さなぎ日記:あさなぎクリニック心療内科のブログです。こころの健康、コミュニケーション、おいしいお店や、映画のことも。

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「プロコフィエフ短編集」の時代。 ジダーノフ批判 大粛清

「プロコフィエフ短編集」の時代。 ジダーノフ批判 大粛清 サムネイル画像
セルゲイ・プロコフィエフ(1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、20世紀を代表するロシアの作曲家です。今年は生誕125周年に当たります。彼は日本に滞在したことがあり、その間に短編小説を書き、滞在記を残しています。ピアノ協奏曲3番の一部も着想されました(第3楽章に「越後獅子」の一節が登場します)。ロシア革命(1917年)の嵐の中で祖国を離れることを決意します。ヨーロッパでは第1次大戦が続いていたので亡命先はアメリカ...全文を表示
2016年09月24日 0 0
音楽
プロコフィエフ


セルゲイ・プロコフィエフ(1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、20世紀を代表するロシアの作曲家です。今年は生誕125周年に当たります。

彼は日本に滞在したことがあり、その間に短編小説を書き、滞在記を残しています。ピアノ協奏曲3番の一部も着想されました(第3楽章に「越後獅子」の一節が登場します)。

ロシア革命(1917年)の嵐の中で祖国を離れることを決意します。ヨーロッパでは第1次大戦が続いていたので亡命先はアメリカに決めました。


シベリア鉄道


1918年5月7日にシベリア鉄道に乗ってモスクワを立ち、ウラジオストックから船に乗り5月31日に敦賀湾に着きます。それから8月2日にアメリカに向けの船に乗るまでの間、日本に滞在しました。


望翠楼ホテル
(望翠楼ホテル)

京都、奈良、軽井沢、箱根などを見て回り、横浜・東京周辺のホテル(横浜グランドホテル、大森・望翠楼ホテル )に滞在していました。この間に日本の音楽評論家とも交流し、コンサートも行いました。

アメリカには4年間滞在しましたが、当時のアメリカは最先端の音楽を受け入れませんでした。ラフマニノフのようなロマン主義のヴィルトオーソならば良かったのですが。


リーナ プロコフィエフ
(リーナ)


1922年にバイエルンの山中に転居して母と住み、翌1923年にスペイン人の歌手リーナと結婚してパリに暮らします。12年間のパリ生活の間の1927年に、新生ソヴィエトからの要請で祖国の地を踏み、国民の熱狂的な歓迎に応えて、1936年に本拠地をモスクワに戻します。

1930年代はソヴィエト政権下で最も自由で実りある芸術活動ができた時代でした。

ところが、


ショスタコーヴィチ
(ショスタコーヴィチ)

1936年にショスタコーヴィチが「プラウダ」紙上で批判されました。政府の意に沿わない芸術には「形式主義」あるいは「退廃的」というレッテルが張られて弾圧されます。恐怖政治の始まりです。

プロコフィエフの妻リーナは外国人ということで当局からマークされます。1940年に二人は離婚し、その後彼女はスパイ容疑で逮捕されて強制収容所送りとなります。妻を捨てたという批判もありますが、生き延びるための苦渋の選択だったのでしょう。

1939年には友人の劇場監督メイエルホリドは「形式主義」の烙印を押されて逮捕されて処刑されました。

1944年に交響曲第5番を書き上げ、翌年春のレニングラード解放記念祝賀祭の夜に彼自身の指揮で初演され、熱狂で迎えられましたが、これが公衆の前での最後の演奏となりました。

1945年に第一次大戦は終わると、スターリンの独裁は本格化しました。


ジダーノフ
(スターリンとジダーノフ)

1948年、政府が招集した音楽会議で、ソ連共産党幹部のジダーノフは主だった作曲家を形式主義者として糾弾して自己批判を強います。「ジダーノフ批判」(=前衛芸術家批判)です。プロコフィエフも「戦争と平和」が批判され、多くの作品が上演禁止になりました。

