「無常という力」 by 玄侑宗久 「方丈記」に学ぶ心の在り方
「無常」とは、「諸行無常」のことです。これは、仏教に特有な考え方である、「三方印」の一つです。・諸行無常:すべては移り変わる・諸法無我:すべては私(=我)との関係性(=法)の中で生じ、その我が希薄になっていく(=無)と、・涅槃寂静:という境地が訪れます。「無常」は日本で発達した世界観です。それは、火山国で地震や噴火が常だったからです。日本人は、この無常を美学に高めました。「もののあわれ」がその一つ...全文を表示
「無常」とは、
「諸行無常」のことです。これは、仏教に特有な考え方である、
「三方印」の一つです。
・諸行無常:すべては移り変わる
・諸法無我:すべては私(=我)との関係性(=法)の中で生じ、その我が希薄になっていく(=無)と、
・涅槃寂静:という境地が訪れます。
「無常」は日本で発達した世界観です。それは、火山国で地震や噴火が常だったからです。
日本人は、この無常を美学に高めました。
「もののあわれ」がその一つです。
「あわれ」とは、「時の流れの中で、ものの姿にしみじみと感じ入る」ことです。
方丈記の作者の鴨長明さんは、下鴨神社の神主の子供でしたが。10代で父を亡くし、みなしごになります。その後、人災や天災を味わった後、
50才の春に出家します。仏教や神道、和歌や琵琶などに長けた、文化的な世捨て人です。彼が1212年(来年がちょうど800周年です)に書いたのが、
「方丈記」です。
川の流れは常に移ろい変わるように、人の世も人の栖(=家)も移り変わる。つまり、
「人はこの世に仮住まいしている」
という内容です。
『世の中は、どんな時代でも同じシステムで動いていて、「人間」という構成要素だけが次々と変わってゆく』のです。
一人一人の人生は「繋ぎ」にすぎません。
長明が辿り着いた境地は、
「三界はただ心ひとつなり」(by 華厳経:三界唯一心)、つまり、
「心ひとつで、世界の在り方が変わる」
言い換えれば、「執着を捨てて、心が清らかになると、方丈(約5畳)あまりが宇宙同様の広さになる」、
でしたが、
長明は、自らがそんな境地には達せず、心は濁ったままだと気づき、
「自然な調子(一生懸命に唱えると、「自力」になってしまうの)で、阿弥陀仏(=黙っていても助けてくれる)と3回唱える」だけにしました。
(これ、大事ですね)
「こうでなければ絶対にいけない」という考え方は生きる上で邪魔です。人は、そんな断定的な考えではなく、
「揺ら」ぎが大事です。
ことが起こった時に、それに毎回新鮮な気持ちでそれに対応する姿が「揺らぎ」です。「風流」とも言います。
頑張り(=我を張る)過ぎてはダメです。
世界を均一の価値観でシステム化するグローバリズムとは反対の生き方です。
<ポストコロナに通じる考え方だと思います。先がどうなるか分かりません。グローバリズムへの素朴な信仰は崩れました。>
「諸行無常」のことです。これは、仏教に特有な考え方である、
「三方印」の一つです。
・諸行無常:すべては移り変わる
・諸法無我:すべては私(=我)との関係性(=法)の中で生じ、その我が希薄になっていく(=無)と、
・涅槃寂静:という境地が訪れます。
「無常」は日本で発達した世界観です。それは、火山国で地震や噴火が常だったからです。
日本人は、この無常を美学に高めました。
「もののあわれ」がその一つです。
「あわれ」とは、「時の流れの中で、ものの姿にしみじみと感じ入る」ことです。
方丈記の作者の鴨長明さんは、下鴨神社の神主の子供でしたが。10代で父を亡くし、みなしごになります。その後、人災や天災を味わった後、
50才の春に出家します。仏教や神道、和歌や琵琶などに長けた、文化的な世捨て人です。彼が1212年(来年がちょうど800周年です)に書いたのが、
「方丈記」です。
川の流れは常に移ろい変わるように、人の世も人の栖(=家)も移り変わる。つまり、
「人はこの世に仮住まいしている」
という内容です。
『世の中は、どんな時代でも同じシステムで動いていて、「人間」という構成要素だけが次々と変わってゆく』のです。
一人一人の人生は「繋ぎ」にすぎません。
長明が辿り着いた境地は、
「三界はただ心ひとつなり」(by 華厳経:三界唯一心)、つまり、
「心ひとつで、世界の在り方が変わる」
言い換えれば、「執着を捨てて、心が清らかになると、方丈(約5畳)あまりが宇宙同様の広さになる」、
でしたが、
長明は、自らがそんな境地には達せず、心は濁ったままだと気づき、
「自然な調子(一生懸命に唱えると、「自力」になってしまうの)で、阿弥陀仏(=黙っていても助けてくれる)と3回唱える」だけにしました。
(これ、大事ですね)
「こうでなければ絶対にいけない」という考え方は生きる上で邪魔です。人は、そんな断定的な考えではなく、
「揺ら」ぎが大事です。
ことが起こった時に、それに毎回新鮮な気持ちでそれに対応する姿が「揺らぎ」です。「風流」とも言います。
