答えをはぐらかせていたのですが、「純粋という虚構を体現している存在」への興味だったのではないかと思います。
詩が雑誌や新聞などに掲載される方がこれまでに何人もいました。彼らは、身を切るような純粋さで言葉を紡いでいます。そんな純粋な人がやっぱり好きなんだと思います。
<小学校の頃、理科の実験と図工が好きでした。中学で小説と英語が好きになりました。当時なりたかったのは建築家と小説家でした。数学と体育の才能はありませんでした。医者になることはある種の妥協だと感じていましたが、精神科医にはなるべくしてなったと最近思うようになりました>
奔馬
花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、
ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。
純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである。 ( 三島由紀夫 「奔馬」 より)
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高校の頃に三島由紀夫に熱中したのは紛れもない事実で、そのことに言い訳はできません。三島という感受性の化け物と、その感受性が生み出した「純粋の病」としての作品に惹かれたんだと思います。
その後、三島の虚構(偽物性)に辟易としました。反動だったのでしょう。
「どうして精神科医を選んだのか」と良く訊かれます。その都度、答えをはぐらかせていたのですが、「純粋という虚構を体現している存在」への興味だったのではないかと思います。
詩が雑誌や新聞などに掲載される方がこれまでに何人もいました。彼らは、身を切るような純粋さで言葉を紡いでいます。そんな純粋な人がやっぱり好きなんだと思います。
<小学校の頃、理科の実験と図工が好きでした。中学で小説と英語が好きになりました。当時なりたかったのは建築家と小説家でした。数学と体育の才能はありませんでした。医者になることはある種の妥協だと感じていましたが、精神科医にはなるべくしてなったと最近思うようになりました>