その後は不自由な環境下での活動を余儀なくされ、

1953年3月5日に脳出血で61才の生涯を閉じました。皮肉にもヨシフ・スターリンの死と同じ日でした。


<ロリン・マゼール指揮・クリーヴランド響の交響曲5番、アルゲリッチ&アバド指揮ベルリンフィルのピアノ協奏曲第3番、ユジャ・ワン&ドゥダメル指揮シモン・ボリバル響のピアノ協奏曲第2番を聴きました。プロコフィエフデーでした。短編集は明日届く予定です。楽しみです>


プロコフィエフ


セルゲイ・プロコフィエフ(1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、20世紀を代表するロシアの作曲家です。今年は生誕125周年に当たります。

彼は日本に滞在したことがあり、その間に短編小説を書き、滞在記を残しています。ピアノ協奏曲3番の一部も着想されました(第3楽章に「越後獅子」の一節が登場します)。

ロシア革命(1917年)の嵐の中で祖国を離れることを決意します。ヨーロッパでは第1次大戦が続いていたので亡命先はアメリカに決めました。


シベリア鉄道


1918年5月7日にシベリア鉄道に乗ってモスクワを立ち、ウラジオストックから船に乗り5月31日に敦賀湾に着きます。それから8月2日にアメリカに向けの船に乗るまでの間、日本に滞在しました。


望翠楼ホテル
(望翠楼ホテル)

京都、奈良、軽井沢、箱根などを見て回り、横浜・東京周辺のホテル(横浜グランドホテル、大森・望翠楼ホテル )に滞在していました。この間に日本の音楽評論家とも交流し、コンサートも行いました。

アメリカには4年間滞在しましたが、当時のアメリカは最先端の音楽を受け入れませんでした。ラフマニノフのようなロマン主義のヴィルトオーソならば良かったのですが。


リーナ プロコフィエフ
(リーナ)


1922年にバイエルンの山中に転居して母と住み、翌1923年にスペイン人の歌手リーナと結婚してパリに暮らします。12年間のパリ生活の間の1927年に、新生ソヴィエトからの要請で祖国の地を踏み、国民の熱狂的な歓迎に応えて、1936年に本拠地をモスクワに戻します。

1930年代はソヴィエト政権下で最も自由で実りある芸術活動ができた時代でした。

ところが、


ショスタコーヴィチ
(ショスタコーヴィチ)

1936年にショスタコーヴィチが「プラウダ」紙上で批判されました。政府の意に沿わない芸術には「形式主義」あるいは「退廃的」というレッテルが張られて弾圧されます。恐怖政治の始まりです。

プロコフィエフの妻リーナは外国人ということで当局からマークされます。1940年に二人は離婚し、その後彼女はスパイ容疑で逮捕されて強制収容所送りとなります。妻を捨てたという批判もありますが、生き延びるための苦渋の選択だったのでしょう。

1939年には友人の劇場監督メイエルホリドは「形式主義」の烙印を押されて逮捕されて処刑されました。

1944年に交響曲第5番を書き上げ、翌年春のレニングラード解放記念祝賀祭の夜に彼自身の指揮で初演され、熱狂で迎えられましたが、これが公衆の前での最後の演奏となりました。

1945年に第一次大戦は終わると、スターリンの独裁は本格化しました。


ジダーノフ
(スターリンとジダーノフ)

1948年、政府が招集した音楽会議で、ソ連共産党幹部のジダーノフは主だった作曲家を形式主義者として糾弾して自己批判を強います。「ジダーノフ批判」(=前衛芸術家批判)です。プロコフィエフも「戦争と平和」が批判され、多くの作品が上演禁止になりました。

その後は不自由な環境下での活動を余儀なくされ、

1953年3月5日に脳出血で61才の生涯を閉じました。皮肉にもヨシフ・スターリンの死と同じ日でした。


<ロリン・マゼール指揮・クリーヴランド響の交響曲5番、アルゲリッチ&アバド指揮ベルリンフィルのピアノ協奏曲第3番、ユジャ・ワン&ドゥダメル指揮シモン・ボリバル響のピアノ協奏曲第2番を聴きました。プロコフィエフデーでした。短編集は明日届く予定です。楽しみです>


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