頑張り(=我を張る)過ぎてはダメです。
世界を均一の価値観でシステム化するグローバリズムとは反対の生き方です。
<ポストコロナに通じる考え方だと思います。先がどうなるか分かりません。グローバリズムへの素朴な信仰は崩れました。>
「無常」とは、
「諸行無常」のことです。これは、仏教に特有な考え方である、
「三方印」の一つです。
・諸行無常:すべては移り変わる
・諸法無我:すべては私(=我)との関係性(=法)の中で生じ、その我が希薄になっていく(=無)と、
・涅槃寂静:という境地が訪れます。
「無常」は日本で発達した世界観です。それは、火山国で地震や噴火が常だったからです。
日本人は、この無常を美学に高めました。
「もののあわれ」がその一つです。
「あわれ」とは、「時の流れの中で、ものの姿にしみじみと感じ入る」ことです。
方丈記の作者の鴨長明さんは、下鴨神社の神主の子供でしたが。10代で父を亡くし、みなしごになります。その後、人災や天災を味わった後、
50才の春に出家します。仏教や神道、和歌や琵琶などに長けた、文化的な世捨て人です。彼が1212年(来年がちょうど800周年です)に書いたのが、
「方丈記」です。
川の流れは常に移ろい変わるように、人の世も人の栖(=家)も移り変わる。つまり、
「人はこの世に仮住まいしている」
という内容です。
『世の中は、どんな時代でも同じシステムで動いていて、「人間」という構成要素だけが次々と変わってゆく』のです。
一人一人の人生は「繋ぎ」にすぎません。
長明が辿り着いた境地は、
「三界はただ心ひとつなり」(by 華厳経:三界唯一心)、つまり、
「心ひとつで、世界の在り方が変わる」
言い換えれば、「執着を捨てて、心が清らかになると、方丈(約5畳)あまりが宇宙同様の広さになる」、
でしたが、
長明は、自らがそんな境地には達せず、心は濁ったままだと気づき、
「自然な調子(一生懸命に唱えると、「自力」になってしまうの)で、阿弥陀仏(=黙っていても助けてくれる)と3回唱える」だけにしました。
(これ、大事ですね)
「こうでなければ絶対にいけない」という考え方は生きる上で邪魔です。人は、そんな断定的な考えではなく、
「揺ら」ぎが大事です。
ことが起こった時に、それに毎回新鮮な気持ちでそれに対応する姿が「揺らぎ」です。「風流」とも言います。
頑張り(=我を張る)過ぎてはダメです。
世界を均一の価値観でシステム化するグローバリズムとは反対の生き方です。
<ポストコロナに通じる考え方だと思います。先がどうなるか分かりません。グローバリズムへの素朴な信仰は崩れました。>
「諸行無常」のことです。これは、仏教に特有な考え方である、
「三方印」の一つです。
・諸行無常:すべては移り変わる
・諸法無我:すべては私(=我)との関係性(=法)の中で生じ、その我が希薄になっていく(=無)と、
・涅槃寂静:という境地が訪れます。
「無常」は日本で発達した世界観です。それは、火山国で地震や噴火が常だったからです。
日本人は、この無常を美学に高めました。
「もののあわれ」がその一つです。
「あわれ」とは、「時の流れの中で、ものの姿にしみじみと感じ入る」ことです。
方丈記の作者の鴨長明さんは、下鴨神社の神主の子供でしたが。10代で父を亡くし、みなしごになります。その後、人災や天災を味わった後、
50才の春に出家します。仏教や神道、和歌や琵琶などに長けた、文化的な世捨て人です。彼が1212年(来年がちょうど800周年です)に書いたのが、
「方丈記」です。
川の流れは常に移ろい変わるように、人の世も人の栖(=家)も移り変わる。つまり、
「人はこの世に仮住まいしている」
という内容です。
『世の中は、どんな時代でも同じシステムで動いていて、「人間」という構成要素だけが次々と変わってゆく』のです。
一人一人の人生は「繋ぎ」にすぎません。
長明が辿り着いた境地は、
「三界はただ心ひとつなり」(by 華厳経:三界唯一心)、つまり、
「心ひとつで、世界の在り方が変わる」
言い換えれば、「執着を捨てて、心が清らかになると、方丈(約5畳)あまりが宇宙同様の広さになる」、
でしたが、
長明は、自らがそんな境地には達せず、心は濁ったままだと気づき、
「自然な調子(一生懸命に唱えると、「自力」になってしまうの)で、阿弥陀仏(=黙っていても助けてくれる)と3回唱える」だけにしました。
(これ、大事ですね)
「こうでなければ絶対にいけない」という考え方は生きる上で邪魔です。人は、そんな断定的な考えではなく、
「揺ら」ぎが大事です。
ことが起こった時に、それに毎回新鮮な気持ちでそれに対応する姿が「揺らぎ」です。「風流」とも言います。
頑張り(=我を張る)過ぎてはダメです。
世界を均一の価値観でシステム化するグローバリズムとは反対の生き方です。
<ポストコロナに通じる考え方だと思います。先がどうなるか分かりません。グローバリズムへの素朴な信仰は崩れました。>